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お城の雑学 天守

ほかのお城も訪れたい

天守をあげる

ちょっとウンチク話。「天守閣建てる」、は誤りです。正しくは「天守あげる」と言います。私も最近まで「天守閣」と言っていましたが、これは誤り、または俗称です。また、天守は古来「建てる」と言わず、「あげる」と言われています。

まったく意識してなかったのであらためて書籍をさっとみてみるとやはり天守閣と表現しているものはありませんでした。Web上では結構見当たります。著者が業界の人(専門家)か否かのちょっとした判断材料になるかも・・・・。

「あげる」については、文意によるとは思いますが、「建てる」や「築く」などが使われています。

[2009/05/21]

天守の歴史

天守が初めて文献に登場するのは「細川両家記」で永正18年(1521年)の条に記されている伊丹城の天守のようです。ただ、同書が書かれたのは天文12年(1543)で、伊丹城が築かれた当時に天守と呼ばれていたかは不明です。また、天守と言っても居館の上に望楼を乗せたものと推測されます。

本格的な層を重ねた天守を造ったのは松永久秀(弾上)で、永禄3年(1560)に信貴城を築いた時に楼閣状の天守を築き、さらに多聞城、完成は永禄年間(1558〜69)では白亜の総塗籠めの4階であったと伝わり、織田信長の安土城に先立つこと十数年となります。

織田信長が安土城を築城したのは天正7年(1578)で、以降、豊臣秀吉の大阪城、伏見城など続々と高層の天守が築かれていきます。徳川家康の代になると、絢爛豪華な天守から白亜や下見板張の静かな趣の天守に変わっていきます。大阪冬の陣を経て世の中が平和になると天守の意味も装飾的意味合いに過ぎなくなり、ついには武家諸法度で3層以上の天守は幕府により禁止されることになります。

[2009/06/7]

上記の天守の文献での初見が「細川両家記」というのは少し古く、現在ては否定されているようです。『 戦国の城 』によれば、

その後、比較的写本年次の古い良質の『細川両家記』に「天守」ではなく、「しゆてん」とあったことが明らかにされ、「天守」ではなく、「主殿」だったことが判明した。つまり、それまでの永正十七年伊丹城天守初見説は否定されることになった。

とありました。この本によれば、織田信長が岐阜城に「四階御殿」を建てさせ、これが天守の始まりとしています。岐阜城と安土城の間に、いくつか天主が存在する城も確認されているとのことです。「信長が足利義昭のために建てた二条城、明智光秀の坂本城には天主があげられ、細川藤孝の勝龍寺城には「殿守」があがっていた」とあります。「いずれも信長及び将軍足利義昭関連の城で、その集大成が安土城の天主であった。」とありました。

[2010/7/7 追記]

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天守と本丸

天守と本丸はまったくべつものです。本丸(別途詳述予定)は城郭の中心となる区画をさすもので、ほとんどの城ではここに天守がありますが、例外もあるようです。復元模型で見る日本の城(下)を眺めていると徳島城では東二の丸に天守があるのを見つけました。また、水戸城も本丸以外に天守が築かれているようです。

[2009/05/21]

天守の分類

一見すると個性はあるが同じようにみえる天守も望楼型と層塔型との2タイプに分類されます。形状的には破風(はふ)で見分けがつけられます。天守の1階またわ2階に入母屋破風があれば望楼型、なければ層塔型です。注意しておかなければならないのは似たもので千鳥破風がありますが・・・・・・

入母屋破風と千鳥破風
入母屋破風と千鳥破風

正しい説明かちょっと心配ですが屋根の端がでてるのが入母屋破風、屋根の上にさらに小さな三角形の屋根をのせたのが千鳥破風です。

で、このへんまでは充分わかるのですが、よくわからないことが非常に多く残っています。整理がつき次第増補していく予定です。

[2009/05/21]

上記の説明は外見的な見分け方ですが、日本の城郭 鑑賞のコツ65 を読んでいて、その中の説明と犬山城の写真を見ていると少し理解が深まりました。

古いタイプの天守と言われる「望楼型」は1階、または2階の入母屋造りの家屋の上に2〜3階の望楼(物見)を載せたもので、犬山城を見ればこの感じがよくわかります。残念ながら犬山城はまだ未訪問で写真の手持ちがないので、姫路城で入母屋造りの家屋と望楼を分けた画像を作りましたので参考まで。

層塔型」は基部に入母屋造りの大屋根を持たず、単純に積み上げていくだけの構造となります。従って、基本的には破風(はふ)の無い天守となりまが、破風が無いと何か味気ないもので、層塔型でも破風を付けた城もあります。層塔型の天守では島原城が判りやすいののですが、残念ながら手持ちの写真がありません。島原市 - 島原観光ガイド - 島原城 [ 別窓 ] にありますので参照ください。

恐れながら姫路城天守の望楼部を分離し、浮かしてみました

普通の姫路城天守

通常の姫路城

望楼を浮かした姫路城天守

望楼を浮かした姫路城

参考:主な屋根の形

屋根の形 入母屋

入母屋

屋根の形 寄棟

寄棟

屋根の形 切妻

切妻

[2010/05/17]

記事が多くなり新ページ 天守の分類 を作成(一部重複あり)

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天守の「重」と「階」

屋根の数が「重数」、内部の床の数が「階数」となります。姫路城の場合、五重六階となります。外から見ると五重五階に見えますが、実際は4階めが内部では2階に分かれており、五重六階です。

「重」と「階」

[2009/06/7]

「重」と「層」

上記は姫路城の例で、五と書きましたが、五と書いたものもあります。明確な使い分けはなさそうですが、但し、同一書籍や著作では統一して使われ、混在はしていません。

[2009/06/7 追記]

天守 各部の名称

福山城を元に天守の各部の名称をしめします。

「重」と「階」

華灯窓

廻縁と高欄

唐破風

千鳥破風

連格子窓

比翼千鳥破風

附櫓

二連窓

天守台石垣

[2009/06/7]

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現存する天守

国宝

姫路城 天守

姫路城(兵庫県)

慶長14年(1609)

松本城 天守

松本城(長野県)

文禄期〜寛永期

(1592頃〜1643頃)

彦根城 天守

彦根城(滋賀県)

慶長11年(1606)

犬山城は未訪問,画像はありません

犬山城(愛知県)

慶長6年(1601)

重要文化財

弘前城 天守

弘前城(青森県)

文化7年(1810)

丸岡城は未訪問,画像はありません

丸岡城(福井県)

天正4年(1576)

備中松山城 天守

松山城[備中](岡山県)

元和元年〜天和3年

(1681〜83)

松江城 天守

松江城(島根県)

慶長12〜16年

(1607〜11)

丸亀城 天守

丸亀城(香川県)

寛永20〜万治3年

(1643〜60)

高知城 天守

高知城(高知県)

延亨4年(1747)

宇和島城は未訪問,画像はありません

宇和島城(愛媛県)

寛文6年(1666)

伊予松山城 天守

松山城[伊予](愛媛県)

文政3年〜嘉永5年

(1820〜52)

[2009/06/7]

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建築物(天守を含む)の種類

上の「現存する天守」で12の現存する天守を紹介しましたが、これら以外の各地の城にも天守や櫓があります。これらのの建築物にはいろいろな種類があります。

日本の城郭を歩くの使い分けが有益でわかり易いのでこれを紹介し、私も使わせてもらおうと考えています。各ページにも随時、わかる範囲で追加していこうと思っています。

復原
原形に戻した建物。木造りで、木組み、尺間取り、外観にいたるまで、廃城前の姿を再現したもの。
復元
外観を元どおりに復した建物。いかに木造の再築であっても木組み尺間が不明で、絵図等によっている再築。コンクリート造りでも、外観のみは旧観どおりである場合。
復興
天守・櫓などが実在した史料はあるが、旧観と異なる外観で再築した建物。また再現想定による再築物
模擬
本来、天守や櫓がなかったり、あっても異なった場所に新築した建物。また資料に基づかない建築物

[2010/05/17]

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天守の値段

先日、大阪ローカルと思いますが、上沼恵美子さんの番組をでゲストのプロレスラー藤波辰巳が某工務店に城建築の見積もりを取り、うろ覚えですが十億単位だった記憶があります。

図説・城造りのすべての囲み記事に大洲城の天守、新発田城の三階櫓が復原( 外観を元のようにコンクリートで復元したのではなく、本格的な復原 )の費用がありましたので紹介します。

平成16年に復元再建された大洲城天守と新発田城三階櫓(天守代用櫓)の例を挙げてみよう。大洲城天守は、層塔型の四重四階で、外壁を下見板張とし、多くの破風をつけて飾っている。四階分の延床面積は115坪、天守全体の高さは約19mである。設計料を除いた本体の建設工事費は約11億9500万円であるので、1坪あたり約1000万円である。新発田城三階櫓は層塔型の三重三階で外壁を海鼠壁とする。延床面積は64.5坪、高さ12m、建設工事費は約4億7800万円で、1坪あたり約740万円であった。

やはり、現在お城を建てようとすると十億単位のお金が必要なるようです。土地を含めるといくらになるのだろう??

[2009/09/26]

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白い天守、黒い天守

天守の壁は土壁であるが、表面の仕上げ方法には下見板張(したみいたばり)と塗籠(ぬりごめ)という方法が主に使われています。

下見板張は土壁の外側に板を張ったもので、その板にはすすと柿渋を混ぜた墨を塗るため黒くなります。塗籠は土壁の表面を白漆喰で仕上げるため白くなります。初めは下見板張、続いて塗籠が登場した、つまり古い城は黒く新しい城は白いといわれていますが、図説・城造りのすべて

天正15年(1587)頃完成とみられる聚楽第(京都市)天守にはすでに塗籠が使用されていたとみられ、また江戸時代を通じて下見板張と併用されているため、両者の違いは時代的な差とは言い難い。

とあったのでわかる範囲でまとめていきます。まずは上記の現存する天守から。随時追加の予定。

城名建築時期仕上げ方法備考
安土城 天正15年(1587) 下見板張 下見板張は墨ではなく黒漆を塗った最高級の壁面
姫路城 文禄期(1592頃) 下見板張  
彦根城 慶長11年(1606) 塗籠  
松江城 慶長12年(1607) 下見板張  
姫路城 慶長14年(1609) 塗籠  
丸亀城 寛永20年(1643) 塗籠  
松山城[備中] 元和元年(1681) 塗籠  
高知城 延亨4年(1747) 塗籠  
弘前城 文化7年(1810) 塗籠 御三階櫓
松山城[伊予] 文政3年(1820) 塗籠  

[2009/09/26]

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