先頭

大手門 千貫櫓 桜門 など13棟が

重要文化財

大坂城

松本城のご案内

大坂城 ひとくちメモ

所在地
大阪府 大阪市
別 名
錦城、金城
築城者
豊臣秀吉
別名の由来
金鯱、金箔瓦、金の茶室など金をふんだんに使った光かがやくような城、太閤さんの成金趣味からか ???
天守概要
現天守は 独立式望楼型 五層八階 鉄筋コンクリート
城郭構造
輪郭式平山城
遺 構
多聞櫓 []、 千貫櫓 []、 乾櫓 []、 一番櫓 []、 六番櫓 []、 焔硝蔵 []、 金蔵 []、金明水井戸屋形。 桜門 []、 石垣 []、 堀 [] など
再建造物
天守 []
高 さ
54.8m( 石垣13.3m、天守41.5m )

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

大坂城 簡易年表

図解 日本の城 に一部追加

1496年
蓮如、石山に御坊を築き、隠居所とする。
1532年
山科本願寺が焼き討ちされ、石山本願寺に本拠を移す。
1570年
織田信長が石山本願寺を包囲し、石山合戦始まる。
1583年
豊臣秀吉、大坂城築城。
1615年
大坂夏の陣で落城。
1620年
徳川秀忠、大坂城再築を開始。
1628年
再築大坂城完成。
1665年
落雷により天守を焼失し、以後は天守を持たない城となる。
1932年
大坂城天守閣として、天守再建。

参考になるサイト:

大坂城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数多くの登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 外堀の周囲から

☒ 西の丸

☒ 大手門 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 の順に

☒ 内堀の周囲から

外堀の周囲から

大手門 ⇒ 南外堀 ⇒ 東外堀 ⇒ 北外堀 ⇒ 西外堀

大坂城:大手門、千貫櫓、土橋

(1)
大手門、千貫櫓、土橋

大坂城:六番門と南外濠

(2)
六番門と南外濠

大坂城:南外濠と一番門

(3)
南外濠と一番門

大坂城:東外濠

(4)
東外濠

大坂城:青屋門

(5)
青屋門

大坂城:京橋口 肥後石

(6)
京橋口 肥後石

大坂城:西外濠 天守

(7)
西外濠 天守

1973年頃の撮影

大坂城:乾櫓

(8)
乾櫓

大坂城:千貫櫓に大手門

(9)
千貫櫓に大手門

1973年頃のほぼ同じアングル

西の丸

大坂城:西の丸庭園 入場口

(10)
西の丸庭園 入場口

大坂城:西の丸庭園の桜に天守

(11)
西の丸庭園の桜に天守

大坂城:乾櫓

(12)
乾櫓

大坂城:焔硝蔵

(13)
焔硝蔵

大坂城:ライトアップの桜に天守

(14)
ライトアップの桜に天守

大坂城:西の丸庭園より本丸石垣と天守

(15)
西の丸庭園より本丸石垣と天守

大手門⇒二の丸⇒本丸 の順に

大坂城:大手門 多聞櫓 千貫櫓

(16)
大手門 多聞櫓 千貫櫓

大坂城:多聞櫓 見付石

(17)
多聞櫓 見付石

大坂城:千貫櫓

(18)
千貫櫓

大坂城:桜門 龍虎石

(19)
桜門 龍虎石

大坂城:日本庭園と天守

(20)
日本庭園と天守

1973年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

大坂城:重要文化財 金蔵

(21)
金蔵

大坂城:天守

(22)
天守

大坂城:極楽橋を渡り山里口門跡、後方には天守

(23)
山里口門跡、後方には天守

1973年頃のほぼ同じアングル

内堀の周囲から

桜門 ⇒ 梅林 ⇒ 極楽橋 ⇒ 西の丸

大坂城:本丸東側高石垣 天守

(24)
本丸東側高石垣 天守
南側より

大坂城:梅林

(25)
梅林

大坂城:本丸東側の高石垣

(26)
本丸東側の高石垣
北側より

大坂城:青屋門越しに天守

(27)
青屋門越しに天守

大坂城:極楽橋 天守

(28)
極楽橋 天守

大坂城:二の丸より極楽橋、天守

(29)
極楽橋、天守

1973年頃の撮影

大坂城:極楽橋と御座船

(30)
極楽橋と御座船

大坂城:天守

(32)
京橋口より天守

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の大坂城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

桜満開の大坂城

発掘現地説明会に出かけて
2019年3月23日 撮影

桜満開の大坂城

桜満開の大坂城
2018年3月28日 撮影

発掘現地説明会と主に梅林

発掘現地説明会と主に梅林
2016年2月7日 撮影

大坂城 櫓公開と主にライトアップ

櫓公開と主にライトアップ
2015年9月23日 撮影

大坂城 天下泰平の灯

大坂城 天下泰平の灯
2015年5月9日 撮影

発掘現地説明会と豊臣大坂城の石垣など

発掘現地説明会と

豊臣大坂城の石垣など

2015年4月18日 撮影

大坂城 櫓公開と東外堀

大坂城 櫓公開と東外堀
2014年11月10日 撮影

松本城:真夏にぶらりと寄る、堀には蓮

豊臣大坂城の石垣現地説明会
2014年10月4日 撮影

大坂の陣400年天下一祭と南外堀、堀には蓮

大坂の陣400年天下一祭と南外堀
2014年8月20日 撮影

発掘現地説明会と梅林

発掘現地説明会と梅林
2014年3月7日 撮影

大坂城

2011年5月17日 撮影

フィルム撮影の大坂城

フィルム撮影の大坂城
1973年頃 撮影

松本城 よろず間

大坂城 縄張りとカメラアングル

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

大坂城公園地図

山里曲輪

本丸

二の丸

西の丸

極楽橋

大手門

青屋門

桜門

天守

乾櫓

千貫櫓

多聞櫓

一番櫓

六番櫓

焔硝蔵

金蔵

北外堀

西外堀

内堀

東外堀

南外堀

高石垣

京橋口

玉造口

100m

方位明示

大坂城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた大坂城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 徳川時代の建物は一番櫓、六番櫓、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、大手門、青屋門、桜門、金蔵、焔硝蔵 などが遺存し 重要文化財 に指定されています。なかでも大手門や桜門は枡形をよく伝え、使われた巨石は大坂城の大きさ・重要性をよく示しています。
  • 石垣がすばらしい。本丸東側の高石垣は高さは32mあり日本の城郭では最大規模。蛸石(たこいし)、肥後石、振袖石、見付石、二番石などネーミングされた巨石も見逃しなく!! 蛸石、振袖石は桜門付近。見付石、二番石は多聞櫓横。肥後石は京橋口にあります。寄進者の刻印のある刻印石を見て回るのも一興です。

[ 2011/01/28, 2012/12/5: 改 ]

大坂城の高石垣

大坂城には高さがトップ10に入る石垣が3つもあります。高さと共に紹介します。大坂城以外の高石垣は 石垣の高さ比べ にまとめています。

本丸東側の高石垣
高さ 約30m

千貫櫓・大手多門櫓下の石垣
高さ 約26m

本丸南面の石垣(桜門の前)
高さ 約20m

大坂城の巨石

大坂城の石垣には名前の付いた巨石があります。名前や大きさなどをまとめたものが 歴史群像 名城シリーズ 大坂城 天下人二人の武略燦然 にありました。孫引き(オリジナルは「大坂城歴史散策」)になりますが私の撮った写真、城内の案内板の書き下しとともに紹介します。

  石名 位地 高さ
(最高部)
横幅
(最長部)
表面露出
実面積
石の推定産地 担当大名
1 蛸石 桜門 5.5m 11.7m 59.43m2 備前 犬島 岡山藩主 池田忠雄
2 肥後石 京橋門 5.5m 14.0m 54.17m2 讃岐 小豆島 //
3 振袖石 桜門 4.2m 13.5m 53.85m2 備前 犬島 //
4 見付石 大手門 5.1m 11.0m 47.98m2 讃岐 小豆島(千家) 熊本藩主 加藤忠広
5 二番石 大手門 5.3m 8.0m 37.90m2 // //
6 碁盤石 桜門 5.7m 6.5m 36.50m2 備前 沖ノ島(北木島?) 岡山藩主 池田忠雄
7 二番石 京橋門 3.8m 11.5m 36.00m2 讃岐 小豆島 //
8 三番石 大手門 4.9m 7.9m 35.82m2 讃岐 小豆島? 熊本藩主 加藤忠広
9 四番石 桜門 6.0m 5.0m 26.90m2   岡山藩主 池田忠雄
10 竜石 桜門 3.4m 6.9m 約 23.00m2 備前 沖ノ島 //

桜門枡形の巨石
説明

京橋口枡形の巨石
説明

大手口枡形の巨石
説明

大坂城の刻印石

大坂城の石垣には文字や模様を刻印した石が多数あります。およそ2000種類、5~6万個ちかく在るといわれています。刻印石は大坂城だけでなく江戸城、名古屋城など天下普請の城にみられます。
歴史群像 名城シリーズ 大坂城 天下人二人の武略燦然 に主だった場所が地図 (オリジナルは 特別展「秀吉と大坂城」) に示されていたのでこれを参考に同じようなものを作成しました( 下図 大坂城 巨石と刻印石の場所 )。

山里曲輪には「刻印石広場」があり、刻印された石を身近に見れますが、やはり石垣のなかの刻印のほうが面白みがあります。実際に私が確認したのは隠し曲輪の刻印石 丹波園部藩刻印石 丹波園部藩だけで、他は確認していません。下の地図だけでは詳しい場所はわかりにくいと思いますが、詳細がわかれば追加していきます。

大名と代表的刻印

前述のように大坂城には字や模様を刻印した石が2000種類、5~6万個ちかく在るといわれています。下図 大坂城 巨石と刻印石の場所 には刻印の記号しか示してないで、ここで藩名と大名名を書いておきます。備考で示した場所は「隠し曲輪」以外は地図を読み解いた等で実際に私が現状を確認したものではありません。詳しい場所がわかれば増補していくつもりです。

  代表的刻印 担当大名 備考
1 刻印 丹波園部藩 丹波園部藩
小出 吉親
隠し曲輪
上の「隠し曲輪刻印石」を参照ください。
刻印 伊予大洲藩 伊予大洲藩
加藤 泰典
2 刻印 備中成羽藩 備中成羽藩
山崎 家治
天守台
3 本丸西側 空堀の石垣?
4 刻印 肥後熊本藩 肥後熊本藩
加藤 忠広
千貫櫓
5 刻印 肥後熊本藩 肥後熊本藩
加藤 忠広
大手口枡形(櫓門側)?
刻印 肥後熊本藩, 刻印 肥後熊本藩 肥後熊本藩
加藤 忠広
大手口枡形(多門櫓側)?
6 刻印 播磨山崎藩 播磨山崎藩
池田 光澄
桜門の前の石垣
門へ向かって右側の方
刻印 豊前小倉藩 豊前小倉藩
細川 忠利
7 刻印 出雲松江藩, 刻印 出雲松江藩 出雲松江藩
堀尾 忠晴
東外堀
巽櫓の下
刻印 土佐高知藩, 刻印 土佐高知藩 土佐高知藩
山内 忠義
刻印 長門萩藩, 刻印 長門萩藩, 刻印 長門萩藩 長門萩藩
毛利 秀就
8 刻印 丹後宮津藩

丹後宮津藩
京極 高知

東外堀
刻印 若狭小浜藩, 刻印 若狭小浜藩 刻印 若狭小浜藩 若狭小浜藩
京極 忠高
刻印 伊勢神戸藩, 刻印 伊勢神戸藩, 刻印 伊勢神戸藩 伊勢神戸藩
一柳 直盛
9 刻印 越前福井藩 刻印 越前福井藩, 刻印 越前福井藩, 刻印 越前福井藩, 刻印 越前福井藩, 越前福井藩
松平 忠直
東外堀
10 刻印 加賀金沢藩 刻印 加賀金沢藩, 刻印 加賀金沢藩, 刻印 加賀金沢藩, 刻印 加賀金沢藩, 刻印 加賀金沢藩, 刻印 加賀金沢藩, 刻印 加賀金沢藩 加賀金沢藩
前田 利常
東外堀

番号は下地図の刻印石*の番号に相当

大坂城 巨石・刻印石・高石垣の場所

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

大坂城公園地図

山里曲輪

本丸

二の丸

西の丸

極楽橋

大手門

青屋門

桜門

天守

乾櫓

千貫櫓

多聞櫓

一番櫓

六番櫓

焔硝蔵

金蔵

北外堀

西外堀

内堀

東外堀

南外堀

蛸石

振袖石

碁盤石

四番石

竜石

肥後石

二番石

見付石

二番石

高石垣

高石垣

高石垣

京橋口

玉造口

100m

豊臣天守
推定位置

刻印石広場

刻印石 丹波園部藩 刻印石 伊予大洲藩

刻印石 備中成羽藩

刻印石 備中成羽藩

刻印石 肥後熊本藩

刻印石 肥後熊本藩 刻印石 肥後熊本藩 刻印石 肥後熊本藩

刻印石 播磨山崎藩 刻印石 豊前小倉藩

刻印石 出雲松江藩 刻印石 出雲松江藩 刻印石 土佐高知藩 刻印石 土佐高知藩 刻印石 長門萩藩 刻印石 長門萩藩 刻印石 長門萩藩

刻印石 丹後宮津藩 刻印石 若狭小浜藩 刻印石 若狭小浜藩 刻印石 若狭小浜藩 刻印石 伊勢神戸藩 刻印石 伊勢神戸藩 刻印石 伊勢神戸藩

刻印石 越前福井藩 刻印石 越前福井藩 刻印石 越前福井藩 刻印石 越前福井藩 刻印石 越前福井藩

刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩 刻印石 加賀金沢藩

隠し曲輪の刻印石

大坂城 隠し曲輪の刻印石、丹波園部藩と伊予大洲藩

隠し曲輪の刻印石

隠し曲輪には刻印石 丹波園部藩(丹波園部藩)と刻印石 丹波園部藩(伊予大洲藩)の刻印の石が在りました。左の写真はちょうど境界付近で2つの刻印が並んでいます。

大坂城 隠し曲輪への行き方

隠し曲輪への行き方

隠し曲輪は訪れる人も少なく少しわかりづらいので行き方を説明します。山里曲輪から本丸に向かう時、山里口出枡形の案内板があります。案内板に向かって左が本丸・天守、右にそれると隠し曲輪に行けます。

大坂城 ここが際立つ

大坂城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 大坂城は豊臣と徳川が関わった城郭ですが徳川が徹底的に豊臣隠しを行いました。現在に残る堀や石垣などはほとんどが徳川大坂城の遺構です。このことは大坂城総合調査[1959(昭和34)年]での石垣調査などを詳述した 大坂城の謎 を読むとよくわかります。
  •  大坂城:浅野文庫所蔵 諸国古城之図

    現在の鉄筋コンクリート天守は昭和6(1931)年に市民の寄付などをもとに徳川大坂城の天守台に豊臣風天守を再建したもので、外観復元を目指したというより、徳川大坂城の天守台に桃山時代風な新たな3代目の天守を上げたようなものです。豊臣秀吉によって上げられた天守は大坂夏の陣で焼失、徳川秀忠による2代目天守は初代より15mも高かったが寛文5(1665)年に落雷で焼失しました。豊臣大坂城天守は現在の天守より北東寄りの場所(現在の貯水池東北端)に有りました。上の『大坂城 巨石と刻印石の場所』の地図に推定位置を表示しています。右図は「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」大坂(摂津)の天守部分を切り取ったものです。文字が天地逆ですが『御天守』とあります。「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」は広島市立図書館で閲覧できます。詳しくは リンク集 で。

      

    参考 : ここにはご注意を!!

  • 天守の南側に金明水井戸屋形があります。この井戸には秀吉が黄金を沈めたという伝説がありますが、前述の大坂城総合調査ではこの井戸も徳川築城の際で掘られたとのことです。
  • 天守を鉄筋コンクリートで再建、博物館として使うのいう形は戦後の天守復元のモデル・先駆けとなり、1997(平成9)年には登録有形文化財に指定されています。ちなみに1954(昭和29)年に戦後初となる模擬天守の富山城天守も2008(平成16)年に登録有形文化財に指定されています。
  • 大坂城で最大の蛸石がある桜門枡形、この桜門にはちょっと興味をひく名の石があります。龍虎石と言われ「雨が降ると龍と虎の姿が浮かんでくる」と文化年間に著された『金城聞見録』記されているとのことです。ここにも青龍・白虎の四神相応の影響がみられ面白く感じます。この門をぬけると目の前に蛸石があります。

    虎石

    龍石

  • 大坂城で2番目に大きい肥後石、肥後と秀吉から連想されるのはもちろん加藤清正ですが京橋門のこの石垣を担当したのは岡山藩主・池田忠雄で清正とは関係ないとのことです。なんで肥後石などネーミングされたのでしょう??

    [ 2012/12/5 ]

  • マンホールの蓋にも大坂城天守が。

    マンホールの蓋

    [ 2019/5/30 ]

  • 昭和20年(1945)8月14日、終戦の直前に京橋門、玉造門、二番櫓、三番櫓、伏見櫓、坪櫓を焼失。現在もまだ傷跡が残ってます。

    ⚫今も残る傷跡

    大坂城公園内の残る戦争の傷跡

    空襲の機銃掃射痕

    石垣のずれ

    ⚫焼失した櫓などは説明板や現存櫓の公開時のパネルに使われている古写真で往時がしのばれます。

    本丸東側諸櫓

    乾櫓・坤櫓

    三番櫓・六番櫓

    京橋門と多聞櫓・伏見櫓

    太鼓櫓

    一番櫓・二番櫓

    一番櫓と二番櫓

    「蛸石」の上に続櫓

    京橋門と京橋口多聞櫓

    太鼓櫓

    ※編集(画像切り抜き)前の元パネル。

     

     

     

     

    [ 2019/5/30 ]

大坂城で出会った説明板

大坂城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

桜門枡形の巨石

桜門枡形の巨石

桜門枡形の巨石

《蛸石》

桜門の内側には、本丸の正面入り口を守るため、石垣を四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓‹たもんやぐら›が建てられた。この枡形は徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄‹いけだただお›の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩‹かこうがん›が用いられている。正面の石は蛸石‹たこいし›とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石‹ふりそでいし›(袖石‹そでいし›)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で消失した。

歴史街道

京橋口枡形の巨石

京橋口枡形の巨石

京橋口枡形の巨石

《肥後石》

京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2位の巨石「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳約22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である

歴史街道

大手口枡形の巨石

大手口枡形の巨石

大手口枡形の巨石

《見付石、二番石》

枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大坂城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石‹おおてみつけいし›は表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石‹おおてにばんいし›は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石‹おおてさんばんいし›は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島‹しょうどしま›と推定されている。現存する大坂城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたって徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この箇所は当初肥後熊本藩主加藤忠広‹かとうただひろ›が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏‹ありまとようじ›が改築した。

歴史街道

刻印石広場

刻印石広場

刻印石広場

《刻印と説明》

この刻印石広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示、紹介するため、新設したものである。

刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命じられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積みの過程で、個々の石に、必要応じてさまざまな文字や文様を刻みこみ、さらに出来上った石垣の表面に担当大名の家紋その他を刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されている。 ここに展示したものには、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものなどである。

一般に、大阪城の石垣は、豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちですが 実は、現存する石垣はすべて元和・寛永年間(1620~1629)に、徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。

昭和58年10月 大阪市

≪説明に添えられている図≫

 

絵が中心の案内・説明書

絵や写真で見る大阪城のあゆみ

「絵や写真で見る大阪城のあゆみ」のパネル展示がありました。そのの紹介です。

豊臣秀吉築城の大坂城

大坂夏の陣 大坂城落城

徳川幕府再築の大坂城

天守を失った大坂城

なにわの名所 大坂城

幕末の大坂城

炎上する大坂城

昭和によみがえる天守閣

復興直後の天守閣

天守閣 平成の大改修

ここにはご注意を!!

主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。

あやしい天守閣の『あやしい天守閣 十傑 』では見事に第1位。以前から 「 現在の天守は豊臣秀吉の大坂城ではないらしい 」 程度のあやしさの知識はありましたが、だんだん詳しく知るようになりました。

  • 大坂城の知名度、歴史的背景、城郭の規模、1959(昭和34)年の大坂城総合調査よりずっと遡る1931(昭和6)年の再建などを考えると『あやしい天守閣』の第1位もしかたないところか??

    現天守は、1931(昭和6)年に大阪市民の寄付により「大阪夏の陣図屏風」や豊臣時代の資料を参考に、鉄筋コンクリート造りの5重8階、初重から4重は白漆喰壁の徳川時代、5重の望楼部分は鶴と猛虎の豪華な金装飾の豊臣時代のデザインで、徳川天守の天守台の上に上げられた3代目の天守です。大筋の成り行きは以下のようです。

  • 1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で大坂城は落城し豊臣氏は滅亡。1620(元和5)年、徳川2代将軍秀忠は西国大名を中心に64家を動員し大坂城の再建を開始、やっと1629(寛永6)年に完成。この時、徳川の徹底的した豊臣隠しのため豊臣大坂城は埋め尽くされ、天守台、石垣なども新しくなり実質的には改修ではなく新規の築城状態でした。このことは大坂城総合調査[1959(昭和34)年]での刻印石の分析や地下から秀吉時代の石垣が見つかったことなどからやっと明確になります。この調査などが詳述された 大坂城の謎 を読むと、これまでは「大坂城は豊臣氏の城で徳川氏により修築されたもの」と考えられていたことがよくわかります。
  • 1923(大正12)年の関東大震災で東京が打撃を受けますが、大阪市は1925(大正14)年には大規模な市域拡張を行い当時の東京市を抜き、日本一の大都市となります。これを記念して「大大阪記念博覧会」が開催され大阪城も一会場になり、大阪城の天守台には「豊公館」と名づけられました二重の建物を建てました。豊公館は大人気でのちの天守閣復興につながっていきます。
  • 1928(昭和3)年、大阪市長が御大典の記念事業としての天守再建を発議、大阪市から天守の設計・監督を依頼されたのは、桃山建築への造詣の深い46歳の建築家・古川重春で、黒田家所蔵の『大坂夏の陣図屏風』を基に、設計図を書き上げてたとのことです。詳しい状況は【大阪の20世紀】(40)大阪城 太閤の夢、市長の夢 - MSN産経ニュース ※1 で閲覧できます。このなかでちょっと注目する箇所があって「実は黒田家の図屏風では、城は屋根や壁が黒っぽく、細部の造作も多少異なる。古川は『豊臣天守の忠実な再現』ではなく、『究極の桃山城郭の創造』を目指したのだろう」が気を引きます。
    ※1
    現在このページは無くなっていますが、書籍 大阪の20世紀 になっているようです。内容は未確認
  • 豊臣大坂城の視覚的な史料は「大阪夏の陣図屏風※1( 大阪城天守閣蔵 )」、大坂冬の陣図屏風※2( 東京国立博物館蔵 )、大坂城図屏風※3( 大阪城天守閣蔵 )、最近(2006年)に発見され再建時にはありませんでしたが、「大坂図屏風※4( オーストリア・エッゲンベルク城博物館蔵)」など4点が知られています。しかし、共通するのは五重の天守ということだけです。大阪夏の陣図屏風を参考に再建されたといわれていますが、ここに描かれているのは黒い天守です。再建されたものは最上階に虎や鶴はあるものの白い天守で形状も異なります。
    ※1
    ウィキペディアで閲覧できます。
    ※2
    東京国立博物館で検索すると閲覧できます。複数に分割されているので天守がある部分にリンクを張りました。東京国立博物館については リンク集
    ※3
    天守部分の切取画像はちらほらありますが推奨できそうなものはなかったのでGoogleの検索結果 [検索キー:大坂城図屏風 -大坂図屏風]のみを示します。適当なサイトで閲覧ください。
    ※4
    オーストリア エッゲンベルク城所蔵 豊臣期大坂図屏風 で閲覧できます。また、『ハイビジョン特集 新発見 大坂図屏風(びょうぶ)の謎 ~オーストリアの古城に眠る 秀吉の夢~』のタイトルでNHKで放映され NHKオンデマンド視聴できていましたが現在はないようです(私が捜しだせないだけかもしれませんが)。
  • 三代目の現天守は1929(昭和4)年に御大典記念の事業として天守復興の再建工事に着手され、1931(昭和6)年に完成していますが、

    1. 1928(昭和3)年 御大典を記念して、洲本城天守が鉄筋コンクリート 3重で上げられる
    2. 1929(昭和4)年「国宝保存法」が公布され、保護の対象が拡大し城郭も含まれるようになる
    3. 1933(昭和8)年 郡上八幡城が木造 四重で建てられる
    4. 1935(昭和10)年 伊賀上野城が旧五重天守跡に木造 三重で建てられる
    5. 大阪夏の陣図屏風など視覚的な史料では外観が異なる
    6. 天守台が残っていた
    7. 1959(昭和34)年の大坂城総合調査でやっと現在の大坂城が徳川時代のものであることが明確になった

    などをみると城への懐古ムード(私の主観、本当のところは??)や記念事業であること、資料の少なさなどから 「豊臣天守の忠実な再現 ではなく究極の桃山城郭の創造を目指したのだろう。」が的を得ているような気がします。

    1923(大正12)年の関東大震災、1929(昭和4)年の世界恐慌、これに引きずられた1930(昭和5)年から翌1931(昭和6)年にかけての昭和恐慌のさなかに寄付を募ってこれだけの大事業を行った当時の人々には驚きです。1997(平成9)年には登録有形文化財に指定され、名誉ある あやしい天守閣 と思います。

[ 2012/12/5 ]

大坂城 重要文化財

大坂城は「大坂城」として大手門、塀(大手門南方塀)、塀(大手門北方塀)、塀(多聞櫓北方塀)、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、焔硝蔵、金蔵、金明水井戸屋形、桜門の13棟が昭和28(1953)年に新しく重要文化財に指定されました。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
大阪城
 
大手門
高麗門、本瓦葺
 
塀(大手門南方塀)
矩折延長60.0m、銃眼九所、石狭間十四所、本瓦葺
 
塀(大手門北方塀)
21.5m、銃眼三所、石狭間七所、本瓦葺
 
塀(多聞櫓北方塀)
20.3m、銃眼三所、石狭間六所、本瓦葺
 
多聞櫓
矩折一重(一部櫓門)、本瓦葺
 
千貫櫓
二重二階、本瓦葺
 
乾櫓
矩折二重二階、本瓦葺
 
一番櫓
二重二階、本瓦葺
 
六番櫓
二重二階、本瓦葺
 
焔硝蔵
石造、一重、寄棟造、本瓦葺
 
金蔵
土蔵造、一重、寄棟造、本瓦葺
 
金明水井戸屋形
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺、石造井戸枠を含む
 
桜門
高麗門、本瓦葺

重要文化財の画像 を

大坂城 面白文書、拾い上げ

書籍など、大坂城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

大坂城天守最上階の外壁大坂城天守の最大の特徴は、最上階の外壁に描かれた一双の金箔押しの飛鶴と、廻縁下の外壁に描かれた虎の姿である。後にも、先のも天守外壁にこのような動物図が描かれた事例は見られない

(左図は現在のものとは異なりますが、確かに虎が描かれています。)

復元模型で見る日本の城(下) より

大阪城は豊臣秀吉の築いた城であるが、大阪冬の陣と夏の陣に破壊された。今回指定されたものはすべてその後德川氏により築造されたものである。

乾櫓、 元和六年(一六二〇)の建築であるが、桃山時代の手法が見られ大阪城遺構中で最も古い。

千貫櫓、元和六年

金藏 寬永元年(一六二四)

金明水井戸屋形 寬永三年(一六二六)

一番櫓、六番櫓、共に寬永六年(一六二九)

焔硝櫓 寬文元年(一六六一)。石壁に石屋根を造った珍らしいもの。

大手門、塀(三棟)、夛聞櫓 共に嘉永元年(一八四八)

櫻門 江戸末期

なお大阪城は旧陸軍所有であったため重要文化財に指定されなかったもので 現在破壊がいちじるしいが、地元大阪市ではすでに修復委員会(委員長大阪市長中井光次氏)を結成し修復運動を起すとともに文化財保護委員会の指導のもとに最も破壊の甚しい六番櫓、一番櫓から始めて漸次全体に及ぶ応急修理に着手しようとしているが今回指定を見たので委員会としては更めて修理の根本的対策を立てる。

国宝・重要文化財(建造物)大阪城 の解説文

豊臣時代の遺構は一石たりとも地上にないが、豊臣氏の名残を消し去るために埋め立てたのではない。本来、落とした城は屈服の象徴としてむしろ揚げるもの。豊臣大坂城の継承は、政治権力が徳川氏へ移行した証になるのだ。

豊臣大坂城の否定でないことは、徳川大坂城の城門や櫓の名称が豊臣時代と一致することから証明される。すべての建造物が大坂の陣で焼失してしまったが、桜門、大手門、京橋門、玉造門、山里丸、極楽橋、千貫櫓などの名称をすべて継承したのだ。豊臣色の払拭が目的なら改称が当然。埋め立てたのは、徳川流築城の生みの親である藤堂高虎の「堀の幅と石垣の高さを2倍にせよ」という進言によるもので、城壁を高く構築するためやむを得ず行われた。

縄張りも、豊臣時代とほぼ変わらない。江戸時代に築かれながら主流の四角形ではなく、旧式の不等辺多角形だ。山里曲輪を見ればその形状がわかるだろう。ただし、本丸は豊臣時代とは少し異なり、南北に分断していた堀を埋め立てて一体化し、広大な御殿を建造している。

ビジュアル日本史1000城 より

追記のための仕切り線

管理人独白:

「歴史は勝者のものがたり」と言われるように勝者が敗者を抹消しようとするのはあたりまえで徳川が豊臣を消し去り、大坂城を埋め尽くすのは上の方で何回か書いたように当然と思い込んでいました。ビジュアル日本史1000城を読んで思い込みがふっとんでびっくり仰天です。説得力ある説明をそのまま引用します。

登城の道のり

初の登城は1973年頃前

最新の登城日:平成26年5月9日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

大坂城まで 簡単に説明

道順1

  • 街中にあるので最寄の駅はたくさんありますが、なじみの京阪京橋から向かいました。
  • 京阪京橋を降り、片町口改札を出て大阪城京橋プロムナードでツイン21に向かいます。
  • ツイン21の直前に下に降りる箇所があり地上へ。
  • そのまま南へどんどん進み信号を超え大阪城新橋へ。ここを渡り大坂城ホールへ到着。
  • 大坂城ホールを越していよいよ青屋門へ。15~20分ぐらいかかりました。

道順2 (豊臣大阪城の石垣を見てみる)

  • 京阪天満橋を出て東へ上町筋まで線路沿いに歩く。
  • 40mほど歩くと左側に石垣が見える。その奥の50mほどにも石垣があります。
  • あと、適当に歩いても大坂城には着くと思います。
  • 上地図で豊臣大阪城の石垣が見れる場所 が記された所が豊臣大阪城の石垣が見れる場所です。
  • 堀周辺の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:大坂城天守と極楽橋

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞