お城の雑学
天守の分類詳細
望楼型と層塔型
天守の分類で少し記事が増えてきたので詳細ページを作成しました。初めは望楼型と層塔型を簡単に見分ければと思っていたのですが、気にかかることを調べていくとついつい増えてしまいました。
[ 2009/07/1 ]
天守の分類
- 壹: まえがき
- 貳: 天守の分類 望楼型と層塔型
- 參: 望楼型と層塔型の見た目(外観)
- 肆: 望楼型と層塔型の変遷
- 伍: 望楼型と層塔型の例
まえがき
当初は望楼型と層塔型を簡単に見分ければと思って外観的に見分ける方法 「天守の1階または2階に入母屋破風があれば望楼型、なければ層塔型です。」 は素直に受け入れられたのですが、「望楼型は1階、または2階の入母屋造りの家屋の上に2~3階の望楼(物見)を載せたもの、層塔型は基部に入母屋造りの大屋根を持たず、単純に積み上げていくだけの構造となる。」 は少し戸惑いました。『載せる』が理解できませんでした。望楼型の代表的な 姫路城 や 岡山城 を見ても「入母屋造りの家屋」と「望楼」を組み合わせた(載せた)ものには見えませんでした。
ところが、 犬山城 の写真を見ていて一気に氷解しました。犬山城の場合「望楼」部が「入母屋造り」部よりかなり小さめでまさに『載っている』のです。以降、だまし絵の正体がわかったように姫路城や岡山城でも 『載っている』 感じが掴め、いろいろなことがすっきりしてきました。
望楼型と層塔型
一見すると個性はあるが同じようにみえる天守も望楼型と層塔型の2タイプに分類されます。
- 「 古いタイプの天守と言われる『望楼型』は1階、または2階の入母屋造りの家屋の上に2~3階の望楼(物見)を載せたもの」
- 「 新しいタイプの天守と言われる『層塔型』は基部に入母屋造りの大屋根を持たず、単純に積み上げていくだけの構造となる。」的なことが書かれています。
ここの 望楼(物見)を載せる がよくわからなかったのですが 犬山城 の写真を見てこういうことかと納得しました。まさに、屋根の上に望楼(物見)が載っています。犬山城の写真を見て以来、だまし絵の謎が解けたごとく 姫路城 でも「入母屋」と「望楼」が分かれて見えるようになりました。
恐れながら姫路城天守の望楼部を分離し、浮かしてみました
通常の姫路城
望楼を浮かした姫路城
犬山城 天守の図面もこの『載っている』感じが掴め、許可が得られましたのでここに載せます。
詳しくは 天守閣 « 国宝犬山城 をご覧ください。
犬山城 天守 側面図
犬山城 天守 断面図 東より
望楼型 層塔型の見た目(外観)
見た目(外観)をわかりやすくするため破風を省略したイラストを作成してみました。
望楼型
模式図
「1階、または2階の入母屋造りの家屋の上に2~3階の望楼(物見)を載せたもの」のイメージが掴めると思います。この入母屋造りの屋根が入母屋破風となります。従って望楼型天守には必ず入母屋破風があることになります。次に述べる層塔型は最下部に入母屋造りを持たないので一、または二重目には入母屋破風を持つことはありません。
初めはこの入母屋破風と千鳥破風の違いがよくわからず、 松本城 ( このページ下の方 望楼型と層塔型の例 参照 ) の二重目に立派な破風があるのに、なぜ層塔型なんだろうと思っていました。今にしてみればこれは千鳥破風でしたが・・・・・・
破風については お城の雑学 言葉 破風 を参照ください。
初期望楼型と後期望楼型
犬山城 や 丸岡城 のように下の土台となる入母屋造りの建物に比べ上に載る望楼部が小さいものを初期望楼型、 姫路城 や 熊本城 のように上下の差が少ないものを後期望楼型に分類することがあります。しかし犬山城の望楼部は1620年ごろの増築・修築であることが判明し実際の時期が古いということではありません。
[ 2010/7/7 追加 ]
層塔型
模式図
(寄棟を)単純に積み上げていく構造で、望楼型のように入母屋破風はなく、基本的には破風(はふ)の無い天守となります。破風が無いと何か味気ないもので、層塔型でも少し破風を付けた城もあります。
層塔型の天守では破風のない島原城が判りやすいののですが、残念ながら手持ちの写真がありません。島原城ポータルサイト - 写真画廊 にありますので参照ください。このページ下の方にも 望楼型と層塔型の例 には 松本城 、 会津若松城 などを例示しています。松本城は比較的多くの破風がありますが、会津若松城はほんの少しあるだけです。
小倉城 も「お城らしくない」 ということでもともとは無かった破風を付けて再建したという記述を読んだ記憶があります。
ご参考
参考:主な屋根の形
入母屋
寄棟
切妻
参考:入母屋破風と千鳥破風
入母屋造りの屋根の端(妻側)が入母屋破風、屋根の上にさらに小さな三角形の屋根をのせたのが千鳥破風です。
望楼型と層塔型の変遷
望楼型は初期の天守の構造と言われています。石垣を造る技術が未熟なため正確な方形の天守の載る天守台が造れず、基部の入母屋造りの建物がゆがんでしまっても、望楼を上に載せるだけなので、ここでゆがみを補正できるといわれています。ゆがみを補正している例としてよく 岡山城 が使われています。
層塔型は藤堂高虎により慶長13年(1608年)築城された伊予今治城が最初といわれています。望楼型に比べ単純な構造の層塔型が後になったのは前述のように石垣を積む技術が未熟で方形の規則正しい天守台を作ることができなかったからといわれています。
天守台を作る技術が発達してからは、比較的単純で規格化しやすい層塔型が主流となり望楼型は造られなくなります。しかし、江戸時代中期以降に再建された 高知城 は望楼型で復古式と呼ばれることがあります。
ちょっと一言
上はよくいわれている説明ですが、なにかしっくりこないところがあります。比較的構造が簡単な層塔型が時代が遅いタイプであることです。原因は石垣(天守台)を造る技術にあるようなのですが、
- 石垣(天守台)は本当に必要なのか? なぜ必要なのか ?
- 石垣(天守台)がゆがんでも方形の建物は造れないのか ?
- 石垣(天守台)が必須でなく、単に物見だけであれば寺院の五重塔的なものは造れたのではないか?
など気になります。本格的天守のはじまりは「安土城の天主」といわれていますが、安土城の天主は現存せず、信長の夢「安土城」発掘 NHKスペシャル「安土城」プロジェクト などを読むと、織豊時代には天守内の部屋も意味をもっていたが、徳川の時代には物置的に使かわれたり、一度も天守に上がらなかった城主もいた などということを本で読んだことがあり、根拠はないのですが、「天守の役割・目的の変遷にともない天守の形式に変化があったのではないか? 」 と思ったりし、もう少し勉強しようと考えています。また、石垣についても興味がわき、石垣の歴史・種類や、岡山城以外にも方形でない天守台があるのか? など調べたいことが増え喜んでいます。