西南・東南・西北隅櫓などが重要文化財
二之丸庭園は名勝
名古屋城
名古屋城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 年表
- 伍: ここが魅所・お勧め
- 睦: ここが興趣深い
- 質: ここにはご注意を!!
- 捌: 名古屋城で出会った案内板
- 玖: 天守 諸々
- 拾: 重要文化財
- 壹: 面白文書、拾い上げ
- 貳: 登城の道のり
名古屋城 ひとくちメモ
- 所在地
- 愛知県 名古屋市
- 別 名
- 金鯱城、揚柳城、蓬左城
- 築城者
- 今川氏親、徳川家康
- 別名の由来
- 金鯱城は金の鯱より、揚柳城は柳が多かったから、蓬左城は蓬莱宮と称される熱田神宮の左手に位置することより。
- 天守概要
- 連結式 層塔型 五層五階地下一階(現在は外観のみ復元)
- 城郭構造
- 梯郭式 平城
- 遺 構
- 西南隅櫓[ ※ ]、 東南隅櫓[ ※ ]、 西北隅櫓[ ※ ]、 表二の門[ ※ ]、 旧二之丸東二之門[ ※ ]、 二之丸大手二之門[ ※ ] (以上6棟は重要文化財)、 二之丸庭園(名勝)[ ※ ]、石垣、堀 など
- 再建造物
- 復元天守[ ※ ]、 正門(榎多門)[ ※ ]、 不明門[ ※ ] など
- 天守の高さ
- 35.85m ( 建物 )、11.38m ( 石垣 )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
名古屋城 簡易年表
- 1521頃
- 今川氏によって那古野城が築かれる。
- 1534年
- 織田信長、那古野城で生まれる。
- 1610年
- 徳川義直、尾張に封じられ、名古屋築城開始。
- 1612年
- 天守完成。
- 1615年
- 本丸御殿完成。
- 1945年
- 空襲により、天守などが焼失。
- 1959年
- 天守再建。
図解 日本の城 より
参考になるサイト:
名古屋城 写真の間
抑えたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
東門 ⇒ 二の丸 ⇒ 表二之門 ⇒ 本丸(本丸御殿 天守)⇒ 御深井丸 ⇒ 西之丸⇒ 正門 ⇒西御門 の順に
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の名古屋城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
名古屋城 よろず館
名古屋城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は名古屋城にあった 案内図 を使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
名古屋城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた名古屋城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
-
戦前には天守が現存していましたが、戦災でほとんどの建造物を焼失。それでも、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓の櫓3棟、表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門の門3棟は焼失を免れ現在は重要文化財 に指定されています。また、二之丸庭園は国の名勝に指定されています。
-
戦災で焼失した天守は昭和34(1959)年に鉄筋コンクリートでほぼ外観復元されました。天守最上階が観光を意識して古とは少し異なるようです。詳しくは 名古屋城 ここにはご注意を!! を参照下さい。
現在(2016/6/2)では、木造復原が話題になっています [2016/6/5:追記]
-
名古屋城には軒桁に30cm余りの槍の穂先を並べて忍返として外敵に備えた塀があります。大天守と小天守連絡する橋台の西側、不明門の北側に見られます。
剣塀 について
-
西南隅櫓(未申櫓)には入母屋破風と唐破風を重ねた珍しい構造の破風があり、重破風(かさねはふ)と言われています。
[ 2012/09/25 ],[ 2016/06/04 追記 ]
名古屋城 ここが興趣深い
名古屋城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
名古屋城のシンボル、天守の両端を飾っている金の鯱。この鯱には雄と雌の区別があります。北側(本丸から天守を見て右側)がやや大きくて雄、南側が雌になります。
金の鯱 雄と雌
-
金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、宝暦年間(1751~1764年)、大凧に乗って金鯱の鱗2枚を柿木金助(かきのききんすけ)が盗んだとの伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。
-
金鯱は大判、小判を約1万8000両(約266kg)を延ばして張られたもので戦災で焼失。雄は行方不明、雌は事前に保管していたため焼け跡から金塊となって発見された。
名古屋城 ここにはご注意を!!
主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。
-
名古屋城の天守は鉄筋コンクリートで外観復元されたものと思っていましたが、あやしい天守閣 では「最上層の窓のみ展望目的を考慮してもとの形より若干大きくガラス窓が採用されている。」ということで復興天守 としていました。確かに焼失前の写真と比べると窓が一回り大きく形状も少し異なっています。
[ 参考 ]
焼失前の写真は 『日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 』 や 『日本の城 - 毎日新聞社 』 でみることができます。
※ 『日本の城 - 毎日新聞社』のURLは時々変更されているようでリンク切れの場合は お城 関連リンク集 の 古写真が閲覧できるサイト から試してみて下さい。
[ 2012/05/11 ]
名古屋城で出会った案内板
名古屋城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
特別史跡 名古屋城
特別史跡 名古屋城
名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。慶長14年(1609)、家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。
慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930)12月、名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。昭和7年(1932)には、名古屋城全域が特別史跡に指定されました。
昭和20年(1945)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や御本殿など国宝建造物24棟が焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047面が、戦後重要文化財に指定されました。
昭和34年(1959)、天守閣と正門が、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013)に玄関・表書院部分が完成しました。現在も、平成30年(2018)の全体完成をめざし工事が進められています。
≪説明に添えられている図≫
名古屋城の概要
名古屋城の概要
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして清須(現清須市)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工し、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれ運んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
明治にはいり陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930)12月、離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。
昭和20年(1945)5月の空襲で大小天守閣と本丸御殿など焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁画1,047面が国の重要文化財に指定されています。昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
名勝 名古屋城二之丸庭園
名勝 名古屋城二之丸庭園
名勝指定年月日 昭和28年3月31日
二之丸庭園は、元和6年二之丸御殿の新築と共に作成されたものといわれています。時代と共に改造され特に文政年間に大きく改造されました。この庭園の特徴は、面積が小さい割に作庭当時は丘や森のたたずまいが峻険で谷は深くして巨岩を畳み、山上には老樹を茂らせ、後面には桧等を密植させ、退路を隠すなどの要害的構成をなして、一朝有事の際は、城主が一時退避の場所として設計された城郭庭園であることです。その後の改造でやや性質が薄れてきましたが基本の性質は残されています。
現在の庭園は、昔の庭園を調査しその基本の性質を踏まえて拡充復元したものです。面積は、5.137m2(1.567坪)で枯山水廻遊式庭園で庭園内の建物を挟み、南庭と北庭とに別れ、北庭が比較的、創設当時の姿をよく残しています。北庭は、五つの築山で囲まれ、三つの中島と、数多くの出島のある池を中心として作られ、石橋、山道、岸づたいなど変化のある廻道路がめぐらされています。池には、深い渓谷の趣きを表現し、池底は庄内玉石敷で、その下は、南蛮たたきになっています。
石組は、佐久島石、篠島石、幡豆石、桃取石等数多くの名石が使用され、樹木は、松を始めとして、観賞用、薬用、非常用のものなどが植えられています。
≪説明に添えられている図≫
二之丸御殿と能舞台
二之丸御殿と能舞台
二之丸御殿は元和3年(1617)に竣工したと伝えられ、元和6年初代藩主徳川義直が本丸御殿より移った。藩主居住の殿舎であり、また政務を行っていた場所であることから「御城」ともいわれた。その後、多数の殿舎が造営された。
御殿内には「表御舞台」と「奥御舞台」という二つの能舞台が設けられ、藩主代替後の初入部の祝能、世嗣誕生祝能などが催された。また、尾張徳川家は多数の能楽師を抱えていた。
こうした歴史を背景として、平成9年4月、名古屋城正門南側に「名古屋能楽堂」が完成した。
≪説明に添えられている図≫
東南隅櫓<重要文化財>
東南隅櫓<重要文化財>
辰巳櫓ともいわれ屋根二層、内部三階、屋根入母屋造り本瓦葺、白塗籠造りである。東・南二方には、張り出した「落狭間」(石落し)がもうけられている。この櫓は築城当時のものであり、鬼瓦には葵の紋が見られる。
重要文化財 西北隅櫓
重要文化財 西北隅櫓
古名は戌亥櫓。清洲城天守を移築したと伝えられる。清洲櫓とも称された。昭和三十九年の解体修理により古い建物の材木を一部用いて元和五年(一六一九)頃に造営されたことが明らかになり、清洲城天守の古材転用した可能性が高まった。屋根三層・内部三階で全国でも最大規模の隅櫓である。
表二之門<重要文化財>
表二之門<重要文化財>
古くは南二之門と呼ばれ、本丸追手枡型の外門に当たるので、門柱・冠木とも鉄板張りとし、用材は木割りが太く堅固に造られている。袖塀は土塀として数少ない遺構である。
東一之門跡
重要文化財 旧二之丸東二之門
重要文化財 旧二之丸東二之門
本来は東鉄門という二之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和四十七年に現在地(本丸東二之門跡)に移築された。平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。
不明門 (焼失再建)
不明門 (焼失再建)
多門塀の下をくぐる埋門で本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、常に鍵が厳重に施され、別名を「あかずの門」といった。塀は外部の軒桁を忍返しにした「剣塀」である。昭和二十年五月十四日、空襲で天守閣などとともに焼失。昭和五十三年三月、原形の通りに再建した。
石垣の勾配
石垣の勾配
名古屋城天守閣の石垣積みは、上部で外側にそりだした「扇勾配」の技法が取り入れられている。これは加藤清正が担当して築いたので、とくに「清正流三日月石垣」といわれる。この技法は、石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるためである。
石垣の刻銘
石垣の刻銘
石垣の築造は、庁場割に基づき加藤清正はじめ二十の諸大名に分担させたものである。
天守閣の石垣は、清正一手の築造であり、その四箇所の隅石には銘石を使用し、担当した家臣の名を刻んでいる。
なお、東北隅北面石には「加藤肥後守内小代下総」と刻名されている。
清正石
清正石
名古屋城の門は、櫓門 (二階建)と高麗門 (平屋建)を枡型に配置し、石垣には防備を誇示するために大きな石を組み入れた。
この石は加藤清正が運んできたといわれてきたが、この石塁は黒田長政の丁場であったので、「清正石」というのは単なる伝説であろう。
剣塀
剣塀
大天守閣と小天守閣を連絡する橋台は、石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路を防備とし、さらに外部の面する西側には軒桁に三十センチメートル余りの槍の穂先を並べて忍返として外敵に備えた。
剣塀は、大天守閣に東接する「不明門」にも見られる。
鵜の首
名古屋城本丸御殿とは
名古屋城本丸御殿とは
名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615) に建てられました。寛永11年(1634) には将軍のお成御殿として上洛殿が増築され、格式高き御殿として知られていましたが、昭和20年(1945) の空襲で天守閣とともに全焼しました。名古屋市では、平成21年(2009)11月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月には入口にあたる玄関、謁見の場である表書院などの公開を開始しました。
≪説明に添えられている図≫
本丸御殿の復元方法
本丸御殿の復元方法
本丸御殿の復元にあたっては、主要な木材に木曽桧を使用すつとともに、継手・仕口により木材を組み立てる伝統工法を採用しています。また障壁画についても、狩野派の絵師たちが用いた技法や素材を分析し、復元模写により当初の色彩を再現しています。
復元された建物と色鮮やかな障壁画、そして金色に輝く飾金具があいまって、400年前の壮大な空間がよもがえります。
≪説明に添えられている図≫
車寄
≪説明に添えられている図≫
玄関・大廊下
玄関・大廊下
玄関は、将軍など正規の来客がまず通される建物で、床(とこ)や違棚が備えられていました。周囲の壁や襖には勇猛な虎が描かれ、客を驚かせました。
続く大廊下は、玄関と奥を結ぶ重要な通路で、幅は3間(約6メートル)に及びます。
≪説明に添えられている図≫
表書院
表書院
表書院は、江戸時代は広間と呼ばれ、藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられました。一番奥に位置する上段之間は床(とこ)や付書院を備えるとともに、床も一段高くしており、藩主や重要な来客の座として使われました。
≪説明に添えられている図≫
中之口部屋
≪説明に添えられている図≫
名古屋城 天守 諸々
天守には多くの古写真が展示されていました。現在復原中の御殿(一部は公開中)の写真も多々ありました。戦災で焼失したのは本当に残念。御殿とその他に分けて紹介します。
※キャプションは添えられたそのままです。
(2016/6/20)
御殿以外の古写真
御殿関連の古写真
名古屋城 重要文化財
名古屋城は重要文化財に指定されています
名古屋城は昭和20年の空襲で焼失を免れた旧国宝 の 西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門の6棟が重要文化財 に指定されています。また、城跡は国の特別史跡に指定されています。二之丸庭園は国の名勝に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース 」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」 を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 名古屋城
-
-
- 西南隅櫓
- 二重三階、本瓦葺
-
- 東南隅櫓
- 二重三階、本瓦葺
-
- 西北隅櫓
- 三重三階、本瓦葺
-
- 表二の門
- 高麗門、本瓦葺
- 名古屋城旧二之丸東二之門
-
- 高麗門、本瓦葺
- 名古屋城二之丸大手二之門
-
- 高麗門、本瓦葺
旧国宝
名古屋城は戦前( 戦前と言ってもわからないか?昭和20年以前 )には天守をはじめ本丸御殿、櫓、門などが現存し、昭和5年に国宝( 旧国宝 ) に指定されていました。しかし、昭和20年の空襲で西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓などを除きほとんどを焼失、国宝の指定が解除されました。上述のように西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓などは現在重要文化財 に指定されています。天守は昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 」を参考に旧国宝の内容をまとめました。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 名古屋城
-
-
- 大天守
- 五層天守(地階一層)、屋根五重、第一重本瓦葺、第二重以上銅瓦葺
-
- 小天守
- 二層天守(地階一層)、屋根二重、本瓦葺
-
- 西南隅櫓
- 三重櫓、屋根二重、本瓦葺
-
- 東南隅櫓
- 三重櫓、屋根二重、本瓦葺
-
- 東北隅櫓
- 三重櫓、屋根二重、本瓦葺
-
- 西北隅櫓
- 三重櫓、屋根三重、本瓦葺
-
- 表一之門
- 櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺
-
- 表二之門
- 高麗門、屋根切妻造、本瓦葺
-
- 東一之門
- 櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺
-
- 東二之門
- 高麗門、屋根切妻造、本瓦葺
-
- 不明門
- 高麗門、屋根切妻造、本瓦葺
-
- 正門
- 櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺
- 名古屋城御殿
-
-
- 玄関
- 桁行五間、梁間五間、単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 付車寄
- 桁行二間、梁間一間、単層、隅木入向唐破風造、銅瓦葺
-
- 大廊下
- 桁行六間、梁間三間、単層、屋根両下、桟瓦葺
-
- 表書院
- 桁行九間、梁間八間、単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 付溜ノ間
- 桁行六間、梁間三間、単層、屋根四注造、桟瓦葺
-
- 渡廊下
- 桁行二間、梁間一間、単層、屋根両下、桟瓦葺
-
- 対面所
- 桁行六間、梁間六間、単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 梅之間及鷺廊下
- 桁行四間、梁間三間、単層、屋根両下、西方寄棟造、桟瓦葺
-
- 付廊下
- 桁行二間、梁間一間、単層、屋根葺下、桟瓦葺
-
- 上洛殿
- 桁行九間、梁間六間、単層、屋根入母屋造、銅板本葺
-
- 付雁廊下
- 桁行九間、梁間六間、単層、屋根入母屋造、銅板本葺
-
- 湯殿書院
- 桁行十間、梁間四間、突出、桁行二間、梁間二間、各単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 黒木書院
- 桁行五間、梁間三間、単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 付朝顔廊下
- 桁行四間、梁間南面二間、北面一間、単層、屋根両下、桟瓦葺
-
- 上御膳所
- 桁行五間、梁間四間、単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 付廊下
- 桁行三間、梁間一間、単層、屋根葺下、桟瓦葺
-
- 下御膳所
- 桁行八間、梁間五間、単層、屋根入母屋造、桟瓦葺
-
- 柳之間及孔雀之間
- 桁行七間、梁間五間、単層、屋根南面入母屋造、北面切妻造、桟瓦葺
-
- 上台所
- 桁行十一間、梁間五間、単層、屋根切妻造、桟瓦葺
お城ファンとしては悲しい写真ですが天守が炎上する写真を 『米軍のB29編隊の落とす焼夷弾が天守閣に命中して炎上する名古屋城 [日本の城(毎日新聞)]』で閲覧できます。
※ 上のURLは時々変更されているようでリンク切れの場合は お城 関連リンク集 の 古写真が閲覧できるサイト から試してみて下さい。
天守にも「炎上する天守」の写真が展示されていました。 [2016/6/4 虫歯予防デー : 追記]
名古屋城 面白文書、拾い上げ
書籍など、名古屋城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
名古屋城の鯱は、家康が主に幕府の権力を誇示する目的でほかの城より豪華につくらせたとされ、築城当時は1対で慶長大判1940枚分の金が使われた。しかし、藩財政の悪化により、表面の金は3度にわたって薄く張り直された。幕府が滅び、城が明治政府の所有になると、鯱は国内・海外の博覧会に出品された。のちに城に戻されたが、名古屋大空襲で天守もろとも焼失してしまう。
( 2012/3/20 )
残念ながら、この金鯱をのせた大天守と、小天守、壮麗を極めた本丸御殿は、昭和20(1945)の空襲で灰燼に帰した。戦後、焼け落ちた天守台石垣下より金鯱の溶けた破片を集め、茶釜をつくった。この茶釜が二の丸庭園の四阿内にあるので、見学するのも一興である。名古屋市のマークが大きく刻まれているのが印象的だ。
名城の日本地図 より
名古屋城は慶長十五年(一六一〇)から同十八年にかけて徳川家康が子義直のために築城したもので、大天守等多数の建造物が今次大戦で焼失したが、現在四棟の重要文化財がある。 二之丸大手二之門と東二之門はそれらと同時に建立されたもので、東二之門は本丸東二之門跡に移建されている。 両門とも解体保存されていたが、近年再建された。 高麗門形式になり、築城時をしのぶ遺構である。
国宝・重要文化財(建造物)名古屋城旧二之丸東二之門 の解説文
国宝・重要文化財(建造物)名古屋城二之丸大手二之門 の解説文
登城の道のり
再登城日:平成28年3月28日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
名古屋城まで 簡単に説明
- 犬山城から名鉄名古屋駅へ戻ったが少し時間があるので名古屋城へ寄ることを決める。
- 名鉄名古屋駅から地下鉄市役所に向い、下車。
- 東鉄門跡に着いたのが4:30。入城できるのは5時までで30分しかなかったが登城
- 急ぎ足で廻りながら写真を撮り、正門より下城。
- 周辺、城内はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:大天守に小天守
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス