伏見櫓 筋鉄御門 は重要文化財
福山城
福山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: ここが魅所・おすすめ
- 肆: ここが興趣深い
- 伍: ここにはご注意を!!
- 睦: 福山城で出会った案内板
- 質: 重要文化財
- 捌: 面白文書、拾い上げ
- 玖: 登城の道のり
福山城 ひとくちメモ
- 所在地
- 広島県 福山市
- 別名
- 久松城 葦陽城
- >築城者
- 水野勝成
- 別名の由来
- 久松城:松寿長久の意をこめ、城の武運長久を祈って。 詳細は【福山駅前水辺公園プロジェクト】福山城の歴史
- 天守概要
- 複合式 層塔型 5重6階。
現天守は1966(昭和41年)に鉄筋コンクリートで建てられた復興天守。 - 城郭構造
- 輪郭式 平山城
- 遺 構
- 伏見櫓[ ※ ]、 筋鉄御門[ ※ ]、 鐘楼[ ※ ]、 石垣[ ※ ] など
- 再建造物
- 復興天守 [ ※ ]、 月見櫓[ ※ ]、 鏡櫓[ ※ ]、 御湯殿[ ※ ] など
- 天守の高さ
- 33.64m ( 石垣含む )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
天守の高さは «地図で歩く 城と城下町100選» に依る。
福山城 簡易年表
- 1619年
- 水野勝成が備後10万石の領主として入府、築城を開始。
- 1622年
- 福山城が完成。
- 1698年
- 5代藩主水野勝岑の早世により一時的に天領とされる。
- 1700年
- 松平忠雅が入封する。
- 1710年
- 阿部正邦が入封する。
- 1868年
- 幕府側の重要な拠点であった福山城が初めての攻撃を受ける。
- 1873年
- 廃城となり、多くの城の建物が取り壊されました。。
- 1945年
- 空襲により、天守閣と御湯殿は焼失。
- 1966年
- 市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原。
参考になるサイト:
福山城 写真の間
押さえたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 筋鉄御門 ⇒ 伏見櫓 ⇒ 本丸 の順に
☒ 周辺から
周辺から
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の福山城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
福山城 よろず間
福山城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった福山城(17世紀後半の姿) を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
福山城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた福山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
-
戦前には天守、伏見櫓、御湯殿、筋鉄御門の4棟が現存し旧国宝に指定されていましたが、戦災で天守、御湯殿を焼失。伏見櫓、筋鉄御門は焼失を免れ現在は重要文化財 に指定されています。また、国の史跡に指定されています。
-
現在の天守は昭和41(1966)年に市制50周年を記念して鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。古と大きく異なるのは天守北面の鉄板張りで、これは再現されていません。致し方ない気もします。その他、天守最上階が観光を意識して古とは少し異なるようです。詳しくは 福山城 ここにはご注意を!! を参照下さい。
[ 2012/09/28 ]
-
天下普請の城、有りました刻印石。駅を出て直ぐの石垣に。探しながら歩くのも面白いかも。
[ 20192/05/11 ]
福山城 ここが興趣深い
福山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
天守の北側は城外に近く丘陵でこの方面の防御を固めるため天守北面は土壁の上に鉄板を張った最強の壁、鉄壁に仕上げられました。天守は戦災で焼失しましたが、伏見町歴史浪漫~福山城関係資料~ の古写真でこれを確認できます。『 明治24年天守閣』 のキャプションの写真がこれに相当すると思います。
-
天守は5重6階の新しいタイプの層塔型。また、伏見櫓は伏見城からの移築といわれ、2階の入母屋造りの屋根に望楼を載せた古いタイプの望楼型、両者の対比も面白味を憶えます。
-
昭和28(1953)年の解体修理の際に使用されていた材に墨書が発見され、これが伏見城からの移築の証拠とされています。ただ、伏見城とはいっても豊臣時代のものではなく徳川家康の建てた伏見城の遺構といわれています。
[ 2012/09/28 追記 ]
《参考》 福山城伏見三層櫓及び筋鉄御門修理銘
[ 2019/05/08 追記 ]
-
人質櫓があった。場所は本丸西側のほぼ中央、石垣が残る。現存する人質櫓は府内城だけということで名称だけなら他でもあるのではと探してみつけたもの。熊本城には人質丸と言う郭がありました
伏見町歴史浪漫~福山城関係資料~ には俯瞰図が描かれており場所が判りやすいです。
[ 2018/07/02 追記 ]
[ 2019/05/08 写真追加 ]
《参考》 平成29年の登城で見つけた「福山城(17世紀後半の姿)」にも書かれていました。
[ 2019/05/08 追記 ]
-
昭和52年頃の登城時には筋鉄御門の前には石碑が建っていました。現在でも痕跡(多分)がありました。
[ 2019/05/08 追記 ]
福山城 ここにはご注意を!!
主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。
- あやしい天守閣 の『デザイン違い天守閣』で扱われています。このページを初めて作る時、もともと天守北面は鉄板張りでこれは再現されてないことを知りましたが、もう少しあるようなので改めて少し詳しく。
- 黒塗りの窓枠がなくなっている。
- 本来はあった望楼部の突上戸が排除されている。
- 上述のようにもともとは天守北面は鉄板張りでしたがこれが再現されてない。
- 最上階には無かったはずの赤い高欄が設けられている。
- 月見櫓は1966( 昭和41)年の復元ですが細部は少しあやしいとのこと。少しわかりにくいのですが古写真と比べると天守と同じように高欄はなさそうです。まだ他にもあるかもしれませんが・・・。
上述のように 伏見町歴史浪漫~福山城関係資料~ で戦災前の明治・大正、昭和の福山城の古写真を観ることができます。
[ 2012/05/18 ]
福山城で出会った説明書
福山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 福山城
- ♦ 史跡 福山城跡
- ♦ 福山城伏見櫓・筋鉄御門
- ♦ 福山城鐘櫓
- ♦ 湯殿
- ♦ 福山城伏見三層櫓及び筋鉄御門修理銘
- ♦ 絵が中心の案内・説明書
福山城
福山城
福山城は、西国鎮護の重責を担って入方封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和六年(1620)より三ヶ年の歳月を費やし、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である。
総面積約八万坪(26.5ha) 内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。
その後、水野五代、松平一代、阿部十代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣・湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。
幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓・筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。
なお、現在の天守閣等は、昭和41年市制五十周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は国の史跡となっている。
城名
鉄覆山朱雀院久松城
別名 葦陽城
史跡 福山城跡
史跡 福山城跡
昭和三十九年(一九六四) 二月七日指定
この城は、元和五年(一六一九) 福島正則の改易により備後十万石の領主として入封した水野勝成が、三年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。
低い丘陵を利用した平山城で、東・南・西に二重の堀をめぐらし、北には吉津川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。
現在内外の堀は埋められ、三之丸と共に市街地化しているが、二之丸・本丸は築城当時の姿をよく伝えている。
城地には、そそりたつ石垣をはじめ重要文化財の伏見櫓・筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。
なお、天守閣・月見櫓・湯殿は昭和四十一年(一九六六) に、鏡櫓は昭和四十九年(一九七四) にそれぞれ外観復原したものである。
城号 敵追山(鉄覆山) 朱雀院久松城(葦陽城)
城主 水野氏五代・松平氏一代・阿部氏十代
福山城伏見櫓・筋鉄御門
福山城伏見櫓・筋鉄御門
伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。
筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付櫓門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。
福山城鐘櫓
福山市重要文化財 福山城鐘櫓
昭和54年10月26日指定
築城当時より城下や近隣諸村に”時の鐘”をつげた遺構で江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。
当初は柿ぶきか桧皮ぶきであったが明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原形をとどめない状況であった。昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。
城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく貴重な文化財である。
福山市教育委員会
湯殿
福山城伏見三層櫓及び筋鉄御門修理銘
福山城伏見三層櫓及び筋鉄御門修理銘
福山城は水野勝成が江戸幕府に請ひ、元和六年備後の國深湯野上村に築城し新に福山と構え、神辺城から移ったのに始まる。その後領主は松平、阿部と替わり明治維新に至り國有となった。
福山城の天守は昭和六年一月十九日、御湯殿、筋鉄御門、伏見三層櫓は昭和八年一月二十三日それぞれ國宝保存法によって國宝に指定された。昭和二十年八月八日の空襲に際し、天守及び御湯殿は焼夷弾によって焼失したが、伏見三層櫓、御鉄御門は共に災を免れ、昭和二十五年八月二十五日文化財保護法の制定で重要文化財となった。
近年に至り破損が甚しくなったので、本委員会の直営工事として、昭和二十六年度から保存修理に着工し、昭和二十八年度で完成した。
伏見三層櫓は豊臣秀吉の築城した伏見城から移したものと傳えられ、今回の修理でも、二階南入側中央の繁梁東面に「松の丸やくら」の刻銘が発見された。
工事概要
筋鉄御門は全部解体の上修理を施し、門の北側石垣の東面隅を積直しを行った。
伏見三層櫓は一・二階の軸組をのこして解体の上修理し、北側土台下石垣の一部及び内部東石の据え直しを行った。
伏見三層櫓の二階内部の間仕切壁及び一階出入口外側両脇の羽目板は、近年設けられたことが明らかになったので、昭和二十八年十一月専門審議会に諮って、取除くことに現状変更した。
着工 昭和二十六年十二月一日
竣工 昭和二十九年三月三十一日
工事費 九百六十万貳千園 也
昭和二十九年三月三十一日
文化財保護委員会
重要文化財
福山伏見櫓保存修理工事(災害復旧)
平成十六年度屋根(部分)。壁(部分) 修理
絵が中心の案内・説明書
福山城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
福山城 重要文化財
福山城では伏見櫓、筋鉄御門が重要文化財に指定されています
福山城は空襲で焼失を免れた 旧国宝 の伏見城より移築されたといわれる「伏見櫓」、「筋鉄御門」の2棟が 重要文化財 に指定されています。また、城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 福山城
-
-
- 伏見櫓
- 三重三階櫓、本瓦葺
-
- 筋鉄御門
- 脇戸附櫓門、入母屋造、本瓦葺
福山城は旧国宝
福山城は天守、伏見櫓をはじめとして多数の櫓などが有りましたが、明治6( 1873 )年の廃城令によって民間に払い下げられました。明治7( 1874 )年に取り壊しを惜しむ請願により下賜され天守、伏見櫓、御湯殿、筋鉄御門、鐘櫓などが残りました。天守は昭和6( 1931 )年に、伏見櫓、御湯殿、筋鉄御門は昭和8( 1933 )年に 旧国宝 に指定されました。
昭和20( 1945 )年の空襲で天守、御湯殿を焼失、国宝の指定が解除されました。残った伏見櫓、筋鉄御門は上述のように現在重要文化財 に指定されています。天守は昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に旧国宝の内容をまとめました。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 福山城天守
-
- 六層天守、 前面附庇二層、前面左方附櫓三層、屋根総本瓦葺
- 福山城 伏見三層櫓
-
- 三層隅櫓、屋根本瓦葺
- 福山城 御湯殿
-
- 御物見之間 桁行四間半、梁間三間半、単層、屋根入母屋造、本瓦葺
御風呂之間 桁行三間半、梁間二間半、単層、屋根一端御物見之間ニ接シ、他端入母屋造、本瓦葺
- 福山城 筋鉄御門
-
- 脇戸付櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺
上述のように 伏見町歴史浪漫~福山城関係資料~ で戦災前の明治・大正、昭和の福山城の古写真を観ることができます。
福山城 面白文書、拾い上げ
書籍など、福山城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
福山城は徳川の城として、岡山、広島、萩、岩国、三原の各城より勝っていなければならなかったのである。(途中略)豊臣政権のシンボルであった伏見城からも伏見櫓や御湯殿、本丸御殿を移築して、五層天守の周りに並べた。これは、新しい徳川政権の世の到来と旧勢力を排除した徳川の実力のほどを、備後国に周知させるデモンストレーションであった。
名城の日本地図 より
JR山陽本線福山駅は、福山城の二の丸に位置する。新幹線ホームは高架であるから、本丸と天守曲輪が一望できる。(途中略) 新幹線ホームから福山城を見ると( この景観は、築城時には意識されていなかった角度である )、福山城が二重の高石垣に櫓群と天守曲輪をじつにみごとにバランスを考えて配置したかがうかがえる。
登城の道のり
最新の登城日:平成23年8月11日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
福山城まで 簡単に説明
- 福山駅北口を出ると目の前に石垣があり、月見櫓・鏡櫓・天守見えます。
- 道を横断し石垣の元へ。
- 石垣に沿いながら西へ(線路に沿う方向)向かうと『福山城』の石碑がすぐあります。
- 登り坂(石段)があり登って行くと伏見櫓が目に入ってきます。
- そのまま進むと筋鉄御門が間近、本丸もすぐ。まずは伏見櫓をみましょう。急ぐとつい素通りしてしまいます。
- 私は伏見櫓の写真がないのに気づき3度目の登城。夕方ちょっと立ち寄りました。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
[ 前回の登城:平成20年8月7日 ]
- 九州へ行く時の途中下車。夕方で少しあせって急ぎ本丸へ。伏見櫓の写真を撮り忘れていました。
- 上述のように後日また登城しました。
ストリートビュー:福山城 月見櫓,鏡櫓
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス