先頭

 

月見櫓 西丸西手櫓重要文化財

岡山城

**城のご案内

岡山城 ひとくちメモ

所在地
岡山県 岡山市
別名
烏城、金鳥城
築城者
上神高直、宇喜田秀家
別名の由来
烏城:天守の黒い板張から 金鳥城:創建時には金の鯱、金箔瓦が使われ金の鳥のようだったため
天守概要
複合式望楼型( 塩櫓付 ) 現在は鉄筋コンクリート三層六階 地下一階
城郭構造
梯郭式平山城
遺 構
月見櫓 []、 西の丸西手櫓 []、 石垣 []、堀 など
再建造物
復元天守 []、 不明門 []、 廊下門 []、 六十一雁木上門 []、塀 など
高 さ
33.45m( 石垣平均約13m、天守20.45m )

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

岡山城 簡易年表

図解 日本の城 より

1570年
宇喜多直家、金光氏を謀殺して岡山城を奪い、修築。
1590年
宇喜多秀家、大改修を開始。
1597年
天守完成。
1600年
小早川秀秋入城し、改築を行う。
1603年
池田氏が入封。
1873年
廃城令により、天守など一部を残して、ほとんどの建築物を破却。
1945年
空襲により天守焼失。
1964年
天守再建。

参考になるサイト:

岡山城 写真の間

押さえたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 廊下門 ⇒ 表向 ⇒ 本段

☒ 下の段

☒ 少し離れて 後楽園、ホテルから

廊下門 ⇒ 表向 ⇒ 本段

岡山城:旭川から天守と月見櫓

(1)
旭川から天守と月見櫓

1976年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

岡山城:天守がまぢか、右へ行けば廊下門

(2)
天守まぢか、右へ行けば廊下門

岡山城:於・廊下門

(3)
廊下門

岡山城:於・表向 廊下門を抜け見る天守

(4)
於・表向 廊下門を抜け天守

岡山城:於・表向 月見櫓

(5)
於・表向 月見櫓

岡山城:月見櫓の内部

(6)
月見櫓の内部

岡山城:於・本段 天守と塩蔵

(7)
於・本段 天守と塩蔵

1976年頃のほぼ同じアングル

岡山城:於・本段 天守を見上げる、横には塩蔵

(8)
於・本段
天守を見上げる、横には塩蔵

下の段

岡山城:左隅には割石積みの石垣

(9)
左隅には割石積みの石垣

岡山城:大手門跡

(10)
大手門跡

岡山城:不明門

(11)
不明門

岡山城:於・下の段 天守を望む

(12)
天守を望む

岡山城:六十一雁木上門

(13)
六十一雁木上門

岡山城:天守真下から

(14)
天守真下から

少し離れて 後楽園、ホテルから

岡山城:於・後楽園 沢の池より天守、遠景に天守

(15)
於・後楽園 沢の池より天守

1976年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

岡山城:於・下の段 天守真下へ

(16)
天守
少し離れたホテル食堂より

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の**城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

岡山城:月見櫓の公開に合わせて登城、2017年5月2日 撮影

月見櫓の公開に合わせて登城
2017年5月2日 撮影

岡山城:暑さ厳しい夏の岡山城、2016年11月7日 撮影

暑さ厳しい夏の岡山城
2007年8月8日日 撮影

岡山城:1976年頃 撮影

1976年頃 撮影

岡山城 よろず間

岡山城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった岡山城案内図 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

岡山城案内地図

本段

下の段

表向

月見橋

廊下門

不明門

六十一雁木上門

大手門跡

月見櫓

天守

旭川

後楽園

方向指示

岡山城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた岡山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 戦前には天守や櫓、門4棟が現存していましたが、戦災で天守、石山門(渋蔵門)を焼失。月見櫓、西丸西手櫓は焼失を免れ現在は重要文化財 に指定されています。また、国の史跡に指定されています。
  • 現在の天守は昭和39~ 昭和41(1964~1966)年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。不明門、廊下門、六十一雁木上門なども再建されています。
  • 桃山期に基礎が造られ、その後に増改修された城でよくみられることですがいろいろな時代の石垣をみることができます。岡山城も本段の大部分は宇喜多時代の「野面積み」、本段の一部と、表向の南半分の改修などは小早川時代、池田時代には表向北半分の拡張や下の段の改修などで「打込接」や「切込接」、これら三家の石垣をみることができます。

    参考: 三家による築城の生き証人ー石垣

    参考: 岡山城本丸探訪 目次

    写真では少し解りづらいのですが示しておきます。

    本段の石垣は「野面積み」

    月見櫓の下は「打込接」

    [ 2012/09/28 ]

  • 月見櫓の周辺に見られる 石狭間 は徳川大坂城、江戸城平川門の3か所しかないものです。矢印の近所に一列に並んでいます。表からは単なる穴にしか見えませんが裏から見ると狭間の感じがよくわかります。

    ビジュアル日本史1000城 を参考にしました。

    [ 2013/1/22 ]

    一列に並ぶ石狭間(外から)

    石狭間(内側から)

岡山城 ここが際立つ

岡山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 塩櫓」の傍にはこんなものも。

     

     

    [ 2019/9/19 ]

  • 本丸はどこ??

    岡山城本丸3段構造の説明]

    本丸

    本段

    表向

    下の段

    • 上のカメラアングルの図を見ると、本丸、二の丸、三の丸が表現されている感じがしますがほとんどが本丸に当たります。
    • 岡山城の本丸は、三段に分かれおり天守や御殿のあった一番高い「本段」、少し低い藩庁などがあった「表向」(中の段とも呼ばれる)、これらを囲む「下の段」の構造になっています。
    • 北、東側は旭川に守られ、南、西側にはこの本丸を囲むように二の丸、西の丸、三之曲輪などを配置した大きな城郭構造をしていました。
    • 全体の縄張りは上記「岡山城 ひとくちメモ」で紹介した⟨ 川面に映える金烏城 ― 岡山城 ⟩ からも辿れますが、直接のリンク⟨ 城と城下町 ⟩ も示しておきます。
  • 後楽園は明治になってから

    • 「日本三名園の一つ後楽園は明治になってから!!」と言っても名前の話。江戸時代には御三家の一つ・水戸家の江戸屋敷の庭園が後楽園と呼ばれており、ここを後楽園とは呼ぶことができなかったとのこと。徳川幕府が滅んだ明治になってやっと後楽園と呼ぶことができたそうです。
    • 江戸時代には「御後園(ごこうえん)」とか「菜園場」とか呼ばれていました。
    • ちなみに、東京ドーム以前には後楽園球場がありましたが、これは隣接する庭園(水戸家の江戸屋敷の庭園 後楽園)の名に因んだものです。また、日本三名園の他の二つ、金沢の「兼六園」、水戸の「偕楽園」は当時からそのように呼ばれていました。

    [ 2012/11/8 ]

岡山城 ここにはご注意を!!

別冊太陽 今むかし日本の名城 88(西日本編) を読んでいたら焼失前と復元天守との相違を書いていたので紹介します

  • 岡山城は昭和20( 1945 )年の空襲で天守などを焼失しましたが、天守は昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。焼失前と復元天守は写真を見比べなくては判らないほどですが以下のような違いがあります。
    1. 復元天守のほうが1階と最上階の白壁が狭い
    2. 復元天守のほうが破風の反りが弱い
    3. 焼失前天守のほうが破風の懸魚が大きく、気品が高い
    4. 窓の位置や大きさが異なる

[ 参考 ]

[ 2012/11/8 ]

城内で出会った説明板

岡山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので全文を文字におとしました。写真は少し画像処理しています。

岡山城について
月見櫓
中の段に於いて
建造物や遺構など
石垣関連
岡山大空襲による被災建築物説明板
絵が中心の案内・説明書
岡山城について

岡山城の歴史や二の丸(西の丸)跡についての説明。

岡山城(烏城)の歴史

岡山城(烏城)の歴史

岡山城(烏城)の歴史

《暗闇のなかの黒い天守》

備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。

その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。

秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の、市街地空襲により焼失した。

現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。

岡山城の特徴

1.不当辺五角形の天守台

この城の天守台は、北に大きく突き出た不当辺五角形で、全国に例のない珍しい形をしている。

2.野面積(のづらづみ)の石垣

これは、日本全国に近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)のもので、天守閣を中心として、丸い形の自然石をそのまま用いて積み上げた石垣がこれである。

3.天守閣内の「城主の間」

天守閣内に、かって城主が生活していた名残を残す書院造りの「城主の間」と呼ばれる遺構を再現している。

※1・2の特徴については、この場所より見るのが一番よくご覧になれます。3の特徴については、ご入館のうえご覧ください。

≪説明に添えられている図≫

岡山城案内図

岡山城の歴史を今に

岡山城の歴史を今に

岡山城の歴史を今に

《月見櫓》

岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となりました。城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年の岡山空襲で天守と石山門を焼失し、月見櫓と西手櫓が現存するだけとなりました。

この本丸跡は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。

さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備が求められるようになりました。岡山市は平成4年度から本丸跡中の段で、発掘調査、コンクリート建物の除去、石垣の解体復元修理、江戸時代末期の建物の展示、築城期の建物の展示、築城期の石垣の露出展示などを行っています。

こうした事業は、中の段の次は天守のある本段、その後は下の段と進めて行く計画です。

岡山市の歴史的シンボルであって市民共有の文化遺産である岡山城跡を、より良い姿で後世に伝えていくため、事業への理解をお願い申しあげます。

なお、事業に関するお問い合わせは、岡山市教育委員会文化財課(電話803-****)にご連絡下さい。

 平成17年1月15日

岡山市・岡山市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

御城内御絵図(岡山大学)に示された

江戸時代の本丸

   青色は瓦葺きの建物

   黄土色はこけら葺きなどの建物

岡山城二の丸(西の丸)跡

岡山城二の丸(西の丸)跡

岡山城二の丸(西の丸)跡

丸の内地区に見られる古い石垣は、一五九〇(天正一八)年の宇喜多秀家の築城に始まり、寛永年間前半(一六三〇年頃)の池田忠雄(ただかつ)の城普請まで、四代の城主によって完成をみた岡山城の城郭の跡です。

この地は武家の郭から町人の城下町の三の曲輪へ、内堀を渡って通じる要衝をなしていました。

この説明版の後の石垣は二の丸の北西部を固めた西の丸の北側にあたります。

石垣の西側に重層の北西隅櫓を構え、東側に渡櫓門造りの北門を備えていました。

岡山市

≪説明に添えられている図≫

岡山城城郭配置図

月見櫓

月見櫓の説明と伴に月見櫓の内部公開時に展示されていた説明板。

岡山城月見櫓

岡山城月見櫓

岡山城月見櫓

《月見櫓》

岡山城本丸表書院の西北に建てられた隅櫓で、元和(一六一五)から寛永年間(一六四三)に建造されたものといわれる。

櫓の下層は、南北九.一メートル東西七.三メートルで、上層は五.五メートル四方の規模で、一部に地階を設けた重層、土蔵造りである。

屋根は入母屋造りの本瓦葺で、下層の南、西両面には唐破風を上層の西面には千鳥破風を配し北面には唐破風を飾るなど外観の装飾に変化をもたせている。

この櫓は、天守閣と同じく望楼として使われるほか、武器や食料の貯蔵所にも当てられた。

昭和五十年三月

岡山市教育委員会

国指定重要文化財 岡山城月見櫓

国指定重要文化財 岡山城月見櫓

国指定重要文化財 岡山城月見櫓

《ライトアップされた月見櫓》

月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三(ひふみ)の段の二段目に当たる、中の段の北西角を固める隅櫓です。池田忠雄が城主であった時の城郭整備に伴って、元和年間から寛永年間前半の時期(一六二〇年代)に建てられました。

構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外【北西】側から眺めると二層の望楼型、城外【南東】側から眺めると三層の層塔型を呈しています。規模は、地階と一階が桁行【東西】三二尺三寸(九・七九メートル)、梁間【南北】二六尺二寸(七・九四メートル)、二階が方形で桁行・梁間とも一六尺五寸九分(五・〇三メートル)、棟高四五尺四寸(一三・七六メートル)です。

地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床張りが引上げ式の戸板となっていて、有事の際にはそれを開いて一階に通じる仕組みです。一階は、西面が唐破風造りの出格子窓、北面が片流式屋根を持つ出格子窓を設け、共に石落とし(俯射装置)を組み込んで、城外側への臨戦の備えをなしています。入口は南面西寄りにあります。二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に唐破風造りの武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。

その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を持った手摺付きの縁側が廻り、内側に明り障子を立てるなど、日常生活向けの御殿仕様となっていて、月見をはじめとした四季の眺望を楽しんだり、小宴を催すのに格好の構造となっています。

岡山市教育委員会         

岡山市さくらライオンズクラブ教育委員会

≪説明に添えられている図≫

 

 

岡山城月見櫓 復元工事

岡山城月見櫓 復元工事

岡山城月見櫓 復元工事

《月見櫓 廻縁》

元和・寛永年間(1615~1644)に建てられた岡山城隅櫓。

昭和8年に国指定の重要文化財となったが、老朽化が目立ってきたことから1955(昭和30)円4月建物を解体して修復・・・翌年6月に工事を終えた。

(平成14年6月6日 山陽新聞記事より)

※ 平成29年5月の月見櫓の内部公開で展示されていた説明板

≪説明に添えられている図≫

重要文化財岡山城月見櫓修理工事報告書

(岡山市教育委員会)

月見櫓の内部

岡山城月見櫓 復元工事

岡山城月見櫓 復元工事

岡山城月見櫓 復元工事

《月見櫓の内部の様子》

元和~寛永年間(1615~1644)に建てられた岡山城隅櫓。昭和8年に国指定の重要文化財となったが老朽化が目立ってきたことから、1955(昭和30)円4月、建物を解体して修復・・・翌年6月に工事を終えた。

(平成14年6月6日 山陽新聞記事より)(カメラの記憶)

※ 平成29年5月の月見櫓の内部公開で展示されていた説明板

≪説明に添えられている図≫

 

中の段に於いて

中の段にはかって表書院が建てられており、発掘調査で石垣も見つかり展示されています。

表書院

表書院

表書院

《表書院跡》

岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋がありました。登城してきた家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、それぞれ所定の部屋に詰めていました。廊下に面した徒番所(かちばんしょ)は城内の警備や雑用にあたる家臣の詰所でした。

藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を通って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を執っていました。泉水を備えた中庭には、数寄屋(茶室)が建っていました。北東部には台所があり、藩主の食事や儀式用の料理を作っていました。

発掘調査で出土した建物の礎石や雨落ち溝などの遺構は地下に保存し、地表には建物の位置や間取り、泉水などを表示しています。

≪説明に添えられている図≫

岡山城本丸模型

(岡山市デジタルミュージアム所蔵)

中の段間取り図

岡山市教育委員会

岡山城本丸模型

(岡山市デジタルミュージアム所蔵)

別の場所に添付図が異なる説明板がありました

岡山城の歴史を体感し、先人に思いを

岡山城の歴史を体感し、

先人に思いを

発掘調査で発見された

石垣の実物を展示しています。

岡山城の歴史を体感し、先人に思いを

《築城時の石垣展示》

岡山城は、岡山のまちの発展の直接の礎となった城です。豊臣秀吉のもとで大大名となった宇喜多秀家が、天正19年(1591)から慶長2年(1597)まで7年もの歳月をかけて築城しました。

その姿は中国地方の従来の城には見られなかった高石垣で囲まれ、金箔おしの瓦を掲げた高層の天守が聳えたものでした。これは空前の大建造物の出現であり、天下の名城でした。

やがて、江戸時代になると、城主達が進歩した城普請の技法で増改築を行い、城構えが大幅に変貌しました。石垣は、そうした時代の変化の中で役割を終え、城の改造工事によって埋め込まれたものです。

この施設は、石垣をまぢかに見据え、そうした城普請の時代的な発展の実態を体感していただくために、立入ができるようにしています。

石垣に触れると、先人の偉大な知恵と技が伝わってきます。この場で語り合い、国民共有の文化遺産であるこの城跡への理解を深め、岡山のまちと人の成り立ちに思いをはせてみてください。

≪説明に添えられている図≫

宇喜多秀家が築いた天守

牙城郭櫓実測図

(岡山大学池田家文庫蔵)

岡山城本丸中の段の史跡整備

地中に埋もれていた石垣

地中に埋もれていた石垣

地中に埋もれていた石垣

《展示されている石垣》

【なぜ、ここに石垣が】

江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げたからです。平成5年度の発掘調査で見つかりました。石垣は展示施設の壁を越えて続き、本来の裾は床下に埋もれています。拡張後の中の段には「表書院」の御殿が建てられ、この場所の真上は台所になりました。

【いつ築かれたか】

今から400年あまり前、宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴で、30年ほど後に積まれた中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。

【角が尖った珍しい石垣】

石垣の辺と辺がなす角度は70度です。これほど角が尖った石垣は全国的にみて非常に珍しいものです。石垣の東は当時の「下の段」から「中の段」に上がる道筋となり、廊下門の前身となる城門がありました。南西からの石垣は裏に埋め込まれている自然の丘の形に沿って延びているのに対し、門前をきっちり南北方向に切り通したため、特異な石垣の隅が生じたのでしょう。

≪説明に添えられている図≫

発掘調査した時の様子(赤枠が展示部分)

埋もれていた石垣の平面図

建造物や遺構など

⚫ 岡山城には、復原された廊下門、六十一雁木上門などたくさんの魅所があります。

岡山城本丸探訪 建築・施設の目次 にも同じようなものが閲覧できます。場所も分かるので登城前の閲覧をお勧め。

廊下門

廊下門

廊下門

《廊下門》

上屋は本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ城主の通路として、使われたためこう呼ばれた。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。

廊下門

廊下門

廊下門

《廊下門、裏から》

本丸の搦め手にある城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていました。部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていました。現在の門は1966年に再建されたものです。

六十一雁木上門

六十一雁木上門

六十一雁木上門(ろくじゅういちがんきうえもん)

《六十一雁木上門》

本段から川手に通じる門で、前方の石段がもとは61段あったことからこう呼ばれたらしい。

天守閣の礎石

天守閣の礎石

天守閣の礎石

《天守の礎石》

天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため礎石のみをここに移し、元の通りに配置している。

大石の使用

大石の使用

大石の使用

《石垣に組み込まれた大石》

岡山城の建設当時には、大名が勢威を誇る目的で石垣に巨石を集めて、築くことが流行していた。岡山城の大石はこのりに多く使われている。また、石垣の石は瀬戸内海に浮かぶ大島などから運び込まれた。

穴倉

穴倉

穴倉

《穴倉》

香川県豊島産の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており、幅3.8m、奥行2.9m、深さ2.3mあります。もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられています。

泉水

泉水

泉水

《泉水》

表書院の中庭にあった泉水を復元しています。発掘調査で出土した遺構は地下に保存されています。水が漏らないように底に漆喰を貼り、北東の井戸から備前焼の土管で給水する仕組みで、中の島に湧水口を設けていました。

石垣関連

⚫ 岡山城は、桃山期に基礎が造られ、その後に増改修された城でいろいろな時代の石垣をみることができま魅所がたくさん。

岡山城本丸探訪 石垣の目次 にも同じものが閲覧できます。場所も分かるので登城前の閲覧をお勧め。

天守台の石垣

天守台の石垣

天守台の石垣

《天守台の石垣》

宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用い、高さは14.9メートルある。この位置は、岡山の丘のもと崖面に当たり、石垣の背後はその堅い地山に持たせている。

岡山市教育委員会

小納戸櫓下の石垣

小納戸櫓下の石垣

小納戸櫓下の石垣

《小納戸櫓下の石垣》

池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。一部の石垣の石材は、犬島(岡山市犬島)から運ばれたとみられる割石で、「㊉」や「L」形などの刻印を持つものがある。

岡山市教育委員会

月見櫓下の石垣

月見櫓下の石垣

月見櫓下の石垣

《月見櫓下の石垣》

池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、上には月見櫓が建っている。隅部は表面を特に平らに整えた方形の割石を配し、その長辺を交互に振り分けた算木積みとなっている。石材は白色度の強い花崗岩で、瀬戸内海に浮かぶ犬島(岡山市犬島)で切り出されたものとみられる。

岡山市教育委員会

中の段南西の石垣

中の段南西の石垣

中の段南西の石垣

《中の段南西の石垣》

関ケ原合戦後に小早川秀秋が築き、続く池田忠継の時に改修された石垣で、左隅は1620年代に池田忠雄が築いた割石積みの石垣が被さっている。あまり加工を施さない石材を緩い角度に積むのが特徴で、高さは11mある。長年の変化で石材がせり出していたため、平成11年から13年にかけて解体修理を行った。石垣の裏12mの位置に宇喜多秀家が築いた石垣が埋め込まれている。

岡山市教育委員会

※表題がよめませんが岡山城本丸探訪 石垣 11. 中の段南西の石垣に同じ文書があり、それを使いました。

大納戸櫓台の石垣

大納戸櫓台の石垣

大納戸櫓台の石垣

《大納戸櫓台の石垣》

関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとみられる石垣である。加工をあまり施さない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。上には建っていた大納戸櫓は、南北長20メートル、三階建ての雄大な建築であった。

岡山市教育委員会

※表題がよめませんが岡山城本丸探訪 石垣 8. 大納戸櫓台の石垣に同じ文書があり、それを使いました。

内下馬門跡の石垣

内下馬門跡の石垣

内下馬門跡の石垣

《下馬門跡の石垣》

付近は本丸の正門があったところで、城の威厳や大名の権力を誇示するために、巨石が組み込まれている。最大の石は、高さ4.1メートル、幅3.4メートルであるが、厚みはなく、板石を立てたものである。発掘調査によって、関ヶ原合戦直後に池田氏が築いたものである可能性が強まった。

岡山市教育委員会

本壇南東の高石垣

本壇南東の高石垣

本壇南東の高石垣

《本壇南東の高石垣》

宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用いている。隅角は岩盤の高まりに載っているが、西寄りでは石垣の基底が3メートル近くも埋まっていて、本来の高さは15.6メートルもある。関ヶ原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さである。

岡山市教育委員会

本壇東側の高石垣

本壇東側の高石垣

本壇東側の高石垣

《本壇東側の高石垣》

宇喜多秀家が築いた石垣の隅角を、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線部に改修した跡が観察できる。秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる(左手)のに対し、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる。

岡山市教育委員会

六十一雁木門横の石塁

六十一雁木門横の石塁

六十一雁木門横の石塁

《六十一雁木門横の石塁》

関ヶ原合戦後の池田氏が下の段を大がかりに整備した時に築かれた石塁である。板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的である。石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていた。

岡山市教育委員会

岡山大空襲による被災建築物説明板

岡山大空襲による被災の説明板がありました。

岡山城天守台

岡山城天守台

岡山大空襲による被災建築物説明板

岡山城天守台

《天守台の石垣》

岡山城の天守閣は慶長2年(1597年)に竣工、その外観から烏城(うじょう)または金烏城(きんうじょう)とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。

昭和20年(1945)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。

その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、空襲の激しさを伝えています。

平成9年3月 岡山市

≪説明に添えられている図≫

 

岡山城石山門跡

岡山城石山門跡

岡山大空襲による被災建築物説明板

岡山城石山門跡

《石山門跡》

石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を備えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。

岡山城廃城の後も残り、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。石垣に残る赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。

平成8年3月 岡山市

≪説明に添えられている図≫

戦災前の石山門

絵が中心の案内・説明書

岡山城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。

月見櫓公開時に内部に展示されていたもの

岡山城絵図

江戸時代前期の城下町
と現市街地

岡山城歴代城主

岡山城の重要文化財

岡山城の月見櫓、西丸西手櫓は重要文化財に指定されています

岡山城は昭和20( 1945 )年の空襲で旧国宝 の「天守」、「石山門」を焼失しました。幸いにも残った「月見櫓」、「西丸西手櫓」の2棟は重要文化財 に指定されています。城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
岡山城 月見櫓
二重二階隅櫓、一部地階、本瓦葺
岡山城 西丸西手櫓
二重二階隅櫓、本瓦葺

重要文化財の画像 を

岡山城は旧国宝

 岡山城には明治の初めには天守、櫓が30棟余りが残っていましたが、明治6( 1873 )年の廃城令によって徐々に取り壊され明治15( 1882 )年ごろには天守、月見櫓、西の丸西手櫓、石山門を残すだけになりました。天守は昭和6( 1931 )年に、月見櫓、西の丸西手櫓、石山門は昭和8( 1933 )年に国宝( 旧国宝 ) に指定されました。

 昭和20( 1945 )年の空襲で天守、石山門を焼失、国宝 の指定が解除されました。現在、残った月見櫓、西丸西手櫓は上述のように重要文化財 に指定されています。天守は昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に旧国宝 の内容をまとめました。

名称
棟名
構造及び形式等
岡山城 天守
六層天守、 右方付属 塩蔵重層、屋根総本瓦葺
岡山城 月見櫓
二層隅櫓、一部地階ヲ有ス、屋根本瓦葺
岡山城 石山門(渋蔵門)
 
矩折櫓門、屋根両端入母屋造、本瓦葺
岡山城 西丸西手櫓
 
二層櫓、屋根本瓦葺

岡山城 面白文書、拾い上げ

書籍など、岡山城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

岡山城:天守

この黒い城をこれまで壮麗な構えに産み出すには、かなり熱達した意匠感覚と建築造営に長ける専門職人の存在がなければならない。まして天守が築かれた時代には、高石垣や直角に平面を仕上げる角石積みの技術が生まれていなかった。だから慶長二年(1592)完成した天守は石垣天端が五角形を呈し、歪んだ平面である ( [注]強調は管理人による )。この歪みを三重平面で消して本来の平面に修正、多くの飾破風で偉容を作り出す技法は当時超一級の技術者だったに違いない。

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

(天守の下の方で出っぱているのが見て取れると思います。)

登城の道のり

登城日:昭和51年頃

登城日:平成19年8月8日

登城日:平成29年5月2日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

岡山城まで 簡単に説明

  • 岡山駅(東口)を出て大きな道をどんどん東へ進むと旭川にあたります。
  • 川沿いにそのまま進むと天守が見えてきます。駅からは約1.5Km。歩15~20分程度。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:後楽園より天守を望む

(城内も仮想散歩ができます)

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞