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天守は重要文化財

 

丸岡城

丸岡城のご案内

丸岡城 ひとくちメモ

所在地
福井県 坂井市
別 名
霞ヶ城
築城者
柴田勝豊
別名の由来
「一揆の攻撃のたびに、井戸の中より大蛇があらわれ、城に”かすみ”をかけて城のを救った。」という伝説による。
天守概要
独立式望楼型 二重三階
城郭構造
連郭式平山城
遺 構
現存天守 []、 石垣 []、移築門 など
高 さ
約20m(石垣6m、天守12.6m、鯱1.66m)

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

丸岡城 簡易年表

城内にあった石碑 を参考にまとめました

1575年
織田信長が一向一揆の平定のため豊原寺を攻略し柴田勝家が甥の勝豊に城を築かせる。
1576年
柴田勝豊が豊原を丸岡に移す。
1582年~
勝豊の後、安井家清、青山宗勝、今村盛次等が支配。
1613年
本多成重が入城、以下4代の居城となる。
1695年
有馬清純が5万石で入封し、幕末に至る。
1934年
国宝(旧国宝)に指定される。
1948年
福井地震のために倒壊。
1950年
国の重要文化財に指定される。
1951年
復元に着手。
1955年
倒壊した古い材料を使い元の通りに修復。

参考になるサイト:

丸岡城 写真の間

抑えたい処、美しい処

丸岡城:於・本丸 天守(東北面)を望む

(1)
天守(東北面)を望む
於・本丸

丸岡城:天守 一階の内部

(2)
天守 一階の内部
天守内の展示

丸岡城:屋根の石瓦

(3)
屋根の石瓦

丸岡城:天守最上階の廻縁

(4)
天守最上階の廻縁

丸岡城:於・本丸 天守(南面)を望む

(5)
天守(南面)を望む
於・本丸

丸岡城:於・本丸 天守台石垣 隅石

(6)
天守台石垣 隅石
於・本丸

丸岡城:於・本丸 天守(東南面)を望む

(7)
天守(東南面)を望む
於・本丸

丸岡城:於・本丸 天守(東面)を望む

(8)
天守(東面)を望む
於・本丸

丸岡城:於・本丸 天守(東北面)を望む

(9)
於・本丸 天守(東北面)を望む
於・本丸

丸岡城:丸岡体育館横の広場から天守(望遠)

(10)
丸岡体育館横の広場から
天守(望遠)

丸岡城:西三の丸 バス停・丸岡城 付近より天守(望遠)

(11)
西三の丸 バス停・丸岡城
付近より天守(望遠)

丸岡城:西三の丸 バス停・丸岡城 付近より天守(望遠)

(12)
西三の丸 バス停・丸岡城
付近より天守(望遠)

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の丸岡城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

丸岡城:2012年8月22日 撮影

2012年8月22日 撮影

丸岡城 よろず間

丸岡城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた丸岡城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 天守は 現存する12天守の一つです。ただし、昭和23(1948)年の福井地震のために天守台・天守が倒壊、やっと昭和30(1955)年に倒壊した古い材料を使い元通りに修復できました。ボランティア説明員さんの話では80%がたが使えたそうです。
  • 丸岡城天守として 重要文化財 に指定されています。いろいろ異説もありますが、犬山城と同じように『現存する日本最古の天守』とよく言われます。確かに形状的には古さを感じさせます。

[2012/10/7]

丸岡城 ここが際立つ

丸岡城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」このフレーズは耳にしたことがあり知っていました。また、これに関連して『日本一短い手紙』というブームがあったことも記憶しています。丸岡城に登城してここが発祥の地と知りました。が、後で少しびっくりです。この城の侍が書いた手紙とばっかり思い込んでしまいました。しかし、実は、丸岡藩の初代藩主・本多成重( 幼名:仙千代、お仙 )の父・本多重次が徳川家康の家来の時、長篠の戦で留守宅に宛てた手紙とのこと。石碑を見て丸岡城と直接深く関わるものと思い込んでいましたが、初代藩主の父親のエピソードで少し浅い関わりでした。

  • 寒冷地の城郭にはいろいろ苦労があるようです。土瓦では冬季に割れることが多く、寒さの対策としてこの丸岡城には足羽山山麓から産出される笏谷( しゃくだに )石を使った石瓦が約6000枚ほど使われ、総重量は75トンとのこと。

    [ 2012/10/7 ]

  • 天守台は野面積でぎりぎりまで建てられないため板庇を設けて雨水が入りこむのを防いでいます。

    ビジュアル日本史1000城 を参考にしました。

    [ 2012/12/22 ]

丸岡城で出会った説明板

丸岡城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

丸岡城天守閣 重要文化財 別名霞ヶ城

丸岡城天守閣

「重要文化財 別名霞ヶ城」

丸岡城天守閣 「重要文化財 別名 霞ヶ城」

天正三年(1575)、織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在の東方約4Km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。

天正四年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城になる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本田成重以下四代の居城となったが、元禄八年五月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。

平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(五代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。

明治三年三月、版籍奉還後、同四年九月官有となり、さらに民有に移り、明治三十四年八月町有となる。その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。

昭和九年一月三十日、国宝に指定されたが、昭和二十三年六月二十八日、福井大震災により倒壊、昭和二十五年八月二十九日、国の重要文化財に指定され、昭和二十六年十二月復元に着手、用材は八十%近く古材を使用し、昭和三十年三月三十日修理復元され現在に至る。

本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構築法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現在の天守閣の中で、最古の様式のものである。

天守閣の高さ二二m(七二尺六寸)
面積一階一三七㎡(約四一.四四坪)
二階四〇㎡(約一二.一〇坪)
三階四〇㎡(約一二.一〇坪)
石瓦の枚数約六,〇〇〇枚
総重量七五トン

鯱(石製しゃち)

鯱(石製しゃち)

鯱(石製しゃち)

《鯱(石製しゃち)》

この鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、昭和十五年~十七年の修理の際に、石製の鯱に改めたものです。その当時は戦禍中で銅版の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材でつくりかえられたものですが、この石製の鯱も昭和二十三年六月の福井大震災により、棟より落下、現在の形で残っているものです。

現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和二十七年~三十年の修復時に、もとの木彫銅版張りに復元したものです。

伝説「人柱お静」

伝説「人柱お静」

伝説「人柱お静」

《「人柱お静」の慰霊碑》

これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四三年(1576)に丸岡城築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は”お静の涙雨”と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。

「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血と涙」という俗謡が伝えられている。

この井戸の由来

この井戸の由来

この井戸の由来

《井戸》

天正三年(1575)、織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、しばしばであった。

しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に”かすみ”をかけて城の危機を救った。

この伝説が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以である。現在も春先などに、すっぽりと”かすみ”に覆われた「霞ヶ城」をみることが出来る。

絵が中心の案内・説明書

丸岡城内にあった絵が中心の案内板の紹介です。«昔の丸岡城の概要»には堀で囲まれた往時が偲ばれます。

昔の丸岡城の概要

丸岡城 天守内の展示・資料など

丸岡城の天守内にあった古写真、資料(丸岡城略年表)などを紹介

丸岡城 古写真

天守に古写真数枚が展示されていました。少し画像処理をして転載します。

明治45年(1912)

明治34年(1901)

明治19年(1886)

(白っぽい五角形の部分は後ろの案内板が写りこんだものです)

明治8年(1875)

震災により倒壊した丸岡城

上記「震災により倒壊した丸岡城」の説明書き

昭和23年6月28日の福井大震災により、天守閣は西北隅に転落散乱し、その上に三階の屋根の一部がわずかに原形を留めるに過ぎない悲惨な状態に陥った。

天守閣復興事業は、23年暮れより解体作業に入り古材を活用して時代色保持を方針として、30年3月に完成した。

現状変更は、鯱で昭和16年以前の木彫り銅版張りに改め昔の鯱を再現した。

重要文化財指定書

天守に「重要文化財指定書」が展示されていましたので紹介します。

重要文化財指定書

丸岡城略年表

織田信長時代の天正3年、柴田勝家の守護職から昭和30年の復興修理完成までの丸岡城略年表がありました。長かったので2分割で撮影。

丸岡城 重要文化財

丸岡城は重要文化財に指定されています

丸岡城は 旧国宝 「丸岡城天守」が引き続き「丸岡城天守」として 重要文化財 に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」 や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」 を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
丸岡城天守
二重三階天守、石製本瓦葺

丸岡城 旧国宝

丸岡城はが昭和9年国宝に指定されています。歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 の内容

名称
棟名
構造及び形式等
丸岡城天守
三層天守、屋根二重、石製瓦本葺

丸岡城 面白文書、拾い上げ

書籍など、丸岡城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

丸岡城は天正4年(1576)に柴田勝豊が築いた平山城で、天守は築城時の建築と考えられている。櫓の上に望楼をのせた形式で、望楼を住宅風にするなど古式な手法を残すところに特徴がある

国宝・重要文化財(建造物)丸岡城天守 の解説文

登城の道のり

登城日:平成24年8月22日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

丸岡城まで 簡単に説明

  • 若狭湾に出かけ、帰りに車で敦賀に送ってもらう。JR敦賀駅より電車でJR丸岡駅へ
  • JR丸岡駅から駅前を東の方向へ4Kmほどをテクテク1時間ほどをかけて丸岡城へ。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

[ 少し詳しく ]

⚫JR丸岡駅を出て東に進み108線へ、108線の道路標識もあり。ここからは一本道。国道8号線(福井バイパス)へ

⚫地下道を通って国道を横断、さらに真っ直ぐ突き当るまで進む。

⚫突き当りを右(南)へ。小学校があり少し先に信号、ここを左折すると天守が見えてきます。

お城の近辺は城下町の風情があるかと思いましたがほとんどありませんでした。城下町の風情もほとんどなく、暑さもあり帰りはバスにしました。上述の信号の少し先に福井行のバス停がありバスにて福井まで行きました。バス停には縄張りの図( 右図 )がありました。

ストリートビュー:天守

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞