先頭

宇土櫓 不開門 など13棟が

重要文化財

熊本城

熊本城のご案内

熊本城 ひとくちメモ

所在地
熊本県 熊本市
別 名
銀杏城、千葉城
築城者
加藤清正
別名の由来
城内に多く植えられた銀杏の木から。
天守概要
連結式望楼型 三層六階 地下一階( 大天守 )、三層四階 地下一階( 小天守 )
城郭構造
梯郭式平山城
遺 構
宇土櫓 []、 不開門 []、 平櫓 []、 長塀 []、 二様の石垣 []、 備前堀 [] など
再建造物
大小天守 []、 本丸御殿大広間 []、 数奇屋丸二階広間 []、 西大手門 []、 南大手門 []、 飯田丸五階櫓 []、 戌亥櫓 []、未申櫓、元太鼓櫓、馬具櫓、など
高 さ
約30m ( 石垣から大天守)、約19m ( 小天守)

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

遺構は数多くあります。詳細は 熊本城 国宝・重要文化財 を参照ください。

松本城 簡易年表

図解 日本の城 より

15世紀 後半
隈本城、千葉城が築城。
1588年
加藤清正、肥後の北半を領し、隈本城に入る。
1601年
新熊本城築城に着工。
1607年
熊本城完成
1637年
加藤氏にかわって細川氏が城主になる。
1871年
廃藩後、陸軍熊本鎮台となる。
1877年
西南戦争で、大小天守をはじめ主要な建築を焼失。
1960年
大小天守再建
2007年
熊本城築城400年祭

参考になるサイト:

熊本城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 市庁舎展望ロビー(14階) ⇒ 行幸橋

☒ 行幸橋 ⇒ 備前堀 ⇒ 竹の丸 ⇒ 平櫓群 ⇒ 東竹の丸 ⇒ 飯田丸 ⇒ 本丸 ⇒ 平左衛門丸 ⇒ 奉行丸 ⇒の順に

市庁舎展望ロビー(14階)⇒行幸橋

熊本城 市庁舎展望ロビー(14階)より熊本城一帯を見下ろす

(1)
市庁舎展望ロビー(14階)より
熊本城一帯を見下ろす

熊本城 市庁舎展望ロビー(14階)より御殿を見下ろす

(2)
市庁舎展望ロビー(14階)より
御殿を見下ろす

熊本城 坪井川越しに長塀

(3)
坪井川越しに長塀

行幸橋⇒竹の丸⇒東竹の丸⇒飯田丸

熊本城 備前堀に飯田丸五階櫓、後方には天守

(4)
備前堀に飯田丸五階櫓
後方には天守

熊本城 下馬橋跡付近より見る長塀

(5)
下馬橋跡付近より見る長塀

熊本城 櫨方門

(6)
櫨方門

熊本城 竹の丸 高石垣越しに天守を見る

(7)
竹の丸 高石垣、天守

熊本城 竹の丸より天守を望む。石垣と天守が美しく、すばらしいカメラアングル

(8)
竹の丸より天守を望む

1977年頃のほぼ同じアングル

熊本城 平櫓群

(9)
平櫓群

熊本城 不開門(重要文化財)

(10)
不開門(重要文化財)

熊本城 東竹の丸、平櫓群

(11)
東竹の丸、平櫓群

熊本城 二様の石垣 天守も見る

(12)
二様の石垣 天守

熊本城 二様の石垣 天守も見る

(14)
二様の石垣 天守

熊本城 飯田丸五階櫓

(15)
飯田丸五階櫓

熊本城 飯田丸 数奇屋丸二階御広間、天守

(16)
飯田丸 数奇屋丸二階御広間
天守

数寄屋丸⇒本丸⇒平左衛門丸⇒奉行丸・西出丸

熊本城 天守(西南面)と小天守

(17)
本丸 天守 小天守

1976年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

熊本城 本丸 天守

(18)
本丸 天守

熊本城 闇り通路(くらがりつうろ)

(19)
闇り通路(くらがりつうろ)

熊本城 御殿内部

(20)
御殿内部

熊本城 本丸大天守東面、小天守

(21)
本丸大天守東面、小天守

熊本城 天守最上階 宇土櫓

(22)
天守最上階 宇土櫓

熊本城 宇土櫓

(23)
宇土櫓

熊本城 頬当御門、後ろには天守

(25)
頬当御門、後ろには天守

熊本城 二の丸から大天守、小天守、宇土櫓

(26)
二の丸から
大天守、小天守、宇土櫓

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の熊本城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

熊本城:真夏

真夏の熊本城
2011年8月9日 撮影

熊本城:フィルム撮影の熊本城

フィルム撮影の熊本城
1976年頃 撮影

熊本城 よろず間

熊本城 縄張りとカメラアングル

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

熊本城 縄張図とカメラアングル

本丸

二の丸

奉行丸

竹の丸

東竹の丸

不開門

櫨方門

行幸橋

うまや橋

天守

宇土櫓

頬当御櫓

飯田丸五階櫓

未申櫓

平櫓群

長塀

備前堀

熊本城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた熊本城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 本丸御殿の内部はほぼフラッシュを焚かなければ撮影できます。明るいのでフラッシュがなくても綺麗に写りました。

  • 熊本市のホームページより熊本城関連の動画を観ることができます。

    ホーム > 分類から探す > 行政情報 > 動画くまチャンネル > 熊本市の魅力紹介 と階層も深く、時々リンクも変更されるのでホームと最深にリンクを張っておきます。リンクが切れている場合はホームから似た言葉で辿って下さい。

    [ 2014/12/13 更新 ]

  • 熊本城にも転用石?

    城郭絵図面付き 日本の名城 によると加藤清正の築城時、茶臼山には多くの寺社がありましたが清正はこれらを廃し、礎石・板碑・五輪塔などが石垣や石段、排水溝などに利用したとのこと。本丸内、天守前庭、午砲台などに確認されるそうですが、これを知ったのが最近で残念ながら私の写真にはありません。

    [ 2012/07/15 ]

    上で紹介した動画のYOKAMON図鑑 - 第22回 - 質部屋跡・地蔵櫓門 で転用石を説明しています。

    [ 2014/12/13 追記 ]

  • 天守は明治10(1877)年の西南戦争の際、薩摩軍の攻撃直前に焼失しました。現在の天守は昭和35(1960)年に再建されたものです。焼け残った宇土櫓や長塀など13棟が重要文化財に指定されています。宇土櫓は 現存する12三重櫓 の一つです。

    [ 2012/09/27 ]

  • 加藤清正が築いた石垣と細川忠利が本丸御殿建築の際に増築した石垣が並んだ二様の石垣。隅石の形状に違いがよく現れています。

    [ 2012/12/22 ]

    解説動画は熊本市のホームページ YOKAMON図鑑 - 第21回 - 飯田丸

    [ 2015/5/22 追記 ]

    熊本城:二様の石垣 拡大表示 方向指示

    細川時代

    方向指示

    加藤時代

     

  • 飯田丸には幹回りは10.5m、樹高約 30m、樹齢700~800年と言われている大きな樟があります。樹齢700~800年と言うことは築城以前からあったことになります。

    詳しくは熊本市のホームページYOKAMON図鑑 - 第21回 - 飯田丸

    [ 2015/5/22 ]

  • 熊本城公式ホームページ熊本城ビュースポット で紹介されている7ポイント(1~7) に私の推薦の3ポイント(8~10) を追加して紹介します。

    (1)、(2) のスポットには私のオリジナルがなく、サムネイルには上述の熊本城ビュースポットの写真を使わせていただいています。拡大の写真はそちらでご覧ください。

    熊本城ビュースポットは現在なくなっています。早く見れるようになることを願っています。

    ホームページの「お勧め」写真スポット

    熊本城:オリジナル写真はありません

    (1)
    宇土櫓

    熊本城:オリジナル写真はありません

    (2)
    大小天守北面

    (3)
    竹の丸より見る天守

    (4)
    二様の石垣、天守守

    (5)
    市庁舎展望ロビー(14階)より

    (6)
    二の丸から大天守、小天守、宇土櫓

    (7)
    本丸大天守東面、小天守

    解像度 640px以下では場所などは表示されません。

    熊本城縄張り図

    天守

    宇土櫓

    頬当御櫓

    飯田丸五階櫓

    未申櫓

    長塀

    平櫓群

    備前堀

    カメラ位置 方向指示

    私のおすすめ写真スポットとカメラアングル

    (1~7) 熊本城ビュースポット で紹介されている7ポイント

    (8~12) 私の追加推薦の5ポイント

    私の「お勧め」写真スポット

    (8)
    備前堀に飯田丸五階櫓

    (9)
    本丸大天守西面、小天守

    (10)
    天守最上階 宇土櫓

熊本城 ここが際立つ

熊本城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 櫨方門より登城(2011/8/9)しました。入城料500円、千円をだすとお釣り500円を記念硬貨でもらえました。地方自治法施行60周年記念貨幣の500円です。裏は共通デザイン。

    500円記念貨幣 表(天守と二様の石垣)

    表(天守と二様の石垣)

    500円記念貨幣 裏

  • 明治になって証された熊本城の堅固さ?

    明治9(1876)年の神風連の乱や明治10(1877)年の西南戦争でその堅固さが証されました。西南戦争では、西郷隆盛自身は身を任せただけで指揮をとらなかったとも聞いたことがあり、真偽のほどは定かでないのですが、「清正公と戦っているようだ」と言わしめたそうです。結局、薩摩軍は熊本城に籠もった政府軍を落とすことができず、最後は鹿児島に落ちていきます。

    余談ですが、熊本城は薩摩軍の攻撃の数日前に火災に遇っています。政府軍はその直前に城の写真を撮らせており、政府軍の放火ではとも言われいます。この火災でも宇土櫓は焼失を免れ現在に伝わっています。

    [ 2012/07/15 追加 ]

  • 不明門は右の写真において右側のみが切妻造りです。これはここに接続していた六間櫓が取り壊されたためです。

    不明門 案内板

    [ 2012/11/9 追加 ]

  • この石垣の段々って何?? 不思議に思っていました。

    (後方に源之進櫓、左上に東十八間櫓[画面には見えず]、東竹の丸の下付近)。

    絵図を観てもこの上に建物があった形跡はない

    奥の石垣の方が古くあとで築いたもの

    ここ意外にも4~5箇所ある

    これらのことから「崩れそうな石垣を支えるために補強したのではと推測される」とのことです。

    詳しくは熊本市のホームページYOKAMON図鑑 - 第20回 - 東竹の丸

    [ 2015/5/25 追加 ]

熊本城で出会った説明板

熊本城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

特別史跡 熊本城

特別史跡 熊本城

特別史跡 熊本城

日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多のの実践の経験を生かし、慶長六年(1601年)から七カ年の歳月を費やして完成したものと伝えられている。周囲5.3キロに及ぶ豪壮雄大な構えで、百二十余の井戸を掘り、かつては櫓四十九、櫓門十八、城門二十九を数えた。

明治十年(1877年)の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。

熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さで知られ「武者返し」の石垣と呼ばれている。なお現在の天守閣は昭和三十五年(1960年)に再建されたものである。

熊本市

不開門 (重要文化財)

不開門 (重要文化財)

不開門 (重要文化財)

《不開門 (重要文化財)》

古くから丑寅(東北)の方角は鬼門と呼ばれ、不浄の気の出入り」するところと考えられてきた。築城にあたっても、この方向は塞いでも開け放ってもいけないとされ、門は造るが通常は閉鎖されていた。そこから不開門と呼ばれ死人や不浄物の搬出時にだけ用いられたという。

この門の形式は両側の石垣の上に櫓を渡し架けて、その下が門となった櫓門で、要衝に配置されていた。復元された「西大手櫓門」「南大手櫓門」も同じ形式である。往時の熊本城では十八箇所に櫓門が造られていたが、江戸時代そのままに現存するのはこの「不開門」のみとなっている。

昭和八年(1933)に国宝となり、戦後は文化財保護法の施行により重要文化財に指定されている。

熊本城の平櫓 (源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓)

熊本城の平櫓

熊本城の平櫓( 源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓 )

《櫓群(田子櫓、七間櫓・・・)》

熊本城が築城された慶長年間(1596~1614)櫓四十九・櫓門十八・城門二十九がそびえていたが、明治十年(1877)西南戦争勃発直前の火災により大半を焼失した。

現在、熊本城には焼失をまぬがれた十三の建造物があり国の重要文化財に指定されている。

櫓は武器、武具などの倉として使用され、戦時には兵の駐屯所にも当てられた。

熊本市

≪説明に添えられている図≫

明和六年(1769)頃 絵図より

二様の石垣

二様の石垣

二様の石垣

《二様の石垣》

ここの石垣は隅部の反り(勾配)や積み方が著しく異なっている姿が同時に観れることから「二様の石垣」と云われている。

向かって右手、隅部の勾配が緩やかかな石垣が築城当初の加藤時代のものと考えられ、左手は細川時代になって増築されたもので勾配が急になっている。

隅部の石の形や積み方にも違いが観られ、重ね積みから算木積みへと時代による石積み技術の進歩が解かる貴重な資料となっている。また、不揃いの石を使っている加藤時代の積み方(乱れ積み)と、比較的同じ大きさに加工した石を使い整然と積み上げる(布積み)徳川時代との違いも平部において観ることができる。

熊本市

● 隅部の積み方の違い

重ね積み・・・・ 同じような大きさの石を積み重ねる積み方
算木積み・・・・ 長方形に近く加工した石を使用し、長い方と短い方を交互に積み重ねていく積み方

●平部の積み方の違い

乱れ積み・・・・ 粗割(余り加工していない)した石をそのまま積み上げる
布 積 み ・・・・ 方形に近く加工した石を横に並べて積み上げる

飯田丸 五階櫓

飯田丸五階櫓

飯田丸 五階櫓

《飯田丸 五階櫓》

熊本城には、かつて大小天守閣をはじめ、櫓四十九、櫓門十八、城門二十九があり特に五階櫓は築城当時六棟を数えたと云われている。

飯田丸五階櫓は加藤清正の重臣の一人である「飯田覚兵衛」が預かっていた曲輪(郭)にあることからこの名がついた。

外観三層内部五階建ての櫓で、延べ面積五百三平方メートル、石垣からの高さ十四・三メートルで天守級の規模を誇る。

熊本城復元整備計画により古写真等を基に平成十七年三月復元完成している。

熊本市

≪説明に添えられている図≫

飯田丸五階櫓 断面図

数奇屋丸 二階御広間

数奇屋丸二階御広間

数奇屋丸 二階御広間

《数奇屋丸 二階御広間》

数奇屋丸二階御広間は、西に五階櫓、東に地蔵櫓門を配し、梁間七間(約十三メートル)、桁行十八間(約三十三メートル)の建物で、南面の壁には銃眼や石落しもついているが、内部一階は土間、二階には書院造りの座敷があり、全国の城郭建築の中でも非常に珍しいものである。

数奇屋丸とは、秀吉築城大阪城の「山里丸」の流れをひくもので、熊本城における文化的遊興の空間であったと思われる。茶会・能・連歌の会などが催され、二階御広間もそのような用途に使われていたと考えられる。二間半四方で十二畳半の部屋が主室となっており、床の間は二間半の押板だけというシンプルな構造で、復元に際しては書院造りの建物・城内の櫓・絵図等の資料も参考にした。

建築の際は残っていた礎石をそのまま使用し、柱等の主材料は九州山地から伐り出した栂を、梁には松、土台には栗を使用した。

平成元年九月復元完成 熊本市

地図石

地図石

地図石

《地図石》

この箱形の石組」は、古くから地図石と呼ばれてきた。この石組は城の他の部分とは全く異なり、切り石の組み合わせで美しく構成されている。そのため、その謎を解こうとして先人たちが色々と苦心し、日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものなど諸説を出したが、旧藩時代の絵図には「御待合口」との付箋が付いたものがあり、今日では数奇屋丸二階御広間への参入口の装飾であったと考えられている。

熊本市

大天守閣 小天守閣 井戸 古写真

大天守閣 小天守閣 井戸

大天守閣 小天守閣 井戸 古写真

大天守閣 石垣の上から高さ約29.5m 外観3層、内部6階地下1階 鯱の大きさ1.2m

小天守閣 石垣の上から高さ約19m 外観2層、内部4階地下1階 鯱の大きさ0.9m

現在の大小天守閣は古写真などをもとに昭和35年(1960)に再建されたものである。

井戸 加藤清正は、朝鮮出兵のとき蔚山城での籠城戦の経験から、城内に120余りの井戸を掘ったと云われている。この井戸もその一つで水面までの深さが36mある。このほかにも城内には17の井戸が現存している。

古写真 「数奇屋丸から見た大小天守閣」(富重写真 蔵)。
明治10年(1877)西南戦争の際に天守閣が焼失する以前、明治8年(1875)頃に撮影されたもの。

≪説明に添えられている図≫

五郎の首掛石

五郎の首掛石

五郎の首掛石

《五郎の首掛石》

勇将木山弾正の遺子と伝えられる横手五郎は、今の熊本市横手町に育ったので、その名がついたと云われる。父弾正は、天正十七年(1589年)の天草一揆のとき、志岐麟仙に味方して仏木坂で加藤清正に一騎打ちをいどみ武運つたなく戦士した。そこで五郎は成人ののち清正を仇と狙い、築城人夫に身をやつして、いつかは父の恨みを晴らそうと考えていた。ところがその間に彼の素性は見破られ、井戸堀りをしているとき生埋めにされたという。

この石の重さは一八00キログラムであるが、築城当時に五郎が首にかけて運んだと言い伝えられている。

熊本市

西大手櫓門

西大手櫓門

西大手櫓門

《西大手櫓門》

西向きの城である熊本城は、本丸前面を防備する西出丸に、西・南・北の三つの大手門を配置し、その中でも城の玄関にあたる西大手櫓門は最も格式の高い門とされている。

寛永九年(1632)加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利は、この門の前で駕籠を降り、敷居を押しいただくようにして、「謹んで肥後五十四万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝えられている。

廃藩置県の明治四年(1871)、政府軍によって他の櫓と同様に取り壊されたが、昭和五十六年(1981)に西南戦争百年を記念して復元された。しかし、平成十一年(1999)の台風によって倒壊したため平成十五年(2003)に再度復元再建された。

[ 建物概要 ]

木造、二階建て、入母屋造り、本瓦葺き

桁行十一間(二十三m)、梁間四間(八m)、延床面積二四八m2、高さ十二・六m

絵が中心の案内・説明書

◾ 熊本城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。

熊本城案内図

熊本城見学コース

熊本城完成予想図

◾ 市役所に展示されれいたパネル。

西出丸 復元された櫓群

飯田丸五階櫓

飯田丸五階櫓 復元工程-1

飯田丸五階櫓 復元工程-2

本丸御殿大広間復元工事

本丸御殿大広間復元工事

展望

熊本城復元予想図

熊本城 天守の展示

熊本城 古写真

 天守に古写真4枚が展示されていました。少し画像処理をして転載します。同じ写真が日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 にも3枚掲載されていましたのでその分の説明はそれを引用しました。

西南戦争直前の熊本城本丸で、宇土櫓望楼から見た天守(右)と小天守。左後方に裏五階櫓、本丸多聞櫓、右に耕作櫓門が見える(明治9年ごろ)

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

「数奇屋丸から見た大小天守閣」(富重写真 蔵)

明治10年(1877)西南戦争の際に天守閣が焼失する以前、明治8年(1875)頃に撮影されたもの。

天守前にあった説明板 より

備前堀越しに飯田丸を望む。左から西櫓門多聞櫓、百間櫓、大天守、飯田丸五階櫓、同続多聞櫓、五階櫓の下に要人櫓、竹の丸下見板塀が見える(明治5年ごろ)

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

熊本城遠望。高屋敷から見た熊本城の全景で、上段左から月見櫓、五階櫓、長局、裏五階櫓、大天守、小天守、数奇屋多聞櫓、宇土櫓、中段左から源之進櫓、東十八間櫓、北十八間櫓、小天守下に平櫓、宇土櫓右が櫨方三階櫓(明治5年ごろ)

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

大・小天守の雛形

大・小天守の雛形

天守には大・小天守の雛形もありました。当時の人が作ったものではなく、昭和35年に、天守閣を再建する際に作った雛形のようですが趣があります。

熊本城 重要文化財

熊本城は国宝に指定されています

 熊本城は旧国宝 の「天守」、「乾小天守( いぬいこてんしゅ )」、「渡櫓」、「辰巳附櫓」、「月見櫓」の5棟が「松本城天守」として引き続き国宝 に指定されています。また、城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース 」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 」 を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
熊本城
 
宇土櫓
三重五階櫓、地下一階付、続櫓一重櫓、一部二階、総本瓦葺
 
源之進櫓
折曲り一重櫓、本瓦葺
 
四間櫓
一重櫓、本瓦葺
 
十四間櫓
一重櫓、本瓦葺
 
七間櫓
一重櫓、本瓦葺
 
田子櫓
一重櫓、本瓦葺
 
東十八間櫓
一重櫓、本瓦葺
 
北十八間櫓
折曲り一重櫓、本瓦葺
 
五間櫓
一重櫓、本瓦葺
 
不開門
櫓門、左端入母屋造、右端切妻造、本瓦葺
 
平櫓
一重櫓、前面一部庇付、本瓦葺
 
監物櫓(新堀櫓)
一重櫓、本瓦葺
 
長塀
長さ252.7m、桟瓦葺

重要文化財の画像 を

熊本城 面白文書、拾い上げ

書籍など、熊本城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

現存する宇土櫓は、第三の天守と呼ばれる。外からみると三層五階であるが、石蔵である入口を含むと三層六重であり、立派な天守である。ちなみに秀吉の弟豊臣秀長とその後嗣の秀保の本城である大和郡山城天守は八間半に七間半の大きさ(五層五重)で、宇土櫓の九間に八間の平面に及ばず、松本城大天守、福山城大天守など五層の天守とほぼ同一規模の平面なのである。

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

連立天守に目を奪われ、見おとしてならないのが宇土櫓。(途中略)関ヶ原の戦いで刑死した小西行長の居城・宇土城の天守を移築したものと伝えられている。ただし解体・修築工事の際、移築された跡が確認されなかったため、現在は熊本城固有の大櫓と考えられている。そもそも、江戸時代初期には、「御天守西の御丸」「五階矢蔵」などと呼ばれており、宇土櫓の呼称は中期以降に生じたもののようだ。

城郭絵図面付き 日本の名城 より

2012/7/15 追加

管理人独白:

他の書籍でも「宇土櫓は宇土城からの移築ではなかった。」ということは呼んだ記憶があります。移築は福山城の伏見櫓のように使用材の墨書などから移築と証されますが、移築された跡が確認されなかったらといって移築が否定されのるかちょっと疑問に思ってます。移築の場合はこんな痕跡はあるはずというような目安があるのでしょうか???

熊本城の最大の特徴は、大・小天守以外に、宇土櫓(現存)、御裏五階櫓、飯田丸五階櫓(復元)、竹の丸五階櫓、数奇屋丸五階櫓の五基の五階櫓を配し、各曲輪縁辺部のほとんどを多門櫓によって囲い込んだことにある。これによって各曲輪が一つの小城郭のように機能し、城を攻めるに際しては、これら小城郭を落城させなければ本丸に到達できなかった。また、曲輪間を結ぶ通路と虎口は厳重なうえに複雑で「史上最強の城」と呼ぶにふさわしいものであった。

別冊太陽 今むかし日本の名城 88(西日本編) より

2012/11/9 追加

登城の道のり

登城日:平成23年8月9日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

熊本城まで 簡単に説明

  • 福岡城を下城後、天神より高速バスで熊本へ。高速バスでしたが座席指定もなく乗車券を買いすぐ乗れました。
  • 最終の熊本交通センターの一つ手前、通町筋で下車。2~3分ほど歩き市役所に到着。
  • 市庁舎展望ロビー(14階)には自由に入れるので高い所より熊本城を展望。
  • 市庁舎を出て坪井川沿いに長塀を見ながら行幸橋、櫨方門へ向かいいよいよ登城。歩約10分。
  • この近辺、城内の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:大天守と小天守

(城内も仮想散歩ができます)

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞