城百科
お城の雑学 櫓
櫓 ご案内
写真にキャプションを付けようとしてちょっと疑問が生じました。最初に松本城を調べたのですが、松本城では月見櫓、辰巳附櫓、渡櫓などがあり、櫓の名前は各城ごとに固有の名前が付けられていると思い込んでしまいました。
その後、いくらか調べていくうちに異なる城でも同じ名前の櫓に出あったり、伏見櫓など地名が付いたものものなどがあり興味がわき、櫓についてまとめました。
櫓の由来
まえ説で櫓の名前についてちょっとした疑問を述べましたが、実は「やぐら」自体も不思議な感じがしていました。私が子供のころには「火の見やぐら」が所々にあり、それは鉄柱で作られており、上には展望台(人が2人乗れる程度の広さだったと思いますが)が乗っていた記憶があります。このイメージがあるため「やぐら」は高い棟という感じがあり、お城の櫓は少しイメージにそぐわないものでした。
櫓の由来については図説・城造りのすべてに次のようにありました。
櫓は城の重要な防御拠点である。矢を収める武器庫、あるいは矢を射るための「場所」といはれ、それゆえ矢倉、矢蔵とも書く。その歴史は古く、弥生時代の環濠集落である吉野ヶ里遺跡からも物見櫓の遺構とみられる柱穴が発掘されている。
[ 2009/09/25 ]
形態からくる名前
櫓を構造で分類すると「平櫓」、「二重櫓」、「三重櫓」、「多櫓聞」などに分けられる
- 平 櫓
- 一重で背丈も低く一番簡略された構造。土塀のない三の丸や外郭に建てられる場合が多い。
- 二重櫓
- 下重と上重がほぼ同規模の重箱形式や平面がL字型など様々なタイプがある
- 三重櫓
- 天守の代用とされるほど櫓のなかでも規模が大きく、望楼型や層塔型がある
- 多聞櫓
- 桁行を長く延ばした櫓で、天守や隅櫓同士を結んでいるため「渡櫓」「続櫓」とも呼ばれる。
[ 2016/08/29 ]
隅櫓
まず、わかり易い隅櫓から。曲輪は通常多角形をしており、その角部(隅部)は周囲を見渡しやすく、戦いでは重要な位置になる。ここに設けられたのが隅櫓です。曲輪が四角形の場合はその四隅の方位で呼ばれることが多く、北東にある場合は丑寅櫓(一字の場合は艮)、南東の場合は辰巳(巽)櫓、南西の場合は未申(坤)、北西の場合を戌亥(乾)櫓と方向を示す言葉で呼ばれることが多い。方位は十二支をが用いられ、子(ね)が北を表します。
例:弘前城の隅櫓
解像度 640px以下では櫓名、櫓の写真などは表示されません。
[ 2009/09/25 ]
多門(多聞)櫓
通常は石垣や土塁の上に築かれ、外観的には土塀に変わる一重の横長い長屋状の櫓です。平時は物資や武具の倉庫的な使われ方をしていますが、有事の際は仕切りを取れば櫓内を移動でき、弓や鉄砲を撃つ防御の拠点にもなります。
名称の由来は大和国多聞城で松永久秀が初めてこの様式で建てたためとも、武神である毘沙門天(多聞天)を祀ったためともいわれています。
櫓と櫓を繋ぐように長く建てられたものは渡櫓、他の櫓や門に接続するものは続櫓、特に天守に続くものを附櫓(付櫓)と呼ぶこともあります。金沢城のように ※※長屋と呼ぶような例もあります。熊本城では※※間櫓など長さで呼んでいます。
- 渡櫓
- 櫓と櫓を繋ぐように長く建てられたもの。
- 続櫓
- 他の櫓や門に接続するもの。
- 附 櫓 ( 付櫓 )
- 天守に接続するもの。付櫓とも
[ 2009/10/03, 2012/08/17 ] 写真差替
[ 2012/08/17 ] 付櫓と続櫓と渡櫓を追記
[ 2016/7/7 七夕 ] 写真前面差替・追加
御三階櫓
天守の代用とされた櫓です。武家諸法度や一国一城令で築城が禁止されたり、修理の手続きに幕府が関わったり、領内の城の数が制限されたりして、天守を上げられなくなり、三重の櫓を天守の代用とした城があります。現存しているものでは弘前城天守、丸亀城天守があります。弘前城の場合は人により御三階櫓と呼んだり、天守と呼んだりしていますが、丸亀城の場合、ほとんど天守と呼ばれています。
ここで少し疑問がわいてきました。「天守と櫓の線引きはどこにあるのか?」、「もともとの天守はどうなって御三階櫓が代用天守のとしていつどのようにしてあげられたのか?」等々。わかれば追記していきます。
[ 2009/10/03 ]
月見櫓
風流な名前の櫓です。名前のとうり月を愛で、月見をするるためのもので、月を眺めるのに都合の良いように窓を大きくしたり、最上階に廻縁を設けたりしています。
[ 2009/09/25 ]
たまたま 会津若松城 にも月見櫓跡と言うのを見つけました。武器を収めていた武器庫・櫓でしたが、城内からの月見の場所として絶好の櫓でもあったことから月見櫓の名が付けられたとのことです。
[ 2012/10/05 ]
富士見櫓
風流ついでにもう一つ風流な名前の櫓を。名前のとうり富士山を見る櫓です。関東地方の城に多く見られます。川越城には富士見櫓跡、宇都宮城では富士見櫓を復元、浜松城にも富士見櫓跡が有ります。江戸城にもありますが、関東大震災で損壊し、解体し復元しています。
江戸城 の富士見櫓
[ 2009/10/03 ]
太鼓櫓
縄張り図を見ていてよく出てくる太鼓櫓。初めは何だろうと思っていましたが、調べてみて納得。時報の太鼓を打つための櫓でした。確かに、正しい場面かどうかはわかりませんが、時代劇で侍が登城か下城する時に太鼓の音がしているような場面を見たような記憶があります。
太鼓の代わりに鐘を搗く場合は鐘櫓と呼ばれます。
《参考》 直接「太鼓櫓」と呼ばれていませんが彦根城には「太鼓門櫓」、松本城には「太鼓門桝形」があり櫓とはついていませんが「太鼓楼」がありました。
[ 2009/10/03, 2012/08/17 広島城 太鼓櫓の写真追加 ]
[ 2012/6/13 写真追加、増補 ]
伏見櫓
福山城の写真にキャプションを付けようとして知りました。伏見城の遺構を移築した言われているもので、櫓では福山城 伏見櫓(現存)、江戸城 伏見櫓(現存)、 大阪城(焼失)があります。福山城伏見櫓は1954年の解体修理で「松の丸東櫓」と文字が見つかり伏見城からの移築が裏付けられているようです。
[ 2009/10/03, 2012/08/17 福山城 伏見櫓の写真追加 ]
ちょっと変わった櫓
「ちょっと変わった」と言っても奇妙なものではなく、名前の由来や目的が少し変わった櫓を集めてみました。
化粧櫓 (姫路城)
姫路城 化粧櫓
初めはちょっと城にはそぐわない感じがしましたが知って納得。千姫に由来したものでした。歴史好きの人にはこれで充分かなと思いますが、蛇足になりますが少し「千姫」について
千姫は徳川秀忠(2代将軍)の娘で、7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられます。ついには徳川-豊臣の戦となって大阪城落城の際、坂崎出羽守に助けられたとされています。この時、家康は「助け出した者の嫁にする」と約束して救助させたのですがこの約束は守られず、千姫は本多忠政の長男で美形の忠刻に嫁ぎ姫路に来たとされています。忠刻は早逝し、千姫はその菩提を供養するため男山八幡宮を信仰し、城からその男山を拝むために千姫が使う建物(櫓)だったので化粧櫓と言われているようです。真偽はともかくなかなか面白いエピソードです。
[ 2009/10/03 ]
宇土櫓 (熊本城)
熊本城 宇土櫓
左の写真が熊本城 宇土櫓です。天守、あるいは小天守と言ってもよいような感じの櫓です。従来は宇土城天守閣を移築したので宇土櫓と呼ばれると言われていましたが、現在では平成元年の解体修理の時にその痕跡が見つかず、否定されているようです。熊本城 公式ページ には次のようにあります。
宇土櫓の名前の由来は宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残します京町(きょうまち)に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われています。
[ 2009/10/03 ]
人質櫓 (府内城)
府内城 人質櫓
日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 を読んでいて見つけた櫓です。大分城には人質西櫓が現存するそうです。縄張り図では人質東櫓もあったようです。
天守や城のもっとも奥まったところは人質として城主に差し出された男子の生活の場になっていたのが、戦国時代の一般的な状況であった。この人質櫓という名称は、天守曲輪がそのような機能を有していたという名残りだろう。
とあったので、調べてみると福山城(広島県)、津和野城(島根県)などに人質櫓跡があり、これらの城にも昔には人質櫓が存在していたようです。他にまだあるかはわかりませんが、見つかれば追加していきます。
[ 2009/10/03 ]
[ 2013/8/16:写真追加 ]
鬼門櫓 (日出城)
日出城 鬼門櫓
城郭でも鬼門封じが行われていたようで鬼門(東北)の角を取ったり不明門を設けたりしたものが見受けられます。日出城の鬼門櫓は建物自体の東北隅を欠いた特異な構造になっています。説明文の一部を引用します。
櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。当時、東北の方位は、禍を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたといわれています。こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。
[ 2016/7/7 七夕 ]
祈念櫓 (福岡城)
福岡城 祈念櫓
本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860年)3月に起工、同年10月に竣工したものです。
この櫓は大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、北九州市八幡東区の大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられます。1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。
説明文 [ 福岡城物語 本丸(表御門跡・祈念櫓) ] より抜粋
[ 2016/7/7 七夕 ]
天秤櫓 (彦根城)
彦根城 天秤櫓
上から見ると「コ」の字形をしており、両端に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。けれども詳細に見ると両端の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門として堅固さを感じさせます。
解説シート [ 重要文化財 天秤櫓 ]より抜粋
[ 2016/7/7 七夕 ]
千貫櫓 (大坂城)
大坂城 千貫櫓
創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。
説明文 [ 重要文化財 千貫櫓 ] より抜粋
[ 2016/7/7 七夕 ]
現存する三重櫓
現存する天守はわずか12城のみです。櫓は天守と異なり櫓は一つの城に複数個築かれるので、100棟あまりが現存しています。では三重櫓は何棟あるのか?。現存12天守閣 を読んでいてびっくりです。三重櫓も現存するのは以下に示すわずか11棟+1 だけです。
弘前城
二の丸 辰巳櫓
弘前城
二の丸 未申櫓
弘前城
二の丸 丑寅櫓
名古屋城
西北隅櫓
彦根城
西の丸 三重櫓
明石城
巽櫓
明石城
坤櫓
福山城
伏見櫓
高松城
北の丸(北新曲輪) 月見櫓
高松城
旧東の丸 艮櫓
熊本城
宇土櫓
江戸城
富士見櫓
[ 2012/08/18 ]
江戸城・富士見櫓は大正12(1923)年の関東大震災で大破、その後、解体して復元したということで表に入れていませんでした。考えてみれば丸岡城も昭和23(1948)年の福井地震によって倒壊後、修復再建されたものですが現存の扱いになっています。私が登城した際、ボランティアガイドさんに尋ねると80%程度は旧の材料を使ったとのことでした。富士見櫓の復元の実際がよくわからないのですが、一応ここに載せることにしました。
ちなみに江戸城・富士見櫓以外は重要文化財です。
[ 2012/09/24 追記 ]