天守、四足門、大手門を木造復元
二ノ丸御殿が現存
掛川城
**城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: 城内で出会った説明板
- 睦: 登城の道のり
掛川城 ひとくちメモ
- 所在地
- 静岡県 掛川市
- 別 名
- 懸河城、雲霧城、辰多山城、松尾城
- 築城者
- 朝比奈泰煕
- 別名の由来
- -
- 天守概要
- -
- 城郭構造
- 平山城
- 遺 構
- 二の丸御殿 [ ※ ]、 太鼓櫓(移築) [ ※ ]、 大手門番所(移築) [ ※ ]、 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ]、土塁など
- 再建造物
- 天守 [ ※ ]、 四足門 [ ※ ]、 大手門 [ ※ ] など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
参考になるサイト:
掛川城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 本丸・天守の丸 ⇒ 御殿
☒ 大手門近辺
本丸・天守の丸⇒御殿
大手門近辺
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の掛川城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
掛川城 よろず間
掛川城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は掛川城にあった案内図 を使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
掛川城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた掛川城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
-
掛川城御殿(二の丸御殿)が現存、国の重要文化財に指定されています。御殿が現存するは二条城、高知城、川越城、この掛川城だけです。佐賀城は御殿の一部が現存し、復元/整備がなされています。
[ 2016/03/12 ]
-
天守は平成6年に木造復元されたもので、内部の趣は鉄筋コンクリートの復元と異なり見ごたえがあります。四足門、大手門も木造復元されています。太鼓櫓、大手門番所は現在の地に移築されたものです。
⚫大手門、大手門番所は天守から少し離れた場所にあるので見落としなく!!。
[ 2016/03/12 ]
掛川城で出会った説明板
掛川城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
掛川城天守閣
掛川城天守閣
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。
≪説明に添えられている図≫
太鼓櫓
太鼓櫓
正保城絵図では、
≪説明に添えられている図≫
四足門
≪説明に添えられている図≫
掛川城大手門番所
掛川城大手門番所(掛川市指定文化財)
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。
嘉永七年(一八五四)の大地震で倒壊後、安政六年(一八五九)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(一九七八)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(一九八〇)、市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(一六四四~一六四七)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(一九九五)周辺の区画整理により、本来の位置から約五十メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。
掛川市教育委員会
掛川城大手門の復元について
掛川城大手門の復元について
この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。
天正十八年(一五九〇)より慶長五年(一六〇〇)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約十二・七米)、奥行は三間(約五・四米)、棟までの高さは三八尺五寸(約十一・六米)、二階は漆喰塗籠造りで格子窓付きの門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半開き(巾約二・四米、高さ約四・三米)の門扉、左側に一間(巾約一・二米、高さ約二・二米)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約六六糎)に一寸五尺(約四五糎)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りでです。冠木下の高さが十四尺六寸(約四・四米)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(一八五四)で倒壊し、安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し、規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十米北側に創建時の姿に復元しました。
この発掘調査で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください
掛川市
掛川城大手門礎石根固め石
掛川城大手門礎石根固め石
掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。
大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げました。
天守丸への登城路
天守丸への登城路
何度も折り曲げた狭い階段は、敵の侵入に備え登りにくくなっています。復元された階段や側溝のうちゆるやかな曲線を描く玉石側溝は、調査で見つかった江戸時代のものを生かしています
≪説明に添えられている図≫
天守丸 霧吹き井戸
天守丸
天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。
霧吹き井戸
永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
霧吹き井戸について
- 1522年(490年前)に井戸が掘られました。(約1年かけて掘られている)
- 日本第3位の深さといわれます。(深さは45mあります)
-
今川氏真が立てこもる掛川城を徳川家康が攻めた時、井戸から立ち込めた霧が城を包み家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
※別名 雲霧城とも言われます。
-
この井戸は昭和35年位まで使われていた。
(戦没者慰霊塔があって、それを護る庵守様の庵が天守丸にあり、その方が使っていた)
室町時代の有名な連歌師宗長(今川の家臣 1448~1532)が掛川城初期のを書き留めてあった。
1番 丸亀城(香川) ・・・65m
2番 福知山城(京都) ・・・50m
3番 掛川城(霧吹き井戸)・・・45m
4番 松山城(愛媛) ・・・42m
松本市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
天守下門跡
≪説明に添えられている図≫
本丸跡
本丸跡
城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。調査では、建物跡はわかりませんでしたが、柱穴や礎石が見つかりました。城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。
≪説明に添えられている図≫
腰石垣と玉石側溝
≪説明に添えられている図≫
腰曲輪跡
≪説明に添えられている図≫
腰櫓台跡
≪説明に添えられている図≫
十露盤堀
≪説明に添えられている図≫
三日月堀
≪説明に添えられている図≫
松尾池跡
≪説明に添えられている図≫
掛川城主要部模型
掛川城主要部模型
この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で製作されました。塩櫓・銭櫓のあった腰曲輪や、内堀の松尾池・乾堀は、削り取られたり、埋め立てられたりして現在目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644~1647)頃の最盛期の掛川城の主要部が示されています。模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が用いられています。
≪説明に添えられている図≫
掛川城の発掘調査
掛川城の発掘調査
平成4年(1992)から平成5年までの発掘調査によって、それまで知られかった地下に眠る戦国時代から江戸時代の掛川城が再びその姿を現しました。
城の出入口である本丸門の前面には、十露盤堀・三日月堀:内堀(松尾池)の3つの深い水堀によって厳重に防御されていました。本丸から天守閣への登城路は、敵の侵入に備え何度も折り曲げ登りにくくしてあります。堀や登城路の工夫は軍事施設としての城づくりと言えます。
本丸では明確な建物跡はわかりませんでしたが、柱穴・礎石や、便所として使われた素堀りの穴も見つかりました。日常生活に使われた茶碗、珍重された中国製の陶磁器、茶道に使われた天目茶碗などが本丸や堀から見つかりました。軍事施設としてだけではなく、生活の場としても使われていたことがわかります。
戦国時代には、堀・土塁とともに石垣が築かれ、軍事機能が高められていましたが、江戸時代中頃になると堀の一部を埋め立て御殿がつくられ、しだいに領国を治める役所としての機能に重点が置かれるようになりました。
≪説明に添えられている図≫
掛川城公園
掛川城公園
■掛川城の歴史
掛川城は、文明年間(1469~1486)頃今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。
永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。
天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。
一豊は大規模な地域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。
その後、掛川城は、松平家・大田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。
一豊は大規模な地域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。
その後、掛川城は、松平家・大田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。
年表は略
≪説明に添えられている図≫
登城の道のり
登城日:平成28年2月14日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
掛川城まで簡単に説明
- JR掛川駅を出て大きな道を北へ500mほど真っ直ぐ進むと見えてきます。
- 大手門は少し離れた所にあるので見逃さないようにご注意を!。
- 大手門は天守最上階から街を見渡すと目立ちますので直ぐ分かります。
ストリートビュー:掛川城 四足門
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス