天守 紫竹門 戸無門 など21棟が
重要文化財
伊予松山城
伊予松山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが興趣深い
- 睦: 伊予松山城にあった説明板
- 質: 重要文化財
- 捌: 登城の道のり
伊予松山城 ひとくちメモ
- 所在地
- 愛媛県 松山市
- 別名
- 金亀城、勝山城
- 築城者
- 加藤 嘉明
- 別名の由来
- 金亀城: 堀に金の亀がいたという言い伝えから。
勝山城: 勝山と呼ばれる丘陵の山頂部に天守を、山腹に居館を築いたため。 - 天守概要
- 連立式 層塔型 三層三階 地下一階
- 城郭構造
- 連郭式 平山城
- 遺 構
- 天守[ ※ ]、 隠門続櫓[ ※ ]、 野原櫓[ ※ ]、 乾櫓[ ※ ]、 紫竹門[ ※ ]、 戸無門[ ※ ]、 隠門[ ※ ]、 筋鉄門東塀[ ※ ] など
- 再建造物
- 小天守[ ※ ]、 太鼓櫓[ ※ ]、 北隅櫓[ ※ ]、 南隅櫓[ ※ ]、 十間廊下[ ※ ]、 筒井門[ ※ ]、 太鼓門[ ※ ] 乾門[ ※ ]、 艮門東続櫓[ ※ ] など
- 高 さ
- 約25m( 石垣約4m、天守約21m )
遺構は数多くあります。詳細は 伊予松山城 国宝・重要文化財 を参照ください。
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
伊予松山城 簡易年表
- 1595年
- 加藤嘉明、伊予四郡六万石を与えられ、松前城に入る。
- 1602年
- 加藤嘉明、伊予に二0万石を与えられ、松山築城を開始
- 1627年
- 加藤嘉明、松山城完成を目前に会津に移封。
- 1635年
- 久松(松平)氏が入封。
- 1784年
- 天守が落電で焼失
- 1923年
- 久松氏が城地を市に寄付
- 1955年
- ロープウェイ設置
図解 日本の城 より
参考になるサイト:
伊予松山城 写真の間
抑えたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 長者が平 ⇒ 戸無門 ⇒ 筒井門 の順に
☒ 筒井門 ⇒ 太鼓門 ⇒ 紫竹門 の順に
☒ 本壇の周囲
☒ 本壇
☒ (下城)長者が平 ⇒ 二の丸 の順に
長者が平⇒戸無門⇒筒井門 の順に
筒井門 ⇒ 太鼓門 ⇒ 紫竹門 の順に
本壇の周囲
本壇
(下城)長者が平 ⇒ 二の丸 の順に
登城・撮影日の留書き
フィルム写真のネガをスキャンで読み編集したものです。上に掲載以外の高知城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。(22葉)
伊予松山城 よろず間
伊予松山城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった松山公園、 松山城 本壇 配置図 を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックすると写真を表示します。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
伊予松山城 魅所・おすすめ
私の感じた伊予松山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 天守は 現存する12天守 のひとつで安政元(1854)年の幕末に落成した比較的新しい城です。大天守と小天守が渡櫓で結ばれた姫路城と同じ連立式で、層塔型3重3階地下1階の天守群です。また、紫竹門や戸無門、櫓、塀など天守を含め21棟が 重要文化財 に指定されています。
-
平成4(1992)年には二之丸跡に二之丸史跡庭園が開園し四足門、多聞櫓、米蔵、井戸屋形などが再興されています。大井戸遺構もあります。
[ 2012/10/15 ]
[ 2019/5/3 写真追加]
-
伊予松山城の櫓や門は⚫現存するもの、⚫昭和8年の放火で焼失、再建、⚫昭和20年の戦禍で焼失、再建、などがありこれらをまとめてみました。現存する天守など21棟が 重要文化財 に指定されています。
[ 2019/5/3 ]
本壇以外
本壇
伊予松山城 ここが興趣深い
伊予松山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
大天守がずんぐりとした印象を与えるのは加藤嘉明が創建した五重の天守を後の城主・松平定行が1614(寛永19)年に縮小したためです。1784(文明4)年の落雷で焼失し、長らく再建できませんでしたが、ペリー来航の翌年、1854(安政元)年日本で最後の天守建築として再興がなりました。
[ 2012/10/15 ]
-
彦根城で登り石垣を初めて知り、伊予松山城にもあることは知っていました。ビジュアル日本史1000城 を読んでいて、伊予松山城は「山城+居館との見方もあるが登り石垣によって本丸と二の丸が一体化するため山城ではなく平山城に属する」との説明に興味を覚えました。伊予松山城の登り石垣は壮大で国内最大級とのことです。残念ながら私の写真にはありませんが「登り石垣」とは 松山市ホームページ で登り石垣の詳しい説明・画像を閲覧できます。
[ 2012/12/22 ]
[ 2019/5/3 写真追加 ]
伊予松山城で出会った説明板
松山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
松山城について
- ♦ 松山城へのいざない
- ♦ 別称『金亀城』の名前の由来
- ♦ 松山城
- ♦ 城山公園 黒門口登山道
- ♦ 県庁裏登城道と城の内古墳群
本丸にある建造物など
本壇にある建造物など
- ♦ 本丸 本壇
- ♦ 松山城 本壇 配置図
- ♦ 松山城 本壇 配置図
- ♦ 紫竹門東塀
- ♦ 重要文化財 一ノ門
- ♦ 重要文化財 二ノ門
- ♦ 重要文化財 三ノ門
- ♦ 重要文化財 三ノ門南櫓
- ♦ 重要文化財 筋鉄門東塀
- ♦ 筋鉄門
- ♦ 小天守
- ♦ 多聞櫓
- ♦ 南隅櫓
- ♦ 十間廊下
- ♦ 内門
- ♦ 重要文化財 穴蔵
- ♦ 重要文化財 天守
- ♦ 重要文化財 仕切門内塀
- ♦ 重要文化財 仕切門
- ♦ 天神櫓
- ♦ 再建工事概要
二之丸史跡庭園
- ♦ 松山城二之丸史跡庭園
- ♦ 大井戸遺構
- ♦ 四足門
その他の建造物
絵が中心の案内・説明書
松山城について
⚫ 松山城の歴史や二の丸(西の丸)跡についての説明。
松山城へのいざない
松山城へのいざない
松山城の沿革 松山城は、松山平野の中央に位置する勝山(海抜132m)を中心に築かれた平山城で、山頂に「本丸」が、南西の山麓に「二之丸」や、堀と土塁に囲まれた「三之丸(堀之内)」が配されています。さらに、本丸と二之丸をつなぐ全国でもめずらしい南北2本の「登り石垣」や、東と北の山麓に「東郭(ひがしくるわ)」「北郭(きたくるわ)」が配置されるなどと、堅牢な城構です。また、それらが良好に残されている全国でも数少ない城跡で、敷地の大部分は「国史跡」に、本丸の建造物の多くが「重要文化財」に指定されています。
松山城の築城は、関ケ原の戦い{慶長5年(1600年)}での活躍により、この城を与えられた加藤嘉明によって、慶長7年(1602年)から始められました。嘉明は、築城にあわせて、勝山の南を流れていた湯山川(現、石手川)を付け替えました。また、城下町の整備を行い、三之丸と城の周囲に侍町を、その外側に町人地を置き、さらに、勝山の北側にある御幸寺山(みさじさん)の山麓に、城を防備するために寺町を配置しました。なお、嘉明は、正木城(伊予郡松前町)から慶長8年(1603年)10月新城下に移りました。この頃から、「松山」と呼ばれるようになりました。
城の完成は、寛永4年(1627年)に嘉明が会津へ転封された後、替って入った蒲生忠知によると伝えられています。忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635年)、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松山城は、松平家の居城として機能しました。
松山城の天守は、定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784年)正月に落電で焼失したため、安政元年(1865年)に再建されました。
本 丸 本丸は、城の防衛上、最後の砦となる郭で、連立式天守(本壇)が設けられている。三重の天守をはじめ門や櫓、塀など21棟の建造物が重要文化財に指定されている。また、昭和41年(1966年)から全国でも類を見ない。総木造による城郭構造物29棟が復興されており、それらとあわせて、江戸時代の雰囲気が良く残されている。
本丸周囲の高石垣は、扇勾配と屏風折が特徴で、北側を中心に築城時のものが残されている。
二之丸 二之丸は、貞享4年(1687年)までの藩主の御殿があった場所で、発掘調査の成果を基に史跡庭園として整備・公開されている。特に全国有数の規模を持つ大井戸遺構は必見である。
三之丸(堀之内) 三之丸は、藩主の御殿や会所、勘定所、御用米蔵、馬場など藩の施設と武家屋敷が広がっていた空間で、当時、ここから本丸への正式な登城路であった。。
東廓 北郭 東廓と北郭は、それぞれ城の東側と北側を防備する郭である。東廓は、築城時のものと考えられる周囲の石垣が良好に残されている。一方、北郭は、そのほとんどが焼失しているが、石垣の一部が山麓に残されている。
その他の防御施設 城内の北登り石垣や三之丸北側の堀や土塁、内堀、城下町の東側にあったと言われている堀や土塁などは、近代以降の改変で消失したが、地形や街の区画にその名残をとどめている。
≪説明に添えられている図≫
別称『金亀城』の名前の由来
別称『金亀(きんき)城』の名前の由来
お城は、標高百三十二メートルの山(勝山)お上にあり、勝山城または金亀城とも呼ばれています。
松山城築城の際、山麓の内堀(愛媛県庁西側)の処が、深い淵になっていて、そこに「金色の亀」が棲んでいたといわれています。その伝承にちなんで、別名「金亀城」と呼ばれるようになりました。
松山城『築城物語』
松山城は慶長七年(一六〇二)年正月十五日、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明によって起工されました。石材などは、正木(松前)城や湯築城などから運ばれたものも多かったようです。嘉明は、足立重信を普請奉行として工事に着手、おたたさん(魚の行商をする女性)が砂を運び、近郷の農民が手ぐり渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が工事に従事しました。
翌慶長八年十月に、嘉明は正木(松前)から新城下に移り、城下を松山と命名し、城の名前を松山城としました。城全体の完成は、加藤嘉明が会津四十万石に移封となった、嘉永四(一六二七)年頃といわれています。約二十八年の歳月をかけて築城されたことになります。
■起工年――慶長七年(一六〇二年)
■築城者――加藤嘉明
■形 式――平山城
■遺 構――天守・櫓・門・塀・井戸・石垣・他
■別 称――勝山城・金亀城
■沿革史――慶長七年、加藤嘉明は五層の天守を持つ持つ松山城の建築に着手した。
寛永十九年(一六四二年)松平定行が天守を三層に改築したが、天明四年の落電で本壇の多くの建物が焼失。
嘉永五年(一八五二年)に復興し、安政元年(一八五四年)盛大に落成式がとり行われた。
≪説明に添えられている図≫
松山城
松山城
城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、そのように厳くはみえない。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋刊) 単行本:1巻より
城山公園 黒門口登山道
城山公園 黒門口登山道
黒門口登城道は三之丸(堀之内)から二之丸、本丸へと続く大手登城道です。三之丸からの入口となる黒門周辺は、特に堅固な構えで、わずか100mの間に、黒門、栂(つが)門、槻(けやき)門の三つの門と五度の屈曲が連続し、門には番所が設けられていました。なお、黒門と栂門の間には、腰掛が設けられていました。
明治17年(1884年)、三之丸が兵営にされたことに伴い、この登城道は閉鎖されましたが、昭和44円(1969年)に改修され、登城道として再び利用されるようになりました。途中にある中門(塩見門)跡には、往時の石畳がそのまま残されています。
※腰掛・・藩士が登城する際に、お供の者を待たせていた建物。
※黒門・・三之丸から二之丸、本丸へ続く登城道の入口となる門。古文書によると、門の屋根には「矢切」という「忍びがえし」が備えられ、門の左右の石垣上には、石落や狭間などが備えられた渡塀が続いていた。
※黒門石垣・・西石垣東面が大きく膨らみだして危険なため、平成19・20年度に解体修復工事を実施した。解体に伴う発掘調査によって、江戸時代に石垣が改修されたことや、西石垣の西側が大規模に盛り土されたこと、また、明治時代に東石垣よりも1.4mほど高かった西石垣が東石垣の高さまで低くされたことがわかった。
江戸時代に改修された石垣の裏から、地蔵お文字と地蔵や侍の絵が墨書されている石が見つかった。工事の安全祈願として入れられた可能性がある。
≪説明に添えられている図≫
県庁裏登城道と城の内古墳群
県庁裏登城道と城の内古墳群
県庁裏登城道は、明治43年(1910年)、本丸が松山公園として開園されるにあたり、そこへの道として、古町口登城道と併せて造られました。江戸時代、県庁裏登城道周辺には、二之丸からの黒門口登城道(大手道)しかありませんでした。
この登城道周辺には、数多くの古墳が残され、城の内古墳群と呼ばれています。概ね5世紀後半から7世紀前半にかけて造られており、その多くが円墳で、当時の有力者達の墓と考えられています。
登城道整備工事に先立ち、平成17年度に、道沿いにある2・4・5号墳の発掘調査が行われ、石室から須恵器や刀子(とうす)、玉類などの副葬品が出土しました。調査後、これらの古墳は、盛土によって保護されています。
また、1号墳は県庁裏の水源調整池、3号墳は二之丸南側の石垣裏から発見されています。3号墳からは、須恵器のほかに耳環などの装飾品が出土しています。
≪説明に添えられている図≫
本丸にある建造物など
⚫ 松山城の歴史や二の丸(西の丸)跡についての説明。
石垣
石垣
松山城の石垣 石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には、主に花崗岩が使用され、隅部はほとんどが算木積です。
本丸を囲む高い石垣は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配と、屈折を連続させる防御性を高めた屏風折が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時{慶長7年(1602)~}の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積みです。
一方、本壇の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギの布積みで、隙間に合わせて加工された間詰石(まづめいし)が詰め込まれている特徴がみられます。南側は、北側より新しく、嘉永年間(1848~1854)、天守などが再建された際に、新しく積み直され、十分に手間をかけた切込ハギの布積で隙間のない整った外観となっています。
※算木積・・石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げる方法である。16世紀後半から登用され慶長10年(1605)頃に完成しているため、石垣築造年代の判定ができる。
※打込ハギ・・打ち欠いた石材を用い、接合面を合わせて積み上げる方法で、自然石をも用いた野面積より隙間が少なく、高く積み上げることができる。
※切込ハギ・・整形した石材を用い、密着させるように積み上げる方法である。
※乱積と布積・・乱積は、横方向の目地が通らない積み方で、布積は、横方向の目地が通る積み上げ方である。
※ 長者が平から登り、最初に見える右手の美しい勾配の石垣(高さ約16m)は、昭和20年に長雨で崩れたため、同22年に修復されている。戦後、最初の大規模な石垣工事であり、その記念名が隅石に刻まれている
≪説明に添えられている図≫
侍合番所跡
侍合番所跡
大手門跡 大手門は、慶長年間(1596~1615)の築城時に建てられ、山麓にある二之丸及び三之丸(堀之内)へ通ずる重要な門です。古文書や古絵図には「尾谷二ノ門」「待合御門」「待合一ノ門」などと記されています。明治時代に、揚木戸門とともに取り壊されました。
侍合番所跡 侍合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、警備のために設けられました。その場所は、はっきりしていません。古文書には、常時三人が詰めていたと記されています。
この場所は、東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の入口で最も堅固な筒井門に続く要点で、兵力運用の重要拠点ともなっています。
なお、古文書には、揚木戸門から大手門までの石垣上に、6箇所の石落、76箇所の鉄砲狭間、11箇所の矢狭間が備えられていた渡塀(土塀)があったことが記されています。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
揚木戸門跡 揚木戸門は、築城時に建てられ、西の大手門とともに本丸大手の入口を固める重要な門です。古文書や古絵図には「揚木戸一ノ門」とも記されています。
≪説明に添えられている図≫
戸無門
重要文化財 戸無門
中ノ門跡 中ノ門は、大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが、明治時代に取り壊されました。
この門を設けることで、攻めてきた寄手は、門を通り過ぎて直進する者と戸無門へと行く者とに分かれることになりますが、直進した者は乾門下で行き止まりになります。
太鼓櫓から乾門へ続く石垣は、屏風折と呼ばれ、石垣が屈折しています。これは、寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃することができる横矢掛といわれる防衛上重要な構造となっています。
※寄手・・攻めてきた敵の兵士や軍勢のこと。
※横矢・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。
戸無門 戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。門は、両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。
建築年代は明らかではありませんが、寛永から正保年間(1624~1648年)の建立になるものと推定されています。また、寛政12年(1800年)に建て替えられたことを示す棟札(みなふだ)が残されています。skぷわ10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
戸無門を過ぎて左折すると大手で最も堅固な筒井門と隠門の防衛線に達します。
※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。
≪説明に添えられている図≫
隠門
重要文化財 隠門
筒井門 筒井門と隠門は、本丸大手の重要な固めで、城内で最も堅固な建造物の一つです。
筒井門は脇戸月の櫓門で、慶長年間(1596~1615年)の築城に際し、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられる城内最古の建造物の一つでした。明治時代になってから石落としや窓などが改変されましたが、昭和10年(1935年)国宝に指定され、同12年に修復工事が実施されました。
同24年(1949年)2月、放火によって焼失しましたが、同42年と43年に蝶側の石垣が解体修理され、同46年3月に全て栂(つが)で復元されました。門戸には楠(くす)の一枚板が用いられています。
焼失前、門の棟気裏には、「慶長七□□年四月マサキヨリウツス也」と墨書されていました。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。
隠門 隠門は、正門である筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門形式の櫓門で、戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲する策略が秘められています。
欄間は戸無門同様の格子欄間で、2階は筒井門東続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓となっています。
慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。
これを過ぎると、太鼓櫓と巽櫓の防衛線に達します。
※寄手・・攻めてきた際の兵士や軍勢のこと。
≪説明に添えられている図≫
隠門続櫓
重要文化財 隠門続櫓
隠門続櫓 隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平櫓で、長者が平(なる)からの登城道を監視する目的で、揚木戸門前の本丸石垣の上に建っています。平面形は、石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門続櫓につながっています。
隠門と同様に慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。
筒井門
西続櫓
同東続櫓
筒井門西続櫓と同東続櫓は、筒井門の西側に設けられた平櫓で、筒井門・隠門とあわせて大手の防衛を担っています。
昭和12年(1937年)に修理工事が行われ、その際、築城時には筒井門櫓と西続櫓が建てられ、しばらくして東続櫓が建築された可能性が指摘されました。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同24年(1949年)2月に焼失したため、同46年(1971年)3月に復元されました。
≪説明に添えられている図≫
筒井門再建工事概要
筒井門再建工事概要
一、着手年月日 昭和四十五年二月二十三日
一、完成年月日 昭和四十六年三月二十日
一、工事費 三千万円
一、建造物の名称
イ 筒井門脇戸附櫓門 屋根本瓦葺
ロ 筒井門東西続櫓單層櫓 屋根本瓦葺/p>
一、構造及び面積
イ 構造 木構造り大壁造り 外部蔀(しとみ)板張り
ロ 面積 一六八平方米(五十一坪)
ハ 梁の大きさ 長さ八、五米 末口七五糎
ニ 鏡柱の大きさ 長さ四、二米 末口七五糎
この筒井門の使用材は、栂(とが)材で、その再建にあたり用材の確保に困却したのでありますが、松山営林署のご協力により国有林から調達したものであります。
また扉の板戸には楠材の一枚板で大きさは縦三米横一、五米厚さ六糎、価格は百万円で、新皇居建築用材の予備材であります。
太鼓門
太鼓門
太鼓門 太鼓門は、本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付の櫓門で、巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門や筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く第2の防衛線となっています。
築城時に建てられたと考えられ、明治時代になり石落や窓などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同47年(1972年)2月に門は欅(けやき)、階上は栂(つが)で復元されました。門の両側の石垣には戦災による剥離が残されています。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
巽櫓
同西塀
巽櫓は、本丸の南東(巽方向)に位置する二重櫓で、一重目南面に千鳥破風が付けられています。太鼓門と一体となって防衛線を構築しています。
巽櫓西塀(太鼓櫓東塀ともいう)は長さ7.82mで6箇所の狭間が備えられています。いずれも、築城時に建てられたと考えられ、昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同61年(1986年)2月に復元されました。
※千鳥破風・・天守などの屋根を装飾する破風の一つ。三角形の破風で、屋根の上に据えるだけの構造なので、制約が少なく。最も一般的に用いられる。松山城本丸では、本壇内の建物、巽櫓、太鼓櫓に付けられている。なお、古文書によれば、艮櫓(うしとら)、馬具櫓にも付いていたことが記されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
≪説明に添えられている図≫
太鼓門再建工事概要
太鼓門再建工事概要
一、着手年月日 昭和四十六年五月二十八日
一、完成年月日 昭和四十七年二月二十八日
一、工事費 二千二百万円
一、建造物の名称
イ 太鼓門脇戸附櫓門 屋根本瓦葺
ロ 南北続櫓單層櫓 屋根本瓦葺
一、構造及面積
イ 構造 木構造大壁造り 蔀板張り
ロ 面積 九三平方米(二十八坪)
ハ 梁の大きさ 長さ七米 末口七五糎
ニ 鏡柱の大きさ 長さ四米 末口七五糎
太鼓門の使用材は階下冠木、大梁より下はすべて欅材であり階上櫓部分は、栂材を使用した。
特に階下部分の欅は特殊長尺材であるためその調達に困却したのでありますが、松山営林署のご協力により愛媛高知県境猪伏の国有原生林より払い下げを受けました。
太鼓櫓
太鼓櫓
太鼓櫓 太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓です。この櫓は、巽櫓・太鼓門・同西塀と同じ高さ(約7m)の石垣の上に建造されており、これは一連の防衛線となっています。
築城時に建てられたと考えられ、明治時代に石落や突揚戸などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同46年(1971年)3月に西面の石垣が解体修理されたあと、同48年(1973年)に全て栂(つが)で復元されました。
なお、古絵図には、太鼓櫓前に本丸広場の警備の番所が記されています。
※矩折・・「矩」は直角を意味する。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※突揚戸・・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられます。
太鼓門
西塀
太鼓門西塀(太鼓櫓東塀ともいう) は、長さ24.41mで2箇所の石落と21箇所の狭間が備えられています。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同43年(1968年)かえあ始められた木造復興計画の最後として、平成2年(1990年)に復元されました。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
※松山城の復元建物・・昭和27年の井戸上屋、同33年の馬具櫓(鉄筋コンクリート造)、同43年の小天守ほか、同46年筒井門ほか、同47年太鼓門ほか、同48年太鼓櫓、同54年天神櫓ほか、同57年乾門ほか、同59年艮門ほか、同61年巽櫓など。
≪説明に添えられている図≫
井戸
井戸
井戸 この井戸は、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深は9mあり、戦前までは釣瓶(つるべ)が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていました。
上屋は昭和20年(1945年)7月の戦災で焼失したため、同27年(1952年)3月に城内で初めて再建されました。
井戸には、①底がない、②天守と二之丸への抜け穴である、③大こうもりがいる、④水をきれいにするため大判・小判がなげこまれている、など伝承が残されていましたが、いずれも真実でないことがわかっています。
≪説明に添えられている図≫
馬具櫓
馬具櫓
馬具櫓 馬具櫓は、本丸広場の西側にある二重隅で、太鼓櫓とともに、二之丸方面の監視・防衛を担う櫓です。。
この櫓は、明治43年(1910年)に「松山公園」として開園される直前、管理人用寝泊所として改装されました。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同33年(1958年)3月に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリート造で再建されました。木造以外の工法で再建された城内唯一の建物で、現在は、本丸の防災を含む管理事務所となっています。
再建には、西側石垣(高さ約13m)に荷重を与えないようにするため、建物直下にケーソン工法の基礎3個が用いられています。この工事中、ケーソン基礎2個の最深部(深さ約4.7~5.9m)で、現在の石垣とは別の石積が発見されました。これは、まだ知られてない松山城の歴史を示すものかもしれません。
西側石垣 西側石垣は、太鼓櫓から馬具櫓をすぎて紫竹門西塀に達し、複雑な屏風折が続き、横矢掛となっています。古文書には、この石垣上に、13箇所の石落、95箇所の鉄砲狭間、25箇所の矢狭間が備えられている渡塀(土塀)があったことが記されていることかえら、厳重な防備がなされていたことがうかがい知れます。
なお、渡り塀は、明治時代に取り壊されました。
※横矢・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
≪説明に添えられている図≫
玉薬土蔵跡
玉薬土蔵跡
玉薬土蔵跡 玉薬土蔵跡は、弾薬庫で、明治15年(1882年)から翌16年にかけて解体撤去されました。
昭和59年(1984年)、発掘調査が行われ、その結果、石垣に沿う21個の建物礎石(礎石列全長20m)、雨落溝(あまおちみぞ)などが見つかりました。
礎石列は、その長さや位置から、古文書や古絵図に記されている玉薬土蔵の礎石と考えられ、また、桃山期の建築尺度(1間=6尺6寸、約2m)が使用されていることから、築城時のものと考えられています。さらに、全ての礎石が雨落溝へ傾斜していることから、床下に雨水が流れ込まないように工夫されていることがわかりました。
この調査では、朝鮮系滴水瓦と呼ばれる逆三角形の瓦が出土しました。朝鮮系滴水瓦とは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が、権力の象徴として朝鮮の瓦を真似て自らの城に葺いた瓦で、現存の近世城郭では、姫路城と熊本城に今も残されています。この瓦は加藤嘉明が松山城に葺いていた可能性をもつ貴重な資料です。
東側石垣 東側石垣は、巽櫓から本壇下をすぎて艮門に達し、ゆるい屏風折が続いています。古文書には、この石垣上に、16箇所の石落、127箇所の鉄砲狭間、27箇所の矢狭間が備えられている渡塀(土塀)があったことが記されています。この渡塀は、明治時代に取り壊されました。
西側石垣に比べて、櫓がなく、横矢掛も弱いのは、石垣下の地形が険しく、寄手の攻撃が困難であることによると考えられています。
また、昭和59年(1984年)の発掘調査から、この石垣沿いには、玉薬土蔵跡の地面より約1.2m高い、幅3mの土盛が築かれていたことがわかりました。この土盛は、玉薬土蔵などの建物を防御するための施設と考えられ、今もこの部分の石垣(長さ50m)が、他よりも一石分高くなっています。
なお、このあたりの石垣の表面には刻印が数多くあり、石垣下の道路から見ることができます。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
※横矢・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。
※寄手・・攻めてきた際の兵士や軍勢のこと。
≪説明に添えられている図≫
紫竹門
重要文化財 紫竹門
紫竹門 紫竹門は、本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門で、本壇北側にあった中仕切り門とあわせ、搦手を固める重要な門です。
門の両側には、それぞれ紫竹門東塀と同西塀が接続し、搦手に備えるため北を正面としています。門の前面、小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名が付けられ、また扉の上下は竪格子(たてこうし)となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。
創建時期はわかりませんが、紫竹門東塀並びに同西塀とともに、天明4(1784)年の落雷で天守とともに焼失し、嘉永年間(1848~1854年)に再建されたと考えられています。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
この門を過ぎて左折すると、搦手の入口である乾門に達します。
※搦手・・大手である表・玄関に対し、裏・裏口のことを言う。
重要文化財
紫竹門 東塀
紫竹門東塀は、本壇入口の石垣上に設けられ、長さは16.57mで、11箇所の狭間が備えられています。狭間は、紫竹門前面と本丸広場の二方向にむけられています。外面は下見板張で、内面は漆喰塗籠です。花崗岩製の控柱は、後に改修されたもので。もともとは親柱2本おきに木製の控柱が設けられていたと考えられます。
重要文化財
紫竹門 西塀
紫竹門西塀は、本丸西側石垣までの間に設けられ、長さは14.56m、10ヵ所の狭間が備えられています。紫竹門と同様、搦手に対する構えとなっています。壁は両面とも漆喰塗籠で、控柱は東塀と同様、当初は木製であったと考えられます。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
≪説明に添えられている図≫
乾門東続櫓
乾門東続櫓
乾門東続櫓
続東折曲り塀
乾門東続櫓続東折曲り塀は、乾門東続櫓から紫竹門西塀までの石垣に設けられた渡塀(土塀)で、長さ48mあり、4箇所の石落と48箇所の狭間が備えられています。
明治時代に取り壊されましたが、昭和49年(1974年)に土塀下の石垣が解体修理され、同57年(1982年)に乾門、同東続櫓とあわせて復元されました。
この塀の下には、補強のためと考えられる脛巾(はばき)石垣(高さ約2.6m、長さ約40m)が設けられています。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
乾門東続櫓 乾門東続櫓は、乾門の東側に設けられた平櫓で、乾門とあわせて、搦手の防備を担っています。
乾門とともに慶長年間(1596~1615年)の築城時に正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられています。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失したため、同57年(1982年)11月に乾門とあわせて復元されました。
焼失前には、明和5年(1768年)と墨書された棟札、天明4年(1784年)頃に修理したと考えられる「戌十二月十日御奉行林左左衛門云々」と墨書された棰端(たるきはし)の漆喰下地板が見つかっていたいたことから、幕末までに何回かの修理が行われていたことがわかっています。
※搦手・・大手である表・玄関に対し、裏・裏口のことを言う。
※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。
≪説明に添えられている図≫
乾櫓・野原櫓
重要文化財 乾櫓・野原櫓
乾櫓 乾櫓は、本丸の北西(乾方向)に設置された矩折(かねおり)の二重櫓で、乾一ノ門とともに、搦手を防衛する重要な櫓です。太鼓壁や天井板が張られないことなど簡素で機能的な武装建築の手法がみられます。
この櫓は慶長年間(1596~1615年)に正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられています。これに関する確実な資料はありませんが、城内最古の建築物の一つと考えられています。幕末まで何回かの修理が行われ、その年代を示す資料としては、明和6年(1769年)と墨書された棟札があります。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
※矩折・・「矩」は直角を意味する。
※太鼓壁・・防御を目的に、太鼓のように二枚の壁の間に空間をもうけ、そこに小石や瓦を詰めることで厚くした壁。
※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。
野原櫓 野原櫓は、本丸の北に配置された二重櫓で、小筒櫓とともに城の北側に対して防衛を担う櫓です。太鼓壁や天井板が張られないことなど簡素で機能的な武装建築の手法がみられます
入母屋造の屋根の上に、物見を載せた望楼型二重櫓で、全国で唯一の現存事例です。望楼型の櫓が発展して天守が生まれたとする天守望楼起源説を裏付ける資料として注目されます。
この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、慶長年間(1596~1615年)の築城時に建てられたと伝えられており、城内最古の建造物の一つと考えられています。幕末までに何回かの修理が行われ、その年代を示す資料として」は、文化14年((1817年)と墨書きされた懸魚(げぎょ)(裏)、文政元年(1818年)と墨書きされた棟札があります。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
※懸魚・・入母屋屋根や切妻屋根の両端の破風板の下に、棟気の切り口や桁を風雨にさらさないために取り付けられている飾り板のことで、「けんぎょ」ともいう。また、水と関係する魚を屋根に懸けることで、建物を火災から守る意味がある。懸魚の中央にある飾りを六葉という。城内のほとんどの建造物には「梅鉢(うめはち)懸魚」が取り付けられている。
≪説明に添えられている図≫
乾門
乾門
乾一ノ門跡 乾一ノ門は、北郭から続く搦手の最初の固めです。創建時期はわかりませんが、明治時代に取り壊されました。
この門から乾門までの間は、一種の桝形になっており、乾櫓や乾門西塀と乾門東続櫓に囲まれ、寄手を簡単に侵入させない仕組みになっています。また、東の艮門から出撃し、野原櫓の下を通り、寄手をの背後を急襲する策があったと考えられます。
なお、現在、乾一ノ門の左に続く古町口登城道は、明治43年(1910年)に開設された道です。
乾門西塀 乾門西塀は、長さ10.27mで8箇所の狭間が備えられています。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月のに戦災で乾櫓側3m余りを残して焼失したため、同57年(1982年)11月に乾門復興にあわせて復元さえ¥れました。
乾門 乾門は、本丸北西に位置する脇戸付の櫓門で、搦手の防衛の要めです。
本丸大手の筒井門と同様に、慶長年間(1596~1615年)の築城時に正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられ、通路や石垣、建物の配置など筒井門とよく似ています。
城内最古の建造物の一つで、昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。昭和54年(1979年)に門の両側の石垣が解体修理されたあと、同57年(1982年)11月に、門柱には樹齢300年の栂(つが)が、また梁には直径35cmの松が用いられ、築城時の壮大さを取り戻しました。
焼失前には、明和5年(1768年)と墨書きされた棟札が見つかっており、同東続櫓と一緒に修理されたことがわかっています。
※乾・・北西の方向を示す。
※搦手・・大手である表・玄関に対し、裏・裏口のことを言う。
※桝形・・虎口(郭の出入口)で石垣や土塁などで囲まれた区画のこと
※寄手・・攻めてきた際の兵士や軍勢のこと。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
※棟札・・建物の建築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと。
≪説明に添えられている図≫
艮門、同東続櫓
艮門、同東続櫓
小筒櫓跡
中仕切門跡
小筒櫓は、本丸の北に配置された櫓で、城の北側の防衛を担っています。創建時期はわからず、明治時代に取り壊されましたが、古絵図や古文書によると、石落や狭間が備えられた二重櫓だったようです。
また、小筒櫓と野原櫓の間には、紫竹門とともに大手と搦手を仕切る中仕切り門がありましたが、これも明治時代に取り壊されました。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
※搦手・・大手である表・玄関に対し、裏・裏口のことを言う。
※伯爵久松定謨頌徳碑・・松山藩は廃藩置県により廃止となり、変わって松山県が配置され、松山城は国の管理となりました。
明治6年(1873年)の全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)によって全国の城郭が取り壊される中、松山城は取り壊しを免れました。
同7年2月には国の許可を受け、松山城一帯(本丸)が松山公園となりました。
大正12年(1923年)、久松定謨(旧松山藩主松平定昭の養嗣子)は、松山城(本丸と城山の東側)と堀の払い下げを受けた上で、維持費を添えて松山市に寄附しました。これを顕彰し、昭和30年に石碑が立てられました。
艮門
同東続櫓
艮門と同東続櫓は、本丸の北東(艮の方向)に配置された脇戸付の櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割を担っていたと考えられます。
創建時期はわかりませんが、明治時代に取り壊されましたようで、昭和59年(1984年)3月に復元されました。
※寄手・・攻めてきた際の兵士や軍勢のこと。
≪説明に添えられている図≫
本壇にある建造物など
⚫ 松山城の歴史や二の丸(西の丸)跡についての説明。
本丸 本壇
本丸 本壇
本丸 本丸は城の防衛上最後の砦となる郭で、高さ10mを超える高石垣に囲まれ、南北約300m、東西約30~180mという全国有数の規模を誇っています。高石垣は、美しい曲線を描く扇勾配と、屈折を連続させることで防御性を高めている屏風折が特徴です。江戸時代には、その上に石落や狭間のある渡塀(土塀)がめぐり、また要所には櫓が配置され、城下からは塀や櫓に囲まれた天守が望めたと考えられます。
本丸北側には、松山城の中心である連立式天守の本壇が配置され、本丸南側には大手(正面、表口)である大手門、北がには搦手(背後、裏口)である乾門があります。乾門付近には、乾櫓や野原櫓という城内で最古の櫓が残されています。
※郭・・城内部の区画された平地のこと。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
※連立式・・天守と2基以上の小天守・隅櫓が中庭を囲むように建てられ、渡櫓などで連結している天守形式のこと。
本壇 本壇は、本丸の北側に位置し、天守・小天守など城の中枢とばる建物が配置されています。そのため、本丸広場より更に約8m高く石垣が築かれ、出入口は一箇所に限定されるなど防備は厳重です。天守は更に4mの高さまで石垣(切石を隙間なく積み上げる切込ハギによる)上に構築されています。
本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓などで接続されています。それらは石落・狭間・突揚戸が設けられています。
出入口から天守に至るまでには、両側を石垣と櫓や塀で囲まれた中、幾つもの門をくぐりながら、何度も屈曲する道を経なければならず、侵入した寄手はあらゆるところから狙い撃ちされるように仕組まれています。
昭和8年(1933年)に小天守、南や北の隅櫓、玄関などが焼失し、残された天守、天神櫓、塀、門などは同10年(1935年)国宝に指定されました。焼失した建造物の復興は、同41年(1966年)から着手され、同43年に竣工しました。なお、天神櫓は同20年(1945年)の空襲で焼失しましたが、同54年(1979年)に復元されました。
天神櫓を除き、国宝に指定されていた建造物は、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
※突揚戸・・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられている。
※寄手・・攻めてきた際の兵士や軍勢のこと。
≪説明に添えられている図≫
松山城 本壇 配置図
松山城 本壇 配置図
本壇 松山城本壇は、天守を中心とする城郭建造物の中枢です。本壇入口から天守広場までは、一ノ門、二ノ門、三ノ門、筋鉄門が設けられ、それぞれに塀と櫓が伴っています、一ノ門から二ノ門までの石垣や櫓で囲まれた空間には30を超える狭間が備えられ、最終防御施設として厳重な構えとなっています。
本壇内の西では、天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓が天守広場を取り囲み、それらは十間廊下などの渡櫓で連結されており、姫路城と同じ連立式の建築形式となっています。
本壇外周の石垣は、巧みに屈曲を繰り返し出隅に櫓が配され、東面と西面の石垣は、城壁の中央を内側に折り曲げ防御性の高い「合横矢(あいよこや)」と呼ばれる石組になっています。また、ここでは、石垣の改修を確認でき、北は打込ハギ、南は切込ハギで、年代の異なる特徴を示しています。
各所解説 ━━━━━━━━
重要文化財 一ノ門 脇戸付高麗門で、本壇への入口です。主屋根の両妻がそれぞれ櫓下の石垣に托されている構造は、城内唯一であり、さらに扉の縦格子のすきまから外を覗き見る工夫がなされています。天明6年(1787年)に再建されました。
重要文化財 二ノ門 脇戸付薬医門で、高麗門より防御性は劣りますが、格式の高い門です。全国の城郭の中で、重要文化財に指定されている薬医門形式の門は、比較的数が少なく貴重です。
重要文化財 三ノ門 高麗門で、扉上部が縦格子になっています。
重要文化財
一ノ門南櫓
二ノ門南櫓
三ノ門南櫓
平櫓で、天守への進入路に沿って突揚戸、石落、狭間が備えられています。武器、弾薬、米、塩などの貯蔵を目的とした櫓ですが、防衛の配慮がみられます。
その他の重要文化財 一ノ門東塀、二ノ門東塀、三ノ門東塀、筋鉄門東塀、仕切門、仕切門内塀
※古絵図には、本壇内に玉薬土蔵(弾薬庫)や貯水池が記されていますが、その場所は明らかではありません。
※本壇周囲の石垣の高さは約8mあります。
※狭間・・塀や櫓などに空けられた小窓のことで、矢狭間は立って弓を引くため高い位置にあり、鉄砲狭間は片膝ついて撃つため低い位置にある。松山城では、正方形が鉄砲狭間、長方形が矢狭間である。
※突揚戸・・窓に取り付けられた板戸で、跳ね上げ式に外へ開き、棒で支えられます。
※石落・・天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在では鉄砲の射撃としての穴として理解されている。
※打込ハギ・・打ち欠いた石材を用い、接合面を合わせて積み上げる方法で、自然石を用いた野面積より隙間が少なく、高く積み上げることができる。
※切込ハギ・・整形した石材を用い、密着させるように積みあげる方法である。
※横矢・・二方向以上からの射撃を横矢という。敵に対して二方向以上から射撃することを横矢掛という。
≪説明に添えられている図≫
松山城 本壇 配置図
松山城 本壇 配置図
重要文化財 天守 天守は三重三階地下一階で、全高は天守広場から約20mあります。また、天守台石垣は、加工された石垣が隙間なく積まれ(切込ハギ)、4.1mノ高さがあります。この石垣に囲まれる空間が、地下階となっています。
慶長年間(1596~1615年)、加藤嘉明の創建当初は、五重であったと言われています。寛永19年(1642年)、松平定行が、三年の年月をかけて三重に改修しましたが、天明4年(1784年)正月、落雷によって焼失しました。安政元年(1854年)に再建され、わが国城郭建築史上最後の天守となりました。
形式は、塔の様に屋根を重ねた「層塔型」と言われる構造です。外観は、南北屋根妻側は、一重目に千鳥破風が、二重目に唐破風が、東西屋根には一重目二重目とも千鳥破風が付けられています。随所に矢や弾丸を放つ狭間が備えられ、窓には塗籠格子、さらに四方に張りだした破風には鉄砲狭間が備えられ、外壁も三階は漆喰塗の白壁となりますが、一階と二階は下見板が張られるなど武装建築としての様相をよく留めています。地下にある穴蔵(穀倉)入口上部には、所内最大(約6トン)と言われる花崗岩五本が並列し、また内部の柱・梁には抗腐力の強い楠材が用いられています。
本壇
建造物の
木造復興
本壇建物は、天明4年(1784年)落雷によって焼失した後、ほとんどが、弘化4年(1847年)から安政元年(1854年)に再建されました。この再建された建物の中で、以下の建物は、昭和8年(1933年)7月、怪火によって、小天守、多聞櫓、南隅櫓、北隅櫓、十間廊下、玄関多聞櫓、玄関、内門、筋鉄門が焼失しましたが、昭和43年(1968年)5月に昔日の姿に復興されています。
⚫小天守・・・天守に次ぐ重要な二重二階の櫓で、大手、搦手を防御する絶好の位置にあり、漆喰塗の純白の外壁が、天守の黒塗の下見板張の壁と対照的である。
⚫多聞櫓・・・小天守と南隅櫓とを連結し、本壇南面の構えを持つ櫓である。
⚫南隅櫓・・・南西隅に配置され、大手、搦手を防衛する櫓である。
⚫十間廊下・・・桁行が10間あることからそう呼ばれている
⚫玄関・・・向唐破風の屋根が特徴である。
⚫内門と筋鉄門・・・昭和8年の焼失を免れた部材が今も残されている櫓門である。
⚫北隅櫓・・・本丸と搦手と北側を防衛する櫓である。
⚫玄関多聞櫓・・・北隅櫓と天守を連結する櫓で、本丸の北側を防衛している。
※「層塔型」は、もともと慶長期以降の建築技術が発達した時期に創案されたと言われている。
≪説明に添えられている図≫
紫竹門東塀
重要文化財 紫竹門東塀
乾門方面からの攻撃に備えたものである。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、嘉永期の再建と見られる。昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
一ノ門
重要文化財 一ノ門
脇戸附きの高麗門で本壇の入口になるのでこの名があり、木割りも豪放である。二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・小天守から射撃される構えとなっている。天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、天明六(一七八六)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
二ノ門
重要文化財 二ノ門
本壇における第二番目の門で薬医門の形式を持つ。天守・三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
三ノ門
重要文化財 三ノ門
本壇における第三番目の門で高麗門の形式を持つ。三ノ門南櫓・天守から射撃される構えとなっている。天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
三ノ門南櫓
重要文化財 三ノ門南櫓
一ノ門・二ノ門・三ノ門を防御する役目を持つ一重櫓である。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
筋鉄門東塀
重要文化財 筋鉄門東塀
一ノ門南櫓・二ノ門・小天守を防御する。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
筋鉄門
筋鉄門
脇戸附の櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。櫓は天守と小天守の通路となり、三ノ門を防御する構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和八年、放火によって一部焼失したが、同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
小天守
小天守
天守につぐ大きさの二重二階の櫓で、大手・搦手を防御する絶好の位置にある純白の外壁の外壁が天守の黒塗の板壁と対比して美しい。
慶長年間創建当時は、着見櫓といわれとぃた。
天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。国宝指定される直前の昭和八年、放火によって焼失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
多聞櫓
多聞櫓
南隅櫓と小天守とを連結する建物で南隅櫓と紫竹門とを防御する。
天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。国宝指定される直前の昭和八年、放火によって焼失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
南隅櫓
南隅櫓
本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防御するとともに、二ノ丸・三ノ丸を監視する二重櫓である。天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。国宝指定される直前の昭和八年、放火によって焼失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
十間廊下
十間廊下
北隅櫓と南隅櫓を結び、その桁行が十間であるのでこの名がある。乾門正面を防御する重要な位置にある。
天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。国宝指定される直前の昭和八年、放火によって焼失した。
同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
内門
内門
天守の西側に位置し、仕切門との間は桝形となっている。上の櫓は天守と玄関多聞櫓の通路である。天守および玄関多聞櫓の戦力によって防御される。
天明四(一七八四)年雷火のため焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。昭和八年、放火によって一部焼失しが、同四十三年五月に昔日の姿に復元された。
穴蔵
重要文化財 穴蔵
天守の地下一階にあたり、俗に穀倉や米蔵という。内部に防腐力のつよい樟材を使用し、床に素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避けている。
塀面積八九・二伍平方メートルで約二千俵の米が貯蔵可能といわれる。現在は天守の入口に使用されている。
天守
重要文化財 天守
慶長年間、加藤嘉明が松山城郭を創建した当時、天守は五重であったといわれる。
寛永十九年(一六四二)に松平定行が三重に改築したが、それから約百四十年のちの天明四(一七八四)年雷火のため焼失した。その後七十年を経て安政元(一八五四)年に天守の再建工事が落成した。これが現存のもので、三重三階地下一階附の建造物である。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
仕切門内塀
重要文化財 仕切門内塀
乾門方面に対し側防の構えとなっている。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
仕切門
重要文化財 仕切門
脇戸附の高麗門であって、天守の北側に位置し、内門との間が桝形となっている。天守。玄関多聞櫓によって防御される仕組みである。
天明四(一七八四)年雷火のため天守とともに焼失し、安政元(一八五四)年に再建された。
昭和十年国宝に指定されたが、同二十五年法の改正により重要文化財となった。
天神櫓
天神櫓
本壇東北の隅に位置し、艮櫓・艮門および小筒櫓を防衛する。またこの櫓には松平(久松)家の先祖である菅原道真(天満天神)の蔵を安置し、城の安全を祈ったのでこの名がある
昭和二十年戦災により焼失したので同五十四年九月に古い資料に基づいて昔日の姿に復元された。
再建工事概要
再建工事概要
着手年月日 昭和五十三年十二月二十二日
完成年月日 昭和五十四年 八月 末 日
工 事 費 三千三百万円
建造物の名称 松山城天神櫓、同南塀、同西折曲り塀
構造及び面積
イ 天神櫓 木構造大壁造り 外部蔀板張り 石落し 一ヶ所 内部厚板張り
ロ 同南塀、同西折曲り塀 木構造大壁造り 外部蔀板張り控柱附 南塀石落し 四ヶ所 西折曲り塀石落し 四ヶ所
ハ 櫓面積 六八、一一平方米(二〇、六四坪)
ニ 塀延長サ 六四、三六米(三五、四間)
この櫓、塀の使用材は、主に栂材で、その再建にあたり、用材の確保に困却したのでありますが、松山営林署のご協力により国有林から調達したものであります。
二之丸史跡庭園
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松山城二之丸史跡庭園
松山城二之丸史跡庭園
松山城の二之丸は、本丸を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ堀によって周囲が囲まれていました。二之丸邸は、蒲生忠知の時代(1627~1634)に完成し、明治5年(1872)の火災によって焼失しました。
二之丸跡は、国指定の史跡で、昭和59年に発掘調査が開始され、3ヶ年の年月をかけて、江戸時代における貴重な遺構群を検出しました。その遺構は、記録したうえ覆土して、大切に保存されています。
この二之丸史跡庭園は、表御殿跡と奥御殿跡とに大別されます。表御殿跡は北半分にある「柑橘・草花園」で各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現しています。奥御殿跡は西南部にある「流水園」で、水と砂利と芝生で昔の部屋の間取りを表現しています。また、「林泉庭」は、露岩を背景にした池・滝を配置して「わび」「さび」を表現しています。庭内には有料施設として、茶会・句会などの文化的な催しに利用していただく「観恒亭」「聚楽亭」「勝山亭」があります。
≪説明に添えられている図≫
大井戸遺構
大井戸遺構
大井戸は、昭和59年に松山市教育委員会によって実施された発掘調査の結果確認されました。
規模は、東西18m・南北13m・深さ9mで、石積みは乱層積および段積になっていることが明らかになりました。
大井戸の東半分は井戸の中に三列各三本の柱が縦横に貫を通して組まれ、その上に邸がせり出して建てられました。その基礎部となった梯子状の木材は現在も残っています。
古絵図には三ヵ所の階段を描いたものもあり、汲み上げた防火用水を床下を通って火災現場に運ぶ仕組みになっていたと思われます。
大井戸遺構
昭和59年より発掘調査が行われ、大井戸が発見されました。井戸の東半分が床下になり、その上を囲炉裏で火をおこしていた「焚木之間」が覆っており、その基礎部分が大井戸の底に木組みとして残っています。井戸の石段を上がったところにある一段低いところが、床下通路跡です。火災の際には、木桶で水を汲み上げ、それぞれの階段から通路を経て迅速に火事現場に運搬するという、松山城二之丸御殿の消火システムはこの時期においては、全国的にも例を見ない「優れもの」であったようです。
一日に一寸水が湧くと言われていますが、現在は基礎の木組みをみやすくするため、ある程度の量を保つように自動排水しています。
≪説明に添えられている図≫
四足門
四足門(よつあしもん)
四足の柱で切妻屋根を支えています。
≪説明に添えられている図≫
その他の建造物
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登り石垣
登り石垣
登り石垣 登り石垣は、山腹を登るように築造された石垣のことです。松山城では、山頂の本丸と山麓の二之丸との間にある大きな空間への寄手の侵入を防ぐため、それらをつなぐように南北に2本一対の登り石垣が設けられています。地形にあわせ、出隅、入隅、鎬隅(しのぎすみ)が巧みに組み合わされています。
登り石垣上には、渡塀や二重櫓が備えられていました。北登り石垣は、明治時代以後に破壊され、ごく一部しか残っていませんが、南登り石垣は、ほぼ完全に残っており、総延長は230m以上に及びます。登り石垣は、洲本城、彦根城などにも見られますが、松山城のものが全国で最大の規模を誇ります。
登り石垣は、通説では、豊臣秀吉の朝鮮への出兵(文禄の役、1592~1593年)の際、日本軍によって朝鮮半島に築かれた倭城に用いられたものが最初とされています。
松山城を築いた加藤嘉明は、洲本城主の脇坂安治、鳥羽城主の九鬼嘉隆らとともに、安骨浦倭城を築き、その中に大規模な登り石垣を用いています。この時の経験が、松山城にも活かされた可能性が指摘されています。
※寄手・・攻めてきた際の兵士や軍勢のこと。
※出隅(出角)・・角が外側に出ているもの。
※入隅(入角)・・角が内側に折り込んでいるもの。
※鎬隅(鎬角)・・角が鈍角になっているもの。
≪説明に添えられている図≫
槻門跡
槻門跡
槻門跡 槻門は、本丸大手への登城道と二之丸搦手への道の分岐点に位置する重要な門で、城内最大の櫓門でした。
西を正面とし、北を山裾の西大砲台石垣に托し、南は渡塀が続いていました。古文書や古絵図では、門の上部に二重の櫓をのせ、南側は2階に、北側は3階の高さに平櫓が続いていました。このような櫓門は、全国的に大変珍しいものでしたが、明治時代に取り壊されました。
平成13年の芸予自信によって、北側の石垣が大きく孕み危険な状態となったため、同17年から二ヵ年をかけて解体修理工事を行いました。それに伴い発掘調査が行われ、櫓の規模や北側の石垣が東に拡幅されていたことが明らかになりました。また、石垣の孕みには、雨水の流入が大きく影響していたことがわかりました。
この門の内側には、桁行六間、梁間三間とかなりの規模をもつ槻門番所が置かれ、20人が配置されていました。このことからも、槻門周辺が、城の防衛上重要視されていたことがわかります。
※搦手・・大手である表・玄関に対し、裏・裏口のことを言う。
※西大砲台石垣・・高さ約21mあり、城内で最も高い石垣である。
土蔵群 槻門を過ぎ、本丸大手への地上道を進むと、尾谷門に至ります。その尾谷門を過ぎた先の平地には、番所や土蔵、鍛冶小屋(作業小屋)などが立ち並んでいました。
土蔵には、金、銀、塩、米、旗、幕、小筒(鉄砲)、大筒(大砲)、具足(鎧兜)などが保管されていました。
寛永4年(1627年)、幕府の隠密が松山に入り、藩の状況を記録しています。その記録には、二之丸の北について「道より山手石垣高さ六間計の上の段に十二三間の米倉五つ段々にあり」と記されており、築城時から、ここには土蔵が建ち並んでいたと考えられます。
この平地の先の中門(塩見門ともいう)を過ぎ、七曲りの石段を登ると大手門に達します。中門跡には、往時の石畳がそのまま残されています。
明治5年(1872年)1月19日、この土塀群で、砲弾から硝煙(火薬)を取り出した際、あやまって砲弾が爆発し、二之丸御殿を類焼しました。
この2年前にも、堀之内の三之丸御殿が焼失しており、この二つの火災によって、松山藩の記録のほとんどが失われました。
≪説明に添えられている図≫
絵が中心の案内・説明書
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伊予松山城 重要文化財
伊予松山城は重要文化財に指定されています
伊予松山城は「天守」、「紫竹門」、「隠門」、「戸無門」などの35棟が「松山城」として旧国宝 に指定されていました。昭和20(1945)年の戦災で「天神櫓」「馬具櫓」「太鼓櫓」「巽櫓」「乾門」「乾門東続櫓」「太鼓門」「太鼓門続櫓」「乾門西塀」「太鼓門東塀」「太鼓門西塀」を焼失。昭和24(1949)年には放火により「筒井門」「筒井門東続櫓」「筒井門西続櫓」を焼失。指定は解除され、現在では下表のように残った21棟が重要文化財に指定されています。城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース 」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 松山城
-
-
- 天守
- 三重三階天守、地下一階付、本瓦葺
-
- 三ノ門南櫓
- 一重櫓、本瓦葺
-
- 二ノ門南櫓
- 一重櫓、本瓦葺
-
- 一ノ門南櫓
- 一重櫓、本瓦葺
-
- 乾櫓
- 矩折二重二階隅櫓、一部一重、本瓦葺
-
- 野原櫓
- 二重二階隅櫓、一部一重、本瓦葺
-
- 仕切門
- 脇戸付高麗門、本瓦葺
-
- 三ノ門
- 高麗門、本瓦葺
-
- 二ノ門
- 脇戸付薬医門、本瓦葺
-
- 一ノ門
- 脇戸付高麗門、本瓦葺
-
- 紫竹門
- 脇戸付高麗門、本瓦葺
-
- 隠門
- 櫓門、本瓦葺
-
- 隠門続櫓
- 一重櫓、本瓦葺
-
- 戸無門
- 高麗門、本瓦葺
-
- 仕切門内塀
- 延長24.6m、狭間十六所、本瓦葺
-
- 三ノ門東塀
- 延長14.2m、狭間十所、本瓦葺
-
- 筋鉄門東塀
- 延長11.1m、狭間九所、本瓦葺
-
- 二ノ門東塀
- 延長3.7m、狭間三所、本瓦葺
-
- 一ノ門東塀
- 延長10.1m、狭間十所、本瓦葺
-
- 紫竹門東塀
- 延長16.6m、狭間十一所、本瓦葺
-
- 紫竹門西塀
- 延長14.5m、狭間十所、本瓦葺
登城の道のり
登城日:1975年頃
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
伊予松山城まで 簡単に説明
- ずいぶん昔に登城。道のりは忘却の彼方。
- 地図でみると松山駅から距離にして約1Km程度、歩15~20分程度か??
- 周辺、城内はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:天守群
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス