石川門 三十間長屋 土蔵(鶴丸倉庫)は
重要文化財
金沢城
金沢城城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが際立つ
- 睦: 金沢城で出会った案内板
- 質: 重要文化財
- 捌: 面白文書、拾い上げ
- 玖: 登城の道のり
金沢城 ひとくちメモ
- 所在地
- 石川県 金沢市
- 別 名
- 尾山城
- 築城者
- 前田利家、佐久間盛況政
- 別名の由来
- 尾山は、「二つの川に挟まれた台地の先端、山の尾」という意味を持ち、金沢はかって「尾山」と呼ばれていた。
- 天守概要
- 慶長7(1602)年に落雷で炎上、天守代用に三階櫓を建てるも宝暦の大火(1759年)で焼失。現在は天守なし。
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 石川門 [ ※ ]、 三十間長屋 [ ※ ]、 鶴丸倉庫 [ ※ ] は重要文化財。 石垣 [ ※ ]、土塁、 堀 [ ※ ]、移築能舞台 など
- 再建造物
- 菱櫓 [ ※ ]、 橋爪門 [ ※ ]、 橋爪門続櫓 [ ※ ]、 河北門 [ ※ ]、 五十間長屋 [ ※ ]、 など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
金沢城 簡易年表
図解 日本の城 より
- 1546年
- 加賀一向一揆の本拠として金沢(尾山)御坊が築かれる。
- 1580年
- 佐久間盛政、金沢御坊を攻略、居城とする。
- 1583年
- 前田利家が入城。
- 1587年
- 高山右近が呼び寄せられ、修築を開始。
- 1881年
- 石川門と三十間櫓以外の建築が焼失。
- 1949年
- 金沢大学のキャンパスとなるが、のちに移転。
- 2001年
- 五十間櫓、菱櫓などが再建され、金沢城公園として一般公開。
参考になるサイト:
金沢城 写真の間
押さえたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 周辺から
☒ 石川門 ⇒ 三の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 の順に
☒ 玉泉院丸庭園
周辺から
石川門⇒三の丸⇒二の丸⇒本丸 の順に
(5)
枡形内のから石川門 二の門
石川門石垣の説明
玉泉院丸庭園
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の金沢城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
金沢城 よろず間
金沢城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった案内図を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
金沢城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた金沢城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 織豊時代やそれ以前に築城され、江戸時代を経て現在に伝わる城郭によくあることですが、ひとつの城だけで異なる石積みの技法を見れることが多々あります。金沢城もその一つで『石垣の博物館』といもわれています。枡形の石川門は打込接(うちこみはぎ)、切込接(きりこみはぎ)が一度に観ることができます。一の門を抜けると正面と右側が切込接、左側が打込接になっています。修復の都合でこのようになったとのことです。また、東の丸ではの野面積みを観ることができます。
[ 2012/07/04 ]
- 海鼠(なまこ)壁が美しい石川門は表門、櫓門、表門北方太鼓塀など8棟が重要文化財に指定されています。
- 三十間長屋、土蔵(鶴丸倉庫)2棟も重要文化財に指定されています。
- 菱櫓、橋詰門、橋詰門続櫓、五十間長屋などが復元されています。
-
搦手口の石川門の裏に日本3名園のひとつ『兼六園』があります。残念ながら金沢城には天守が上がってないので岡山城や彦根城のように庭園越しの天守は望めませんが、兼六園は綺麗で広く楽しめます。
[ 2012/09/23 ]
金沢城 ここが際立つ
金沢城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
石川門は搦手口:石垣や二重櫓などが残って豪華な枡形を形成する石川門は、現在では場所的にここから登城する人も多いのですが、裏口に当たる搦手口です。北側に大手口としてちゃんと大手門があり石垣も残っています。
[ 2012/02/25 ]
- 菱櫓は菱形:橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓と続く先端にある菱櫓。菱櫓は大手や搦手などの周辺を見張る物見櫓として建てられ、『建物の平面が菱形』のため菱櫓の名が付けられています。また五十間長屋は武器倉庫として利用されていました。『建物の平面が菱形』は上述の 金沢城公園ホームページ からご覧いただけますが、 直リンク も張っておきます。
-
天正11(1583)年に前田利家が入城し、天正15(1587)年に流浪の高山右近を呼び寄せ大修築を開始、金沢城と命名されたのはこの時といわれています。利家の死後も息子の利長が母親を江戸に人質として送ったり、徳川秀忠の娘を正室に迎えたりして徳川との関係を深め築城を進めました。しかし、高山右近は慶長19(1614)年にキリシタン国外追放令で国外追放になり翌年フリッピンで客死しています。
[ 2012/07/04 ]
- 交通の要所、戦略的な要衝に立地していることが多い城郭・城跡は明治時代になると重要な軍事拠点となることが多々ありました。金沢城も陸軍の施設が置かれました。戦後は金沢大学のキャンパスが置かれました。壱の間の写真は昭和50年前後で、この時はまだ大学のキャンパスがありました。
- 建物の屋根は普通の瓦ではなく、瓦の形をした木に、鉛板を貼りつけた鉛瓦が使われています。理由として以下のようなことが考えられます。
- 装飾、初めは鉛が銀色ですが時を経るにつれ白くなる
- 鉄砲玉、いざという時に、溶かして弾丸として使うため
- 寒さ対策、通常の土瓦では冬凍って割れることが多いため
金沢城公園ホームページ は間接的に(1)説、戦国武将たちの知られざる城盗り物語 名城発見 は(1)説、(2)説は否定、 図説 日本の名城 は(3)説 です。
確かに、私も登城した際、白くまぶしくすら感じこの白さは何だろうと思いました。
[ 2012/10/10 ]
金沢城で出会った説明板
金沢城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
石垣関連
- ♦ 金沢城の石垣めぐり
- ♦ ① 石川門石垣
- ♦ ② 内堀石垣(鶴ノ丸付近)
- ♦ ③ 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣
- ♦ ⑨ 鉄門石垣
- ♦ ⑩ 東ノ丸北面石垣
- ♦ 三ノ丸東面の石垣
- ♦ 東ノ丸東面の石垣
- ♦ 蓮池堀(百間堀)の石垣
- ♦ 車橋門周辺の石垣
- ♦ 本丸南面の高石垣(辰巳櫓下~申酉櫓下)
- ♦ 明治の石垣
- ♦ 申酉櫓下の石垣
- ♦ 薪の丸東側の石垣
※ 文字が小さい部分は初期状態は非表示。「① 石川門石垣」の最後にある 表示 をクリックすれば閲覧できます。
建造物や遺構など
玉泉院丸庭園関連
※ 文字が小さい部分は初期状態は非表示。「色紙短冊積石垣」の最後にある 表示 をクリックすれば閲覧できます。
鯉喉櫓台関連
石積模型、発掘石の展示関連
- ♦ 河北門下層遺構出土の石材
- ♦ 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓台石垣の修築
- ♦ 橋爪門続櫓台内部から出土した旧材
- ♦ 鬘(かづら)石
- ♦ 切石
- ♦ 細工のある切石
- ♦ 粗加工石
- ♦ 石切丁場での石づくり-切石-
- ♦ 石切丁場での石づくり-築石-
- ♦ 石切丁場での石づくり-角石-
- ♦ キゴ山西丁場跡の石材
- ♦ 金沢城の石垣「石積み技法の模型」
- ♦ 粗加工石積み
- ♦ 切石積み
※ 文字が小さい部分は初期状態は非表示。「河北門下層遺構出土の石材」の最後にある 表示 をクリックすれば閲覧できます。
絵が中心の案内・説明書
石垣関連
金沢城は石の博物館と言われるように色々な形式の石垣が観れ、説明板も充実しています。
金沢城の石垣めぐり
金沢城の石垣めぐり
金沢では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。
さらに、石垣づくりの秘伝書、石を切り出した丁場、石引き道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境がそなわっていることをあわせ、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。
在りし日の城の姿に思いをはせながら、金沢城の石垣をめぐってみてはいかがでしょうか。
≪説明に添えられている図≫
①石川門石垣
① 石川門石垣
この石垣は、右と左で積み方が違います。右側は「切り込みハギ」、左側は「打ち込みハギ」の技法となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられています。
文化年間に書かれた文書には「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されており、石垣の積み方にもいろいろなこだわりや思いがあったこよがうかがえます。
創建 慶長(1596~1614)頃
改修 寛永8年(1631)頃、明和2年(1765)、文化2~4年(1805~1807)
現状 主に明和2年頃の姿をとどめる。
≪説明に添えられている図≫
● 他に9ヵ所ありますが、手持ちは ② 内堀石垣(鶴ノ丸付近)、③ 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣、⑨ 鉄門石垣、⑩ 東ノ丸北面石垣
三ノ丸東面の石垣
三ノ丸東面の石垣
三ノ丸東面の石垣は、文化年間(1803~16)加賀藩穴生の後藤彦三郎、小十郎親子の手で全面的な修築がおこなわれました。「堀縁の石垣は粗く積む」のが作法であるべきと考えた二人は、本来なら石垣勾配にあわせて石を置くべきところを、意図的にずらして荒々しい表情の石垣に積み直したようです。「場にふさわしい石垣づくり」が当時の技術者のこだわりでした。
創建 元和~寛永(1615~1644)頃
改修 寛文頃、文化4年(1807)
現状 文化4年修築時
≪説明に添えられている図≫
東ノ丸東面の石垣
東ノ丸東面の石垣
背後に見える東の丸の石垣は、金沢城で本格的な石垣造りが始まった文禄元年(1592)に造られた城内最古の高石垣です。最上段の6m分は小段をつけて積み上げているものの、石垣の総高は21mに達し、文禄期の石垣としては日本有数の規模を誇る自然石積み石垣です。
創建:文禄元年(1592)
改修:元文元年(1736) 辰巳櫓下
現状:創建時の石垣(一部除く)
≪説明に添えられている図≫
蓮池堀(百間堀)の石垣
蓮池堀(百間堀)の石垣
蓮池堀(百間堀)縁の石垣は、豊富な刻印に特徴があります。刻印は石切場で刻まれた合印と考えられ、金沢城では200種類以上が見つかっています。一箇所の石垣に数種類の刻印が混在するのが通例ですが、ここでは地区ごとにまとまりがあり、数メートル間隔で刻印の種類に変化が見られます。
創建 元和~寛永(1615~1644)頃
改修 元文2年(1737)等に一部改修
現状 上部を除けば概ね創建時
≪説明に添えられている図≫
車橋門周辺の石垣
車橋門周辺の石垣
堀縁の石垣は、本来この付近で車道側に折れて堀の南端に続いていました。そこには増水時に堀の余水をいもり堀側へ落とす水門が造られ、「車橋」という名の木橋と門がありました。
背後左手の石垣は、明治末の道路工事で堀を埋め立てた際の石垣で、当時流行した「谷積み」の手法で積まれています。
創建 元和~寛永(1615~1644)頃
改修 江戸後期から明治初期
現状 江戸後期、明治44年
≪説明に添えられている図≫
本丸南面の高石垣(辰巳櫓下~申酉櫓下)
本丸南面の高石垣(辰巳櫓下~申酉櫓下)
自然面を残す粗割石を積み上げた割石積み石垣です。明治時代に上部が取り壊されて現状の姿になりましたが、もとの高さは約十二間(約22m)以上ある城内随一の高石垣でした。
創建:慶長年間後期(1610年代)
改修:寛文(1661~1673)頃、元文元年(1736)、安永6年(1777)、安永9年(1780)、文化13年(1816)
現状:上部は明治時代に撤去・改変、下部は概ね藩政期の姿を留める
≪説明に添えられている図≫
明治の石垣
明治の石垣
明治40年のいもり堀埋め立ての際、土取りで削り込まれた崖面を保護するため、陸軍が築造した石垣です。
延長約360mの曲線的な石垣は、石材を斜めに落とし込む「谷積み」の技法で造られています。本丸南面石垣の石材を再利用しており、所々に刻印や矢穴が見られます。
創建:明治40年(1907) 頃
≪説明に添えられている図≫
申酉櫓下の石垣
申酉櫓下の石垣
ここでは「粗加工石積み」の石垣をみるこちができます、
向かって右側は、自然面を残す割石を積み上げた、慶長頃の石垣で、もとは石垣の角にあたる部分でした。左側は加工の進んだ石材を用い、刻印が多く見られる石垣で寛永頃新たに継ぎ足されたものです。石垣から城郭整備の過程がよくうかがえる貴重な事例です。
創建:慶長(1598~1615)頃
改修:寛永(1624~1644)頃
現状:上部は明治時代に撤去、
下部は概ね藩政期の姿を留める。
≪説明に添えられている図≫
薪の丸東側の石垣
薪の丸東側の石垣
この石垣は。鯉喉櫓台や二の丸北面と同じっく、形をそろえた石材を整然と積み上げた「粗加工石積み」の石垣で、寛文6年(1666)、加賀藩の穴生(石垣普請職)後藤権兵衛によって改修されたことが記録にみえます、
創建:寛永(1624~1644)頃
改修:寛文6年(1666)
≪説明に添えられている図≫
建造物や遺構など
金沢城には現存の三十間長屋、復原された菱櫓、五十間長屋、櫓台跡などたくさんの魅所があります。
石川門
石川門
金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。二重櫓・渡櫓・長屋から成る重厚な枡形門に造られている。宝暦の大火(一七五九)の後、天明八年(一七八八)に再建され、現在に伝わっている。
昭和二十五年(一九五〇)国の重要文化財に指定された。
石川門
石川門
三ノ丸東端に位置し石川郡に向いていたことから石川門と呼ばれた。石川櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す櫓であった。屋根は鉛瓦を葺いている。国指定重要文化財である。
金沢城の正門 河北門
金沢城の正門 河北門
金沢城三の丸の正門が河北門です。橋爪門、石川門とともに「三御門」と呼ばれ、御殿に至る要所を固めていました。いずれも四角い広場を内と外の門で厳重に固めた「枡形門」形式の城門です。中でも河北門は、大手筋の要所を防備する重要な門でした。
復元建物は、安永元年(1772)に再建され明治15年(1882)頃まで存続していた河北門の姿を多数の資料の調査と検証に基づいて再現したものです。
≪説明に添えられている図≫
遺構の修理と活用
遺構の修理と活用
河北門の復元にあたっては、現存遺跡を修理・活用する整備手法を採用しています。
石垣は。緩みの著しい部分を一旦解体し、破損石材を補修して、忠実に積み直しました。
石組の溝も、遺構を保存しつつ失われた部分を同質の石材で補い、溝本来の機能を活かして整備しています。
≪説明に添えられている図≫
脇柱の礎石
脇柱の礎石
門の復元にあたっては、発掘調査で確認した門礎の構造と絵図面から、柱の位置や寸法を復元しました。
二の門南側の脇柱は、青戸室石製の礎石が当時のままの状態で発掘され、上面には柱を巻いた金物の鉄サビも残っていました。
復原では建物荷重と地盤強度を慎重に検討したうえで、この礎石を再利用しています。
≪説明に添えられている図≫
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓
菱櫓は、二ノ丸北東角にある物見櫓で、名前の通り櫓全体が菱型に造られており、三の丸から新丸にかけての物見と二の丸の防御を兼ねていた。五十間長屋は二の丸最大の長屋で、二の丸や橋爪門周辺の警備の役目を果たしていた。橋爪門続櫓は物見櫓で、橋爪門の出入りを監視する役目を持っていた。これら三つの建造物は、資料や古写真に基づき、文化の大火(一八〇八)後の姿に復元した。
橋爪門
橋爪門
橋爪門は、寛永8年(一六三一)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化五年(一八〇八)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(一八〇九)に再建された姿を復元しています。
枡形
枡形
橋爪門は、高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲まれた「枡形」、続櫓に接する櫓門形式の「二の門」からなり、枡形は城内最大の規模を誇ります。二の門の内側には、番所と石垣台で仕切られた広場が設けられ、二つの枡形を連結したような構成となっています。このような構成は、河北門や石川門にはない特徴です。整備にあたり、江戸時代には枡形内に存在しなかった園路を設けています。
≪説明に添えられている図≫
敷石
敷石
寛永八年(1631)の大火を契機として、本丸にあった御殿は、二の丸に移り、二の丸御殿が藩政の中心となりました。二の丸の正門にあたる橋爪門は、二の門床に御殿の玄関周りと同じく、四半敷き(正方形の石を縁に対し45度になるよう斜めに敷いたもの)で戸室石が敷かれ、格式の高い門であったことを示しています。
≪説明に添えられている図≫
番所
番所
橋爪門は、二の門の内部に番所が置かれています。二の門櫓(二階)への出入りは、番所内に設けた急勾配の階段から出入りしたと考えられます。中には畳が敷かれ、門の通路側は板戸となっています。
二の丸
二の丸
寛永の大火(一六三一)後、二の丸に「千畳敷」と形容される豪華な御殿が建てられ、藩庁として利用された。
元禄年間の増築で拡充されたが、儀式の場である「表向」、殿様が日常政務を行う「御居間廻り」、妻子や奥女中の生活の場である「奥向」という三つの空間に仕切られていた。
雁木坂
雁木坂
このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂と呼ばれる石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿の玄関へ至ります。
≪説明に添えられている図≫
極楽橋
三十間長屋
三十間長屋
宝暦の大火(一七五九)の後、長く再建されず、安政五年(一八五八)に再建された長屋。
大火以前は食器などを納めていたが、幕末の再建後は武器・弾薬を納めたといわれている。
昭和三十二年(一九五七)国の重要文化財に指定された。
鉄門
鉄門
創建は明らかでないが、寛永の大火(一六三一)以降、二の丸から本丸に入る正門となった。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いたといわれている。渡し櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。
本丸
本丸
古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正十一年(一五八三)の賎ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、天正十四年(一五八六)頃に天守閣を設けたといわれる。
天守閣は慶長七年(一六〇二)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。寛永の大火(一六三一)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡
本丸の東南角、辰巳の方向に当たることから「辰巳櫓」と呼ばれていた。長屋を備えた立派な櫓が建っていたが宝暦の大火(一七五九)後は再建されなかった。櫓を支えた石垣は明治の石垣改修により改変され、ほとんど残っていない。
丑寅櫓跡
丑寅櫓跡
本丸の東北角、丑寅の方向に当たることから「丑寅櫓」と呼ばれていた。櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年(一五九二)の築造と推定され、金沢城内最古の石垣である。宝暦の大火(一七五九)後は再建されなかった。
鶴丸倉庫(金沢城土蔵)
鶴丸倉庫(金沢城土蔵)
嘉永元年(一八四八)に建て替えられた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。全国の城郭内土蔵の中でも最大であり、腰の石貼りや窓回りなど意匠的にも優れた遺構として、平成二十年(二〇〇八)に国の重要文化財に指定された。
明治以降、軍隊の被服倉庫などとして利用・修理されているが、基本構造は創建時のままである。
薪の丸
薪の丸
江戸時代には、この地に前田家に伝わった刀剣・書籍等の宝物をおさめる蔵が置かれていた。「薪の丸」の名は、三代藩主利常の正室珠姫が本丸に居住していたころ、薪を置いていた場所であったことからこの名がついたといわれている。
百間堀
百間堀
ここから見える金沢城と兼六園の間は、かつて百間堀のあったところです。
金沢御堂陥落後、佐久間盛政の時代(天正8~11年、1580~1583)につくられ、前田利家の入城後、その子利長により改修されたと言われています。小立野台と金沢城とを分断する、防衛上重要な水堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mあり、その大きさから百間堀の呼び名がついたようです。明治43~44年(1910~1911)の道路工事により、現在のような姿となりました。
なお、別名蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われています。
≪説明に添えられている図≫
金沢城いもり堀と復元整備
金沢城いもり堀と復元整備
いもり堀は、金沢城の南西側を囲む外堀です。江戸時代後期の絵図にや文献にこの名がみえますが、名称の由来ははっきりしません。明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は旧陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。
石川県では、埋蔵文化財調査の結果をもとに、「金沢城河北門等の復元整備専門委員会」の指導助言を得ながら、市道までの金沢城公園の区域内を復元範囲として、堀及び鯉喉櫓台を復元しました。堀には、兼六園を経た辰巳用水の一部を入れ、往時とほぼ同じ水深(5尺≒1.5m)の水堀としました。
≪説明に添えられている図≫
玉泉院丸庭園関連
玉泉院丸庭園は発掘調査などをもとに整備され平成27年3月に完成した美しく綺麗な庭園です。
玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園
2代藩主前田利長の正室玉泉院がこの場所に屋敷を構えたことから、玉泉院丸と呼ばれるようになりました。3代藩主前田利常が、寛永11年(1634)に京都から庭師を招いて庭園を造営したことに始まり、5代綱紀、13代斉泰の時代に改修された記録が残されています。
庭園は、明治期に廃絶されていましたが、平成20年から24年までの5年間の発掘調査や、江戸時代末期の詳細な絵図等をもとに、確認された遺構の上に約2mの盛土をして庭園を再現しています。
大きな池に大小3つの中島を浮かべ、周囲を園路で結ぶ、典型的な池泉回遊式庭園です。
石垣を周囲の構成要素として取り入れ、また、発掘調査で確認された池底の遺構から石垣の最上部までの高低差が約22mもある、立体感に富む庭園であることが大きな特徴です。
整備工事は平成25年5月に着工、平成27年3月に完成しました。
色紙短冊積石垣
色紙短冊積石垣
色紙(方形)や短冊(縦長方形)状の石やV字型の石樋が組み込まれた、金沢城内で最も意匠的な石垣です。石垣の下部を約2m埋め戻したため、現在見ることはできませんが、発掘調査では滝壺の石組みが発見され、V字型の石樋から落水する落差9mに及ぶ石垣の滝だったことが判明しています。
● 他に 井戸、段落ちの滝、坪野石を使った石垣、紅葉橋跡、唐傘 5点の説明板
鼠多門・鼠多門橋
鼠多門・鼠多門橋
鼠多門(玉泉院丸門)は、金沢城玉泉院丸の北西に位置している。門に取り付く木橋(鼠多門橋)は金谷出丸(現在の尾山神社)へと通じ、両郭間の通行路として機能した。
門は江戸時代前期に創建され、宝暦大火(1769)でも焼失しなかった。文献では、明和2年(1765)に鼠多門橋の架け替え、文化9年(1812)に鼠多門長屋の修理、文政4年(1821)に門付近の武具土蔵の新築等の記事が見られ、江戸時代中後期にも施設の整備・修築がなされていたことがうかがえる。
廃城後、明治10年間(1877)には老朽化した鼠多門橋が撤去され、明治17年(1884)には鼠多門が焼失した。門のあった箇所は、新たに積まれた石垣で閉塞されたが、周辺の石垣は現存でも江戸期の姿を留めている。
≪説明に添えられている図≫
鯉喉櫓台関連
鯉喉櫓台が復元整備され、そこに掲示されていた説明板。
鯉喉櫓台石垣の復元
鯉喉櫓台石垣の復元
江戸時代後期の絵図によれば、往時の鯉喉櫓台は、現在の道路中央付近まで続く折れ曲がりの形状となっています。
今回の復元工事では、折れ曲がりのうち歩道手前までの範囲を復元対象に整備を行いました。このため、歩道側の面については、現代工法による擁壁構造としており、櫓台本来の積み方と異なる石積みを行っています。
≪説明に添えられている図≫
鯉喉櫓台の復元整備
鯉喉櫓台の復元整備
石川県では、金沢城復元整備計画(H18.5月)に基づき、平成20年12月から、「鯉喉櫓台」の復元整備に着手し、平成22年3月の完成により往時の姿が蘇りました。
復元工事は、明治40年(1907)に旧陸軍により削平された遺存部から約4.8m分積み増しを行うもので、全体で約900石の石材を使用しています。そのうち、旧陸軍が堀に埋めた約250石(平成15年の埋蔵文化財調査時に発掘)を優先的に使用し、残り約650石を新たに県内産の戸室石を使用しています。
また、石積み作業における、石材の粗加工、表面仕上げ、石積みなどの各工程において、石垣技術の専門家の指導のもと、全て県内の石工職人の手により工事を行いました。
≪説明に添えられている図≫
鯉喉櫓台石垣
鯉喉櫓台石垣
いもり堀の南東の端に築かれた石垣です。絵図によると、堀底からの高さは約14.4mありました。堀に向かって突き出した主要部分は、長辺23.4m、短辺11.8mの規模で、鍵の手に折れ曲がりながら東側の車橋門へ続いていました。
明治40年(1907)、いもり堀の埋め立てと同時に上部が撤去され、地上からいったん姿を消しましたが、平成10年度から実施された発掘により、残存高約9.6m分が確認されました。
発掘された石垣は、寛文4年(1664)の修築時のもので、ツル・ノミ等の工具で形を整えた石材(角閃石安山岩・通称戸室石)が整然と積み上げられており、江戸時代後期の加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「城内随一の石垣」と賞賛しました。
なお、名称の由来については、はっきりしたことはわかっていません。また石垣上の建物としては塀が知られるのみで、櫓は建っていなかったと考えられます。
創建 元和(1615~1624) ないし寛永(1624~1644)頃
修築 正保元年(1644)、寛文4年(1664)
≪説明に添えられている図≫
石積模型、発掘石の展示
いもり堀園地には説明と伴に石積模型、発掘石の展示があります。
河北門下層遺構出土の石材
河北門下層遺構出土の石材
平成18~20年(2006~2008)度に実施した河北門跡の発掘調査で、桝形路面の下層から出土した石垣斉です。
大溝の中に金沢城初期(17世紀初め頃)、の土器等と一緒に廃棄されていました。
石材加工の時期的な特徴がよくわかります。
≪説明に添えられている図≫
● 上記以外にも「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓台石垣の修築」、「橋爪門続櫓台内部から出土した旧材」、「鬘石」、「切石」、「細工のある切石」、「粗加工石」、「石切丁場での石づくり-切石-」、「石切丁場での石づくり-築石-」、「石切丁場での石づくり-角石-」、「キゴ山西丁場跡の石材」 の13点があります。
金沢城の石垣「石積み技法の模型」
金沢城の石垣「石積み技法の模型」
金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれるほど、各時代の様々な技法による石垣が見られます。城内の主要な石積み技法として「自然石積み」、「割石積み」、「粗加工石積み」、「切石積み」の四つの技法がみられます。
ここでは「粗加工石積み」と「切石積み」の模型を展示しています。
細部にまで施された巧みな石積みの技法をご覧ください。
≪説明に添えられている図≫
粗加工石積み
粗加工石積み
割石を加工し、形や大きさをそろえた石材(粗加工石)を用いて積む技法で、櫓や長屋などの外周の石垣にみることができます。二ノ丸北面石垣がその代表れで、加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「城内屈指の石垣」と称賛しています。石材の形や大きさ、加工の様子など、切石積みとの違いをご覧ください。
見どころ紹介 二ノ丸北面石垣 (石垣案板内❹)。
石川門石垣 (石垣案板内❶)。
切石積み
切石積み
城内各所の石垣は、それぞれ表面だけしか見られませんが、ここでは石垣の積み方や、その内部もご覧になれます。切石積みは、丁寧に加工した切石を隙間なく積む技法で、本丸への入口など城の重要な部分の石垣に見ることができます。優れたデザインをご覧ください。
見どころ紹介 数寄屋敷石垣 (石垣案板内❻)。
鉄門石垣 (石垣案板内❾)。
絵が中心の案内・説明書
金沢城にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
金沢城 重要文化財
金沢城では石川門などが重要文化財に指定されています
金沢城は 旧国宝 の「表門」、「表門北方太鼓塀」、「表門南方太鼓塀」、「櫓門」、「続櫓」、「櫓」、「附属左方太鼓塀」、「附属右方太鼓塀」の8棟が「金沢城石川門」として引き続き 重要文化財 に指定されています。また、「金沢城三十間長屋」は昭和32(1957)年に、「金沢城土蔵(鶴丸倉庫)」は平成20(2008)年に重要文化財指定されました。城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
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- 棟名
- 構造及び形式等
- 金沢城石川門
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- 表門
- 高麗門、鉛瓦葺
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- 表門北方太鼓塀
- 延長5.0m、鉛瓦葺
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- 表門南方太鼓塀
- 延長5.7m、鉛瓦葺
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- 櫓門
- 櫓門、入母屋造、鉛瓦葺
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- 続櫓
- 折曲り一重渡櫓、鉛瓦葺
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- 櫓
- 二重二階隅櫓、鉛瓦葺
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- 附属左方太鼓塀
- 延長94.4m、門一所付、桟瓦葺、石落一所、向唐破風造、鉛瓦葺
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- 附属右方太鼓塀
- 延長148.1m、桟瓦葺、石落三所、各向唐破風造、鉛瓦葺
- 金沢城三十間長屋
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- 二重二階多聞櫓、南面入母屋造、北面切妻造、鉛瓦葺
- 金沢城土蔵(鶴丸倉庫)
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- 土蔵造、桁行二一・八メートル、梁間一四・六メートル、二階建、切妻造、桟瓦葺
● 重要文化財の画像 を
金沢城 面白文書、拾い上げ
書籍など、金沢城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
金沢城は前田氏百万石の居城で、この三十間長屋は旧薪の丸に万延元年(一八六〇)火薬庫として造られたものである。 長さ二十六間半もある遺例としてはめづらしい二重二階の多聞櫓で、西面には入母屋造の突出部、唐破風造の出窓を設けるなど金沢城特有の意匠がこらされている。 現在金沢大学の書庫に使用されている。
登城の道のり
登城日:昭和51年頃
登城日:平成21年8月9日
登城日:平成28年11月7日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
金沢城 まで 簡単に説明
- 途中まで車で送ってもらい詳しくは覚えていません。
- 裁判所のところを通ったのは記憶にあります。
- 周辺、城内、兼六園はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
- 登城ルートはGoogleMap上で短かそうな道を探したもので実際に歩いたものではありません。
ストリートビュー:枡形 石川門の内より
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス