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天守、附櫓及び多聞櫓は 国宝

重要文化財も5棟

彦根城

彦根城のご案内

彦根城 ひとくちメモ

所在地
滋賀県 彦根市
別 名
金亀城
築城者
井伊直継
別名の由来
山上の寺院で観音像が黄金の亀に乗っていたところから、金亀山彦根寺と名づけられ、これに因んで。
天守概要
複合式望楼型 3重3階地下1階。
城郭構造
連郭・梯郭式平山城
遺 構
天守[]、 二の丸佐和口多聞櫓[]、 天秤櫓[]、 太鼓門[]、 西の丸三重櫓[]、 馬屋[]、 塀[]、 石垣[]
土塁 など
再建造物
御殿(彦根城博物館)[]
天守の高さ
21.5m ( 石垣4.5m、天守«鯱含む»約17m)

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

天守の高さは «イラスト図解 城» に依る。

彦根城 簡易年表

1601年
井伊直政、上野高崎から近江佐和山城に移る。
1602年
直政、彦根に新たに築城を決意するも病死。
1603年
12大名のお手伝い普請を受けて、彦根築城に着手。
1607年
天守など完成。
1622年
築城工事完了。
1931年
国宝指定。
1987年
表御殿復元。
2007年
築城400年祭行われる。

図解 日本の城 より

参考になるサイト:

彦根城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

いろは松 ⇒ 佐和口 ⇒ 表門 ⇒ 廊下橋 ⇒ 太鼓門櫓 ⇒ 本丸・天守 ⇒ 西の丸 ⇒ 黒門 ⇒ 玄宮園の順に

大手口 ⇒ 廊下橋 のルートも

京橋口 ⇒ 大手口 ⇒ 廊下橋

彦根城:京橋口門

(1)
京橋口門
京橋口門と雁木

彦根城:大手門橋、内堀と犬走り

(3)
大手門橋、内堀と犬走り

彦根城:大手門跡、ふり返って

(4)
大手門跡、ふり返って

彦根城:大手坂、登ると天秤櫓

(5)
大手坂、
登ると天秤櫓

佐和口 ⇒ 廊下橋

彦根城:いろは松

(6)
いろは松

彦根城:佐和口多聞櫓

(7)
佐和口多聞櫓
佐和口多聞櫓の説明

彦根城:馬屋

(8)
馬屋
馬屋の説明

彦根城:二の丸からの佐和口多聞櫓

(9)
二の丸からの丸佐和口多聞櫓

彦根城:表門橋、奥に表門

(10)
表門橋、奥に表門

彦根城:表坂を登ると天秤櫓

(11)
表坂を登ると天秤櫓

廊下橋 ⇒ 玄宮園

彦根城:廊下橋と天秤櫓

(12)
廊下橋と天秤櫓

彦根城:まさにバランスのとれた天秤櫓

(13)
まさにバランスのとれた天秤櫓
天秤櫓(重要文化財)

彦根城:鐘の丸

(14)
鐘の丸
鐘の丸の説明

彦根城:二の丸 佐和口多聞櫓

(15)
天秤櫓の内部
天秤櫓の壁の説明

彦根城:時報櫓

(16)
時報櫓
時報鐘及び聴鐘庵

彦根城:太鼓門櫓

(17)
太鼓門櫓
太鼓門櫓及び続櫓

彦根城:本丸 天守

(18)
本丸 天守
天守

彦根城:天守最上階より琵琶湖

(19)
天守最上階より琵琶湖

彦根城:西の丸より天守を望む

(20)
西の丸より
天守を望む

彦根城:西の丸 三重櫓

(21)
西の丸 三重櫓
西の丸三重櫓のみどころ

彦根城:西の丸 三重櫓の内部

(22)
西の丸 三重櫓の内部
西の丸三重櫓の壁の説明

彦根城:山崎山道を下り西の丸三重櫓を見る

(23)
山崎山道を下り
西の丸三重櫓を見る

彦根城:黒門へ向かう、ふり返って。奥の左が井戸曲輪

(24)
黒門へ向かう、ふり返って
奥の左が 井戸曲輪

彦根城:玄宮園を囲う塀

(25)
玄宮園を囲う塀

彦根城:槻御殿

(26)
槻御殿
槻御殿

彦根城:玄宮園より天守を望む 池に映る天守、絶景ポイント

(27)
玄宮園より天守を望む
池に映る天守、絶景ポイント

登城・撮影日の留書き

写真をクリックすると Google フォト が別窓で開き他の写真もご覧いただけます。

彦根城:玄宮園より天守を望む

玄宮園より天守を望む
2017年10月22日 撮影

彦根城:太鼓櫓門に月

太鼓櫓門に月
彦根城夜楽
2016年5月21日 撮影

彦根城:二の丸 佐和口多聞櫓

二の丸 佐和口多聞櫓
彦根城夜楽
2015年9月19日 撮影

彦根城:門、右には艮隅櫓

玄宮園より天守を望む
彦根城夜楽
2014年11月29日 撮影

彦根城:玄宮園より天守を望む

玄宮園より天守を望む

2012年4月16日 撮影

彦根城:天守

天守
1973年 撮影

彦根城 よろず間

彦根城 縄張りとカメラアングル

※ アングルのマーカー、または数字をクリックすると写真を表示します。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

お勧めカメラスポット私のお勧め写真スポット

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

彦根城 縄張図とカメラアングル

山崎曲輪

出曲輪

西の丸

本丸

鐘の丸

二の丸

佐和口

表門

大手口

京橋口

三重櫓

大天守

太鼓門櫓

時報櫓

天秤櫓

旧西郷屋敷長屋門

馬屋

廊下橋

登り石垣

登り石垣

登り石垣

登り石垣

内堀

内堀

中堀

いろは松

玄宮園

方向指示

※ 縄張図は彦根城にあった案内図 を使用しています。

彦根城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた彦根城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 西の丸三重櫓

    天守は慶長11年(11606)の完成で、 現存する12天守 の一つです。天守、附櫓及び多聞櫓は 国宝 に指定されています。西の丸三重櫓 現存する12三重櫓 の内の一つで、西の丸三重櫓及び続櫓、太鼓門及び続櫓、天秤櫓、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋は 重要文化財 に指定されています。

    西の丸三重櫓 について

    [ 2010/08/01 ]

  • 大名庭園 『玄宮園』 から望む天守が綺麗です。北斎風の橋の下の天守、池に映る天守などいろいろなアングルを楽しめます。
    玄宮園は4代藩主井伊直興により延宝5(1677)年に造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、築城の約50年後のことです。玄宮園のすぐ北にはとともに井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷で、槻(けやき)御殿と呼ばれていた楽々園があります。建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けているとのことです。

    [ 2012/09/25, 2012/10/05 追記 ]

    玄宮園より

  • 破風で飾られた天守

    彦根城天守は入母屋破風千鳥破風唐破風切妻破風を一度に見ることができ合計18個の破風が天守を飾っています。天守に切妻破風があるのは彦根城だけのようです。また、これらの内には「破風の間」という隠し部屋が設けられたものもあり、狭間が切られ防御にも資していました。

    破風の間 について

    [ 2010/08/01 2012/9/25:追記 ]

  • 天秤櫓の石垣

    天秤櫓の土台の石垣は、左右でまったく違う姿を見せている。右側は慶長年間の築城当初のもので、左側は幕末に積み直された落とし積によるものである。( 日本の城郭 鑑賞のコツ65 より、残念ながら私の写真では石垣に草?が茂って確認できません )
    再登城の写真ではこれが解り、右に示します。
    右側は「牛蒡積(ごぼうづみ)」、左は同じことと思うのですが「落とし積」や「 切石積」と言っています。[ 「落とし積」と「切石積」は同義語で人によって使い方が異なるのか少し相違があるのか詳しくは分かりません。 ]

    [ 2010/08/01 2012/7/2,2012/10/5:追記 ]

    石垣 について

  • 左右対称(?)の天秤櫓

    天秤櫓は名前のように左右対称と思いがちですが少し対称が壊れています。両サイドの二重櫓が互い違いになっています。右の写真では右側の二重櫓では平入り(平側を正面とする)、左側の二重櫓では妻入り(妻側を正面とする)が見えています。

    天秤櫓 について

    [ 2012/07/2 ]

  • 鉢巻石垣 腰巻石垣

    藤堂高虎が関わったお城によく見られる犬走り、彦根城の表門橋から大手門橋にかけての内堀で見ることができます。右の写真で上段の石垣を「鉢巻石垣」、下段の石垣を「腰巻石垣」と呼び、この二つが重なる石垣は非常に珍しいものです。私の写真にはありませんが 江戸城 にもあるそうです。

    [ 2012/07/2 ]

  • 登り石垣

    登り石垣:洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など現存例が少ない登り石垣を見ることができます。登り石垣は、豊臣秀吉が朝鮮侵略の際、日本軍が築いた「倭城〔わじょう〕」に用いられ、高さ1~2mの石垣が山の斜面を登るように築かれています。この登り石垣が非常によい状態で保存され見ることができます。

    登り石垣 について

    [ 2012/07/2 ]

  • HIKONE Web ガイド - 国宝・彦根城築城400年祭(410年祭にリニューアルされこのページはなくなっています)によると彦根城では少なくとも7ヶ所で転用石 を観ることができます。場所は

    1. 石仏:「着見櫓台東面石垣」(普段歩けない所です)
    2. 宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎:「裏坂曲がり角」(下り左側石垣、見つけやすい)
    3. ほぞ穴(ほぞあな)付台石:「太鼓門櫓左隅石垣」(見つけやすい)
    4. 石棺材:「鐘の丸登り口右の根石」(分りにくい)
    5. 宝篋印塔基礎:「鐘の丸石垣出角、大手竪掘の前」(分りにくい)
    6. 小型石塔部品数個:「大手桝形石垣の中から」
    7. 宝篋印塔基礎:「内堀外側、彦根東高校前の分岐道路」(堀側に身を乗り出すと見ることができる)
    8. 「鐘の丸石垣」の中にも何個かあります(分りにくい、管理人追加)

    場所は上の説明では少し判りづらいので地図で示します。

    解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

    場所指示

    1

    場所指示

    2

    場所指示

    3

    場所指示

    4

    場所指示

    5

    矢印

    矢印

    場所指示

    6

    場所指示

    矢印

    場所指示

    8

    画像無し

    「普段歩けない所」とのこと

    天守裏より黒門へ、曲がって直

    井戸曲輪の案内板付近

    転用石だけを拡大

    太鼓門櫓左隅の石垣

    見落としそうな場所。

    天秤櫓からの写真で見つけ出しました

    転用石だけを拡大

    鐘の丸から見下ろすと見えます

    隅石の上から6番目

    大手桝形から見上げると見えます

    隅石の上から6番目

    大手桝形より鐘の丸の石垣

    櫓門跡?

    多分、これ!少し長いレンズ 要

    屋形船でも見れるようです

彦根城 ここが際立つ

彦根城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 彦根城は 天下普請 の城。12大名が駆り出され周辺の佐和山城、大津城、安土城、長浜城や寺院などの石材などが再利用されました。「井伊年譜」によると天守は大津城、天秤櫓は長浜城の大手門、太鼓門櫓・佐和口多聞櫓は佐和山城、西の丸の三重櫓は小谷城天守移築 とのこと。近隣の城や寺院が活用され工期の短縮が図られています。

  • 廃城令で破却されるはずでしたが、1878(明治11)年に彦根城を訪れた大隈重信が城を視察、消失を惜しんで明治天皇に保護を奏上し破却されずにすみました。おかげで現在は 国宝 として聳え立っていられます。

  • 彦根城のゆるキャラ ひこにゃん は猫に赤い鎧、なぜ? 赤い鎧は徳川の先陣をきる勇猛果敢な井伊の『赤鎧』から。うろ覚えですが信玄の『赤鎧』の系統を引いていたとの覚えがあります。『猫』は彦根藩二代藩主・井伊直孝が江戸詰めのおり、鷹狩りの帰りにある寺の前で白い猫に手招きされその寺でひと休みしました。おかげで雷雨にあわずにすんだという逸話から猫との縁がありました。ちなみにこの寺は世田谷の豪徳寺で井伊家の菩提寺になったとのことです。

    [ 2015/05/12 ひこにゃんの画像追加]

[ 2012/07/2 ]

彦根城 城内で出会った説明板

彦根城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

彦根城

彦根城

彦根城

彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城へ移ってきた。

その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け七ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25km(75,800余坪) 周囲約4km(1里) 高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。

昭和26年(1651年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓櫓・西の丸三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。

彦根城の外堀跡

彦根城の外堀跡

彦根城の外堀跡

《護国神社の前より》

目の前に広がる凹地は、江戸時代の外堀跡です。かつては、現在の車道を含んだ堀幅があり、満々と水を湛えていました。江戸時代には、この外堀はさらに城下町の北東までまっすぐに伸びて御船入で松原内湖につながり、さらに琵琶湖に通じていました。

彦根城は、内堀・中堀・外堀の3重の堀が城山を取り囲むように設けられ、城下町が広がっていました。現在、内堀と中堀は往時の姿を良好に留めていますが、外堀については戦後のマラリア対策により埋め立てられれ道路(昭和新道)となり、当初の凹地のほか数ヶ所が残っているに過ぎません。

江戸時代、藩主の「国入り」(江戸から彦根に帰ること)は、図の点線のルートを通りました。中山道を離れて彦根道に入り、佐和山の切通しを超えて松縄手に至った藩主は、駕籠を降りて馬上の人となり、切通口御門から松の下(現在の「いろは松」)を経て、佐和口御門を入り表御門(現在の彦根城博物館)に到着しました。松の下では馬を降り、徒歩で主だった家臣たちの出迎えを受ける大切な儀礼が行われました。

≪説明に添えられている図≫

護国神社前の常盤橋からみた
旧外堀の古写真

御城下惣絵図部分
(点線は藩主の国入りルート)

井伊大老(直弼)歌碑

井伊大老(直弼)歌碑

井伊大老(直弼)歌碑

《井伊大老(直弼)歌碑》

あうみの海 磯うつ波の

御世にこころを

安政七年(一八六〇年)正月(同年三月十八日に万延と改元)、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、伊井家菩提寺に納めたと伝えられる。

この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。

&直弼は、この三ヶ月後の三月三日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。

≪説明に添えられている図≫

井伊直弼画像(清涼寺蔵)

馬屋

馬屋

馬屋

《馬屋の内部の様子》

藩主の馬などを常備した建物。この建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東側に畳敷の小部屋、対する西側近くに門があるほかは、すべて馬立場と馬繋場となっている。21頭もの馬を収容することができた馬屋は、さらに南側に伸びていたようであるが、現在は復元されていない。全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として礼がなく、国の重要文化財に指定されている。

重要文化財(建造物)彦根城馬屋

重要文化財(建造物)彦根城馬屋

重要文化財(建造物)彦根城馬屋

《重要文化財 馬屋》

彦根城は、伊井家代々の居城で、慶長八年(一六〇三)より築城に着手し、元和八年(一六二二)に城の姿が完成したといわれます。

この馬屋の建立年代は、やヽ下って元禄時代の末頃(一七〇〇)と考えられています。

明和四年(一七六七)に近くの櫓(佐和口多聞櫓)が焼け落ちたとき、馬屋の一部が焼け、その部分の再建に馬屋の一部を縮小するとともに、こけら葺きの屋根が桟瓦葺きにかえられました。

また明治年間には、門から南側の建物がこわされ、残った部分も馬繋ぎのかまえがほとんどなくなっていました。

昭和四十一年から同四十三年にかけての解体修理によって、二十一頭の馬を繋ぐかまえにもどされ、屋根もこけら葺になりましたが、下図のように門から南の部分は、当初の姿にもどすことはできませんでした。なお門番部屋の南は古図に「コシカケ」とあり、下級武士のたまり場だったようです。

このように城内の馬屋が今まで残っている例は、他ではみられないめずらしいものであります。

昭和四十三年九月記

滋賀県教育委員会

彦根市

彦根市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

馬屋の平面図

馬屋

馬屋

馬屋

《馬屋 東面》

馬屋は、二の丸佐和口多聞櫓のすぐ北側に位置するL字形をした建物で、北側潜戸をつけた門があり、内部には、21もの馬立場・馬繋場が設けられ、東端には馬を管理する小部屋が付けられています。

屋根は柿葺で、壁は、上を大壁とし下を簓子下見板張となっています。

この馬屋には、常時藩主の馬十数頭がつながれていました。

建立年代は明らかではありませんが、元禄年代(1688~1703)頃と考えられています。この馬屋は、全国の近世城郭内に残る大規模なものとして、他に例がなく昭和38年7月1日に重要文化財に指定されています。

≪説明に添えられている図≫

重要文化財 馬屋

重要文化財 馬屋

指定文化財:解説シート 重要文化財 馬屋

《L部角より外を見る》

 表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長いたてものが馬屋です。この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として例がなく、国の重要文化財に指定されています。

 屋根の建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東端に畳敷の小部屋、対する西端近くに門がある他は、すべて馬立場と馬繋場となっています。その数21。21頭もの馬を収容することができました。馬屋は、さらに売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていません。

 この馬屋は藩主などの馬を常備したものでした。こうした馬屋の他にも、かつて表御殿(現在の彦根城博物館)の玄関脇には客用の馬屋があり、また槻御殿(現在の玄宮楽々園)やお浜御殿などの下屋敷には、馬場があって馬の調教が行われていました。

 武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても、著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて、武術が藩内で学び継がれました。馬術も例外ではなく、2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及しました。8代藩主直定はとくに馬術を好んだ藩主として知られますが、藩士も250石以上は馬扶持を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠りませんでした。

 こうした馬に関する役職として馬役がありました。彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南しました。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され」、藩主などに供されていたのです。

≪説明に添えられている図≫

☒ この解説シートは 彦根市のホームページ よりPDFファイルで入手できます。

馬屋の構造

馬屋の構造

馬屋の構造

《馬屋の様子》

馬の居る馬立場は、前方の馬つなぎ柱2本と、後方の押柱2本で区画されています。前方の馬つなぎ柱には手綱通しの金具が上下2段に設けられており、ここに馬の手綱を縛りました。また、上部には桁を渡し、一対の猿耳を取り付けて馬の胸部に回す腹掛けを固定していました。

一方、床は板張りとなっていますが、その下を擂鉢状の漆喰製叩きとし、最も低くなる中央に甕を1つ配しています。馬の排泄物を処理し易くするための工夫です。

≪説明に添えられている図≫

反射が映りこみ画像処理をしていますが

かなり見難い

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)

《いろは松 佐和口多聞櫓》

江戸時代

指定年月日 昭和26年9月22日

佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで「いろは松」に沿った登城道の正面に位置しています。佐和口には、かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていました。城門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていました。

重要文化財 佐和口多聞櫓

重要文化財 佐和口多聞櫓

指定文化財:解説シート 重要文化財 佐和口多聞櫓

《佐和口多聞櫓》

「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く4つの門の1つ。表門に通じる入り口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つでした。

重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口の向って左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長い平屋が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度屈折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向かって△と□の狭間が交互に配置されています。

現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地がひろがります。かつてこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。空地はその名残です。ちなみに桝形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され、現在の櫓は昭和35年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物(開国記念館)です。

佐和口多聞櫓の建立について詳しいことはわかっていませんが、彦根城がおおよその完成をみた元和8年(1622)までには建てられていたと考えられます。その後、昭和4年(1767)に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は昭和6年から8年にかけて再建されたものです。

≪説明に添えられている図≫

 

☒ この解説シートは 彦根市のホームページ よりPDFファイルで入手できます。

佐和口多聞櫓の壁

佐和口多聞櫓の壁

佐和口多聞櫓の壁

《佐和口多聞櫓の内部》

佐和口多聞櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁となっています。土壁は、竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねています。建物の外面は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」となっていますが、内面でも貫の部分は塗り込められて内壁の表面が波打っています。

また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしています。その暑さは30cmを超えています。このように厚くなっているのは、防弾の必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁としています。

佐和口多聞櫓のどちら側が二重壁になっているか、確認してみてください。二重壁のある側には、敵を監視する窓や△と□の鉄砲狭間も設けられており、眼下は中堀に面した外側になっているはずです。

なお、細長い多聞櫓の室内の2箇所には、片面に壁土を塗り込めた「防火間仕切」が設けられています。この間仕切は屋根裏まで立ち上がっています。併せてご確認ください。

≪説明に添えられている図≫

波打つ「真壁造り」

の内壁

防火間仕切

 

二重壁に設けられた鉄砲狭間

 

壁を二重壁

とした外側

鐘の丸

鐘の丸

鐘の丸

《鐘の丸》

築城当初、鐘楼が当地に存在したため鐘の丸と称すが、鐘の音が城下北方にとどかなかったため、太鼓丸の現在地に移設したという。この鐘の丸には「大広間」や「御守殿」などの建物が存在したが、大広間は享保17年(1732年)に解体されて江戸へ運ばれ、彦根藩江戸屋敷の広間に転用されたようである。

天秤櫓(重要文化財)

天秤櫓(重要文化財)

天秤櫓(重要文化財)

《天秤櫓(重要文化財)》

この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜白大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つといわれている。嘉永7年(1854年)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ西半分は落とし積みになっている。

重要文化財 天秤櫓

重要文化財 天秤櫓

指定文化財:解説シート 重要文化財 天秤櫓

《重要文化財 天秤櫓》

天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要の位置に築かれた櫓です。この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両端に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。けれども詳細に見ると両端の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門として堅固さを感じさせます。

大手門と表門からの道が合流する天秤櫓の下は、鐘の丸から天守へと伸びていた尾根を、築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所で「堀切」と言います。堀切には橋が架かっていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できません。戦となれば、この櫓が果たす役割は重要でした。

天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の歴史書である「井伊年譜」には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記しています。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることが判明し、「上り藤」や「三つ柏」など井伊家の家紋とは異なる紋瓦も確認していますが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するまでには至っていません。

天秤櫓はおよそ400年の長い年月の間に、幾度か修理を重ねてきました。中でも嘉永7年(1854)の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています。堀切から天秤櫓を見上げてみてください。右手の高石垣が、越前(現在の福井県北部)の石工たちが築いたと伝える築城当初の「牛蒡積み」。そして、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の「落し積み」です

≪説明に添えられている図≫

☒ この解説シートは 彦根市のホームページ よりPDFファイルで入手できます。

天秤櫓のみどころ

天秤櫓のみどころ

天秤櫓のみどころ

《天秤櫓門》

表坂・大手坂・鐘の丸の敵陣に対応した、コの字型に配置した城門と両側の続櫓である。
天秤櫓は、天秤ばかりのような廊下橋を中心に左右対称と言われているが、左右の窓の数に違いがある。(正面の壁の厚みに防御策がある)
両端の二重櫓は、右(東側)が江戸に、左(西側)が京の都に正面を向けた時代背景を反映した形で建てられている。
窓の格子木は、弓や鉄砲等で敵陣を広く狙えるように菱形の木材を使用している。
天秤櫓門は、侵入者が門を突破しようとして扉の下に梃子を差し込むのを阻む「蹴放」と、門扉を持ち上げて外そうとしても押さえ付ける「まくさ」を仕組んだ城門になっている。
天秤櫓は、表(正面)から本丸に攻めてくる敵陣の反撃を堀切を利用した落とし橋などで防御する重要な要塞の役割を担っている。
櫓の柱にはチョンナ目がある。また、武具などを保管する武器庫として活用されている。

≪説明に添えられている図≫

天秤櫓の壁

天秤櫓の壁

天秤櫓の壁

《天秤櫓の内部》

天秤櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁となっています。土壁は、竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねています。建物の外面は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」となっています。

また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしています。その暑さは30cmを超えています。このように厚くなっているのは、防弾の必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁としています。

天秤櫓のどちら側が二重壁になっているか、確認してみてください。二重壁のある側が、深い「大堀切」に面した外側になっているはずです。

≪説明に添えられている図≫

「大壁造り」の外壁

 

「大壁造り」の内壁

 

壁を二重とした

>外側

天秤櫓

天秤櫓

天秤櫓

《鐘の丸から渡された廊下橋》

天秤櫓は、鐘の丸から渡された廊下橋が多聞櫓の中央に開かれた城門に架けられ、左右に二重二階の隅櫓を配し、天秤のように左右バランスがとれている構図をもつ櫓です。慶長八年(1603)から十一年(1606)にかけて建立されたもので、長浜城の大手門を移築されたと考えられています。

門のその後については、宝永三年(1706)、天明四年(1784)、嘉永七年(1854)、明治二十五年(1892)にそれぞれ修理が行われています。この内嘉永の修理が最も大規模で、このとき中央部より西側はすっかり改造されています。このとき石垣も積替えられており、東半分が古式の牛蒡積みであるのに対し、西半分は新式の落し積となっています。

鐘の丸から渡された廊下橋は、往時、両側に壁があり、屋根をもった橋で、中の人の動きが外から見えない構造になっていました。

(昭和26年9月22日、重要文化財指定)

≪説明に添えられている図≫

竣工正面図

竣工西側面図

竣工東側面図

竣工背面図

時報鐘及び聴鐘庵

時報鐘及び聴鐘庵

時報鐘及び聴鐘庵

《時報鐘》

この鐘は、12代藩主井伊直亮の弘化元年(1844年)に鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅にとどかなかったので現在地に移した。現在は午前6時、9時、正午、3時、6時と1日5回ついている。

大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道にひかれ自らも「宗観」と号し、修行をつづけた。大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名である。この精神をしのび、時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待をいたしております。

彦根城の時報鐘と虫の音

虫や渓流、鐘や祭など地域で愛されている音の聞こえる風景を残そうと、環境庁が平成8年6月5日「日本の音風景百選」を決め、彦根市からは「彦根城の時報鐘と虫の音」が選ばれた。彦根城内から3時間ごとに時を告げる時報鐘の音、城山の夏の夕暮れ時のヒグラシの蝉時雨、玄宮園での鈴虫、松虫の鳴き声、将来に残したい音風景です。

太鼓門櫓及び続櫓(重要文化財)

太鼓門櫓及び続櫓(重要文化財)

太鼓門櫓及び続櫓(重要文化財)

《太鼓門櫓 背面から》

    桃山時代

    指定年月日 昭和26年9月22日

本丸の表口を固める櫓門。築城時に他の城から当初に移転されてきた建物です。櫓門としては珍しく、その背面が開放されて高欄付きの廊下となっています。

重要文化財 太鼓門櫓

重要文化財 太鼓門

指定文化財:解説シート 重要文化財 太鼓門

《重要文化財 太鼓門》

本丸にそびえる天守を目の前にして最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄を付して1間通りを廊下にしています。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。

太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。長い間、太鼓門櫓は、彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものと考えられてきました。彦根寺は観音信仰の寺として広く知られていました。彦根山に向かって西に伸びる「巡礼街銅」は、かって、この彦根寺へ多くの都人がこぞって参詣したため付けられた名称ですが、こうした観音霊場では納札を寺の建物などに打ち付ける習わしが古くからあります。太鼓門櫓には門の柱に古い釘穴がたくさん残っており、その釘穴を納札を打ち付けた傷跡と考えて彦根寺山門の移設説が生まれ、広く流布していたようです。

ところがこの説は、昭和31年から昭和32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否定されました。解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物もまたまたどこかの城の城門であったことが判明したのです。しかもかつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。ただ、どちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。

≪説明に添えられている図≫

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天守

天守

天守

《ライトアップされた天守》

3階3重の天守。規模は比較的小ぶりだが、屋根は『切妻破風』『入母屋破風』『唐破風』を多用に配しており、2階と3階には『花頭窓』、3階には高欄付きの『廻縁』を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せている。この天守は大津城(滋賀県大津市)の天守を移築したものと伝えられている。

鯱  瓦の製法

鯱 瓦の製法

《天守に展示していた鬼瓦》

屋根の棟端を飾るものに鴟尾・鯱・鬼瓦・獅子口などがある。

これらの本来の役割には熨斗瓦を積み上げた棟の両端から雨水の浸入するのを防ぐことにある。

鴟尾は一種の魔除けとして屋根に置いたと考えられる。又、大棟のみに飾られた。

鴟尾から鯱へ

中国では、鴟尾の起源をインドから伝わった怪魚「マカラ」に求める説があった。

マカラとは敵を防ぐ力を持つとする獣とも魚ともつかない怪獣で、インドではこれを入り口に飾っていた。

このマカラの思想が中国に入って海中に住み、雨を降らす怪魚から天上に住む魚尾星と解釈され、鴟尾から鯱へ変身した。

それにともなって、前代の鴟尾とは違って防火を願ったものへと変化する。

この鯱をわが国へもたらしたのは禅宗であった。

鯱を城郭に用いた最も早い例は信長の安土城であった。

(和瓦のはなし 藤原 勉・渡辺 宏著 山田幸一監修)


瓦の製法

六世紀に日本へ伝来したのは平瓦の製法は樋巻四枚づくりと呼ばれる成形であった。

奈良時代になると、この四枚づくりが捨てられ、一枚づくりへと転換した。

一枚づくりとは成形台に一枚分の粘土板を載せて叩く方法である。

その後、ロストル式平窯(焼成室の床下に炎の走る数条の火道を設けた窯)で瓦を焼いた。

(和瓦のはなし 藤原 勉・渡辺 宏著 山田幸一監修)

≪説明に添えられている図≫

城壁

城壁

城壁

《天守の内部》

城郭の壁(城壁)は通常の住宅や、お堂の壁の様に同じ土壁といっても性格が異なり、工法も変わります。城壁では機能的に耐火性が重視され、刀槍や銃弾などによる機械的破壊力にも耐えなければなりません。

これらの機能は一般の建築にも多かれ少なかれ要求されるものでありますが、城壁の場合に特にそれが強調されています。着火の恐れの最も多い軒裏等を、まず、塗篭にするという現象が起こり、その後、城壁の外部は柱を見せない大壁が一般的になり、塗厚も飛躍的に厚くなって、やがて建物全体を大壁で包み込む総塗篭形式に発展していきます。


⚫彦根城の城壁

&天守一階及び附櫓の壁は(下記の図)、竹小舞を内外二重に編み、その間に詰石層を作っていますが、これは刀槍などによる破壊を防ぐためのもので、この工法は移築前の大津城の仕様を踏襲したものとおもわれ、外部の板貼りなどと並ぶ古式の一つでもあります。

≪説明に添えられている図≫

国宝彦根城天守一階及び附櫓外壁詳細

火頭窓

火頭窓

火頭窓

《展示の

火頭窓枠》

鎌倉時代に禅宗建築として伝来した建築様式を禅宗様(唐様)という。中国の宋時代に行われていた様式をそのまま輸入した様式で、初めは禅宗建築のみに用いられていたが、やがて他の宗派の建築にも波及し、のちには、一般の寺院建築や城・住宅にも広く使われた。

火頭窓には、花頭窓、火灯窓、火燈窓、架頭窓、華頭窓など、いくつかの字があてられるが、要するに上部が繰型をなす曲線から成る窓のことである。石山寺本堂の源氏の間にあるところから「源氏窓」と呼ばれることもある。一般的な傾向として、古い形式のものは竪框が垂直に近く、時代が下がるにつれて脚元がひらいていく。中央頂部が尖塔形となっていて火のように見えるところから、火頭窓というが、木造建築では火の字を嫌うので花頭窓と書かれるようになったといわれる。火頭窓の形状にも変形があらわれ、その形状のより蕨火頭、富士火頭、琴締火頭などと呼ばれるものもある。

出入口に火頭形が用いられりことは禅宗建築ではあまり行われなくなってしまったが、桃山時代以後、霊廟や茶室の給仕口や茶道口に用いられている。ただし、頂部は尖頭形ではなくアーチ状である。

蕨火頭というのは、上部の窓框が蕨手形に巻き込んだ形をもっているものをいう。富士火頭というのは、上部を台形に富士山状に整形したもので、大徳寺孤篷庵方丈玄関の壁面に用いられている。これは遠州好みといわれており、いかにも遠州らしい明晰な意匠感覚による造形といえよう。

≪説明に添えられている図≫

 

国宝 彦根城天守

国宝 彦根城天守

指定文化財:解説シート 国宝 彦根城天守

《国宝

彦根城天守》

彦根城と城下町の建設は、今からおよそ400年前の慶長9年(1604年)に始まり、20年近い歳月をへて完成しました。その中心をなしたのが、天守のある本丸です。現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の居館である「御広間」や「宝蔵」、そして「着見櫓」なども建っていました。

天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。

天守の建物構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高麗を付けた望楼を乗せる古い形式を残しています。昭和32から35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607年)ころであることが判明しました。また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました(上図)。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城天守が大津城(滋賀県大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。

戦争とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦争を経験することなく平和な江戸時代を迎えました。江戸時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。

≪説明に添えられている図≫

前身建物推定断面図

 

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破風の間

破風の間

破風の間

《破風の間》

 彦根城天守は、規模は比較的小振りですが、屋根に多様な破風が設けられているのが特徴のひとつです。これらの破風内には、破風の間という小部屋を設けているものがあります。破風の間には鉄砲狭間が切ってあり、防御のための小空間となりました。破風の間は、その下屋根の軒近くまで突き出しているので、屋根面による死角がすくなく、防御に有効でした。

≪説明に添えられている図≫

天守の破風外観

天守の破風の間
(隠し部屋とも称される間には、鉄砲狭間が切られている。)

西の丸三重櫓(重要文化財)

西の丸三重櫓(重要文化財)

西の丸三重櫓

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《西の丸三重櫓》

西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しています。小谷城天守を移したと伝えられている三重櫓には、天守のように装飾的な破風などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし、簡素な中にも気品のある櫓です。

重要文化財 西の丸三重櫓

重要文化財 西の丸三重櫓

指定文化財:解説シート 重要文化財 西の丸三重櫓

《西の丸三重櫓》

彦根城内には、天守の外にも2棟の3階建物が在りました。1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓でした。

西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪との間に設けられた深い堀切(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦め手(裏手)方面からの敵に備えた守りの要でした。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風などありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし、簡素な中にも気品のある櫓となっています。この建物は浅井長政の居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認できませんでした。同時に解体修理によって、柱や梁などの部材の8割近くが、江戸時代後期の嘉永6年(1853)に実施された大修理で取り替えられていることが判明しました。今日見ることのできる西に丸三重櫓は、築城当初ではなく江戸時代後期の姿と言って良いでしょう

なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴った『井伊年譜』を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐に預けられていました。当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としていたようです。

≪説明に添えられている図≫

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西の丸三重櫓のみどころ

西の丸三重櫓のみどころ

西の丸三重櫓のみどころ

《西の丸三重櫓》

西の丸は、三重櫓と東側の多聞櫓、西側の多聞櫓からの続櫓で防御されている。
三重櫓の三層部分は、監視と見張り用に窓が設けられてあり、一、二層は攻撃用として城外側だけに窓がある。言い換えれば、攻めてきた相手を攻撃する櫓と言える。
彦根城内には三つの三重櫓があり、西の丸三重櫓(天守・山崎郭)はその一つである。
西の丸三重櫓は、嘉永六年(1853年)大修理され、柱や梁の8割近くが移築時のものから江戸時代後期のものに取り替えられている。
移築時の立証として転用材が、階段の床板や側柱等にほぞ穴痕が残っている。
西の丸三重櫓は、湖上からの攻撃や裏門からの要塞として、竪堀・登り石垣や廊下橋の縄張りも施されている。
彦根藩筆頭家老の木俣土佐守も常時三重櫓に詰め、湖上の警備・監視に努めている。

≪説明に添えられている図≫

西の丸三重櫓の壁

西の丸三重櫓の壁

西の丸三重櫓の壁

《西の丸

三重櫓内部》

西の丸三重櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁となっています。土壁は、竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、漆喰の順に塗り重ねます。建物の外側は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」となっています。

また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしています。その厚さは30cmを超えています。このように厚くなっているのは、防弾が必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁としています。

西の丸三重櫓のどちら側が二重壁になっているか、確認してみてください。二重壁のある側に敵を監視する窓や鉄砲狭間もあり、眼下は深い「大堀切」の広がる外側になっているはずです。

≪説明に添えられている図≫

「大壁造り」の外面

「真壁造り」の内面

壁を二重壁とした外側

大堀切と出郭

大堀切と出郭

大堀切と出郭

《観音台より》

西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、尾根を断ち切るように大堀切が設けられている。大堀切に掛かる木橋の外にあるのが『馬出し』の機能を持った出郭である。『井伊年譜』には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている。

槻御殿

槻御殿

槻御殿

《槻御殿》

第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677年)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として建築され、木材はすべて槻(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。大老井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日ここで生まれた。これらの建物は数棟の東屋(あずまや)よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時のおもかげをとどめている。第12代藩主井伊直亮が文化年間(1804年~1817年)に楽々之間を増設して以来、槻御殿という正式の名よりはむしろ楽々園の名のほうが有名になった。

楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。

井戸曲輪(いどくるわ)

井戸曲輪(いどくるわ)

井戸曲輪(いどくるわ)

《井戸曲輪》

 黒門から本丸へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。弧状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓が築かれ、周囲は瓦塀が巡っていました。塩櫓の近くには方形と円形の枡が現存しており、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸であったと考えられます。曲輪の名も、この井戸に因んで名づけられたのでしょう。「塩」と「水」は籠城戦いともなれば兵士の体を維持するために必要不可欠なものです。井戸曲輪は小さな曲輪ですが、黒門から進入する敵兵に対する守りであるとともに、彦根城を守備する兵士の生命維持に必要な物品の備蓄が配慮された曲輪でもありました。

 なお、この曲輪の上下石垣は、高さが10mを越える高石垣となっています。とくに下方の石垣は高さは19.4mあり、彦根城の石垣の中では最も高く堅牢な構造となっています。

≪説明に添えられている図≫

『御城内御絵図』に描かれた

井戸曲輪の全容(赤丸は井戸の位置)

登り石垣

登り石垣

登り石垣

《登り石垣》

彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5箇所に築かれています。

登り石垣は、文字どおり山の斜面を登るように築かれた石垣です。斜面をよく見ていただくと、高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びているのがご覧いただけると思います。石垣の向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。かつてこの石垣の上には、さらに瓦塀が乗っていたようです。

登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られる城郭遺構です。日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など限られた城にしか見ることができません。

≪説明に添えられている図≫

彦根城の第一郭を

描いた「御城内御絵図」

○は5箇所の「登り石垣」

現在地から

見ることの出来る

「登り石垣」と「竪堀」

「御城内御絵図」に

描かれた現在地

旧西郷屋敷長屋門 附袖塀 堀及び高麗門

旧西郷屋敷長屋門 附袖塀

堀及び高麗門

彦根市指定文化財

旧西郷屋敷長屋門 附袖塀 堀及び高麗門

昭和四十八年四月二十八日 指定

《旧西郷屋敷》

内濠と中濠とに囲まれたこの付近一帯は、上級武士の屋敷があったところで、この位置は、江戸時代後期の天保七年(一八三六)に作成された彦根城御城下惣絵図によれば、西郷伊豫(三千五百石老中)屋敷にあたります。

この長屋門は老朽化に伴い平成四年度から平成七年度にかけて大阪高等裁判所によって解体修理が実施されました。

修理中に発見された墨書により、この長屋門は寛保二年(一七四二)に西郷の庵原家で建てられたものを、明治十六年(一八八三)裁判所が整備されることに伴い、現在の場所である旧西郷屋敷地内に移築されたものであろうと考えられます。

これだけ大きな長屋門はほかに例がなく、城と濠と長屋門 それに続く土塀から昔のおもかげを今も伝えています。

この長屋門の構造・形式

桁行 四三.九メートル、梁間 五.〇メートル

一重、入母屋造、背面庇附き、桟瓦葺

彦根市教育委員会

京橋口門と雁木

京橋口門と雁木

京橋口門と雁木

《京橋口門》

 彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが京橋口門です。京橋口門は、第2郭の重臣屋敷と第3郭の本町筋の間にあり、内堀も大手門にも通じる要所に位置しています。門の内側に設けられた枡形には、かつて中堀に接して高麗門(図では「冠(木)御門」と表記)があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていました。古写真を見ると、櫓門は門の上に2階2重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びています。門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていました。

 この多聞櫓の内側には、長大な石の階段が造られています。これを雁木と称します。雁木は、多くの城兵が一度に多聞櫓を駆け上がれるように築いたもので、城を防衛するための工夫です。彦根城では門跡の内側ではこのような雁木をたくさん見ることができます。

≪説明に添えられている図≫

京橋口門外観古写真(明治9年撮影)

「御城下惣絵図」に描かれた京橋口

彦根城 天守 諸々

ちょっと目立った天守の内部

湾曲した木材(廃材か? 穴を埋めた痕も)を巧みに組み合わせた木組の天井と屈強な鉄扉。

湾曲した木材を巧みに組み合わせた

木組の天井

木材(廃材か? 穴を埋めた痕)の木組の天井

 

屈強な鉄扉

 

天守に展示されていた古写真

展示されていた古写真をカメラに収めたものです。綺麗な古写真は彦根市のHPにありますのでそちらで閲覧を!!。

ここからの「彦根城跡内の文化財」から選びクリックすると表示されます。

船町口 現存しない

明治9年撮影

山崎門 現存しない

明治9年撮影

西の丸三重櫓
現存する

撮影年不明

黒門 現存しない

明治9年撮影

太鼓門櫓 現存する

撮影年不明

大手門 現存しない

明治9年撮影

天秤櫓 現存する

撮影年不明

西郷屋敷長屋門

門の奥にある屋敷は

裁判所になっている

撮影年不明

京橋口 現存しない

明治9年撮影

表門 現存しない

明治9年撮影

馬屋 現存する

撮影年不明

佐和口

櫓門の右側は開国記念館となっている

明治9年撮影

彦根城 国宝・重要文化財

彦根城は国宝・重要文化財に指定されています

国宝

彦根城は「天守」、「附櫓及び多聞櫓」の2棟が 国宝 に指定されています。他の国宝( 姫路城松本城犬山城松江城 ) は戦前に 旧国宝 に指定されていましたが、彦根城は昭和27(1952)年に新しく指定されました。下記の表は文化庁の 国指定文化財等データベース や書籍 歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
彦根城天守、附櫓及び多聞櫓
 
天守
三重三階、地下階段室・玄関付、本瓦葺
 
附櫓及び多聞櫓
各一重櫓、本瓦葺

国宝の画像 を

重要文化財

彦根城は西の丸三重櫓及び続櫓、太鼓門及び続櫓、天秤櫓、馬屋の4棟が 重要文化財 に指定されています。下記の表は文化庁の 国指定文化財等データベース や書籍 歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
彦根城西の丸三重櫓及び続櫓
三重櫓 三重三階櫓、本瓦葺 東北及び東南続櫓 各一重櫓、本瓦葺
彦根城太鼓門及び続櫓
太鼓門 一重櫓門、本瓦葺 続櫓 一重櫓、本瓦葺
彦根城天秤櫓
中央部一重櫓門、両端二重二階隅櫓、両隅櫓背面続櫓、各本瓦葺
彦根城二の丸佐和口多聞櫓
矩折一重櫓、東南端二重二階櫓、各本瓦葺
彦根城馬屋
東西棟、桁行25.2m、梁間5.9m、一重、入母屋造、井戸屋形附属、
南北棟 桁行31.1m、梁間5.9m、一重、南面入母屋造、北面東西棟に接続、こけら葺

重要文化財の画像 を

彦根城 面白文書、拾い上げ

書籍など、彦根城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

じつはこの天守、京極氏のいた大津城天守を移築したものだと伝承されていた。そして昭和35年の解体修理で、伝承どおり移築建物であることが判明した。

その結果、旧大津城天守は四層造りで、二層目に大入母屋が存在したことが明らかになった。移築して彦根城に組み上げるとき、四層を三層にしたのである。だからこそずんぐりとして、多くの装飾を無理やり取りつける形となったのである。(途中 略)

石材の多くが周辺の廃城となった地域から運搬されたが、彦根城には石塔(供養塔)が石材として転用されている箇所がある。二の丸と鐘の丸の宝篋印塔の部分石である。おそらく石塔・墓石の城石垣への転用としては戦国時代最後の例といえ、彦根城がいかに急を要したかを物語る。

建築物の多くも周辺の歴史上有名な城からの移築伝承がある。大津城からの天守移築をはじめとして、天秤櫓は長浜城から、西の丸三重櫓か小谷城から、佐波山口多聞櫓は佐波山しろからの移築と伝える。現存していないが、山崎曲輪三重櫓も旧長浜城天守を移築したものといわれている。

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

井伊直政が慶長八年(1603)に佐和山城より居城を移して以来の井伊家代々の居城。天守隅木の墨書や文書から少なくとも慶長十一年(1606)には完成していたと考えられる。壁、軒裏、破風を漆喰で塗り込め、金箔を押した飾り金具や黒漆を多用するなど華麗な意匠が特徴。

国宝・重要文化財(建造物)彦根城天守、附櫓及び多聞櫓 の解説文

彦根城二の丸佐和口門の内に入った所にある。馬十九頭を入れる装置がある。現存遺構は他に例がない。江戸時代。

国宝・重要文化財(建造物)彦根城馬屋 の解説文

登城の道のり

登城日:平成24年4月6日

  • ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
  • ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

彦根城まで 簡単に説明

  • JR京都駅から快速で彦根へ、約50分。
  • 駅(西口)を出ると観光案内所があり、パンフレットをもらう。
  • 目の前に馬にまたがる 井伊直政の銅像 があり写真に撮りました。
  • 商店街を歩いて10~15分で護国神社へ、道を渡り左折。すぐに、いろは松、佐和口多聞櫓が見えてきました。
  • 中堀周辺、城内の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:彦根城 玄宮園より天守を望む

  • 上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。
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城めぐり 栞