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桜田門 清水門 田安門重要文化財

江戸城

江戸城のご案内

江戸城 ひとくちメモ

所在地
東京都 千代田区
別 名
千代田城
築城者
江戸氏
別名の由来
太田道灌が築城の際に周辺にあった三つの村の中から「末々繁昌間疑いなし」と考え『千代田』を採ったから。
城郭構造
3回建て直される、独立式層塔型 5重5階地下1階。初回の築城は 連立式 といわれていますが異説もあり。
城郭構造
輪郭式平山城
遺 構
外桜田門[外桜田門・櫓門] []、 清水門[清水門・櫓門] []、 田安門[田安門・櫓門] [] (以上6棟は重要文化財)
石垣 []、 土塁 []、堀 など
再建造物
富士見櫓 []、 伏見櫓 []、 桜田巽櫓 []、 大手門 [] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

江戸城 簡易年表

図解 日本の城 より

1456年
太田道灌が築城。
1524年
北条氏の支配下になる。
1590年
徳川家康、関東入封にともない、江戸城居城に。
1592年
江戸城の修築開始。
1600年
大改修開始。
1638年
再築の寛永天守完成。
1657年
明暦の大火で天守など焼失
1868年
明治天皇が遷都、東京城と名を改め、のち宮城と呼ばれる。
1948年
皇居と名を改める。

参考になるサイト:

江戸城 写真の間

押さえたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 皇居外苑から

☒ 桜田門 ⇒ 桜田濠 ⇒ 半蔵濠 ⇒ 田安門 の順に

☒ 本丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 大手門 の順に

皇居外苑から

江戸城:大手門

(1)
大手門

江戸城:巽櫓、後ろには桔梗門

(2)
巽櫓、後ろには桔梗門

江戸城:桔梗門、後ろには富士見櫓

(3)
桔梗門、後ろには富士見櫓

江戸城:桔梗門

(4)
桔梗門

江戸城:坂下門

(5)
坂下門

江戸城:正門石橋、正門鉄橋(二重橋)は判りづらい

(6)
正門石橋
正門鉄橋(二重橋)は判りづらい

江戸城:伏見櫓

(7)
伏見櫓

桜田門⇒桜田濠⇒半蔵濠⇒田安門

江戸城:桜田門

(8)
桜田門
桜田門

江戸城:桜田門

(9)
桜田濠越しに桜田門桝形

江戸城:土塁

(10)
土塁

江戸城:田安門付近の高石垣

(11)
北桔橋門付近の高石垣

本丸⇒二の丸⇒二の丸⇒大手門

江戸城:天守台

(12)
天守台

江戸城:富士見櫓

(13)
富士見櫓

江戸城:大番所

(14)
大番所

江戸城:百人番所

(15)
百人番所

江戸城:中之門石垣

(16)
中之門石垣

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の江戸城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

江戸城:撮り残し撮りにぶらっと立ち寄る、2017年8月22日 撮影

撮り残し撮りにぶらっと立ち寄る
2017年8月22日 撮影

江戸城:久しぶりの江戸、午前を慌ただしくく、2016年2月13日 撮影

久しぶりの江戸、午前を慌ただしくく
2016年2月13日 撮影

江戸城:1979年頃 撮影

1979年頃 撮影

江戸城 よろず館

江戸城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった江戸城案内図 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

江戸城案内地図

北の丸

本丸

二の丸

巽櫓

富士見櫓

伏見櫓

田安門

清水門

乾門

北桔橋門

平川門

大手門

半蔵門

桔梗門

坂下門

正門

桜田門

百人番所

大番所

天守台

桜田濠

半蔵濠

桔梗濠

清水濠

石橋

鉄橋

方向指示

拡大

拡大

江戸城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた江戸城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 《富士見櫓》

    旧江戸城外桜田門、旧江戸城清水門、旧江戸城田安門が 重要文化財 に指定されています。富士見櫓現存する12三重櫓 の一つです。但し、大正12(1923)年の関東大震災で大破、その後、解体して復元したものです。

    [ 2013/1/21 ]

  • 今も見れる門

    大手門

    桔梗門

    坂下門

    正門

    桜田門(重要文化財)

    半蔵門

    田安門(重要文化財)

    清水門(重要文化財)

    乾門

    画像無し

    平川門

[ 2013/1/21, 2016/6/10:追記 ]

江戸城 ここが興趣深い

江戸城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 今も残る見附:「見附」とは、もともとは交通の要所に置かれた見張り場所に由来するそうです。江戸城では中堀、外堀に設けられた城門をさし、外堀を中心とした三十六見附は特に重要で出入りが厳しくチェックされたようです。今も「見附」の名前を残すのは「牛込」「市谷」「四谷」「赤坂」の4つがあるようですが、東京に住んではいませんが「赤坂見附」はよく聞きます。また、BS 朝日 坂東三津五郎がいく 日本の城 ミステリー紀行 「将軍の城・江戸城」でどこの見附かは忘れましたが、石垣が残っている場所に行っていかに江戸城が大きかったかを扱っていた記憶があります。

    [ 2012/06/28 ]

  • 喜多院:埼玉県川越市にある寺院で江戸時代始めの江戸城の一部が移築されたものと言われています。徳川家康の信任が篤かった天海僧正が住職になり、江戸城から家光誕生の間や、春日局が使用していた春日局化粧の間などが移築されたと言われています。

    [ 2012/10/11 ]

  • 歴史群像 名城シリーズ江戸城 四海をしろしめす天下の府城」で使われている絵図などをWeb上で捜していて都立図書館ホームページでは646件(全件表示[江戸城]での数)、東京国立博物館 - トーハクでは221件(画像検索で「江戸城」をキーに検索した結果)と数多くが公開されていることを知りました。書籍に掲載されていたものを中心に私の気に入ったものを付け加え 江戸城の絵図・古図、古写真一覧 としてまとめました。

    [ 2013/3/17 ]

  • 右の写真は「二重橋」ではなく、1888(明治20)年に完成しました「皇居正門石橋」。「二重橋」はその後ろにある「皇居正門鉄橋」をさすとのこと。詳しくは「皇居外苑の魅力(1) | 皇居外苑 | 一般財団法人国民公園協会」で

    皇居正門鉄橋 「二重橋」

    皇居正門石橋 「二重橋」?

    [ 2016/6/10 ]

江戸城で出会った説明板

江戸城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

特別史跡 江戸城跡

特別史跡 江戸城跡

特別史跡 江戸城跡

江戸城は長禄元年(一四五七)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。

以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。

明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。

この江戸城は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

環境省皇居外苑管理事務所

大手門

大手門

大手門

《大手門》

大手門は江戸城の正門で、諸大名はこの門ら登城しました。大小2つの門に囲まれた桝形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きな方の門は、昭和20年(1945年)4月の空襲で消失し、昭和42年(1967年)に復元されたました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられています。

≪説明に添えられている図≫

明治初期の大手門渡櫓

「鹿鳴館秘蔵写真帖」より (一般社団法人霞会館蔵)

旧江戸城 外桜田門

旧江戸城 外桜田門

旧江戸城 外桜田門

《桜田門》

現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。

外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(三二〇坪)。建築されたのは寛永年間(一六二四~四四)とされ、現存する門は寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損し、復元されました。

万延元年(一八六〇)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

≪説明に添えられている図≫

旧江戸城 外桜田門

「江戸図屏風」より (国立歴史民族博物館蔵)

※ 「江戸図屏風」(元図) は 国立歴史民族博物館 で閲覧できます。

旧江戸城 田安門

旧江戸城 田安門

重要文化財 旧江戸城 田安門

《田安門》

昭和36年6月7日指定

江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。

田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。

≪説明に添えられている図≫

富士見櫓

富士見櫓

富士見櫓

《富士見櫓》

「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。

≪説明に添えられている図≫

反対側から見ると・・・

櫓からの眺め

大番所

大番所

大番所

《大番所》

「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、同心番所とこの大番所の3つが残っています。中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。前の坂を上ったところが本丸の入り口で中雀門がありました。

≪説明に添えられている図≫

明治初期の中之門。大番所は

この内側にありました。

「鹿鳴館秘蔵写真帖」より(社団法人霞会館蔵)

※ 「旧江戸城写真帖_本丸重箱櫓中ノ渡門図」(元図) は 東京国立博物館 で閲覧できます。

百人番所

百人番所

百人番所

《百人番所》

本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門の前に設けられた番所です。鉄砲百人組と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていました。各組には同心が100人ずつ配属されていました。

≪説明に添えられている図≫

板戸を開けた百人番所

同心番所

同心番所

同心番所

《同心番所》

「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。 城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当っていました。

≪説明に添えられている図≫

大名の登城の様子。

橋のたもとにあるのが元の同心番所

「徳川盛世録」より (国立国会図書館蔵)

天守台

天守台

天守台

《天守台》

最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以降は再建されませんでした。

≪説明に添えられている図≫

屏風に描かれた天守閣

「江戸図屏風」より

(国立歴史民族博物館蔵)

※ 「江戸図屏風」(元図) は 国立歴史民族博物館 で閲覧できます。

江戸城本丸御殿

江戸城本丸御殿

江戸城本丸御殿

《江戸城本丸御殿》

この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。

表には、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。

≪説明に添えられている図≫

本図は、万治造営による。

松の大廊下跡

松の大廊下跡

松の大廊下跡

《松の大廊下跡》

赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(1701年[元禄14年])のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。

≪説明に添えられている図≫

「松の廊下襖絵図」より(東京国立博物館蔵)

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」舞台錦絵

(国立劇場蔵)

和田倉橋

和田倉橋

和田倉橋

《和田倉橋》

この橋を和田倉橋といいます。ここには、かって江戸城の守衛のために築かれた内部門の一つ和田倉橋門がありました。橋を渡った皇居外苑側には桝形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。

慶長七年(一六〇二)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長十二年の頃の図に。こゝに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。

和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・特弓一組が常備されています。警備は、譜代大名で、二万石から三万石の者が担当していました。

この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。

平成十六年十二月   千代田区教育委員会

絵が中心の案内・説明書

江戸城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。

本丸中之門石垣

画像編集しています。オリジナル

解体により明らかになった事実

画像編集しています。オリジナル

皇居外苑案内

北の丸公園 案内図

画像編集しています。オリジナル

北の丸公園 案内図

苑内ご案内

皇居東御苑

皇居東御苑 案内図

江戸城 重要文化財

江戸城では外桜田門などが重要文化財に指定されています

江戸城は「旧江戸城外桜田門」として外桜田門、櫓門の2棟、「旧江戸城清水門」として清水門、櫓門の2棟、「旧江戸城田安門」として田安門、櫓門の2棟の合計6棟が昭和36(1961)年に新しく重要文化財に指定されました。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
旧江戸城外桜田門
外桜田門
高麗門、本瓦葺
 
櫓門
脇戸付櫓門、本瓦葺
旧江戸城清水門
清水門
高麗門、本瓦葺
 
櫓門
脇戸櫓門、入母屋造、本瓦葺
旧江戸城田安門
田安門
高麗門、本瓦葺
 
櫓門
脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺

江戸城 面白文書、拾い上げ

書籍など、江戸城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

江戸城遺構のうち、宮内庁所管以外のものである。いずれも髙麗門と櫓門からなる桝形を形づくっている。

 建立年代 備考

 田安門 寛永十三年(一六三六) 櫓門の上部は復元による

 清水門 万治元年(一六五八) 櫓門の上部は復元による

 外桜田門 寛文三年(一六六三)

国宝・重要文化財(建造物)旧江戸城清水門 の解説文

国宝・重要文化財(建造物)旧江戸城田安門 の解説文

登城の道のり

登城日:2016年3月28日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

江戸城まで 簡単に説明

  • 夜行バスで八重洲口に着き、丸の内側へ出るのに一苦労。
  • 昔は駅の中央を横切った記憶があったのだが・・・何年前の話と突っ込まれそう。
  • 10分もかからず皇居外苑へ
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:江戸城 桜田門

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞