天守群・渡り櫓は国宝、重要文化財は多数
世界文化遺産
姫路城
姫路城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: 写真スポット
- 睦: ここが際立つ
- 質: 門と櫓の位置
- 捌: 門一覧
- 玖: 櫓一覧
- 拾: 天守から曲輪を見下ろす
- 壹: 城内にあった説明板
- 貳: 天守など諸々
- 參: 国宝・重要文化財
- 肆: 面白文書、拾い上げ
- 伍: 登城の道のり
姫路城 ひとくちメモ
- 所在地
- 兵庫県 姫路市
- 別 名
- 白鷺城
- 築城者
- 赤松貞範、池田輝政
- 別名の由来
- 大小の天守が白鷺が翼を広げた姿に見立てて。また「鷺山」にあることこら。
- 天守概要
- 連立式 望楼型 木造五層六階 地下一階 白漆喰塗籠造
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 天守[ ※ ]、 櫓[ ※ ]、 門[ ※ ]、塀、石垣、堀、土塁、庭園 など
- 再建造物
- 桜門橋[ ※ ]、 大手門[ ※ ] など
- 高 さ
- 46.3m ( 石垣14.8m、大天守31.5m )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
遺構は数多くあります。詳細は姫路城 国宝・重要文化財 を参照ください。
姫路城 簡易年表
図解 日本の城 より
- 1346年
- 赤松氏が姫路に築城
- 1580年
- 豊臣秀吉が、黒田氏から姫路城を譲られ、改修
- 1601年
- 池田輝政が大改修を始める。
- 1609年
- 大改修完成
- 1617年
- 本田氏が入城、西の丸などを整備
- 1749年
- 酒井氏が入城、幕末に至る
- 1874年
- 陸軍歩兵連隊が置かれる
- 1964年
- 天守の解体修理完了
参考になるサイト:
姫路城 写真の間
抑えたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 桜門橋 ⇒ 大手門 ⇒ 三の丸 ⇒ 菱の門 ⇒ 三国堀 ⇒ い・ろ の門 の順に
☒ 西の丸 ⇒ 長局 の順に
☒ は・に・ほ ノ門 ⇒ 天守 ⇒ 備前丸 の順に
☒ 腰曲輪 ⇒ 腹切丸 ⇒ 上山里 ⇒ ぬ ノ門 ⇒ 菱の門 の順
☒ 周辺から
桜門橋⇒三の丸⇒菱の門⇒い・ろ の門
西の丸 ⇒ 長局
は、に、ほノ門 ⇒ 天守 ⇒ 備前丸
腰曲輪⇒腹切丸⇒上山里⇒ぬの門⇒菱の門
周辺から
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の姫路城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
姫路城 よろず間
姫路城 縄張りとカメラアングル
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
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姫路城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた姫路城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 天守は 現存する12天守 の一つです。天守群(大天守、東小天守、乾小天守、西小天守、イ、ロ、ハ、ニの渡櫓)は 国宝 に指定されています。櫓・渡櫓27棟、門15棟、土塀31棟・築地塀1棟の計74棟が 重要文化財 に指定されています。指定内容の詳細は国宝・重要文化財 へ
- 姫路城の巨大さ、美しさでつい見落としがちになりますが西御屋敷跡庭園「好古園」もいいのでは!! 市制百周年を記念して造られた日本庭園で、古よりある庭園ではないのですがひと足のばしても。姫路城を借景にできるようで、私は何回か登城していますが一度も行ってないので、今度行く機会があれば訪れたいと思っています。
[ 2012/11/20 ]
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姫路城の世界遺産登録を記念して、94年3月に姫路城のビューポイントを公募。
そのうち、「誰でも自由に行ける」「お城を取り巻く方向にある」という視点から10地点を選定し「世界遺産姫路城十景」と名づけました。
(1) 増位山
(9) 名古山
小さい写真は 姫路フォトバンク(写真ダウンロードサービス)世界遺産姫路城十景 の写真を使っています。オリジナルはそちらでご覧ください。
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私のおすすめ写真スポットと映画撮影場所
縄張り図に写真を貼り付け、わたしのおすすめ写真スポットを示しています。写真をクリックすると拡大表示も可能です。姫路城は映画の撮影にもいろいろな場所が使われ、姫路観光コンベンションビューロー|ひめのみち:観光パンフレット一覧(私が閲覧したものからは更新されています)を参考にその場所を で示しています。
私のおすすめ写真スポットと映画撮影場所
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私の「お勧め」写真スポット
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転用石
姫路城には「墓石や古墳の石棺などを再利用した転用石が多く見られる。」( 【PDF】 山里曲輪の石垣 より) とは知っていましたが、実際には逸話は有名な「姥が石」、備前門の石棺、リの一渡櫓に展示の石棺しか記憶(写真)がなくちょっとググって手持ちの写真で推測・まとめたものです。機会があれば大きな写真で撮ってみようと思っています。
◎実際に埋め込まれているもの
◎展示されているもの
リの一渡櫓
石棺の説明板[ 2016/5/24 ]
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刻印石、姫路城石垣の魅力から 4ヵ所を知る、化粧櫓下東側「五芒星」(探しづらい)、大手門 北「斧」、リの二渡櫓入口階を制覇。るの門(埋門) 階段にも。まだたくさんありそうで探します。
姫路城 ここが際立つ
姫路城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
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菱の門を抜けてすぐに右に見えてくる濠が三国堀 。三国とは池田輝政が『播磨』、『備前』、『淡路』三国の領主でこの三国より人夫を集め普請を行ったからとのこと
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姫路城では備前丸が本丸。備前丸と呼ぶのは、備前国を与えられた輝政の二男・忠継が住む御殿がここににあったからとのこと。備前丸の東側には備前門もあります。
備前丸 の説明板
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1934( 昭和9 )年、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊、これを機に「昭和の大修理」と呼ばれる修復工事に着手しました。しかし、戦争のため一時中断。戦後の1956( 昭和31 )年に工事が再開され、天守を解体し、天守を支えた2本の心柱のうち1本を差し替える大修理となりました。修理がようやく完了したのは1964( 昭和39 )年のことです。
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「昭和の大修理」の際、天守はコンクリート製の基礎となりましたがその際、天守の礎石は移設され三の丸「天守の庭」で見ることができます。
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戦時中、天守に焼夷弾が直撃したが幸運にも不発で奇跡的に焼失を免れました。効果の程はわかりませんが白いお城を黒く見せる工夫がされました。詳しくは、姫路市立城郭研究室発行の 「城踏」91号 黒鷺城の時代 をご覧ください。
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「はの門」へ向かう坂道が将軍坂と呼ばれています。何で姫路城と将軍が結びつくのか気にかかっていました。『暴れん坊将軍』に使われたかららしいというのをちょくちょく見つけますが本当なのかな???
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姫路城天守の最上階には祠(ほこら)があります。御祭神二柱は、刑部親王とその王女の富姫でです。「なんで天守に祠が??」、「いつ頃からあるのだろう??」など不思議に思っていましたが、城郭絵図面付き 日本の名城 をよんで納得です。
城主・池田輝政にさまざまな災難が起こったため城内の丑寅にあった刑部神社の横に八天塔を建て、その後、輝政は快復したかに見えたがまもなく死亡。さらに子女が亡くなったり天然痘が流行ったりしたため、後にここに移されたとのこと。また、宮本武蔵が天守に潜むという妖怪を退治した時、刑部大神が美しい姫の姿となって現れたという伝説も残っているとのことです。
[ 2012/11/25 ]
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三国堀の石垣に秀吉時代の堀を池田輝政が改修したことがわかる、堀を埋めた跡が残る箇所があります。
ビジュアル日本史1000城 を参考にしました。
[ 2012/12/22 ]
姫路城 門と櫓の位置
姫路城は白鷺城と言われるように白い天守の美しさが際立っていますが、広い敷地内にはい・ろ・は・・・・で順番付けられた地味ですが趣ある門 がたくさんあります。櫓 もたくさん現存しています。航空写真の上にその位置を示してみました。
※ 航空写真は 姫路フォトバンク(写真ダウンロードサービス) » 姫路城 の写真をトリミング・縮小して使っています。
解像度 640px以下では場所などは表示されません。
天守群拡大Ⅰ
天守群拡大Ⅱ
姫路城 門一覧
姫路城の広い敷地内にはい・ろ・は・・・・で順番付けられた門をはじめ菱の門、水一門などほかにもたくさんあります。好きなカメラアングルで写しているため紹介的な写真ではありませんが手持ちの写真をまとめました。
姫路城 櫓一覧
姫路城には、曲輪の仕切りなどでに櫓もたくさん現存しています。門ほど体系だっていないので整理しくいのですが渡櫓とその他の櫓、及び場所でまとめにています。好きなカメラアングルで写しているため紹介的な写真ではありませんが手持ちの写真をまとめました。
櫓(渡櫓以外)
どういう順番付けなのかわかりにくいのですがカナの名前の付いた櫓や千姫由来の化粧櫓、太鼓櫓などをまとめてみました。
天守群の渡櫓
大天守と東小天守をつなぐイの渡櫓、東小天守と乾小天守をつなぐロの渡櫓、乾小天守と西小天守をつなぐハの渡櫓、西小天守と大天守をつなぐニの渡櫓はいずれも国宝に指定された櫓です。
腰曲輪の渡櫓
腰曲輪は天守の北側にあり、「ほの門」のすぐ北側から順に「イの渡櫓」「ロの渡櫓」「ハの渡櫓」「ニの渡櫓」「ヘの渡櫓」があり、つらなっています。2018年2月の時点では立ち入りができず、残念ながら「ニの渡櫓」、「ヘの渡櫓」は天守からしか撮れません。
西の丸の渡櫓
西の丸の西側には長局があり、櫓がずらっとつらなっています。
上山里の渡櫓
上山里にも天守を守るように渡櫓があります。
姫路城 天守から曲輪を見下ろす
天守の最上階より曲輪、市街を一望できます。
姫路城で出会った説明板
姫路城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
姥ヶ石
姥ヶ石
石垣の上方に欠けた石臼が間詰め石として積まれています。これを「姥ヶ石」と呼んでいます。
羽柴秀吉が姫路城を築くとき羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんがそのことを聞き、使っていた石臼を寄付しまし た。秀吉は喜んで石臼を石垣に使いました。この評判はすぐに広まり、国中からたくさんの石が寄付され、築城工事は急速に進み、立派に完成したというのです。
「姥ヶ石」が積まれている石垣は、池田輝政が築いたものなので、この話は伝説です。
そのほかに、「姥ヶ石」には、お婆さん(姥)は妊娠しない(孕まない)ことにかけて、石垣も孕まないようにとのお呪いで積まれたという説もあります。
石棺
石棺
備前門の入口脇にはきれいに加工された直方体の石が縦に積まれています。これは、古墳に埋葬されていた石棺の身で、築城の際石垣に転用されたものです。そのほかの石垣にも組合式石棺の側石や底石なども転用されています。こうした古墳の石棺が積石として多く転用されているのが、姫路城の石垣の特徴です。築城によって、姫路近辺にあった古墳がいくつも破壊されたことが想像できます。
≪説明に添えられている図≫
石棺
石棺
本来、別の目的で製造された石材が、石垣などに転用されたものを「転用石」といいます。姫路城でも石臼、墓石、石灯籠、宝篋印塔などいろいろな石造品が、石垣に転用されています。
この石棺の身も備前丸の東側石垣に積石として転用されていたものです。昭和の大修理での石垣を一部解体した際に取りはずしました。凝灰岩でできた石棺の身は中が空洞なので、もとの場所に積み直すと強度に問題が生じるため、実物ははずして、この場所に展示しています。もともと積まれていた箇所には、凝灰岩を同じ大きさに加工した新しい石材を積んでいます。築城の際に、姫路周辺にあった古墳から掘り出して転用したのでしょう。
≪説明に添えられている図≫
継ぎ目のある石垣
継ぎ目のある石垣
この石垣はリの一渡櫓とリの二渡櫓を支える石垣で、リの二渡櫓の下に石垣の角部が線(継ぎ目)になってみえて「います。この線から南側(右手)が羽柴秀吉、北側(左手)が池田輝政の時に築かれたものです。
姫路城の建物は西の丸をのぞき、多くが池田輝政によって築かれました。しかし、縄張り(曲輪の配置など)や石垣は、羽柴時代のものを引き継いでいるので、この石垣のように池田時代になって増築された場所に、新旧の石垣の継ぎ目が生じたのです。石垣には築かれた時期によって積み方に違いのあることわかる事例です。
≪説明に添えられている図≫
ぬの門
ぬの門
城内で唯一の三層の櫓門で、雛壇状になった姫山の曲輪群へ通じる関門となる重要な場所に築かれた城門です。扉は木部をすべて黒鉄張りにし、太鼓鋲で留めた頑丈な門です。二層目の櫓には、直下の門扉に群集する敵兵を想定した隠し石落としがあり、門に入る者を監視し、射撃することができるようになっています。門の前面には「扇の勾配」をもつ高石垣が張り出し、L字上に通路を屈曲させて防御機能を高めています。/p>
この門を通って天守へ行く道を下道といい、はの門からにの門、ほの門を通って天守へ向かう道を上道といいました。
るの門跡
るの門跡
るの門は石垣の中に開けられた穴を出入口とした門で、その構造から穴門と呼ばれます。菱の門やぬの門からみても、門の存在に気付きにくい位置にあります。伏兵を用いた戦術には有効に機能するでしょう。また、現在は門扉が失われていますが、もともとは両開きの扉がありました。今も門柱の礎石が残っています。緊急時には門扉を閉めて閂を通し、通路を土砂で埋めてしまえば厳重に防御することができます。
≪説明に添えられている図≫
姫路城喜斎門跡「駒寄」遺構
姫路城喜斎門跡「駒寄」遺構
姫路市教育委員会では、2005~2006年度に喜斎門跡土橋の石垣修理工事を実施しました。その際に、石垣西端部から「駒寄」の支柱用と推定される柱の穴が2基発見されました。
「駒寄」とは江戸時代に馬で登城した藩士がそこで馬を降り、下城まで馬をつないだ柵状の施設をいいます。
『姫路城内曲輪絵図』によれば、該当箇所に「駒寄拾四間」(約25.45m)と表記されていることから、今回発見した遺稿はこの「駒寄」の一部分と考えられます。
※図① 姫路城喜斎門の「駒寄」表記(西暦1700年頃)
図① 姫路城大手門の「駒寄」表記(西暦1823年)
2007年2月 姫路市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
油壁
継ぎ目のある石垣
ほの門から水の一門へは、一旦大きく曲がらないと到達できません。こういう屈曲を「折れ」ともいい、城郭における防御機能の一つで、ここでは油壁を配置することで折れが構成されています。
油壁は、版築という工法で築かれた土塀です。型枠を組んで、その枠の内側で粘土と砂を交互に撞き固めていくもので、この工法で築かれた壁や土塀はとても堅固なものとなります。姫路城内ではこの場所だけに版築の土塀が残っていますが、その理由も「油壁」の由来もわかっていません。現在は壁土が露出していますが、もともとは白漆喰が上塗りされていたことがわかっています。
姫山・鷺山と三国堀
姫山・鷺山と三国堀
江戸時代、菱の門から内側を城山といいました。城山には鷺山と姫山の2つの峰があり、姫山にはその地形を利用して上山里曲輪や備前丸を設け、頂部には大天守が築かれました。一方、鷺山には、峰の上部を大きく削って西の丸が造成されました。
城山の中央にはほぼ正方形の三国堀があります。この堀は用水池で2つの峰の間の谷を堰き止めて築かれたダムのような構造です。三国堀北側石垣には、谷筋にあった堀の痕跡をみることができます。
≪説明に添えられている図≫
備前丸
備前丸
ここは備前丸という曲輪で、「御前丸」と呼ばれていた時期もありました。もともと池田輝政の御殿がありましたが、本多忠政が城主になるろ、御殿は三の丸に移されたといわれます。敷地面積が狭いため、曲輪内には建物が密集していたとみられ、昭和の大修理では天守台石垣のすぐ下で排水溝や建物の遺構が発掘されています。
御殿が三の丸への移った後も、南側の石垣上には二重櫓と長局、御対面所などが建ち並び、曲輪内には御台所と折廻櫓がありました。御台所や長局などは明治15年(1882)に失火で焼失し、備前丸の一部と折廻櫓だけが昔の姿をとどめています。
≪説明に添えられている図≫
お菊井戸
お菊井戸
この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。
永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の働きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後。毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、・・・9枚」と9枚まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。
井戸
井戸
城を築く時には、いかに水を確保するかが最も重要となります。
城外に水源を求めると、籠城戦いとなった場合、込め手に水路を断れたり、汚物や毒物を投入される危険があるので、安全な水源は城内の井戸になります。
姫路城では内曲輪だけで33ヶ所の井戸がありました。現在では11ヶ所が残っています。これらの井戸の中には深さは約20~30mのものもあり、姫山の岩盤に届く深さになります。
ここの井戸は深さ8.8m、水深約2.7mです。
天守にあった展示物
天守内に縄張り図、天守の雛形がありました。
姫路城 国宝・重要文化財
姫路城の天守群は国宝、多数の建造物が重要文化財に指定されています
国宝・重要文化財の場所
土塀の名前は省略しています。
国宝
姫路城は 旧国宝の大天守、東小天守、乾小天守、西小天守、及びこれらをつなぐイ、ロ、ハ、ニの渡櫓の8棟が引き続き 国宝 に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 姫路城大天守
-
- 五重六階、地下一階付、本瓦葺
- 姫路城東小天守
-
- 三重三階、地下一階付、本瓦葺
- 姫路城乾小天守
-
- 三重四階、地下一階付、本瓦葺
- 姫路城西小天守
-
- 三重三階、地下二階付、本瓦葺
- 姫路城イ、ロ、ハ、ニの渡櫓
-
-
- イの渡櫓
- 二重二階、地下一階付、本瓦葺
-
- ロの渡櫓
- 二重二階、地下一階付、本瓦葺、南面に附台所
-
- ハの渡櫓
- 二重二階、地下一階付、本瓦葺
-
- ニの渡櫓
- 二重櫓門、本瓦葺、水五門附属
● 国宝の画像 を
重要文化財
姫路城では櫓・渡櫓27棟、門15棟、土塀31棟・築地塀1棟の計74棟が 旧国宝指定されていましたが、現在は 重要文化財 の指定になっています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 姫路城
-
-
- イの渡櫓
- 一重渡櫓、本瓦葺
-
- ロの渡櫓
- 一重渡櫓、本瓦葺
-
- ハの渡櫓
- 一重渡櫓、本瓦葺
-
- ニの渡櫓
- 一重渡櫓、本瓦葺
-
- ホの櫓
- 二重二階櫓、本瓦葺
-
- ヘの渡櫓
- 折曲り一重渡櫓、本瓦葺
-
- トの櫓
- 一重櫓、本瓦葺
-
- チの櫓
- 二重二階隅櫓、本瓦葺
-
- リの一渡櫓
- 二重二階渡櫓、本瓦葺
-
- リの二渡櫓
- 二重二階渡櫓、西北端折曲、本瓦葺
-
- 折廻り櫓
- 二重二階櫓、本瓦葺
-
- 井郭櫓
- 一重櫓、本瓦葺
数が多いので以下は 別窓 でリストを作成しています。
● 抜粋した重要文化財の画像 を
姫路城 面白文書、拾い上げ
書籍など、姫路城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
姫路城は、明治9年に他の城郭同様に入札公示され、解体処分されることになっていた。ところが、あまりに嵩む解体費用のために入札者が権利放棄、城は崩れかけたまま朽ち果てようとしていた。そんな姫路城を、明治10年の西南戦争で熊本城天守を炎上焼失させてしまうという苦い体験をもった中村重遠という陸軍大佐がたまたま訪れた。姫路城を一目見た中村大佐は、その文化財価値を後世に伝える必要を強く感じたのである。
そして独力で山県有朋陸軍大将に建白書を提出、姫路城、名古屋城保存のための細かな見積もりまで作成して予算を具現化し、大蔵省と掛け合い、保存のために尽力した。世界遺産ともなった姫路城の遺構の陰に、そんな先人の努力があったことはあまり知られていない。この功績を長く伝えるため、いま姫路城の門を入ったところに顕彰碑が立てられている。
登城の道のり
登城日:平成22年3月30日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
姫路城まで 簡単に説明
- 駅(北口)を出ると大きな道があります。
- 道の両側はビジネス・商店のビルが建ち並びここを北上、天守も見えてきます。
- 歩くこと10~15分で堀・桜門橋も見えてきますた。距離にして1km弱。
- 中堀周辺、城内の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:西の丸
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス