城百科
お城の雑学 石垣
石垣 ご案内
私には『城の石垣』 は趣き深いものがありますが、同じようにしか映りませんでした。
- 金沢城の写真を整理していると金沢城は「石垣の博物館」といわれ一つの城で異なる石積みの技法が見られる。
- 望楼型と層塔型の天守を調べていた時、石垣と天守の関連が気になり始めた。
- 城の石垣といえば大坂城や熊本城が印象が強く、隙間なく積み上げたものと間違って思い込んでいました。石垣に注目して写真を見直すと大坂城でも一部分だけ、熊本城では 隅石 だけです(写真にない箇所であるかもしれませんが)。
等のことがあり、石垣のページを新設し、調べまとめていくことにしました。
[ 2010/07/29 ]
石垣の歴史
石垣は飛鳥時代の末期、7世紀後半に百済から伝えられた平らな石を垂直に積み上げたのが始まりとされ、13世紀末には元寇に備えて石造の堤防が築かれたといわれていますが、近世(桃山・江戸時代)の城の石垣とは大きく異なるもののようです。
中世(鎌倉・室町時代)の城にもまだ石垣はほとんどなく、土を高く盛り上げた土塁で城をかためていました。土塁はもともと土砂を積み上げたもので雨水などに弱く、戦乱が激しくなり土塁の強化のため土塁の表面に石を張り付ける張石(はりいし)や、石を粘土で接着し積み上げていく練積(ねりづみ)などが行われましたが上手くいかず普及はしなかったようです。練積では内部に水がたまり壊れやすい欠点があり、16世紀後半になって粘土を使わず、石だけで積み上げていく空積(からづみ)が出現し、これが城郭の石垣に発展していきます。
で、ふと「石垣と石を積んだもの違いは何?」とちょっと気になりましが、その答えが『 戦国の城 』にありました。
では、石積と石垣はどこで線引きされるのだろうか。私は、石垣の場合は、裏込石、すなわち栗石が使われているのに対し、石積はただ石を積みあげただけで、そのちがいを指標にしていたが、中井均氏によると、素人でも積めるのが石積で、石垣ともなると専門の石工、すなわちプロでなければ積めないので、そこで区別するという。たしかに、石垣の場合は「石垣を積む」とはいわず、「石垣」を築くといっているので、その可能性はある。
とありました。
そして、やっぱりというか本格的な石垣の城は 安土城 のようですが、戦国時代後半になるとそれに先駆けて石垣を使った城も出現したきました。よく例示されるのが信長が参考にしたであろうといわれる戦国大名六角氏の 観音寺城 です。観音寺城は寺院の造営技術を導入したものといわれ、金剛輪寺に残された古文書に天文5年(1536年)に「御屋形様の石垣」、つまり守護の城の石垣普請について寺側と守護側が打ち合わせを行ったことが記されているそうです。ちなみに安土城と観音寺城は地図上の測定では直線距離で2.4kmほどです。
石の積み方も自然の石をほぼそのまま使う 野面積(のづらつみ)、打ち欠いて接合面を多く取るようにした 打込接(うちこみはぎ)、さらに加工して隙間なく積む 切込接(きりこみはぎ)と進歩していきます。
石垣の積み方
石垣は石の積み上げ方によって分類されます。使われる石の形(加工の具合)により野面積(のづらつみ)、打込接(うちこみはぎ)、切込接(きりこみはぎ)と大きくは三つに、積み方で布積、乱積の二つに分類されます。従って打込接の布積、打込接の乱積など3x2=6のパターンに分類されます。また、江戸中期以降になると切込接に新たに亀甲積(きつこうつみ)、落し積が使われるようになります。
時代的には自然の石をほぼそのまま使う野面積、打ち欠いて接合面を多く取るようにした打込接、さらに加工して隙間なく積む切込接の順になりますが、時代がさがっても混在して使われています。切込接は隙間なく積むため加工が大変なのか権威付けに見せるところに使い他は打込接にしたり、修改築で従来のものを流用したりそのまま残したものと思われます。
- 乱積( らんづみ )
-
高さの不均一な石を積み上げ、そのため水平方向の並び(列)は乱れる。
- 布積( ぬのづみ )
-
高さのほぼ揃った石を積み上げ水平方向に列を成すように積んでいく方法。
- 亀甲積( きつこうづみ )
-
亀の甲羅のように六角形に整形した石材を積み上げていくものです。
福山城(北海道)の天守台などで見ることができます。 - 落し積
-
谷積とも呼ばれ石材を斜めにずらしながら積み上げるものです。
彦根城(滋賀県)の天秤櫓の土台で幕末に修理した側の石垣で見ることができます。
野面積 ( のづらつみ )
安土城 本丸の石垣
野面積(のづらつみ)は古い形態の石垣で自然のままの石や粗削りしただけの石を積み上げた石垣で、そのため石と石の隙間も大きくなります。見た目も、左の安土城のように丸っこい石や、ごつごつした石など自然の石そのままという感じがします。
下の写真で金沢城の東の丸北面石垣は野面積と紹介されているので間違いありませんが、他の写真は手持ちの写真から私が選びだしたもので野面積でなかったらごめんなさい。岡山城はひょっとしたら次に説明する打込接か??。上田城、高知城も若干?。野面積から打込接へ移行する過度期のものか? ゆっくり調べたいと思っています。
打込接 (うちこみはぎ)
熊本城 本丸の石垣
石材どうしの接合面を合端(あいば)といい、打込接(うちこみはぎ)はこの合端を出来るだけ多くするため接合部を打ち欠いて隙間を少なくするように積み上げた石垣です。どうしてもできてしまった隙間には間石(あいいし)を埋め込み登られにくくしています。間石は過重を受けるためのものではなく抜け落ちてくることもあるそうです。
左の写真は熊本城 本丸の石垣です。下の写真は手持ちの写真から私が選びだしたものです。
切込接 (きりこみはぎ)
大坂城 山里曲輪
切込接(きりこみはぎ)は積み石をさらに加工し隙間をなくした積み方です。さすがに加工が大変なためか、目立つ(見せたい)場所んに限定的に使われることがことが多いようで、通常は打込接で、特別な場所に切込接と混在して使われてもいます。
左の写真は大坂城 本丸の石垣です。下の写真は手持ちの写真から私が選びだしたものです。
【参考】 一つの城で異なる石積みが楽しめる城郭
石垣の構造

盛土
飼石


裏込
裏込
積石
間石

横から見た断面
上から見た図
- 飼石 (かいいし)
- 積石と積石の間に入れて安定させる
- 裏込 (うらごめ)
- 栗石(ぐりいし)ともいわれ水はけをよくするためにいれる
- 間石 (あいいし)
- 石と石の隙間をうめるためのもの
- 盛土
- 裏込土を上部に使用することもある
中津城石垣の工事と調査 では石垣の解体修理工事の写真が公開されており、石垣の内部を垣間見ることができます。
隅石
石垣の隅(角)がなにか他の周囲と雰囲気が違うのが気になっていました。面がしっかりと取られ段違いになっています。石垣の隅に使われる石は隅石(角石)[すみいし]と呼ばれ、隅以外の普通の所に使う石は平石と呼ばれます。
この四角柱の石を互い違いに組み上げていく方法は算木積と呼ばれています。算木とはそろばん以前に計算の道具として使われていた棒で、この形に似ていることから算木積といわれるようになったそうです。完成された算木積では長辺が短辺の2~3倍の隅石が使われ互い違いに組み上げていきます。
算木積は天正年間(1573~92)に始まったといわれていますが、一部分だけであったり、長短辺の比が小さいものなど未熟な面が残っています。慶長の築城盛況(1601~15)期に完成に至ります。そして江戸中期(17世紀後期)以降は石垣の新造は急激に減っていき技術も低下し長短辺比が1.5程度の隅石となっていきます。
これらのことから築城年代の推測が出来ることになります。
- 算木積が完成するのは慶長十年(1605)頃で、隅石の長短辺比が2以上の整然とした算木積ならこれ以降。
- 江戸中期(17世紀後期)以降は石垣では技術も低下し長短辺比が1.5程度の算木積となる。
- 長短辺比が少し小さい算木積
- 1603年 築城に着手
- 1607年 天守など完成
- 1622年 築城工事完了
- 切込接の合端もきれいな算木積
- 1610年 築城開始
- 1612年 天守完成
- 1615年 本丸御殿完成
東は土塁、西は石垣
お城関連の書籍では「近世の城郭では関東以北の城では土塁造りの城が圧倒的に多く、東海から西は石垣の城が多い。」という趣旨のことがよく述べられています。が、ちょっと疑問?
私の場合、コレクションの中に東北地方の城は四城(弘前城、盛岡城、仙台城、会津若松城)ありますが、全て石垣があります。写真を撮っているのは観光的に比較的有名な城で特異な例外的なものかもしれませんが・・・・・・・石垣の城もあります。上述のことが正しいとすれば
- この四城の石垣はいつ造られたのか。
- この四城の現在見れる石垣ほんの一分で土塁ほうが多いのか。
- この四城以外に石垣のある東北の城はないのか。
- 土塁の城と石垣の城の割合は?
などまたまた疑問が噴出です。なにかを調べていると新たな疑問が出現し嬉しい悲鳴ですが、なにかすっきりしないので全体像を掴むためお城のリストが必要かと思っています。数が多いのでいつになるかわかりませんがぼちぼち作っていこうと考えています。
少し疑問が解決しました
城のつくり方図典 を読んでいてほぼ納得しました。弘前城については言及はないのですが、上の城は特別のようです。以下関連する部分を少し長くなりますが引用します。
東北地方では、石垣を持つ城が少なく、土塁の城が大部分を占める。盛岡城と会津若松城(福島県)と白川小峰城(同)の三城を東北地方における石垣造の三大名城に挙げるが、西日本の城に比べれば、見劣りする。佐竹氏の久保田城(秋田県)や上杉氏の米沢城(山形県)のような雄藩の城でさえもほとんど石垣はなく、伊達氏の仙台城や最上氏の山形城でも要所に限って石垣をわずかに使うだけであった。
西日本の大部分の城では慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までには壮大な石垣が完成しているが、東北地方で立派な石垣が登場すろのは、それよりはるかに後れている。盛岡城の石垣の完成は寛永年間(1624-44)と考えられ、白川小峰城の着工も寛永四年である。
( 強調は管理人による )
[ 2010/09/02 ]
新たな石垣の発掘も
東北地方で新たな石垣が発掘されています。Web新聞のニュースですが、タイトルと時事ニュースのためリンクは長くないかもしれませんが一応張っておきます。
「二ノ丸石垣」初の現地調査 棚倉城跡で町教委が積み方など確認 [福島県](福島民報 2014/09/14)
舘山城の石垣、上杉氏築造か [山形県](河北新報 2014/08/24, 記事は既に削除されています[2016/01/14]。)
[ 2014/10/10 旧体育の日 ]
石の割り方
この『お城の雑学 石垣』のページを作っている際、石垣の写真を何度も見ていると石を割るための穴(矢穴)と思われるものが何箇所かあったので紹介がてらこの項を作りました。

1.のみで穴(矢穴)を彫っていく

2.矢穴に楔を打ち込む

3.石が割れる
矢穴の具体例
石垣のプロ集団 穴太衆
穴太衆は読みがちょっと難しいのですが『あのうしゅう』と読みます。彼らは、
- 石垣積み専門の職人集団。
- 城や寺院のなどの石垣をつくった技術者集団。
- 近江(滋賀県)出身で、その高い技術力を買われて織田信長に安土城の石垣づくりを命じられた。
- のちに豊臣秀吉や徳川家康などのもとで、多くの城づくりや修築に携る。
これらのことはご存知の方も多いと思います。少し別の面から紹介します。テレビのお城関連の番組で何回か紹介されていますが穴太衆の伝統を受け継ぐ人がいます。関西ローカルの「よ~いドン!」という番組でも取り上げられていました。江戸時代初期の創業で現在の当主15代になるそうです。ウェブサイト 株式会社粟田建設 もありますのでご覧いただけます。このサイトもおもしろいのですが 穴太衆積み・大津市坂本 / 伝統文化 [ 滋賀文化のススメ ] も大いに興味をそそられお勧めです。
[ 2012/08/18 ]
石垣の高さ比べ
トップは大坂城
すぐわかる日本の城 歴史・建築・土木・城下町 にいろいろな高石垣の高さや写真の載っているページがありました。大坂と伊賀上野城が1、2位を争う高さで30m近くあったと記憶していました、この本では伊賀上野城は26mと少し低い気がします。「根石からの計測か?」など少し測定方法・条件など気になるところもありますが、一つにまとまっているのでこのデータを使わせてもらい順番に並べ替えてみました。大坂城はトップを獲得すると伴に、3箇所も上位にくいこんでいます。
※ 高さはすぐわかる日本の城 歴史・建築・土木・城下町 による。
伊賀上野城 本丸の石垣
大坂城 千貫櫓・大手多門櫓下の石垣
和歌山城 南の丸高石垣
姫路城 帯の櫓下の石垣
高さ23m
姫路市立城郭研究室 「城踏」(研究室ニュース) 2007 67号 姫路城石垣の魅力 ―見どころ20選― には「北側の帯櫓石垣は城内最高石垣(23.32m)」とあります。
池田輝政時代(慶長6~14[1601~9]年)に築かれ姫路城内で最高の石垣。
熊本城 宇土櫓台の石垣

高さ21m。
熊本城公式ホームページ には20mとあります。
写真は熊本城公式ホームページ の 熊本城ビュースポット の写真を使わせていただいています。拡大の写真はそちらでご覧ください。
加藤清正が築いた美しい勾配の高石垣。
江戸城 本丸北面の石垣
大坂城 本丸南面の石垣
名古屋城 天守台の石垣
伊予松山城 本丸南面の石垣
同ページの脚注に上記以外の高石垣の城郭が記載されており下に記します。高さはは記されていませんでした。
- 盛岡城(岩手県)
- 仙台城(宮城県)
- 甲府城(山梨県)
- 彦根城(滋賀県)
- 和歌山城(和歌山県)
- 津山城(岡山県)
- 岡山城(岡山県)
- 松江城(島根県)
- 三原城(広島県)
- 丸亀城(香川県)
- 小倉城(福岡県)
- 岡城(大分県)
- 島原城(長崎県)
- 延岡城(宮崎県)
[ 2012/08/18 ]
転用石
もともと墓石、供養塔、石仏などの石造品を石垣等に利用されたものを「転用石」と言います。初めて知ったのが安土城の大手道。ここに墓石が使われています。この解釈に相反することを読んだ記憶が頭の片隅に残っていました。
- 信長らしい神仏を恐れない仕業である。
- 神仏の加護を願って使った。
これまでに、福知山城、和歌山城 の転用石を観たことがありますが、2014年9月19日に郡山城の「天守台発掘調査現地説明会」へ行き、ここでも「さかさ地蔵」をはじめ多数の転用石が在りました。そこで気になっていたことを整理しようと「転用石 城」でググると以下のようなお城があり、整理してみました。
転用石が観れる城
- 城の名
-
築城時期
( 何度か改修・改築がある場合は安土城築城(1576年)以降の古い年代。主としてウィキペディアを参照 )備考
- 旧二条城 ( 京都府 )
-
1569年
石垣の石材には河原石に加えて石仏や石塔を転用されている。
下記より抜粋【参考】織田信長と京都
- 安土城 ( 滋賀県 )
-
1576年
大手道に多数。
【参考】安土城 転用石 -福知山
でググると画像がたくさん見つかります。
- 福知山城 ( 京都府 )
-
1576年
天守台に多数。再建工事の時に出土した転用石も展示されている。
- 有岡城 ( 兵庫県 )
-
1580年
仏教関連の転用石の積み込まれた石垣。
- 兵庫城 ( 兵庫県 )
-
1581年
多用された転用石。
- 大坂城 ( 大阪府 )
-
1583年
石材の大半は、野山や河原から採集される野面石やそれを2、3個に分割した粗割り石、さらに転用石などであった。
- 高取城 ( 奈良県 )
-
1584年
明日香方面の古墳等から運ばれてきた石材を転用した物
#12304;参考】高取城址跡コース コースダイジェスト■高取町観光ガイド
- 和歌山城 ( 和歌山県 )
-
1585年
天守台など、豊臣秀長の時代?。
【参考】和歌山城-お城豆知識
- 中津城 ( 大分県 )
-
1588年
石垣、排水溝の壁、階段などから石塔の転用が確認できています。
- 彦根城 ( 滋賀県 )
-
1622年
少なくとも7ヵ所が確認できています。
これらを診ると、
- 信長から秀吉にかけての築城に多く観られこと
- 姫路城の美談で語られる「姥が石」、郡山城の「伝 羅城門礎石」など必ずしも神仏に関わるものではないこと
などから、他に当時の宗教の状況などまだ多々考慮することはありますが、「単に石が必要となり、急ぎ集めたのではないか」という気がしています。参考までに Yahoo! の知恵袋にこんな質問があります。知恵衆の皆様、城郭の石垣の「転用石」について教えてください。、 安土城の大手道石段には沢山の石仏が使われています。 今までの説ですと、石不足...
ここで、新たな疑問
- 関西圏の内で中津城は異質、これは今が旬の黒田黒田官兵衛絡み、では福岡城は? すでに一世代下ったか?
- 琵琶湖周辺の信長から秀吉にかけての城、小谷城、長浜城、佐和山城、八幡山城、大津城、坂本城などは?
[ 2014/10/10 旧体育の日 ]
輪取り
小諸城 (長野県)の天守台が方形ではなく、方形を少し変形した糸巻き形をしているのは知っていました。中津城(大分県) の案内・説明板 《復元された東側の石垣 》 を読んでいると「石垣面がゆるやかな弧を描き、道路を挟んで対岸の石垣まで連続していることがわかります。これを『輪取り』といいます。力を内側に集中させ、石垣が崩壊するのを防ぐつくりです。」とあり、「石垣 輪取り」ググってみました。
中津城ほど大々的に扱っていませんが少し見つかりました。以前は気にしていませんでしたが、意識してみると最近(2015/10/13)登城した赤穂城もそうではないかと思い「輪取りが見れるお城」の表を作成しました。
輪取りが見れるお城
ググって見つけた等で実際に確認してないものもあります。
- 城の名
-
備考
- 中津城 ( 大分県 )
-
中津城(大分県) の案内・説明板 《復元された東側の石垣 》 に詳しく解説されています。解説に添えられた写真(下)を観るとよくわかります。
- 小諸城 ( 長野県 )
-
書籍(書籍名はメモを残してなく不明)で知り登城で確認。
- 松本城 ( 長野県 )
-
上の小諸城記事の書籍(書籍名はメモを残してなく不明)で松本城の天守台も湾曲しているとあり、写真に収めたもの。少し判り難いか?
- 宇和島城 (愛媛県)
-
[PDF]板嶋丸串城から宇和島城へ - 宇和島市 には「三之丸跡について」で
また法面を逆アーチ状に積み上げていく“輪取り” という技法が用いられています。
とありますが、これなどは該当するように思います。
- 姫路城 ( 兵庫県 )
-
以前ググった時に ゆかりの地(姫路地域) | 播磨の黒田武士顕彰会 で姫路城にも有ることを知り真っ白い天守を写真に収めようと登城した時(2015/10/13)に見つけました。場所は「ロの門」に入る前、門に向かって右側にある石垣。
- 熊本城 ( 熊本県 )
-
[PDF]資料 1-4 - 熊本市ホームページ には
・石垣の積み直し方法、天端高さ、輪取り(石垣天端の曲がり)について、・・・。
・輪取りについては、現在の曲線の度合いが大きいため、少し緩やかにする。とあり、これは馬具櫓復元整備の話で馬具櫓の所の写真を添えますがこの写真からは明確には分かりません。もしかして違う?
- 仙台城 ( 宮城県 )
-
[PDF]議事録【524KB】 - 仙台市 には「三之丸跡について」で
基本的にはそうです。長い石垣は「輪取り」といって、内側にカーブすることはありまが、外に膨らんで積むことはありませ。
とあり、これは中門石垣の復旧工事の状況についての話です。残念ながら手持ちの写真は有りません。「仙台城 中門」で 画像検索 するとそれらしき画像は多々あります。
- 赤穂城 ( 兵庫県 )
-
赤穂城には「角を取った曲線を描く石垣が見られる」ということで石垣を注意深く観ていてみつけました。本丸の東側石垣。
- 甲府城 ( 山梨県 )
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各種の事前調査(輪取り・天端・隅角部・石材と加工
とありますが残念ながら甲府城は未登城、写真なし。「甲府城 石垣」で 画像検索 すると天守台などそれらしき画像は多々見つかります。
- 浜松城 ( 静岡県 )
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浜松城の説明板(私は未登城、ネットで見つけたもの) の「天守曲輪の石垣」には
邪は輪取りともいい、天守曲輪西側の埋門(うづみもん)南側で観察できるが、国内の現存例は多くない。
とあります。残念ながら未登城で手持ちの写真は有りません。「浜松城 石垣」で 画像検索 するとそれらしき画像は多々見つかります。
- 駿府城 ( 静岡県 )
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[PDF]駿府城二ノ丸堀石垣災害復旧設計における構造検討について の内で「間知石積みと切込み接ぎの比較」において 輪取り について検討されています。グーグルマップの 航空写真 を見ると堀の石垣が少し内側に凹んでいる気もしますがよく判りません。画像検索してもいまいち。
- 津山城 ( 岡山県 )
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城郭石塁の構築技術に関する力学的分析とその歴史的考察 には「三之丸跡について」で
築城年代が降るにつれ、歪みも、 輪取り も小さくなり、歪みは彦根城以降、輪取りは津山城以降ほとんど見られない。
とあり、「津山城 石垣」で 画像検索 するとそれらしき画像は多々見つかります。