先頭

天守 乾小天守 渡櫓 辰巳附櫓

月見櫓、は 国宝

松本城

松本城のご案内

松本城 ひとくちメモ

所在地
長野県 松本市
別 名
深志城 (ふかしじょう) [注1]
築城者
石川数正
別名の由来
地名から。元々が深志城で1582(天正10)年、旧地を回復した小笠原氏が深志城を松本城と改名。
天守概要
連結複合式層塔型 五重六階 の大天守、 三重 の乾小天守
城郭構造
梯郭式平城
遺 構
天守 []、 乾小天守 []、 渡櫓 []、 辰巳附櫓 []、 月見櫓 []、 二の丸土蔵 []、 石垣 []、 堀 [] など
再建造物
黒門 []、 太鼓門 []、 埋め橋 [] など
天守の高さ
約35m ( 本丸庭園側石垣3.2~5.3m、内堀側石垣3.3~7.6m、天守29.4m)

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

[注1]松本城管理事務所が提供する 国宝松本城クイズ | 国宝松本城を世界遺産に1-1 松本城の基礎の基礎(こてだめし)問3の解答 『松本城の別称は「深志城」です。一般に「烏城(からすじょう)」言われますが、旅行ブームが始まった昭和30年後半から40年代にかけてバスガイドによって広まったとされて誤りです。』 とあり、別名 烏城 を削除しました。

[ 2012/2/23 ]

松本城 簡易年表

図解 日本の城 より

1504年
小笠原氏の一族島立氏が築城、深志城と名付ける。
1550年
武田信玄が奪い、修築を加える。
1582年
小笠原氏が奪回し、三の丸を設ける。
1590年
石川数正、修築と天守築造を開始。
1597年
修築完成
1872年
城の建物が競売に出されるが、有志により天守が買い戻される。
1955年
天守の解体修理完成

参考になるサイト:

[注1]松本城管理事務所が提供する 国宝松本城クイズ | 国宝松本城を世界遺産に1-1 松本城の基礎の基礎(こてだめし)問3の解答 『松本城の別称は「深志城」です。一般に「烏城(からすじょう)」言われますが、旅行ブームが始まった昭和30年後半から40年代にかけてバスガイドによって広まったとされて誤りです。』 とあり、別名 烏城 を削除しました。

[ 2012/2/23 ]

松本城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 太鼓門 ⇒ 二の丸 ⇒ 一旦外へ、堀に沿って歩き再度 ⇒ 埋の橋 ⇒ 黒門 ⇒ 本丸・天守 の順に

松本城:太鼓門 二の門(高麗門)

(1)
太鼓門 二の門(高麗門)

松本城:一の門(櫓門)の内部

(2)
太鼓門 一の門(櫓門)の内部
太鼓門枡形の由来

松本城:二の丸御殿跡

(3)
二の丸御殿跡

松本城:土蔵

(4)
土蔵
土蔵

松本城:堀に埋の橋、後ろには天守たち

(5)
堀に埋の橋、後ろには天守たち

松本城:朱(埋の橋)と天守たちの対比が絶妙

(6)
朱(埋の橋)と天守たちの対比が絶妙

松本城:埋の橋,天守,月見櫓が揃うベスト位置

(7)
埋の橋,天守,月見櫓が揃うベスト位置

松本城:黒門(桝形の内)

(8)
黒門(桝形の内)

松本城:本丸 北寄りから天守月見櫓 乾小天守

(9)
本丸 北寄りから天守月見櫓 乾小天守

松本城:本丸 月見櫓と天守

(10)
本丸 月見櫓と天守

松本城:大天守の内部、柱が林立

(11)
大天守の内部、柱が林立

松本城:天守梁上に祀られた二十六夜御神体

(12)
天守梁上に祀られた
二十六夜御神体

四季の松本城

ほぼ同じアングルからの春夏秋冬の松本城、写真撮影の定番、ベストの位置

松本城:春、埋の橋、天守、月見櫓、堀のベストの位置

松本城:夏、埋の橋、天守、月見櫓、堀のベストの位置

松本城:秋、埋の橋、天守、月見櫓、堀のベストの位置

松本城:冬、埋の橋、天守、月見櫓、堀のベストの位置

雪の松本城

白と黒の対比が綺麗。埋の橋の朱がはいるのもまた良し。

松本城:太鼓門 二の門(高麗門)

太鼓門 二の門(高麗門)

松本城:大天守 渡櫓 乾小天守

大天守 渡櫓 乾小天守

松本城:大天守 月見櫓 堀

大天守 月見櫓 堀

松本城:朱(埋の橋)と黒と白(天守たち)

白(雪)と朱(埋の橋)と黒(天守)

高い所より鳥瞰する

普段は見上げることが多いお城、たまには上から鳥瞰・俯瞰するのも好いものです。城を見下ろす(上から撮影) で鳥瞰・俯瞰る城郭を紹介していますが松本城は未経験でした。今回、これを達成しました。松本市役所の展望室より松本城を鳥瞰・俯瞰できました。

松本市公式ホームページではほぼ同じカメラアングルで アルプスと国宝松本城ライブカメラ を観ることができます。

松本城:市庁舎・展望室より 太鼓門 黒門 天守

太鼓門 黒門 天守

松本城:市庁舎・展望室より 太鼓門、確かに桝形

太鼓門、確かに桝形

松本城:市庁舎・展望室より 天守、背景にはアルプス

天守、背景にはアルプス

松本城:市庁舎・展望室より 天守

天守

夜 ライトアップの松本城

急遽三脚も無し撮ったライトアップの松本城。手持ちで手ブレもありますが、深黒の夜空を背景にライトアップされたお城の白黒の対比が非常に綺麗なので掲載します。

ライトアップの松本城:大天守 辰巳附櫓 月見櫓

大天守 辰巳附櫓 月見櫓

ライトアップの松本城:黒門

黒門

ライトアップの松本城:本丸 天守の前で薪能

本丸 天守の前で薪能

ライトアップの松本城:本丸 天守と月見櫓

本丸 天守と月見櫓

古式砲術演武の松本城

松本から帰る折、少し時間があり松本城に立ち寄りました。ラッキーにも第23回国宝松本城古式砲術演武(2011年)が行われており、本丸庭園も無料開放されていました。松本城天守を背景にした火縄銃の轟音を体感しました。2年後にまた体験

松本城:本丸庭園での古式砲術演武、火縄銃の轟音を体感

本丸庭園での古式砲術演武
火縄銃の轟音を体感
2011年

松本城:本丸庭園での古式砲術演武、火縄銃の轟音を体感

本丸庭園での古式砲術演武
火縄銃の轟音を体感
2015年

松本城:本丸庭園での古式砲術演武、天守から撮影

本丸庭園での古式砲術演武
天守から撮影
2015年

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の松本城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

松本城:太鼓祭りに合わせて

太鼓祭りに合わせて
2018年7月27~30日 撮影

松本城:真夏にぶらりと寄る、堀には蓮

真夏にぶらりと寄る、堀には蓮
2017年8月20日 撮影

松本城:薪能の夜

松本城 薪能の夜
2016年8月8、19日

松本城:天守に登久姫(福姫)

天守に登久姫(福姫)
2016年3月27日 撮影

松本城:紅葉の松本城を俯瞰

紅葉の松本城を俯瞰
2015年10月30日 撮影

松本城:ライトアップを撮りに

ライトアップを撮りに
2015年10月19日 撮影

松本城:古式砲術演武、火縄銃の轟音を体感

古式砲術演武
火縄銃の轟音を体感
2015年10月18、19日 撮影

松本城:光を落としたライトアップ

光を落としたライトアップ
2015年8月5日 撮影

松本城:桜が満開の松本城

桜が満開の松本城
2015年4月7日 撮影

松本城:夏の終わり、秋の始まりの頃

夏の終わり、秋の始まりの頃
2013年9月24日 撮影

松本城:ライトアップを撮りに

ライトアップを撮りに
2013年5月20日 撮影

松本城:俯瞰とライトアップ

俯瞰とライトアップ
2013年3月22日 撮影

松本城:初めてのライトアップ撮影、ぼろぼろ

初めてのライトアップ撮影、ぼろぼろ
2012年10月22日 撮影

松本城:古式砲術演武、火縄銃の轟音を体感

古式砲術演武
火縄銃の轟音を体感
2011年10月16日 撮影

松本城:雪の松本城、黒と白が絶妙

雪の松本城、黒と白が絶妙
2009年2月4日 撮影

松本城:フィルム撮影の松本城

フィルム撮影の松本城
1973年頃 撮影

松本城 よろず間

松本城 縄張りとカメラアングル

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

松本城案内地図

本丸

二の丸

三の丸

馬出し

馬出し

馬出し

馬出し

足駄堀

内堀

外堀

西堀

総堀

総堀

黒門

北不明門

北門

西不明門

東門

太鼓門

南大手門

埋の橋

乾小天守

大天守

辰巳附櫓

月見櫓

土蔵

方位明示

色の濃い部分本丸二の丸お堀(一部) が現存部分

松本城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた松本城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 天守は 現存する12天守 の一つです。天守と乾小天守が渡櫓で結ばれた連結形、天守に辰巳附櫓が付設れた複合形で連結複合式になっています。天守、乾小天守、辰巳附櫓、月見櫓 は松本城天守として国宝に指定されています。

  • 月見櫓は黒いお城に朱が鮮やかですがこれは徳川家光の善光寺参詣のために増築されたものです。しかし、家光の参詣は行われませんでした。

  • 玄蕃石

    太鼓門枡形を入った石垣に埋め込まれた巨石。高さは3m81cm、重さは推定22.5トン、この石には玄蕃石(げんばいし)という名前がついています。玄蕃は松本城を築城した「石川康長」の官名で、松本城築城の際、玄蕃の守の過酷な陣頭指揮で運ばせた石なのでこの名がついたと言われています。重要な門には大きい石を埋め込むことが多々あり、近くの 上田城 真田石 も有名です。

    [ 2012/10/8 ]

  • 木連格子

    破風の木連格子(きづれこうし、狐格子ともいう) は格子を縦横に組んだ妻飾りの一つで、天守に用いられる最高格式のものです。格式は高いが防火性が悪く次第に姿を消していきました。新築時の名古屋城天守にも用いられていました。

    ビジュアル日本史1000城 を参考にしました。

    [ 2013/1/11 ]

  • 松本城を俯瞰・鳥瞰

    高い所から松本城を俯瞰・鳥瞰できます。市役所本庁舎の屋上には展望室が設けられ松本城を一望できます。5階まではエレベータで行け、少し歩いて展望室まで。ありがたいことに窓を開けることができ、ガラスの反射を気にせず写真を写せます。私の撮った 俯瞰・鳥瞰の写真 [ 松本城 写真壱の館 次ページ ] もあります。

    城を見下ろす(上から撮影) で松本城以外の鳥瞰・俯瞰できる城郭を紹介

  • 松本城は夜間ライトアップされています。市役所の受付で聞いたところでは10時までとのことでした。

    [ 2013/4/1, エープリル‐フールではありません ]

    10時以降でも照明の数は減って少し暗くなりますがライトアップされていました。これもまた綺麗でした(右側)。

    [ 2013/4/1 時点 ]

  • 松本城 お勧め 写真スポット

    案内板 にあった写真スポット(7ヵ所)に私のお勧め(3ヵ所)を追加しました。

    案内板の「お勧め」写真スポット

    松本城:埋の橋と天守

    (1)
    埋の橋と天守

    松本城:ほぼ全員がここでは撮影

    (2)
    ほぼ全員がここでは撮影

    松本城:ほぼ全員がここでは撮影

    (3)
    黒門

    松本城:太鼓門

    (4)
    太鼓門

    松本城:本丸 北寄り

    (5)
    本丸 北寄り

    松本城:本丸 天守真正面

    (6)
    本丸 天守真正面

    松本城:本丸 西寄り

    (7)
    本丸 西寄り

    解像度 640px以下では場所などは表示されません。

    縄張り図
    方位明示 松本城 お勧めカメラスポット お勧めカメラアングル

    私の追加おすすめ写真スポット

    松本城 お勧めカメラスポット

    案内板のおすすめ写真スポット

    私の「お勧め」写真スポット

    松本城: 月見櫓

    (8)
    月見櫓

    松本城: 月見櫓、天守、埋の橋

    (9)
    月見櫓、天守、埋の橋

    松本城: 市庁舎 展望室より

    (10)
    市庁舎 展望室より

    13:市庁舎・展望室よりを追加 [ 2013/4/1 ]

松本城 ここが興趣深い

松本城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 松本城の別名で紹介したように元々は深志城。松本に変わったのは再び小笠原氏が返り咲き旧領を取り戻す本懐を遂げたからとか。長い間「待つ()」と「懐」。単なるこじつけか?

  • 松本城は、関東の家康を監視する上田、小諸、高島などの各城が連携する包囲網の一角として武備を主眼として秀吉が建築させたとされており、これらの城から金箔瓦が出土し、秀吉が自らの権威を誇るために施させたとも推測される。

  • 松本城は平城で平山城に比べ防備が不利といわれるが、堀を鉄砲の届かない広さにすることにより補強しています。

    [ 2012/5/20 ]

  • 宗教的な何らかなものがある天守とし、現存しないが安土城があります。BS 朝日の放送で松本城天守に何か祀られていることは知っていたのですが御神体が分かったので少し詳しく。

    追記のための仕切り線
    • 二十六夜御神体が天守梁上に祀られています。興味を引くのはこの御神体ずっと鎮座していたのではなく明治の初めに川井家の住居に遷座し、昭和の解体復元工事が完了した昭和30年には再び天守上に遷座されたことです。

    • 二十六夜御神体の由来は 国宝松本城クイズ | 国宝松本城を世界遺産に の 12-3 二十六夜神伝説 の解答、ガイド(二十六夜神ガイド) に詳しくあります。

    [ 2012/10/10 ]

  • 現存天守で古さを競っているのがこの松本城と犬山城と丸岡城。私には層塔形の松本城がなぜそんなに古く見られるのか不思議でしたが 歴史読本 2011年 5月号 を読んで少し解答を見出せました。
    追記のための仕切り線
    • 月見櫓は後で増築されたことは知っていましたが、天守群は増築・改築されていったとのこと。
    • 最初に乾小天守が石川氏によって文禄元(1592)年に上げられました。当時は小天守ではなく独立した天守。
    • 慶長20(1615)年ごろ小笠原氏が現在に至る大天守を新築。石川氏の天守は小天守として再利用。
    • 家康の孫・松平直政が寛永10~15(1633~38)年に辰巳附櫓、月見櫓を増築。

      歴史読本 2011年 5月号 には「乾小天守は現存最古の天守建築なのだ。建築年代が古いので、一階の内部には他城では見られない丸太柱が使われており、豊臣系天守とはいいながら、徳川氏の故地三河の中世末期の建築技術を応用したものかもしれない」とあります。

    [ 2012/10/23 ]

  • 加助の怨念 天守を傾ける!!

    お城のホームページを作ろうとしたきっかけ、古写真に興味を持つ発端の加助を復活します。人づてに「松本城は傾いていた」と聞いて「ほんまかいな??」と疑問に感じ古写真で確認しホームページにしたのがこの 城百科 の始まりです。改定する間にいつのまにか消していました。

    松本城については 国宝松本城クイズ | 国宝松本城を世界遺産に でいろいろなことが書かれています。『 6-1 水野氏の政治(政治・貞享騒動・信府統記)について 』 で加助が扱われており、詳細はそちらに任せます。時間に余裕がある方はクイズもやってみては!!。急ぐ方は ガイド 加助松本城睨み天守傾く を直接ご覧ください。

    [ 2013/1/11 ]

松本城で出会った説明板

松本城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

国宝松本城天守

国宝松本城天守

国宝松本城天守

所有者 国(文部科学省)

管理団体 松 本 市 

名称構造建築

天  守 五重六階 本瓦葺推定文禄二~三年 城主 石川康長

乾小天守 三重四階 本瓦葺右に同じ

渡  櫓 二重二階 本瓦葺右に同じ

辰巳附櫓 二重二階 本瓦葺寛永年代 城主 松平直政

月 見 櫓  一重 地下一階付 本瓦葺 右に同じ

特徴

五棟の建物は天守を中心に北には乾小天守を渡櫓でつなぎ東には辰巳附櫓を附属させたいわゆる連結複合式と呼ばれる独特の構成で、その外壁は各重とも白漆喰の大壁で腰には黒漆塗の下見板を張ってある。月見櫓は天守建築には珍しい殿舎風造りで三方に朱塗りの回縁をめぐらしてある。

国宝指定

昭和十一年四月二十日(国宝保存法)

昭和二十七年三月二十九日(文化財保存法)

修理

昭和二十五年~三十九年度(全建物解体修理)

史跡松本城の概要

史跡松本城の概要

史跡松本城の概要

〈昭和5年(1930年)11月19日指定 指定面積93,000平方メートル〉

松本城は北東から南西に緩やかに傾斜した扇状地上にある平地です。戦国時代の初めに守護大名小笠原氏の支城としてこの地に深志城が築かれ、1550年に甲斐(山梨県)の武田氏が小笠原氏を追放し、深志城を信濃支配の拠点としました。武田氏滅亡後、小笠原氏が深志城を取り戻し、名を松本城と改め、城郭と城下町の整備を進めました。小笠原氏が関東へ移った後の城主石川数正・康長父子により、天守の建築(1593年~1594年)などの整備が行われ、近世城郭としての松本城の姿が整えられました。

松本城の範囲は、総堀に囲まれた内側を指し、総面積約93万平方メートルあり、その約3分の1を三重の水堀が占めています。総堀の内側に三の丸、二の丸、本丸が配置され、三の丸は家臣の屋敷地、外堀で囲まれた二の丸は二の丸御殿、古山地御殿、蔵などが置かれ、内堀と外堀に囲まれた本丸には本丸御殿(1727年焼失)がありました。

天守は、明治維新の際に市民の尽力により取り壊しの危機から救われ現存し、国宝に指定されています。本丸、二の丸、内堀、外堀、総堀・西総堀土塁の一部は史跡に指定され、天守と一体になって城郭の姿を今に伝えています。

≪説明に添えられている図≫

松本城および史跡指定の範囲

«享保13年秋改松本城下絵図と

都市計画図を重ねて表示»

内堀南側から見た幕末・維新期の松本城

松本城旧景図(明治30年 後藤新門 画)

松本城天守の構造

松本城 [松本城天守の構造 全体表示

松本城天守の構造

①壁

鉄砲の攻撃に備え20~30cmの厚さ。

②土台支持柱

天守台石垣の中に16本のツガ材の丸太柱を立て1000tの重みを支える。

③筏地形

軟弱な地盤に基礎を設ける工夫。
堀に面した石垣の下に、長材を直角に並べ筏を組む。

太鼓門枡形の由来

太鼓門枡形の由来

太鼓門枡形の由来

《太鼓門枡形》

城の入り口を固く守るためには様々な工夫がなされた。その典型的なものが枡形門で、石垣・土塀を四角に囲って、外と内に門を二重に構えたもものである。松本城には、大手門・太鼓門・黒門に枡形門があった。

太鼓門は、天守建造後の文禄4年(1595)頃に石川康長によって建造され、それから270余年後の明治4年11月、旧物破壊の風潮の中で取り壊されたままになっていた。その後第2次世界大戦になって文化財保護法の思想が高まり、松本城国宝保存工事、黒門復興等を経て、平成11年3月、128年ぶりに太鼓門枡形が復元された。

この門の名称の由来となった太鼓楼は門台北石垣上に置かれ、太鼓や鐘がおかれて様々な合図が発信され、また楼門の脇には、築造者の官名に因む、重量22.5トンの巨石、「玄蕃石」を控え威風堂々とした枡形門を形造っていた。

一般に城の重要な門には、威厳をそえるため巨石を据えることが多かった。この玄蕃石も同様な意味を持つものである。石川康長のころには天守を中心として本丸人二の丸(内曲輪)を「御本城」として整備拡充し、三の丸(外曲輪)には武士を集住させるための武家屋敷は建設途上であり、五ヶ所の城戸(柵門)はいずれも櫓門に変えられたが、大手門が枡形門に整えられたのは、康長の改易後に入封した小笠原秀政の治世下と考えられる。

松本市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

太鼓門枡形の構造

江戸末期の太鼓門の姿

(明治30年 画)

太鼓門礎石の由来

太鼓門礎石の由来

太鼓門礎石の由来

《太鼓門礎石の由来》

寄贈者 飯森福太郎・飯森秀男

寄贈年月日 昭和四十八年(一九七三)八月十日

飯森家は中町の肴問屋で松本藩の賄御用を勤め、その記念として明治維新の際、太鼓門の礎石二個をもらい受け、鏡柱の礎石一個を自宅に保存していた。昭和四十八年(一九七三)に松本城の諸施設の復元の資料となることを願って、この礎石が飯森家から松本市に寄贈された。

松本市教育委員会

土蔵

土蔵

土蔵

《土蔵》

慶応三年(一八六七)に新築され、当時は御金蔵として使用された。。

明治九年(一八七六)の旧二の丸御殿(当時は筑摩県庁)の火災で焼け残り、その後昭和五十九年(一九八四)十月に解体修理が完了した。

松本市教育委員会

清正公駒つなぎの桜

清正公駒つなぎの桜

清正公駒つなぎの桜

《清正公

駒つなぎの桜》

熊本城主加藤清正が江戸からの帰りに松本城に立ち寄った際、城主石川康長は、土産として駿馬二頭のうち一頭を差し上げる旨清正に申し出た

加藤清正は、志のほどを感謝して「貴殿の目利きで取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。二頭共申し受けるのが礼儀と心得る。」といって二頭を頂戴して帰った。これを伝え聞いた人々はさすが清正公と感じ入ったという。

この時、駒をつないだ桜の木だと伝えられている。

「加藤清正伝」より

松本城と城下町

松本城と城下町

松本城と城下町

松本城はもと深志城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。そのころすでに今の二の丸東側には市町が形成されていたが、西方一帯は沼地であった。本格的な近世城づくりが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは、豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。天守を建てたのは2代康長の時代1593~94年と推定される。

三重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。この広さはおよそ39万m2で、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊である上級家臣の屋敷地とした。総延長3.5キロの塁上には透き間なく土塀をかけ、前面は完全囲繞の水堀で、厳重な城門を構える虎口( 枡形と馬出し)だけが城内への通路である。

城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。城下の町筋は格子状のものより鍵の手やT字形交差が多い。居住区分は厳格で士と町人の混在はまったくなく、士屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、町人地は親町3町、枝町10町、24小路にランク付けして、身分と職業によって住まわせた。

左図は城郭の北東上空から南方を望む鳥瞰図である。

松本市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

江戸時代中期の松本城の様子

江戸時代中期の松本城の様子

江戸時代中期の松本城の様子

本丸と二の丸からなるこの地域は、松本城の中枢部である。

本丸には、面積約二七三0平方メートルの本丸御殿(政庁)と五重の天守閣がそびえていた。

二の丸には、東から面積約二三三0平方メートルの二の丸御殿(藩庁)、面積約七00平方メートルの古山地御殿(城主私邸)、藩の籾蔵、幕府の八千俵蔵(備蓄米二000石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、外敵に備えて五棟の隅櫓がおかれていた。。

なお、現在二の丸御殿跡は平面復元されている。

≪説明に添えられている図≫

明治天皇駐蹕遣址碑について

明治天皇駐蹕遣址碑について

明治天皇駐蹕遣址碑(ちゅうひついしひ)について

《明治天皇駐蹕遣址碑》

&明治十三年(一八八〇)六月に明治天皇が松本地方へ御巡幸され、当時この二の丸御殿跡地に新築されていた松本区裁判所に立ち寄られたことを記念し、大正十年(一九二一)六月に松本市民により建てられた。

昭和五十三年(一九七八)に裁判所(長野地裁松本支部)は移転したが、碑は現在地に残された。

松本城大手門桝跡 第1次発掘調査の成果

松本城大手門桝跡

第1次発掘調査の成果

松本城大手門桝跡 第1次発掘調査の成果

大手門は、天守がある本丸に至る3ヶ所の桝形門のひとつで、女鳥羽川をはさんで南に広がる城下町から城内(三の丸)に入る正門にあたります。桝形という、石垣と塀・堀で囲まれた四角い形態をしていて、南西隅に二の門、北側に一の門があります。大手門を通ると、東西に有力家臣の屋敷地が並ぶ大名小路で、武家地となります。

享保9(1724)年に編さんされた「信府統記」によると16世紀後半の石川数正・慶長時代に天守を建てるとともに城郭を囲む堀を整備したことがわかります。「三の曲輪の大城戸五ヶ所共に門楼をつくる」という記載があり、この時に大手門もつくられたと考えられます。

平成24年7月~12月にかけて実施した発掘調査では、ほぼ南北にまっすぐ延びる石垣を確認しました。調査でみつかった石垣の長さは約18m、高さは最大で1.4mで、底から3段分が残っていました。桝形の東辺部分と考えられ、医師側より東側は総堀となります。総堀は明治11年以降埋め立てられたという記録があります。また、明治4年の廃藩置県後に大手門が取り壊された記録もあり、その時に解体された石垣上部の加工された石や、塀に使用されていた瓦や建築材が、堀に捨てられた状態で出土しています。石垣の背面(西側)には排水を良くし、石垣を支える裏込め(栗石)があり、盛土により造成を行なっていることがわかりました。石垣から約5m西には、面を揃えた石が並んでおり、これより内側が桝形内部の広場となります。

大手門は明治4(1871)年の廃藩置県後に取り壊されており、総堀は明治11(1878)年以降埋め立てられたという記録があります。大手門の取り壊しの際に解体された石垣の石や、塀に使用されていた瓦や建築材が堀に捨てられた状態で出土しています。

今回の調査では、石垣の残存状態を確認でき、大手門桝形の位置や規模を考えるうえで重要な成果をあげることができました。

≪説明に添えられている図≫

絵図に描かれた明治4年頃の

大手門桝形の様子

「松本城見取り図」

(松本市立博物館蔵)

絵図に見る大手門桝形と

調査地(推定)

出土した石垣と石列

絵が中心の案内・説明書

 松本城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。«松本城案内図»には写真スポットが掲載されています。«二の丸御殿絵図»には発掘調査の結果と「御年寄部屋原図」より二の丸御殿が絵で復元されています。«国宝松本城天守»には松本城各部の名称や周辺の山の名称が記述されています。

松本城案内図

( 地図に写真スポットがあります )

二の丸御殿絵図

国宝 松本城天守

松本城 天守など諸々

月見櫓に展示されていた古写真

月見櫓に天守、月見櫓の古写真が展示されていました。

明治の修理実施中の天守(明治43年頃)

天守3重以上の修理が済んでいる。明治の修理が完了したのは大正2年前後10年間かかった。

松本城古写真(明治35年頃)

「明治の修理」直前の松本城天守 荒廃が進み倒壊が心配された。

MOON VIEWING KEEP (Tsukimiyagura)

This keep has been said to be annexed in 1630's when Matsudaira Naomasa famous grandson of Tokugawa Ieyasu, ruled over this domain. It is unique because of its design in the kiving-room fashion and exceptionally open structure and relatively sophisticated apperrance.

太鼓門秋の特別公開での展示

平成27年、太鼓門秋の特別公開で2葉の古写真が展示されていました。。

 

 

松本城 各部の名称

解像度 640px以下では各部の名称などは表示されません。

松本城 各部の名称

乾小天守

大天守(5重6階)

辰巳附櫓

月見櫓

突き上げ戸

竪格子窓

石落

刎高欄

千鳥破風

渡櫓

大手口

唐破風

野面積石垣

松本城 国 宝

松本城は国宝に指定されています

松本城は旧国宝 の「天守」、「乾小天守( いぬいこてんしゅ )」、「渡櫓」、「辰巳附櫓」、「月見櫓」の5棟が「松本城天守」として引き続き国宝 に指定されています。また、城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース 」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 」 を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
松本城天守
 
天守
五重六階、本瓦葺
 
乾小天守
三重四階、本瓦葺
 
渡櫓
二重二階、本瓦葺
 
辰巳附櫓
二重二階、本瓦葺
 
月見櫓
一重、地下一階付、本瓦葺

松本城 面白文書、拾い上げ

書籍など、松本城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

松本城を実際に訪れると、高さ30メートルの天守は、写真よりもなぜか小さく、ずんぐりした姿にみえるだろう。これは四層目と五層目が同じ大きさで、一層目から三層目までの逓減率に狂いが生じているためだ。いわゆる頭デッカチの大天守で、写真ではレンズ効果により上層部が小さく写り、建物全体が大きく高く見えるのである。

名城の日本地図 より

2018年「夏の太鼓門特別公開」で逓減率一定の天守雛形が展示されていました。

逓減率一定の天守雛形

天守の四層目と五層目

時代が移り明治に入ると、この松本城にも不要論が取り沙汰されるようになる。そもそものきっかけは1871( 明治4 )年の廃藩置県の詔である。この詔勅が出されると、旧大名は東京へと移住し、城郭もその多くが取り壊されることになった。

その翌年には、かって全国二百余りを数えた城郭は、わずか五十八を残して払い下げられることが決定してしまう。

松本城も例にもれず競売に付され、二の丸大書院を除いた城郭の門・櫓・塀、そして天守閣を、1872( 明治5)年1月、笹部某が三百九両一分で落札したのだ。( 途中略 )

今にも進められようとしていた天守閣の破却を押しとどめたのが、松本の名主の子で民権論者である市川量造である。彼は幕末期に江戸で修学し、帰郷した後は窪田畔夫らと『信飛新聞』を発行した功績で知られている。( 途中略 )

しかし、市川の尽力によってなんとか破却は免れたものの、天守閣一帯は依然荒廃したままであった。戊辰戦争時のゴタゴタと、その後の放置による損傷は甚大なものがあったのだ。この修理に力を尽くし、松本城を今に残したのが、旧二の丸古山寺御殿跡に建設された県立中学校松本支校の小林有也である。小林は果樹園となっていた本丸跡広場を中学校の運動場にすると同時に、天守閣の管理を願い出たのだ。

さらに松本町長・小里頼永らと「松本城保存会」を発足させた小林は、1902( 明治35)年、長野県知事の許可を得て、寄付金を募り、翌年から城の修理に着工した。

その後、日露戦争により工事は一時中断したが、修理工事は完成した。その費用は判明するだけでも合計2万円余に及び、松本市の寄付金三千七百円をはじめ、旧松本藩関係者らの援助がなくては成功し得ない大事業であったといわれる。

日本国宝物語 歴史に秘められた謎を訪ねて より

登城の道のり

松本城は気楽に行け、登城は気にかけずふらっと寄ります。

最新の登城日:平成25年3月22日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

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松本城まで 簡単に説明

登城日:平成23年10月16日

  • 松本から帰る折、少し時間があり松本市役所まで車で送ってもらい、太鼓門より登城。
  • ラッキーにも第23回国宝松本城古式砲術演武が行われており、本丸庭園も無料開放されていました。
  • 松本城天守を背景にした火縄銃の轟音を体感しました。
  • 秋の穏やかな日差しの中、松本城を満喫。
  • のんびりと20分ほどかけてバスターミナルへ。

登城日:平成22年2月4日

  • 通勤前の車に乗せてもらい、上田城へ向かう前に松本城に立ち寄る。
  • 早朝で人も少なく太鼓門より登城。
  • 二の丸をぐるっと回り雪の松本城を撮影。
  • 上田城登城のためJR松本駅に向かう。歩約15分。

ストリートビュー:松本城天守群

(城内も仮想散歩ができます)

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城めぐり 栞