南櫓,北櫓,西櫓は長野県宝
国の史跡
上田城
上田城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが興趣深い
- 伍: 上田城で出会った案内板
- 睦: 登城の道のり
上田城 ひとくちメモ
- 所在地
- 長野県 上田市
- 別名
- 尼ヶ淵城
- 築城者
- 真田 昌幸
- 別名の由来
- 地名(川の名前)、千曲川の支流の尼ヶ淵に因んで。尼ヶ淵は堀の役目も兼ねていました。
- 天守概要
- 上がったか否かは不明。古図や金箔瓦などから上がったという説もあります。
- 城郭構造
- 梯郭式 平城
- 遺 構
- 南櫓 [ ※ ]、 北櫓 [ ※ ]、 西櫓 [ ※ ]、 石垣 [ ※ ]、 土塁 [ ※ ]、 堀 [ ※ ] など
- 再建造物
- 東虎口櫓門 [ ※ ]
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
上田城 簡易年表
図解 日本の城 より
- 1583年
- 真田昌幸、上田城築城開始
- 1585年
- 上田城完成、徳川軍の攻撃を受ける
- 1600年
- 真田昌幸、徳川秀忠の大軍の攻撃を受ける
- 1616年
- 真田信之が入封
- 1622年
- 仙石氏が入封
- 1626年
- 仙石氏により、修築開始
- 1706年
- 松平氏が入封し、幕末に至る
- 1871年
- 兵部省の管轄となり、上田分営が置かれる。分営長は乃木希典
参考になるサイト:
上田城 写真の間
押さえたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 本丸・二の丸
☒ 尼が淵より
本丸・二の丸
尼が淵より
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の上田城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
上田城 よろず間
上田城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった**城案内図>を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
上田城 ここが興趣深い
上田城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
- 上田城は明治7(1874)年に廃城とされ、本丸の7棟の櫓は西櫓を残し他は解体、そのうち2棟は上田遊郭に移築されたました。その後、東京の料亭が昭和16(1941)年にこれを買い取り、さらに1942(昭和17)年に市民の有志により買い戻され、再度、現在の北櫓と南櫓の場所に移築されました。
[ 2012/7/7 : 追加・増補 ]
- 上田城には鬼門除けが施されています。本丸の鬼門(北東)の角が切り落とされています。私の写真でははっきり見れないのですが古図ではしっかりと面取りされた様子がわかります。 【 参考 】 本丸土塁の隅欠
[ 2012/7/7 ]
2度目の登城で角の切り欠けがはっきり判る写真を撮ったので差し替えをしました。
[ 2018/6/18 ]
-
車窓からでも上田城をたのしめまうす。アングル的には新幹線のほうがいいにですが在来線でも。
[ 2019/2/25 ]
-
街中にはこんなものも。
[ 2019/2/25 ]
上田城で出会った説明板
上田城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
上田城について
- ♦ 上田城の歴史
- ♦ 家康の命で築かれた上田城
- ♦ お城の移りかわり
建物、遺構など
- ♦ 長野県宝 上田城 西櫓
- ♦ 本丸 西櫓
- ♦ 二の丸櫓台と煙硝蔵
- ♦ 真田石 2017年の登城時
- ♦ 真田石 2010年の登城時
- ♦ 真田井戸
- ♦ 本丸東虎口
- ♦ 二の丸東虎口
- ♦ 二の丸西虎口
- ♦ 上田城本丸北西隅櫓跡
- ♦ 上田城本丸北東隅櫓跡
- ♦ 本丸土塁の隅欠
尼ヶ淵関連
- ♦ 尼ヶ淵
- ♦ 尼ヶ淵の崖
- ♦ 尼ヶ淵の石垣
- ♦ 南櫓下の石垣について
興味を引く説明
東虎口櫓門での展示
- ♦ 元和年間(1615~23)の上田城絵図
- ♦ 元禄年間上田城下町絵図
- ♦ 安政年間上田城下町絵図
- ♦ 明治24年 上田全図
- ♦ 大正2年 上田町市街図
- ♦ 古写真
街中で出会った説明板
絵が中心の案内・説明書
上田城について
⚫ 上田城の歴史などの一般的、全体的な説明。
上田城の歴史
上田城の歴史
上田城は、真田幸村 (信繁) の父、真田昌幸によって天正十三年(一五八五) には一応の完成をみたものと考えられている。
この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川大軍の攻撃をうけ、みごとにそれを撃退してしまったからである。
最初の合戦は天正十三年に行われた。攻め寄せた徳川勢は七千人余、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を千三百人余もだした。これに対し真田方の死者は四千人ほどであったという。
二度目の戦いは、慶長五年 (一六〇〇) の関ケ原の合戦に際してのものであった。関ケ原に向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、三万八千人という大軍、これに対し、昌幸・幸村父子の率いる上田城兵は、わずか二千五百人ほどであった。しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけされただけに終わり、関ケ原の決戦に遅れるという大失態を演ずることになる
上田城は、いわば地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた全体がきわめて秀れた構造となっていたことが、現在、学術的研究によって明らかになってきている。全国に数多い近世城郭のなかで、二度も実践を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城はほかに見ることができない。
上田城は、その後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。寛永三年、(一六二六) この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
廃藩置県後、明治七年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治十二年、松平神社 (現 真田神社) 創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで、明治二十六年には、残りの土地を遊園地用として寄付した。これが上田城跡の公園化の第一歩となった。
現在、三ノ丸地域は改変しているが、本丸・二ノ丸には、土塁・城跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めている。
家康の命で築かれた上田城
〈上田城お勧め見学ルート その②〉
家康の命で築かれた上田城
上田城は天正11年 (1583) に徳川家康の命令で築城を始めました。この時、真田昌幸は家康の力を利用して居城を造らせ、うまく城主に納まったのです。ところが沼田領をめぐる家康との対立が原因で、昌幸が越後の上杉景勝に主君を変えたことから、天正13年には上杉方の城として完成します。この間、徳川七千の軍勢の攻撃を受けた昌幸でしたが、わずか二千の兵でこれを撃退しました (第一次上田合戦)。ここ上田は当時、徳川・上杉ふたつの勢力がぶつかった場所ですが、上田城はまさに最前線の城として生まれ、改造がされました。しかし、この時の上田城の姿はよく分っていません (絵図❶)。
合戦後、昌幸は上田城を豊臣秀吉配下の城として金箔瓦に飾られた城郭へと変貌させます。本丸堀の北西部から背びれなどに金箔が残る鯱瓦などが出土しています (写真❷)。このことから、天守のような建物がこのあたりに存在しているのではないかと推定されています。土塁や堀で防備を固めた実践的な構えの上田城でしたが、石垣は少なかったものとされます。
秀吉の没後、昌幸と次男・信繁(幸村)は関ケ原の合戦で豊臣方 (西軍)につきました。昌幸らは徳川秀忠の西上を数日間に渡って上田城で足止めし (第二次上田合戦)、関ケ原に遅参させましたが、合戦に勝利した徳川方 (東軍) の戦後処理により、上田城はことごとく打ち壊され、徳川方についた長男・信之に引き渡されました。信之は城を復興せず、御殿を三の丸に造って上田藩を治めました。
現在の上田城の姿は、信之の後に上田藩主となった仙石忠政が寛永3年 (1626) から復興したものが基本となっています (絵図❸)。本丸には櫓が7棟と櫓門が2棟造られていました。このような狭い本丸に9棟もの建物が並んでいたというのは、他の城郭にはあまり例が無いとのことです。本丸・二ノ丸・三の丸・小泉曲輪、それに天然の堀である尼が淵の要害、外堀とした現在の矢出沢(やでさわ)川・蛭沢(ひるさわ)川を配し、梯郭(ていかく)式と呼ばれる縄張を完成させました。この時、忠政は真田氏時代の堀を大きく変えずに掘り返したものと考えられます。
なお、二の丸堀の北側と西側は百閒堀と呼ばれる大きな堀でした。堀の中に昭和3年に完成した野球場と陸上競技場は、城の地形を上手に活かして造られた近代遺産です。広大な堀の痕跡をぜひご覧ください (ここから徒歩約5分)。
また、尼が淵の崖下から本丸の櫓を見上げてみませんか?上田城の堅い守りを実感できるスポットです (ここから徒歩約5分)。
≪説明に添えられている図≫
お城の移りかわり
お城の移りかわり
けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていました。(写真1)
その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。(写真2)
昭和47年2月に電車が廃止され、現在に至っています。
≪説明に添えられている図≫
建物、遺構など
⚫ 上田城に残る建物や往時を偲ばせる遺構、跡などの説明。
長野県宝 上田城 西櫓
長野県宝 上田城 西櫓
上田城西櫓は江戸時代初期の寛永3~5年(1626~1628)にかけて真田氏の後に城主となった仙石氏がによって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。
建物の大きさは、1階が桁行9.85m(5間)、梁間7.88m(4間)の大きさで2階は桁行8.64m、梁間6.66mと少し小さくなっています。
外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りごめた大壁造りとなっています。また、壁に設けられた穴は、弓矢や鉄砲を撃つためのもので、長方形の弓狭間と、方形の鉄砲狭間があります。窓は縦格子の付いた突き上げ板戸です。
建物の内部は、中央に丸太材の芯柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されています。壁は柱を残して漆喰を塗って真壁造りで、幕末期に補強のために取り付けられた筋交が見られます。
屋根は、丸瓦と平瓦で葺いた本瓦葺きで、鬼瓦には最後の城主となった松平氏の五三桐紋がついています。なお、鯱瓦は昭和3年に徴古館として改修された際に寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓には鯱瓦は無かったようです。
西櫓は、上田城本丸の西虎口(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫として使用されていました。また、櫓の名称も江戸時代には特になく、「西櫓」の名称は南櫓と北櫓が復元された後につけられた新しい名称です。
上田城西櫓は、昭和18~24年に移築復元された南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されました。
上田市教育委員会
本丸 西櫓
本丸 西櫓
本丸には7棟の櫓がありました。いずれも元和8年(1622)真田信之の松代転出後に上田城主となった仙石忠政が行った、寛永3年(1626)からの上田城復興工事の際に建てられました。
現在、本丸の東西虎口には隅櫓が3棟ありますが、南櫓・北櫓の2棟は、明治維新後、他所へ移築されていたものを現在地に再移築したものです。西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を残し、外観もほぼそのままの姿を残す西櫓は全国的にも貴重な建物であり、昭和34年には南櫓・北櫓とともに長野県宝に指定されました
櫓の構造は桁行(けたゆき) 5間(約9m)梁間(はりま)4間(約7.2m)の二重櫓で、主要材は松と栂(つが)です。屋根は入母屋造で本瓦葺き、外壁は下見板張りで一部を白漆喰の塗籠としています。
窓は「武者窓」という形式で、突き上げ戸が取り付けられており、棒で突き上げてすばやく開けられるようになっています。
1階の狭間(矢・弾丸を放つための窓)は、いずれも下方の敵を狙いやすいように低い位置に開けられています。南・北面では左から縦長の矢狭間が一つと、正方形に近い鉄砲狭間三つが並んでいます。また西面では、左側に矢狭間が一つ、その右に鉄砲狭間が並んで配置されています。
二の丸櫓台と煙硝蔵
二の丸櫓台と煙硝蔵
二の丸にあった3箇所の虎口には櫓台が東西に各1箇所、土塁上には6箇所に設けられていました。現在遺構が保存されているのは東虎口の1箇所と、土塁上の2箇所のみです。櫓台の存在から、上田城復興に着手した仙石忠政 は二の丸の各虎口にも櫓門と櫓を構築する予定だったことが分かりますが、寛永5年(1628)忠政が病死したため未完成に終わりました。
また仙石氏在城以降の絵図には、二の丸南西部に煙硝蔵が1棟描かれています。煙硝蔵は仙石氏が上田城主だった貞享3年(1686)に新設され、本丸内の櫓に保管されていた煙硝 (火薬) を移しました。
≪説明に添えられている図≫
真田石 (2017年の登城時)
真田石
大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田石に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
真田石 (2010年の登城時)
真田石
真田昌幸(幸村の父)が上田城築城の際、太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」と名付けた。
その子信之は松代へ移封のときこの石を家宝として持っていこうとしたが微動だにしなかったと、伝えられる。
以来、文字通り上田城にそなわった礎石である。
真田井戸
真田井戸
この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
上田市木 一位の木 製
本丸東虎口
本丸東虎口
現在、本丸の東西虎口には3棟の櫓が残っています。
東虎口にある南北2棟の櫓は明治8年 (1875)に民間に払い下げられ、上田城の北方、太郎山山麓の上田遊郭に移築されました。昭和16年 (1941)には市内の建築業者から東京の料亭に転売されるという事態が起こりましたが、市民らにより上田城址保存会が結成され、2棟の櫓を買い戻しました。その後、戦局の悪化による中断をはさみながら同24年 (1949)に現在地に復元。南櫓・北櫓と名付けられ、上田城跡のシンボルとして人々を迎えることになりました。昭和34年には、西櫓とともに長野県宝に指定されています。
また現在東虎口にある櫓門は、古写真等を根拠に平成5年度に復元したものです。
二の丸東虎口
二の丸東虎口
江戸時代の二の丸には敵の侵入を防ぐための石垣が設けられていました。東虎口から本丸へたどり着くには、石垣を右に折れ左に折れて、「三十間堀」という堀の横を通り、本丸堀へ突き当たって左折、されに石垣に突き当たるので左、右、右と曲がっていかなければなりませんでした。現在では、三十間堀は埋め立てられ、石垣も入口両側以外は全て撤去されています。
また旧上田市民会館以外の敷地一体は、三十間堀と石垣で仕切られた一つの郭「武者溜り」とされていました。武者溜りは城門内の外郭に沿った広い場所で、軍勢の勢ぞろいなどに使われました、
東虎口の土橋は昭和2年 (1927) に上田温泉電軌北東線が二の丸の堀底を通る事になった際に、コンクリート製の二の丸橋として改築されました。
≪説明に添えられている図≫
二の丸西虎口
二の丸西虎口
二の丸への入口は、正面側である東虎口のほか、西・北虎口の3箇所あります。西虎口の石垣は現在は失われてしまいましたが、基礎の根石列が発掘調査で確認されています。
西虎口では櫓門の礎石跡も確認されました。このことから、元和8年(1622)上田城主となった仙石忠政は二の丸にも櫓門を建造する計画だったことが分りますが、忠政が病死したため上田城復興は未完成に終わりました。
≪説明に添えられている図≫
上田城本丸北西隅櫓跡
上田城本丸北西隅櫓跡
仙石忠政によって復興された上田城は本丸に7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられていました。本丸東西の虎口 (出入口) には一対の石垣が築かれ櫓門と2棟の隅櫓が建てられ、北東部の土塁上には2棟、北西部の土塁上には1棟の隅櫓がたてられていました。本丸北西部の隅櫓は二の丸西虎口の正面に位置し、西から侵入してくる敵に備えたやぐらでした。
これらの建物は、明治維新後は政府によって民間に払い下げられ、現在の西櫓以外の建物は取り壊されたり、移築されてたりしてしまいました。その後、昭和17年に2棟の隅櫓が上田市民の寄付金によって買い戻され、昭和18年~24年にかけて現在の南櫓と北櫓として復元されました。また、平成6年には本丸東虎口に櫓門が復元され、往時の姿を取り戻しました。
本丸北西部の隅櫓跡は、平成6年度に発掘調査が行われ、土塁の上に直接建てられていたたてものであったことが確認されました。現在、地上に露出している礎石は隅櫓の中央に建てられた芯柱をすえるためのもので、遠景の柱座が彫られており、芯柱は直径約50cmの丸太材の柱であったことがわかります。この礎石の周囲には約2mの簡易で栗石が残っており、本来の一を留めていることがわかりました。また、建物の基礎材をすえるための栗石列や小礎石も検出され、この隅櫓が現存する西櫓などと同じく南北5間、東西4間の規模を有する建物であることが確認されました。
【金箔瓦】
平成3年度に行われた本丸堀の浚渫工事の際に、堀底より大量の屋根瓦が出土しました。これらの瓦には、五七桐紋鬼瓦や菊花紋軒丸瓦など豊臣にゆかりの深い文様を持つ瓦が含まれており、豊臣秀吉に臣従していた真田昌幸によって建てられた建物に使用されていた瓦であることがわかりました。真田氏時代の上田の様子は絵図など史料が乏しくほとんどわかっていませんが、城内の各所から出土する真田氏時代特有の瓦によって、瓦を葺いた建物が城内に多数存在していたことが推測されます。なかでも北西隅櫓跡の西側の堀底からは金箔の付着した鯱鉾の破片が数点出土し、真田氏時代にはこの付近に黄金色に輝く鯱鉾の載った建物が存在していたことが推測されます。
上田市教育員会
上田城本丸北東隅櫓跡
上田城本丸北東隅櫓跡
上田城 は、真田昌幸 によって天正11年(1583) に築城が開始され、徳川氏の攻撃を二度にわたって退けるなど、近世城郭としては稀有な戦歴を誇る名城でしたが、慶長5年(1600) の関ヶ原合戦後に徳川氏配下の諸将によって徹底的に破壊されてしまいました。
廃城同然となっていた上田城を現在の姿に復興したのは、真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政 です。忠政による再築城は、寛永3~5年(1626~1628) にかけて行われ、基本的な縄張りは真田氏時代の形を継承しながら、各虎口 (出入口) には石垣を築き、本丸には7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられました。
本丸の北東部には2棟の隅櫓が建てられていたことが江戸時代のさまざまな絵図によって知られていましたが、平成6年度と7年度に発掘調査が行われ、正確な位置や大きさが確認されました。発掘調査の結果、隅櫓は石垣を築かずに土塁の上に直接建てられていたことがわかりました。また、隅櫓の規模は現存する西櫓などと同じく桁行5間、梁間4間と推定され、北側の隅櫓は東西方向に、南側の隅櫓は南北方向に棟の方向が向いていたことが確認されました。
現在、この場所には隅櫓の中心に建てられていた心柱の礎石がそれぞれ残っていますが、いずれも明治時代以降に動かされ、本来の位置とは少しずれています。
【鬼門除け】
上田城の本丸と二の丸の土塁と堀は、北東の隅が直角ではなく、内側に折れて切り欠きが設けられています。北東 (丑寅) の方角は「鬼門」と呼ばれ、古来より災いや物の怪が侵入してくる方角と考えられてきました。北東の隅に切り欠きを設けて鬼門を封じる風習は京都御所の土塀などにもみられ、真田昌幸による縄張りの遺構と考えられています。昌幸はさらに城下の北東の地 (上田市新田) に八幡社を建立し、上田城と城下町を鎮護しています。
上田市教育員会
本丸土塁の隅欠
本丸土塁の隅欠(すみおとし)
上田城や藩主屋形 (上田高校) の土塁、堀、城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られ、真田氏の頃から設けられていたものとされる。鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、城下町の鬼門に寺社を置いたりした。
上田城本丸の土塁は東北の角を切りこみ、やぐら2棟をその両脇に配置していた①。堀や土塁の斜面が内側にへこんで見えるのはそのためである。
二の丸堀の東北の角は、かぎの手に折り曲げ②、外側を「樹木屋敷」と呼ぶ林としていた③。また、藩主屋形の土塁、土塀も隅欠をするなど、各所に鬼門を除ける強い意識がみられ、上田城の特徴のひとつである
≪説明に添えられている図≫
尼ヶ淵関連
⚫ 上田城の要害堅固を担う尼ヶ淵。ここの崖や石垣について。
尼ヶ淵
〈上田城お勧め見学ルート その4〉
尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀)
ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、さらに防備は堅固なものになりました。崖の高さは約12メートルあり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました。
ところが、千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、歴代の城主はこの対応に頭を痛めました。崖面に築かれた石垣には算木積みの古い技法と考えられるものもあり、仙石氏の頃、あるいはそれ以前に築かれた石垣である可能性もあります。そして、享保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました。そのため、城主・松平忠愛(ただざね)は崖を守るための石垣の築造を計画し、翌年から工事を始めました。享保21年、石垣は完成しますが、石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、南櫓と西櫓の下を除いて、石垣は低くなったり、造られずに終わってしまいました。
尼が淵は要害堅固な上田城をバックにした、おススメの撮影ポイントです。
≪説明に添えられている図≫
尼ヶ淵の崖
尼ヶ淵の崖 (あまがふちのがけ)
上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分流が流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。この川は上田城を守る天然の堀の役割を果たしていましたが、大水が出ると尼ヶ淵の崖を侵食することがあり、まさに諸刃の剣でした
崖に見られる地層は三つです。上から①上田泥流層 (火山が崩壊した砂礫が堆積したもの)、一番下には③染屋層 (川の作用で砂礫が堆積したもの)、そして、この二つの層の間には、②火砕流に由来する粉じんが堆積しています。三つの地層の中では、②の層が一番軟らかくてもろいため、大水のたびに②の層を中心に崖が削られてしまい、崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。そのため、上田藩主・松平忠愛(まつだいらただざね)は享保十八年(一七三三)から石垣を築いて、崖を侵食から守りました。尼ヶ淵の石垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。
≪説明に添えられている図≫
尼ヶ淵と石垣
尼ヶ淵と石垣
本丸南側の尼ヶ淵は崖面がもろく崩れやすい性質だったことから、築城以来崖の保護対策が講じられてきました。南・西櫓下の下段には享保の洪水 (享保17年・1732) 後に設置された大規模な石垣があります。
本丸東西虎口の土橋より南側の堀は、正保4年 (1647) 江戸幕府に提出した絵図では『から堀』と記されており、比較的早い時期、または当初から空堀だったことが分かります。ただ東虎口側の東南隅にある石垣には排水口があり、水を入れた、あるいは入れる意図があったことが分かります。
≪説明に添えられている図≫
南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。
上田市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
興味を引く説明
⚫ 堀の水源についてや眞田赤備え兜についての説明もありました。
堀の水源について
堀の水源について
千曲川の第二段丘上に広がる上田城下町は、ほぼ平坦であるが、東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっています。
従って、堀の水は城より約4km東を流れる神川から取り入れていました。
現在は、櫓下の芝生広場から地下水を汲み上げて、堀へ供給しています。
眞田赤備え兜
「眞田赤備え兜」
二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた眞田の「智勇」は天下に轟き大阪夏の陣 において武具を赤で統一した「眞田赤備え」部隊を率いた眞田幸村 公ががぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称されました。自ら信じる道を民とともに歩んだ眞田一族の熱き「和」と「仁」の心、眞田魂が宿る眞田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしています。
眞田神社奉賛会
東虎口櫓門での展示
東虎口櫓門は内部が公開され、資料や古写真が展示されていました。
元和年間(1615~23)の上田城絵図
元和年間(1615~23)の上田城絵図
真田信之が上田において統治した元和2年(1616) から松代移封の同8年(1622) の間の絵図。天正13年の第一次上田合戦後、上田城は三の丸の各所にも櫓や門を設置するなど広大な近世的構えに改修されたと思われ、関ケ原合戦の折、昌幸・信繁(幸村)父子が籠城して徳川軍を防いだが、合戦後破却された。本丸その他の堀は「ウメホリ」と記され全くの廃城となった。
≪説明に添えられている図≫
元禄年間上田城下町絵図
元禄年間上田城下町絵図
仙谷氏在城時代の上田城下町絵図で、武家屋敷の屋敷割を中心に描かれています。上田城は、本丸については「御本丸」と書かれているのみで省略されています。また、二の丸は「二御丸」と書かれており櫓や門などの建築物がない様子がわかります。「御中屋敷」と記載されている場所は、現在清明小学校の敷地となっています。「追手口」(大手口) から城内です。
城下町全般を見渡すと、城下町と家臣の屋敷は城の東側に偏っていることがわかります。また、絵図の所々に赤く塗られた四角形の印がありますが、これは「番所」で、武家屋敷と町屋の境・藩主屋敷・お城の虎口 (入口) などの要所に設置されています。
≪説明に添えられている図≫
安政年間上田城下町絵図
安政年間上田城下町絵図
松平氏在城時代の上田城下町絵図で、武家屋敷の屋敷割を中心に描かれています。基本的には元禄年間の上田城下町絵図と変わっていません。上田城の本丸については「御本丸」と書かれているのみで省略されています。また、二の丸には堀や石垣・土塁は描かれており、櫓や門などの建築物がない様子がわかります。
二の丸東虎口の外には「文武学校」・「稲荷宮」があります。ここは、元禄年間の上田城下町絵図では家臣の屋敷地でした。また、「御作事」と記載されている場所は元禄年間の上田城下町絵図では「御中屋敷」でした。現在の清明小学校の敷地となっています。
≪説明に添えられている図≫
明治24年 上田全図
明治24年 上田全図
この図面は、上田の街を印刷により表した初期の地図です。実測ではないため、縮尺や距離感は不正確です。地図の周囲には、明治維新後の近代化した上田の姿を、建築物を中心に表しています。「上田尋常小学校」、「高等小学校(旧藩主屋敷)」、「上田女学校」、「上田停車場」、「第十九国立銀行」、「上田橋」などが見られます。図面の中央の上田城本丸には「松平神社」があります。また、本丸には櫓が二基残っていたことがわかります。二の丸は「監獄」となっています。また、大手門の堀が残存していました。明治21年に鉄道の駅「上田停車場」(現在の上田駅の前身)が営業を開始するとともに、駅と「海野町」「原町」をつなぐ「松尾町」も開通しました。
≪説明に添えられている図≫
大正2年 上田町市街図
大正2年 上田町市街図
測量による地図が作成されるようになったため、包囲・縮尺が地図に記入されるようになり、凡例にある地図記号も用いられるようになりました。しかし、かなり簡略化した地図です。地図からは、市街地の周囲や水田や畑が広がっていたことがわかります。
大正期の上田は、蚕種行とその関連産業が隆盛を極めており、市街地北方に「大星川原種桑園」・南方に「鴨池種桑園」などの広大な桑園がみられます。また、「上田桑糸専門学校」(現信州大繊維学部明治44年開校)・「小県桑業学校」(明治25年開校、大正12年現在の上田東高校の地へ移動)も見えます。
≪説明に添えられている図≫
古写真
古写真も展示されていましたが、光が反射して少し見難いものもあります。
街中で出会った説明板
街中でにも説明板がありました。
上田城下町絵図
上田城下町絵図
上田藩主居館跡
上田城三の丸内にある現上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館跡であり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていた。四囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。
堀を含めた敷地の広さは、東西が七十四間三尺(一三五.五m)、南北が七十四間二尺であった。
屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。屋形は入口側から、御表・勝手・御奥の三つの殿舎群に分けられていた。御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
≪説明に添えられている図≫
上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁
上田市指定文化財
上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁
種 別 史跡・建造物
所 在 地 上田市大手一丁目四番三三号
所 有 者 長野県
指定年月日 昭和四十四年五月九日
上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。
居館の遺構である表門・土塀・濠等に往時の姿をとどめています。
表門は、藩主松平忠済時代の寛政二年 (一七九〇) にその前年焼失した居館とともに再建されたものです。
前面には、四本の太い角柱が並び、中央間には大板扉を釣り、左右には潜りの扉がつけられ、後部の控柱は十六面に削った通し梁でつないでいます。
創建当時の様式がよく保たれており、長野県下最大規模の薬医門として貴重な存在です。
土塀は江戸時代末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残し、全体として江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る良い例です。
但し、土塀の下部と濠の周囲の石積みは、崩落防止のために最近施行されたものであり、濠の幅も道路の拡張により狭められています
保存上の注意
・濠の浄化に努めること。
・周辺での火気の使用は慎むこと。
・環境の美化に努めること
上田市教育委員会
絵が中心の案内・説明書
⚫ 公園の案内図に縄張図があったのでこれを掲載します。。
登城の道のり
登城日:平成22年2月4日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
上田城まで 簡単に説明
- 2年ほど前のことで詳しく覚えていませんが、駅を出てすぐに左折しました。( ここの作成は2012/7/7 )
- そのままどんどん歩いて行き10~15分程度で着いた記憶があります。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:二の丸橋
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス