国の史跡、名勝( 西の丸庭園 )
岡口門 は重文
和歌山城
和歌山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが際立つ
- 睦: 城内で出会った案内板
- 質: 重要文化財
- 捌: 面白文書、拾い上げ
- 玖: 登城の道のり
和歌山城 ひとくちメモ
- 所在地
- 和歌山県 和歌山市
- 別 名
- 虎伏城 竹垣城
- 築城者
- 豊臣秀長
- 別名の由来
- 城の建つ山が海上から見ると猛虎が伏している姿に似ていることから。「お虎」さんが人柱になったからとも。
- 天守概要
- 連立式 層塔型 3重3階。現天守は昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 岡口門(重要文化財) [ ※ ]、 追廻門 [ ※ ]、土塀、 西の丸庭園 [ ※ ]、 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ]。
- 再建造物
- 大天守 [ ※ ]、 小天守 [ ※ ]、 乾櫓 [ ※ ]、 二の門櫓 [ ※ ]、 二の門 [ ※ ]、 大手門 [ ※ ]、 一の橋 [ ※ ]、 御橋廊下 [ ※ ] など
- 天守の高さ
- 23.42m ( 建物 )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
天守の高さは «地図で歩く 城と城下町100選 » に依る。
和歌山城 簡易年表
図解 日本の城 より
- 1585年
- 豊臣秀長、紀伊・和泉を領し、築城を開始。
- 1586年
- 桑山重晴、城代となり城を整備。
- 1600年
- 浅野幸長、入城。
- 1619年
- 徳川頼宣、入封。
- 1621年
- 徳川頼宣、城の改修と城下町の整備に着手
- 1846年
- 落雷により天守焼失。
- 1850年
- 天守再築
- 1945年
- 空襲により天守焼失。
- 1958年
- 天守再建
参考になるサイト:
和歌山城 写真の間
たまには桜に埋もれた城も好いかと思い花見のシーズンに出かけました。人が多さは少し予想を超えた多さでした。
抑えたい処、美しい処
☒ 市庁舎展望ロビー(14階)と周辺から
☒ 一の橋 ⇒ 岡口門 ⇒ 不明門跡 ⇒ 追廻門 の順に
☒ 西の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 裏坂 ⇒ 天守 の順に
市庁舎展望ロビー(14階)と周辺から
一の橋⇒岡口門⇒不明門跡⇒追廻門
西の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 裏坂 ⇒ 天守
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の和歌山城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
和歌山城 よろず間
和歌山城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった 説明板 を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
和歌山城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた和歌山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 戦前には天守が現存していましたが、戦災でほとんどの建造物を焼失。岡口門は焼失を免れ現在は重要文化財 に指定されています。また、西の丸庭園は国の名勝に指定されています。
-
戦前は多くが 旧国宝 に指定されていましたが戦災で岡口門を除きほとんどを焼失。現天守は昭和33(1958)年に鉄筋コンクリートで復元されたもので、古写真と比べても違いがわからない程忠実な外観復元です。少し突き出しカーブの架かった独特の形をした「袋狭間」と呼ばれる石落としも旧状に復元されています。
[2012/11/8 増補・改定]
-
二之丸庭園は紅葉渓(もみじだに)庭園ともよばれ、紀州徳川の藩祖・徳川頼宣が築園したものといわれています。名前の通り紅葉の季節が一番美しいと言われています。
[ 2012/09/27 ]
-
だれかの言葉をちょっと借用すると和歌山城は『石垣の宝石箱』です。野面積、打込接、切込接、刻印石 に転用石、少し迫力には欠けるが高石垣など城郭の石垣の興味深いものを多々見ることができます。
- 石垣は多く残っており、野面積、打込接、切込接は適宜見つかります。刻印石は不明門から追廻門に行く途中(新裏坂登り口がありますがここからは登郭せず)の石垣にありました。転用石は天守台、高石垣は松の丸櫓跡や不明門跡などにあります。
- 野面積は豊臣時代のもので紀州の青石(緑泥片岩)、打込接は浅野時代で和泉砂岩、切込接は徳川時代で硬い花崗岩とのことです。
この項 2012/7/12 追加
和歌山城 ここが際立つ
和歌山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
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天守郭
本丸御殿
本丸は海上から見ると猛虎が伏している姿に似ている標高48.9mの虎伏山と呼ばれる小山の頂ににあり、東側に本丸御殿、西側に天守郭(曲輪)となっています。この間は鞍部になっており二つの本丸がある感じになっています。この周囲を二の丸、南の丸、西の丸などの曲輪で囲んだ屈強な城になっています。
-
田口門は切妻造の珍しい櫓門です。これは、当初は門の左右に続いていた続櫓が失われたためです。
[ 2012/11/8 追加 ]
-
昭和20年7月9日、空襲により大小天守、北西/西南隅櫓、楠門、北東/北西/西/南多門、東/西倉庫を焼失。幸運にも岡口門、追廻門は現存し、岡口門は重要文化財。
和歌山城で出会った説明板
和歌山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 史跡 和歌山城
- ♦ 和歌山城史跡解説 「天守郭と天守閣」
- ♦ 天守閣
- ♦ 和歌山城史跡解説 「本丸御殿跡」
- ♦ 和歌山城史跡解説 「一の橋と大手門」
- ♦ 大手門と一の橋
- ♦ 和歌山城史跡解説 「岡口門」
- ♦ 和歌山城史跡解説 「追廻門」
- ♦ 和歌山城史跡解説 「不明御門跡」
- ♦ 史跡和歌山城 復原・御橋廊下(おはしろうか)
- ♦ 西之丸(にしのまる)
- ♦ 二之丸(大奥部分)
- ♦ 和歌山城石垣の刻印について
- ♦ 銀明水
- ♦ 伏虎像
- ♦ 和歌山城 天守閣の鯱
史跡 和歌山城
史跡 和歌山城 指定 昭和六年三月
和歌山城は天正十三年(1585)豊臣秀吉が紀州を統一し、弟秀長の領地としましたが、その際虎伏山のをえらび自ら縄張りし藤堂高虎を普請奉行として本丸および二に丸を築城させたのに始まります。
翌十四年から秀長の城代桑山重晴が在城しはじめて若山または、和歌山の城というようになりました。
慶長五年(1600)浅野幸長が三十七万石をもってこの国も領主となりその卆後弟長晟がこれを継ぎましたが、この間逐次城郭を整備しました。
元和五年(1619)徳川家康の第十子頼宣が五十五万五千石を領して入城し以来二百五十余年御三家の一つとして大いに栄えました。頼宣入国するにおよんで城郭の大改修が行われ西国第一の要衝としてその威容を誇っていましたがその間数次にわたり災害があり特に弘化三年(1846)には落雷により天守閣 多門などが焼失しましたが、嘉永三年(1850)に再建した。。
明治4年(1871)廃藩置県により和歌山城は廃城となり、同三十四年和歌山公園として始めて公開されました。
その後昭和六年(1931)史跡の指定をうけ、さらに同十年天守閣、楠門等が国宝建造物に指定されましたが、同二十年七月九日の空襲により一夜のうちに焼失しました。戦後十四年市の戦災復興が進むとともに当城再建の気運が盛り上がりここに昭和三十二年六月に工事に着手し翌三十三年十月竣工、昔にかわらぬ偉容を再現するに至りました。
本城郭中浅野氏時代の大手門であり徳川氏元和七年大改修の時以来搦手門となった岡口門は和歌山城唯一の遺構として昭和三十二年六月重要文化財として指定されています。
平成十三年九月
和歌山市
和歌山城史跡解説 「天守郭と天守閣」
和歌山城史跡解説 「天守郭と天守閣」
天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのが、虎伏山の山頂部分でした。秀長は家老の桑名重晴を城代として置き、ここに天守を建てました。天守閣の一段下の北西にあった蔵が、その時の天守だとの説があります。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に城主となった浅野幸長は、高さ49mある西方のこの峰を「本丸」とし、黒板張りですが、ほぼ現在に近い天守閣を建てました。
元和5(1616)年に徳川頼宣が入国すると、「天守郭」と呼ぶようになります。天守閣は大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守です。三階建ての大天守は不定形な地盤に制約され、一階の東側と西側が二棟を結合した珍しい比翼入母屋造となっています。
寛政10(1798)年に黒板張から白壁となりますが、弘化3(1846)年の落雷で焼失しました。天守再建は通常は許可されませんが、御三家ということで認められ嘉永2(1849)年にほぼ元のまま再建されます。ただし、楠門へ入る階段の位置が異なるなど、一部違いがありました。天守閣は昭和10(1935)年に国宝に指定されますが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失しました。しかし昭和33年、市民の努力で復元されたのです。
≪説明に添えられている図≫
天守閣
天守閣
和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣である。
各層の屋根には唐破風、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなどと、江戸初期頃の様式を残している。
とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
現在の天守閣は、昭和二十年七月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を昭和三十三年十月に鉄筋コンクリート造りで復元したものである。
再建年月日昭和三十三年十月一日
天主台面積 二、六四〇平方メートル
大天主閣高 二三.四二メートル
(海抜七二.三二メートル)
和歌山城史跡解説 「本丸御殿跡」
和歌山城史跡解説 「本丸御殿跡」
和歌山城のある虎伏山は、ラクダの背のように東西に峰があります。天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのは、この山頂部分でした。慶長5(1600)年、関が原の戦いの後に和歌山城主となった浅井幸長は、城の大規模な修築を行い、東の低い峰を二の丸にし、御殿を建てました。この部分は東西29間(約57m)、南北27間(約53m)で不等辺五角形の形をしています。
元和5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、本丸となり、本丸御殿と呼ばれます。しかし、地形的に不便で手狭なため、時に謁見の場として利用するぐらいで、ほとんど空屋敷となりました。ただし、幕末に短期間でしたが、参勤交代が中止となり、江戸藩邸にいた藩主の正室(御簾中)たちの帰国が許されると本丸御殿を一時使用しています。
明治時代、廃藩により本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築されています。本丸御殿の中庭は七福の庭と呼ばれ、七福神を表現した石組がありましたが、給水場が設置されることになり、大正12(1923)年に工事が始まると、現在地の松の丸へ移されたのです。
≪説明に添えられている図≫
和歌山城史跡解説 「一の橋と大手門」
和歌山城史跡解説 「一の橋と大手門」
大手門(追手門)とは城の内郭に入る正面の門です。和歌山城は天正13(1585)年に羽柴(豊臣)秀吉の命で秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましたが、この時は岡口門が大手門でした。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修築を行いました。浅野期の途中で内郭の北東部のこの位置に橋をかけ、門を設置し大手としたのです。紀州徳川家もひき続きここを大手としましたが、橋を「市之橋」、門は「市之橋御門」と呼んでいました。それが寛政8(1769)年から「大手門」と改称し、橋は「一の橋」に変えたのです。
大手門は高麗門形式の門で土塀や多門が連なり、西の石垣上には月見櫓が建っていて、一の橋には高欄擬宝珠が付けられていました。『紀伊国名所図会』を見ると、登城する重臣たちは橋の手前で駕籠や馬から降りなければならず、同道した重臣の家来は槍を立てかけて待合所で待機しています。
大手門は明治42(1909)年5月に倒壊しましたが、昭和57(1982)年3月に再建され、翌年3月には一の橋が架けかえられました。
≪説明に添えられている図≫
大手門と一の橋
大手門と一の橋
和歌山城の内郭(二の丸より内側の地域)への正面の門、この門を出た所一帯が三の丸である。江戸時代の中頃まで「一之橋御門」と呼ばれていたが寛政八年(一七九六)に「大手門」と改称された。明治四二(一九〇九)に倒壊したが昭和五八年(一九八三)に古写真などにもとづき復元された。高麗門形式と呼ばれ間口十一メートルである。門に架かる「一の橋」も翌年復元された。徳川氏が入国する前の浅野氏の時期にはそれまでの城の大手であった岡口門をこの地に変更し「御門」や「北ノ橋」と呼んでいた。
和歌山城史跡解説 「岡口門」
和歌山城史跡解説 「岡口門」
和歌山城は天正13(1585)年に秀吉の命で弟の羽柴秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましたが、この時は南東部のこの門を正門である大手門としました。広瀬通り丁が大手筋で、熊野街道につながっていたのです。慶長5(1600)年、浅野幸長が城主となります。浅野時代に大手を一の橋の門に変えましたが、引き続き重要な門として機能しました。元和5(1619)年徳川頼宣が入国する際、浅野家が提出した引き継ぎ目録に門の一階部分に「畳三帖有」とあり、今の形と違います。元和7年に城を拡張した際、現在の門に整備したと考えられています。和歌山城の東側の地域は、中世では雑賀庄の岡と呼ばれていたので、この名がつきました。
徳川時代、城の内郭へ入る門で二階建ての楼門形式の門は、岡口門と吹上大門だけでした。門の二階部分は北側に蔵が、南側には二階建ての櫓が続いていましたが、現在取り払われ、切妻のような形になっています。岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀とともに昭和32(1957)年に重要文化財に指定されました。土塀には銃眼を石で囲った珍しい狭間が開けられています。
≪説明に添えられている図≫
和歌山城史跡解説 「追廻門」
和歌山城史跡解説 「追廻門」
追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名がついた高麗門形式の門です。元和5(1619)年に紀州徳川家初代頼宣が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸の内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門とともに空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。
吉宗に次いで14代将軍家茂を出した紀州徳川家は、幕末には当然幕府側につきました。第二次長州戦争には先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2(1866)年に津田出を登用しました。だが翌年、保守派の反撃で津田は失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。左手の石垣に近い垣根の奥にある石碑は、田中善蔵の顕彰碑です。
≪説明に添えられている図≫
和歌山城史跡解説 「不明御門跡」
和歌山城史跡解説 「不明御門跡」
不明門は、明治42(1909)年9月1日付陸軍大臣宛和歌山市長加藤杲の申請書に「明カス門」とあり、和歌山城の他の門が全て訓読みなので、昔は「あかずごもん」と呼ばれたのでしょう。通常閉じられたままだったので、この名がつきました。遺体や罪人などを出す不浄門として使われたようです。名古屋城・岡山城などにも同名の門があります。
元和5(1619)年に徳川頼宣が入国し、同7年幕府より銀2千貫を贈られて城を拡張しました。城の南の砂丘を掘り割って東西の道(三年坂)を造り、堀と石垣を築いてきたの部分に内郭を取り込み、砂の丸と南の丸としたのです。城造りで有名な藤堂高虎が羽柴(豊臣)秀長の普請奉行として和歌山城の最初の築城に係わった縁もあって、派遣されて助言したといわれています。不明門の東側には南堀(現、空堀)を掘りましたが、西側は砂丘で水堀を掘れず、高石垣を築きました。
不明門は、一説に大正4(1915)年に倒壊したといわれています。しかし、大正期の御大典記念事業として和歌山城改良計画がたてられ、南の丸に動物園が同年に造られます。それゆえ、既に老朽化していたためでしょうが、搬入口となる不明門を撤去した可能性も少なくありません。
≪説明に添えられている図≫
史跡和歌山城 復原・御橋廊下(おはしろうか)
史跡和歌山城 復原・御橋廊下(おはしろうか)
■御橋廊下御差図「二之丸御橋廊下桁行弐十歩一建地割図」
御橋廊下の北側立面を描いた図面です。図面左隅には御橋廊下の仕様が記されています。これらの仕様と図は一致し、御橋廊下が二之丸から西之丸へ架かる斜めの廊下橋であること、また板壁で覆われ、屋根があることなど構造及び外観の詳細がわかる図面です。
≪説明に添えられている図≫
■発掘調査により出土した御橋廊下の礎石
平成11年(1999)12月から平成12年(2000)3月にかけて、御橋廊下が建っていた場所や石垣の取り付き部分の発掘調査が行われ、堀底から礎石や瓦などが出土しました。
礎石は、60cm~80cmX40cm~70cmの長方形の割石で、ほぼ中央に脚柱を受けるホゾ穴(直径30~35cm)がありました。また、直径1.4mの円形状に板材を縦に打ち込み、その中に礎石を据えている箇所もあり、御橋廊下の存在が確認されました。
御橋廊下は、藩主とお付きの人だけが二之丸と西之丸を行き来するために架けられた橋で、屋根を設け、外から見えないように部屋の廊下のような作りになっていました。斜めに架かる廊下橋としては、全国的にもめずらしい構造です。
和歌山市では、和歌山城整備計画の一つとして、平成11年(1999)から御橋廊下復元工事のため史料調査や発掘調査を行い、堀底から礎石や瓦などが出土しました。これらの成果にもとづいて、御橋廊下が復元されました。
長さ | 約26.7m |
幅 | 約2.95m |
勾配 | 約11% |
完成年月 | 平成18年(2006)3月 |
≪説明に添えられている図≫
西之丸(にしのまる)
西之丸(にしのまる)
この説明板の建っている一帯は、江戸時代、西之丸と呼ばれていた所です。西之丸は、紀州藩初代藩主徳川頼宣(1602~1671)の隠居所として築造されました。
江戸時代に描かれた「和歌山西之丸図」は西之丸に建っていた建物や庭(現在の名勝・紅葉渓庭園)などくわしく描いています。これにとると、御座之間(御上段・御次・御三之間)や御数奇屋、そして松の樹の横には能舞台などの施設があり、また、内堀の一部を利用した庭園には、地形の起伏を巧みに利用した懸造り構造の聴松閣や水月軒と名づけられた茶室が建っていたことがわかります。さらに、堀につき出た鳶魚閣や西之丸と二之丸を行き来するための御橋廊下が堀上に架けられていたことがわかります。
このように、西之丸は藩主の隠居所として築造されましたが、能や茶道など数奇を楽しみ、また自然風雅を楽しむ所でもありました。
≪説明に添えられている図≫
二之丸(大奥部分)
二之丸(大奥部分)
二之丸は、紀州藩の政治を執り行う場であり、藩主の生活の場でもありました。そこには、多くの御殿がありました。御殿はその使われ方で表・中奥・大奥に分かれていました。表は藩主が謁見や儀式を行なうとともに、藩の政庁として諸役人が政務を執る場所でした。中奥は藩主の居間や家老や側近のものが詰める場所でした。大奥は側室や奥女中が生活する場所で、藩主のみしか入れませんでした。
この説明板の建っている付近一帯は、大奥のあった場所にあたります。文政8年(1825)に描かれた「和歌山二ノ丸大奥当時御有姿之図」(左の図)では局(奥女中の住居)や丹羽、大奥を囲む多門や櫓などが描かれています。また西之丸へ渡るための御橋廊下の入り口も描かれています。
≪説明に添えられている図≫
和歌山城石垣の刻印について
和歌山城石垣の刻印について
和歌山城の石垣のうち、2110個に刻印があるこちが分かっています。この新裏坂周辺で、坂の西方に続く石垣に854個と約4割が集中しています。
刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、方位や日付、人名と考えられるものがあります。また、刻印のある場所は右の正面だけでなく、側面や上下とあらゆる面にわたっていることが確認されています。
石垣の刻印は、全国的には慶長(1596~1615)から寛永(1624~1644)期に築かれたものに多く見られますが、何のために刻印されたかについては、石材所有者の表示、石質チェック、鬼門除けなど呪術的使用など諸説が有り、はっきりとは分かっていません。
和歌山城研究家として知られる故松田茂樹氏は、刻印のある石垣が和泉砂岩に限られ、浅野家が城主だった時代(1600~1619)に修築された石垣にしか使われていないことなどから、浅野家の家臣が主家の城普請に協力したしるしとして刻印したと見ておられる。
≪説明に添えられている図≫
銀明水
伏虎像
伏虎像
江戸時代、和歌山城は別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれている。これは、和歌山城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。現在「虎伏城」「伏虎城」などとも呼ばれている。
この像は、和歌山城の別名にちなんで昭和三十四年に建てられ、二代目にあたる。初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著「紀ノ川」にも登場するが、銅像であったため、戦時下の昭和十七年(一九四二)に拠出されている。
和歌山城 天守閣の鯱
≪和歌山市役所内に展示されていたものです≫
和歌山城 天守閣の鯱
鯱は海に住む想像上の獣で、頭はトラに似ており、背にはトゲがある。全体的に魚の姿をしている。海に住むところから防火の効果があると考えられ逆立ちした形にして城郭などの大棟の両端に飾りとして用いられた。和歌山城天守閣は昭和20年7月の空襲により焼失したが、昭和33年に鉄筋コンクリートで復興された。そのさい鯱の制作を担当したのが谷口勝次郎氏と岩崎秋治氏の両名だった。鯱は青銅製で、たたき出しによる手作りで製作されたという。本品は小天守閣用で試作品として制作されたものである。
和歌山城 重要文化財
和歌山城は重要文化財です
和歌山城は昭和20年の空襲で天守群、櫓、門など多くを焼失しましたが岡口門は焼失を免れ重要文化財に指定されています。また、城跡は国の特別史跡に指定されています。西の丸庭園は国の名勝に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 和歌山城岡口門
-
-
- 櫓門、切妻造、本瓦葺
和歌山城 旧国宝
和歌山城は戦前には天守群をはじめ櫓、門などが現存し、昭和6年に国宝に指定されていました。しかし、昭和20年の空襲で岡口門を除きほとんどを焼失し、国宝の指定が解除されました。天守は昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。上述のように岡口門は現在では重要文化財に指定されています。「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に旧国宝の内容をまとめました。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 和歌山城
-
-
- 大天守
- 三層天守、屋根本瓦葺
-
- 小天守
- 二層櫓、玄関付属、屋根本瓦葺
-
- 北西隅櫓
- 二層隅櫓、屋根本瓦葺
-
- 西南隅櫓
- 二層隅櫓、屋根本瓦葺
-
- 櫓門
- 櫓門、屋根入母屋造、本瓦葺
-
- 北東多門
- 単層櫓、屋根本瓦葺
-
- 北西多門
- 単層櫓、屋根本瓦葺
-
- 西多門
- 単層櫓、屋根本瓦葺
-
- 南多門
- 単層櫓、屋根本瓦葺
-
- 東倉庫
- 単層、屋根切妻造、本瓦葺
-
- 西倉庫
- 単層、屋根切妻造、本瓦葺
和歌山城 面白文書、拾い上げ
書籍など、和歌山城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
和歌山城は元和五年德川頼宣が入国して、大いにその規模を整え、名城と呼ばれていた。 天守の他多くの重要文化財建造物を今次戦災で焼失したが、この岡口門はわずかに難をまぬがれて残存した。 この位置は旧大手にあたり、門は元和年間の建立と思われる。 櫓門の形式でこの構造手法にも特徴があり、和歌山城の貴重な遺構である。
国宝・重要文化財(建造物)和歌山城岡口門 の解説文
登城の道のり
登城日:平成24年4月6日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
和歌山城まで 簡単に説明
- 桜に埋もれた城も好いかと思い花見のシーズンに登城。
- 京阪電車で京橋駅へ。
- 京橋駅よりJRで天王寺へ、天王寺で快速に乗り換え和歌山へ。
- JR和歌山で下車。けやき大通りを西へ歩約20分、天守が見えてきて写真を撮りながら市役所へ。
- 市役所14Fから天守郭を一望 ( ここはお勧め ) した後、少し引き返し大手門へ。
- 距離的には南海 和歌山のほうが少し近そう!!。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:天守と御橋廊下
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス