天守 大手一の門 大手二の門 は
重要文化財
丸亀城
丸亀城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間 1975年頃 撮影
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 年表
- 伍: ここが魅所・おすすめ
- 睦: ここが興趣深い
- 質: 重要文化財
- 捌: 面白文書、拾い上げ
- 玖: 登城の道のり
丸亀城 ひとくちメモ
- 所在地
- 香川県 丸亀市
- 別 名
- 亀山城、蓬莱城
- 築城者
- 生駒 親正
- 別名の由来
- 蓬莱城:亀が蓬莱山を背負っているという伝説から。亀山城:亀山とも呼ばれる小丘陵に築かれたため。
- 天守概要
- 独立式 望楼型 三重三階
- 城郭構造
- 輪郭式 平山城
- 遺 構
- 天守[※ ]、大手一の門、大手二の門、長屋番所、 石垣,堀[※ ]、 など
- 再建造物
- 高 さ
- 約15m( 天守のみ )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
丸亀城 簡易年表
- 1587年
- 生駒親正、讃岐国に封ぜられる。
- 1597年
- 生駒親正・一正父子、丸亀城築城に着手する。
- 1602年
- 生駒一正、丸亀城から高松城へ移り丸亀城に城代を置く。
- 1615年
- 一国一城令により丸亀城廃城となる。
- 1641年
- 天草郡富岡城主、山崎家治、西讃岐5万石余の領主となる。
- 1643年
- 山崎家治、当年の参勤交代を猶予される。幕府から銀300貫を得て丸亀城を再築する。
- 1626年
- 高松藩の記録によると丸亀城中残らず焼失という。
- 1658年
- 京極高和、丸亀藩主となる。石高6万67石。
- 1660年
- 丸亀城天守完成する。
- 1997年
- 築城400年祭が行われる。
香川県 丸亀市 観光情報:歴史・文化財:丸亀城跡:丸亀城年表 を参考にまとめました(抜粋しています)。
参考になるサイト:
丸亀城 写真の間
抑えたい処、美しい処
市街地 ⇒ 大手門 ⇒ 本丸 の順に
登城・撮影日の留書き
フィルム写真のネガをスキャンで読み編集したものです。上に掲載以外の丸亀城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。(8葉)
丸亀城 よろず館
丸亀城 縄張りとカメラアングル
※ アングルのマーカー、または数字をクリックすると写真を表示します。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
※ 櫓は現存していません。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
丸亀城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた丸亀城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 天守は 現存する12天守 の一つです。天守、大手一の門、大手二の門が 重要文化財 に指定されています。
- 石垣の代表的な積み方、生駒氏時代のものと言われている野面積、山崎氏時代の打込接や切込接が見られます。
石垣の積み方 について
[ 2012/10/14 ]
丸亀城 ここが興趣深い
丸亀城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
- 丸亀城は元和元(1615)年の一国一城令により一旦廃城となりましたが、寛永20(1643)年、山崎家治が参勤交代を猶予され、幕府から銀300貫を得て丸亀城を再築しました。
- 天守(御三階櫓)も見所ですが大手一の門・大手二の門も枡形を構成し現存しています。これらは京極高豊が寛文10(1670)年に大手門を南から北の現在地に移したものです。一の門は2階から太鼓で時を知らせたため太鼓櫓とも呼ばれます。
- 城下からの眺望を意識し、東西6間、南北5間の小規模な天守(御三階)を大きく見せようと工夫しています。最上の屋根の棟を南北にとり、城下に入母屋破風を見せ、城下(北側)からの景観に重点を置いた天守となっています。また、内堀から4層に積み重なった石垣は約60mもあり日本一で全体的にも大きく見せようとしています。
[ 2013/3/4 この項 歴史読本2009年5月号を基に増補 ]
[ 2012/10/14 ]
丸亀城 重要文化財
丸亀城では天守、大手一の門、大手二の門が重要文化財に指定されています
丸亀城は 旧国宝 の「天守」が「丸亀城天守」として引き続き 重要文化財 に指定されています。「大手一の門」、「大手二の門」が昭和32(1957)年に重要文化財指定されました。城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 丸亀城天守
-
- 三重三階櫓、本瓦葺
- 丸亀城
-
- 大手一の門
- 櫓門、入母屋造、本瓦葺
-
- 大手二の門
- 一重、地下一階付、本瓦葺
丸亀城 面白文書、拾い上げ
書籍など、丸亀城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
丸亀城天守は日本一小さい。三層三階で明石城や弘前城の三層櫓に比べても小さい。(途中略)一般の建物は妻側より平側の方が大きいのが常識だが、この天守は妻側が大きいのだ。すなわち内部構造でいえば、桁行より梁行のほうが大きいのである。これは、大手側である正面から城を見上げた時に天守を大きく見せる工夫だ。日本一小さい天守が石垣上に上がることで、高石垣が実際より高く見えてしまう。
名城の日本地図 より
丸亀城は生駒氏が慶長年間築城したが、一時廃城となり、山崎氏が寛永末年復興、万治元年京極氏が代り六万石の居城となった。大手一の門及び二の門は寛大十年の再建になり、一の門は櫓門、二の門は髙麗門で これに両脇塀が附属している。 これら遺構は手法にも特徴があり。且つ大手口の堂々たる偉容を示し、枡形の保存上からも大事な建物である。
国宝・重要文化財(建造物)丸亀城 の解説文
親正が讃岐(香川県)に封ぜられた時、まず築城したのは本拠にあたる高松城であった。丸亀はいわば2番手の城として築城されたものだ。
ところが、関ヶ原の戦いで徳川の天下が成立したため、世は軍縮の方向へ向かうことになった。その第一弾が幕府による一国一城令である。
前にも述べたように一国一城令とは必ずしも「一つの国に城は一つ」という意味ではなく、一国に二つの大名があればそれぞれが城を持っていいという「一大名一城」といったものだが、讃岐国は生駒氏のみの領地だったため、結局、丸亀城はいったん廃城の浮き目にあった。(途中略)
生駒氏が本城として高松城を選んだからだ。(途中略)
このまま行けば、丸亀城は永遠に未完成の城として歴史の闇の中に葬られてしまうところだった。
ところが、不思議なことに生駒氏が御家騒動によって幕府ににらまれ、この地から遠く出羽国に移封させられると、次に入ってきた大名はこの地を中心に一国ではなく讃岐半国を与えられた山崎氏であったため、丸亀城は山崎氏の城として再建されるということになったのだ。
[ 2012/10/14 ]
登城の道のり
1975年頃に登城
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
- ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
丸亀城まで 簡単に説明
- ずいぶん昔に登城。道のりは忘却の彼方。
- 地図でみると丸亀駅から距離にして約1Km程度、歩10~15分程度か??
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
- 登城ルートはGoogleMap上で短かそうな道を探したもので実際に歩いたものではありません。
[ 2015/6/6 追記 ]
ストリートビュー:天守
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス