人質櫓、宗門櫓は大分県文化財
府内城
府内城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 城内にあった説明板
- 伍: 登城の道のり
府内城 ひとくちメモ
- 所在地
- 大分県 大分市
- 別 名
- 大分城 荷揚城 白雉城
- 築城者
- 福原 直高
- 別名の由来
- 荷揚城:「荷落ろし」(交易地)に城地を定めたが、「落」を忌み「揚」に改め荷揚城とした。
白雉城:美しい姿から【 どちらとも城跡にあった説明板に因る 】 - 天守概要
- 四重の天守 ?、現在は天守台が残る。
- 城郭構造
- 梯郭式 平城
- 遺 構
- 人質櫓 [ ※ ]、 宗門櫓 [ ※ ]、 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ] など
- 再建造物
- 西丸二重櫓 [ ※ ]、 廊下橋 [ ※ ]、 着到櫓 [ ※ ]、 多聞櫓門(大手門) [ ※ ] など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
府内城 簡易年表
城内にあった 説明板 を参考に整理・まとめをしました。
- 1597年
- 福原直高が築城開始
- 1599年
- 東三重櫓と三の丸の家臣屋敷が完成、早川長敏男が府内藩主に
- 1601年
- 竹中重利が府内藩主に
- 1602年
- 四重天守閣、山里、諸櫓、中堀などが完成
- 1605年
- 外堀が完成
- 1607年
- 笠和口、堀川口、塩九升口の門が完成
- 1608年
- 京泊(港)が完成
- 1634年
- 白根野吉明が府内藩主に
- 1658年
- 松平(大給)忠昭が府内藩主に
- 1743年
- 城下大火で天守閣以下諸施設焼失
- 1872年
- 大分県庁が置かれる
- 1945年
- 米軍空襲により着到櫓など焼失
- 1965年
- 着到櫓などを再建
参考になるサイト:
府内城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 三の丸 ⇒ 西の丸 ⇒ 廊下橋 ⇒ 山里 の順に
☒ 天守台
三の丸⇒西の丸⇒廊下橋⇒山里 の順に
天守台
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の府内城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
府内城 よろず間
府内城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった 説明板 を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
府内城 城内で出会った説明板
府内城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 府内城あんない
- ♦ 江戸時代の城下町を巡る 府内城
- ♦ 廊下橋(ろうかばし)
- ♦ 帯曲輪(おびくるわ)
- ♦ 人柱 お宮
- ♦ 江戸時代の城下町を巡る 府内城三之丸
府内城あんない
府内城あんない
府内城は一五九七(慶長二)年、福原直高により築城が始められ二年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代った早川長敏も一六〇〇(慶長五)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、一六〇二(慶長七)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて、東西約一、一キロメートル、南北約一キロメートルにおよび、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。
荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかっての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めた。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。
城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非違をとがめられて断絶しました。代って一六三四(寛永十一)年、壬生城(栃木県)から日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が一六五八(万治元)年に新藩主として入封、以来一八七一(明治四)年の廃藩置県まで、二万余石の譜代大名として一〇代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間一七四三(寛保三)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は再建されませんでした。
一八七一(明治四)年十一月大分県が成立、翌年城内に県庁が置れて県政の中枢を担う場所となりました。一九二一(大正十)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後一九六二(昭和三十七)年県庁舎の移転にともない、一九六六(昭和四十一)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、一九四五(昭和二十)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。
城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城跡公園として市民の憩いの場になっています。
大分市教育委員会
江戸時代の城下町を巡る 府内城
江戸時代の城下町を巡る 府内城
①天守閣 てんしゅかく
天守閣は約16mの高さを持つ4層式建物で、壁には優美さを添える華灯窓が付けられ、上棟には鯱鉾瓦が葺かれていました。今は、天守台のみが当時の面影を偲ばせます。
②東之丸 ひがしのまる
藩主の御殿と三階櫓を含む5棟の櫓がありました。御殿は居間、湯殿、御台所、御茶所、老女部屋等、数多くの部屋に分かれていました。
③西之丸 にしのまる
本丸の西に位置し、櫓が4棟配されていました。『府内藩日記』から玄関・居間・書院・台所などのおおくの部屋から成る建物があったと思われます。
④山里丸 やまさとのまる
寛永18年(1641)、城北の風光明媚な地に築山・泉水を設け、あずまやをもつ庭園を造り「山里」と名づけられます。松平氏の頃は能の興行や節句の御礼などが催されていました。
⑤北之丸 きたのまる
城の西北に独立したように配置され、本丸を守るための砦として築かれたと考えられます。安政3年(1856)に藩校遊焉館が置かれ、教育の場へと移り変わります。
⑥宗門櫓 しゅうもんやぐら
大手門をくぐると正面左に見える櫓で、外から見ると平櫓に、城内からは二重に見える建物です。安政元年(1854)に修築が行われ、大分大空襲から被災を免れ、築城当初の面影を残す数少ない建物です。
⑦人質櫓 ひとじちやぐら
本丸の最も北側に位置する二重櫓で、寛保3年の大火(1743)の際は焼け残りました。安政元年(1854)の大地震で損壊したため再築されますが、大分大空襲からは被災を免れ、宗門櫓とともに江戸時代の建築様式を伝える貴重な建物です。
≪説明に添えられている図≫
廊下橋(ろうかばし)
廊下橋(ろうかばし)
松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。
山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年に復元しました。
復元に先立って、平成7年に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。
≪説明に添えられている図≫
帯曲輪(おびくるわ)
帯曲輪(おびくるわ)
府内城は江戸時代、本丸・東ノ丸・西ノ丸と山里丸を含む北ノ丸からなり、天守閣のあった本丸周辺には水堀があり、北方も海に面した典型的な浮城となっていました。
城の東側から北側には、堀を囲んで、堤防状の土手が築かれていました。
これは、帯曲輪と言われ、堀と海を区画するための外周施設で、古絵図によれば、354間(約644メートル)の長さと書かれています。現在、お堀の東側に外苑として細長く残っているこの場所がそれにあたります。
≪説明に添えられている図≫
人柱 お宮
人柱 お宮
今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになりました。上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱となりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。
手前の階段を下り、お堀にそって天守台の下にお宮を祀った祠があり、毎年3月18日に法要が行われています。
大分市教育委員会
江戸時代の城下町を巡る 府内城三之丸
江戸時代の城下町を巡る 府内城三之丸
ー 荷揚町・府内町・大手町エリアー
三之丸
現在、荷揚町や大手町は官公庁街となっています。府内城は、堀を挟み本丸・二之丸・三之丸に分かれ、「三之丸」は、家臣の武家屋敷に充てられました。
三之丸の施設
三之丸の中は、T字・カギ型・袋小路の道で複雑に区画され、藩士たちの屋敷とともに藩主の菩提寺である浄安寺、藩の祈祷所福壽院、下台所・御勘定所・御倉・牢屋などが配置されていました。
北・西。東の出入り口には、それぞれ櫓や番所が置かれ、重要な箇所には武具を配備し、藩士が警備していました。
三之丸は、藩の役所が置かれるとともに、本丸を守るエリアであったといえます。
番所と時鐘堂
三之丸には東・西・、北の出入り口に取り締まりの番所が置かれ、そのうち西ノ口番所の隣には時を知らせる「時鐘堂」がありました。
江戸時代の時刻は日の出と日の入りといった目に見える明るさが基準とされていました。よって、時刻間違いが度々あったようです。そのため藩は江戸に問い合わせ、聞き合わせた時刻の呼称を家中に申し伝えるように御触れを出しました。
出土品を探る
&三之丸では5ヶ所で発掘調査が行われ、建物跡や井戸跡、大火災の痕跡などとともに、数多くの陶磁器が発見されます。その殆どは、私たちが普段使用するようなお茶碗ですが、中には、丁寧に絵が描かれた大皿や、複数でセットとなる皿、茶道具など高級品と位置づけられるものが見られ、武家屋敷ならではの様子が窺えます。
≪説明に添えられている図≫
登城の道のり
登城日:平成25年6月3日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
府内城まで 簡単に説明
- 大分駅を出て北へ、大きな道に出て右折。すぐに西丸の二重櫓が見えてきます。駅から歩15分程度。
- 帰りにカメラを収めようと道を渡った大手公園に寄ると「府内城 三之丸 」の説明板を見つけました。
ストリートビュー:府内城 大手門と着到櫓
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス