御三階(天守) 辰巳櫓 追手門など9棟が
重要文化財 国の史跡
弘前城
弘前城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間 1974年頃撮影
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが際立つ
- 睦: 重要文化財
- 質: 面白文書、拾い上げ
- 捌: 登城の道のり
弘前城 ひとくちメモ
- 所在地
- 青森県 弘前市
- 別 名
- 鷹岡城
- 築城者
- 津軽為信、信牧
- 別名の由来
- 鷹岡の地に築城したから。
- 天守概要
- 独立式 層塔型 三層三階
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 天守[ ※ ]、 丑寅櫓[ ※ ]、 辰巳櫓[ ※ ]、 未申櫓[ ※ ]、 二の丸東門[ ※ ]、 二の丸南門[ ※ ]、 三の丸追手門[ ※ ]、北の郭北門(亀甲門)、三の丸東門、 石垣[ ※ ]、 堀[ ※ ]、 土塁[ ※ ] など
- 再建造物
- 二の丸東門与力番所
- 高 さ
- 約29.2m ( 石垣11.2m、天守台2.4m、天守15.6m)
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
弘前城 簡易年表
- 1594年
- 津軽為信、居城をそれまでの大浦城から堀越城に移す。
- 1603年
- 為信、新城築城の地を高岡(のち弘前を改称)に定める。
- 1611年
- 新城完成し、津軽氏の居城が堀越城から移転。
- 1627年
- 落電により天守焼失。
- 1628年
- 高岡を弘前に改称。
- 1810年
- 天守を新築 ( 本丸辰巳櫓を御三階として改修し天守とする )。
- 1871年
- 廃城。東北鎮台の分営が置かれる。
- 1895年
- 弘前公園として開放。
図解 日本の城 より
参考になるサイト:
弘前城 写真の間
抑えたい処、美しい処
太鼓門 ⇒ 二の丸 ⇒ 一旦外へ、堀に沿って歩き再度 ⇒ 埋の橋 ⇒ 黒門 ⇒ 本丸・天守 の順に
登城・撮影日の留書き
フィルム写真のネガをスキャンで読み編集したものです。上に掲載以外の弘前城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。(33葉)
弘前城 よろず間
弘前城 縄張りとカメラアングル
※ アングルのマーカー、または数字をクリックすると写真を表示します。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
弘前城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた弘前城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 天守(御三階櫓)は東北では唯一 現存する12天守 のひとつです。古は5重の天守でしたが寛永4(1627)年に落雷により焼失。約200年後の文化7(1810)年に御三階櫓(天守)として再建されこれが現在に残っています。
- 二の丸辰巳櫓など櫓が3棟、三の丸追手門など門が5棟が現存し、天守と共に重要文化財に指定されています。辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓は 現存する12三重櫓 の内の三つです。
[ 2012/09/23, 2013/1/21 追記 ]
弘前城 ここが際立つ
弘前城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
私の写真では天守(御三階)が多く、石垣の城に見えますがやはり東北の城で土塁の城です。石垣があるのは天守付近の一部だけで他は土塁のようです。私の登城はずいぶん昔のことではっきり憶えていません。もう一度登城しこの目で確認したい気がしています。
確かに東内門、南内門、追手門など少し本丸を離れた写真を見ると土塁が目立ちます。
- 二方面が正面の特徴的な天守(御三階)です。外側に面する東面と南面は大きな切妻出窓を設けなど装飾していますが、内側にあたる西面と北面には連子窓を並べた単純な構造で他の天守には見られないところです。
[ 2012/09/23 ]
-
交通の要所、戦略的な要衝に立地していることが多い城郭・城跡は明治時代になると重要な軍事拠点となることが多々ありました。弘前城も東北鎮台、陸軍の第8師団などが置かれました。
[ 2012/10/05 ]
弘前城 重要文化財
弘前城は重要文化財に指定されています
弘前城は 旧国宝 の「天守」、「二の丸辰巳櫓」、「二の丸未申櫓」、「二の丸丑寅櫓」、「二の丸南門」、「二の丸東門」、「二の丸追手門」、「北の郭北門(亀甲門)」の8棟が「弘前城」として昭和25年(1950)に引き続き 重要文化財 に指定されました。昭和28年(1953)には「弘前城三の丸東門」が重要文化財に指定され、現存建物がすべてが重要文化財の指定になりました。また、城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。
- 名称
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- 棟名
- 構造及び形式等
- 弘前城
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- 天守
- 三重三階櫓、銅瓦葺
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- 二の丸辰巳櫓
- 三重三階櫓、とち葺形銅板葺
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- 二の丸未申櫓
- 三重三階櫓、とち葺形銅板葺
-
- 二の丸丑寅櫓
- 三重三階櫓、とち葺形銅板葺
-
- 二の丸南門
- 脇戸付櫓門、銅瓦葺
-
- 二の丸東門
- 脇戸付櫓門、銅瓦葺
-
- 三の丸追手門
- 脇戸付櫓門、銅瓦葺
-
- 北の郭北門(亀甲門)
- 脇戸付櫓門、銅板葺
- 弘前城三の丸東門
-
- 櫓門、入母屋造、銅板葺
弘前城 面白文書、拾い上げ
書籍など、弘前城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
地元の商工会や郷土史研究グループの多くの方は、いま残る天守と呼ばれる三層の建物は、天守ではない、と主張する。弘前城天守は、違う場所に五層造りで実存、いま天守と呼ぶ建物は「御三層」で「こんな小さな天守は東北一の規模を誇った鷹岡城にふさわしくない」というのである。(途中略)
鷹岡城には本丸西南に五層の天守があがった。五層の大天守は、その当時の技法から見て、二層もしくは三層の大入母屋に二層か三層の望楼造りの上層部が組み上げられた計五層五重もしくは五層六重の造りであったと考えられる。
天守焼失の後、永い間弘前城に天守はなかったが、文化7年(1810)に至って、本丸東南隅櫓に代えて、三層の天守が築かれた。この時、天守の屋根は、木で瓦の形をした下地をつくり、銅板を貼った銅瓦葺とされたが、築城当初に建てられた、現存する辰巳櫓など三棟の隅櫓の屋根は、いずれも栩葺(とちぶき)と呼ばれる板葺であった。(途中略)
城の隅櫓の屋根が板葺では戦の時に火の心配があるが、雪が多く特に寒い地域では、通常の土瓦では冬凍って割れることが多いので、寒さの対策として板葺としたと考えられる。他の城では、金沢城の鉛瓦、丸岡城の石瓦も同様の理由であろう。
図説 日本の名城 より
[ 2012/10/05 ]
もっとも弘前自体は決して防備の甘い都市ではない。なぜなら城の鬼門(東北)や裏鬼門(西南)にあたる場所には、領内から寺を集めて寺町を作り、それを有事の際には出城として防備を固める体制を取っているからだ。こうした寺町は他の城下町にも例があるが、最も完全な形で残っているのは、この弘前の禅林(長勝寺構)と呼ばれる、裏鬼門の守りだけである。なぜ寺なのかといえば、一国一城令という規制があったために、そうせざるを得なかったのだ。
[ 2012/10/05 ]
登城の道のり
登城日:1974年頃
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
弘前城まで 簡単に説明
- ずいぶん昔に登城。道のりは忘却の彼方。
- 地図でみると弘前駅から距離にして約2Km程度、歩30~40分程度か??
- 周辺、城内はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
- 登城ルートはGoogleMap上で短かそうな道を探したもので実際に歩いたものではありません。
- 弘前公園の入口は複数口あります。詳しくは弘前公園の入り口(出入口)・お手洗い・喫煙所 | 弘前公園総合情報で
[ 2015/5/30 追記 ]
ストリートビュー:弘前城 下乗橋に御三階櫓
《 曳家の後 》
《 曳家の前 》
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス