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独特の形の鬼門櫓を持つ

日出城

日出城のご案内

日出城 ひとくちメモ

所在地
大分県 速見郡日出町
別 名
暘谷城
築城者
木下 延俊
別名の由来
中国古書『淮南子』の「日は暘谷より出でて咸池に入る」という言葉から引用して命名と伝えられる。説明板 より
天守概要
複合式層塔式 3重3階
城郭構造
梯郭式平山城
遺 構
鬼門櫓 []、 釣鐘 []、 天守台 []、 石垣 []、 堀 [] など
再建造物
-

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

日出城 簡易年表

城内にあった 説明板 を参考に整理・まとめをしました。

1601年
日出藩初代藩主木下延俊が姫路より移封入国。
1602年
細川忠興の援助で大方の普請ができ入城。
1874年
大分県は天守閣をはじめ九の櫓を競売に附し取り壊した。
1921年
城内にあった隅櫓(鬼門櫓)を小学校拡張により移転。

参考になるサイト:

日出城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 太鼓門 ⇒ 二の丸 ⇒ 一旦外へ、堀に沿って歩き再度 ⇒ 埋の橋 ⇒ 黒門 ⇒ 本丸・天守 の順に

日出城:鬼門が欠けた独特の形 鬼門櫓

(1)
鬼門が欠けた独特の形
鬼門櫓

日出城:堀 石垣、後ろが大手門方面

(2)
堀 石垣、後ろが大手門方面

日出城:3重の天守があがっていた天守台跡

(3)
3重の天守があがっていた
天守台跡

日出城:木下俊長が鋳造させた釣鐘

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木下俊長が鋳造させた釣鐘

日出城:天守台の石垣

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天守台の石垣

日出城:天守台跡、後ろは別府湾

(6)
天守台跡、後ろは別府湾

日出城:望海楼跡の石垣

(7)
望海楼跡の石垣

日出城:石垣、後ろには小さく鬼門櫓

(8)
石垣、後ろには小さく鬼門櫓

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の松本城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

日出城:鬼門除けが施された隅櫓(鬼門櫓)

鬼門除けが施された隅櫓(鬼門櫓)
2013年6月3日 撮影

日出城 よろず間

日出城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった 日出城案内図 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

日出城 縄張図とカメラアングル

本丸

大手門

裏門

月見櫓

南櫓

北櫓

天守

望海楼

裏門櫓

隅櫓

移築された現在の隅櫓(鬼門櫓)

元々の隅櫓(鬼門櫓)の位置

方向指示

玄武(北)

日出城 城内で出会った説明板

日出城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

日出城跡(暘谷城跡)

日出城跡(暘谷城跡)

日出城跡(暘谷城跡)

日出城(暘谷城)は日出藩初代藩主、木下延俊が慶長六年(1601年)に細川忠興の援助で築城した。暘谷城の名は「日は暘谷より出でて咸池に入る」という言葉から引用して命名したと伝えられている。昔は天守跡に三層の天守閣がそびえていたという。二の丸および外郭には家臣の居宅、町屋を入れた。明治七年(1874年)二月大分県は天守閣をはじめ九の櫓を競売に附し取り壊したが隅櫓のみそのまま大正十年まで城内にあったが小学校拡張により移転した。

日出小学校は明治六年本丸の建物の払い下げをうけ暘谷小学校が開設されたのが始まりで明治三十年小学校令によって暘谷尋常小学校となりその後日出小学校となり今日に至っている。

本丸下の海岸は俗に「城下海岸」と呼ばれここから望める別府湾の風景は絶景との評があり別府八景、大分百景の一つともなっている。

町指定「史跡」

昭和二十五年十月十七日

隅櫓(鬼門櫓)

隅櫓(鬼門櫓)

隅櫓(鬼門櫓)

《鬼門櫓》

 隅櫓は、日出藩木下家の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で「鬼門櫓」とも呼ばれています慶長六年(1601)から翌二年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は『豊後国日出城絵図(正保城絵図)』で、一七世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。

 隅櫓の特徴は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。当時、東北の方位は、禍を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたといわれています。こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。

 明治四年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治八年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。しかし隅櫓はこれを免れ、山村羊太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正一〇年(1921)に下仁王(現東仁王)へ移築され、平成二〇年(2008)、中村家より日出町に寄付されました。

日出町有形文化財 平成二一年七月一〇日 指定

日出町教育委員会

≪説明に添えられている図≫

隅櫓(鬼門櫓)の位置
[豊後国日出城絵図(正保城絵図)]

明治初年の隅櫓(鬼門櫓)

日出城(暘谷城)の石垣

日出城(暘谷城)の石垣

日出城(暘谷城)の石垣

《釣鐘下の石垣》

日出藩初代藩主木下延俊は慶長六年(1601)秋より約一年の歳月をかけて日出城を築きましたが、石垣の構造は細川忠典の家臣で築城の名手・穴生理右衛門の指揮によってなされたといわれています。

「穴生」は、近江国穴太(滋賀県)の石工の集団・穴太衆を指します。穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。穴生理右衛門もその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積み」として呼び親しまれています。

日出城の石垣は、築石に自然石や粗割石を用いた「野面積み」の技法で「乱積み」(石材を不規則に積み上げ、横目地が通らない)と「布積み」(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。

日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。

日出町教育委員会

登城の道のり

登城日:平成25年6月3日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

日出城まで 簡単に説明

  • 岡城を下城、大分駅へ。日豊線で暘谷駅へ向かう。
  •  ( 次の日出駅ではなく、暘谷駅で降りないと遠くなりますのでご注意ください。)
  • 5分ほど南に真っ直ぐ歩くと下見板張りの黒い鬼門櫓が左に見えてきます。
  • 鬼門櫓へ向かう。少し進むと日出小学校、ここが大手門跡です。
  • そのまま進むみ右折すると木下俊長が鋳造させた釣鐘、天守台跡、石垣などへ行けます。

ストリートビュー:日出城 隅櫓(鬼門櫓)

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

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城めぐり 栞