国の史跡
広島城
広島城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 見所とカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが際立つ
- 睦: ここにはご注意を!!
- 質: 広島城で出会った案内板
- 捌: 旧国宝
- 玖: 面白文書、拾い上げ
- 拾: 登城の道のり
広島城 ひとくちメモ
- 所在地
- 広島県 広島市
- 別 名
- 鯉城 当麻城 在間城 石黒城
- 築城者
- 毛利輝元
- 別名の由来
- 付近の己斐浦(こいがうら)から己斐の城と呼ばれて、「己斐」が「鯉」に転化。堀に鯉がたくさんいたことこらとも??
- 天守概要
- 連立式 望楼型 木造五層六階 地下一階 白漆喰塗籠造
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 石垣[ ※ ]、 堀[ ※ ] など
- 再建造物
- 復元天守 [ ※ ]、 平櫓[ ※ ]、 多聞櫓[ ※ ]、 太鼓櫓[ ※ ]、 表御門[ ※ ] など
- 高 さ
- 46.3m ( 石垣14.8m、大天守31.5m )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
広島城 簡易年表
- 1589年
- 毛利輝元 築城工事に着手。
- 1591年
- 毛利輝元入城。
- 1600年
- 福島正則芸備49万石を領し、翌年3月入城。
- 1619年
- 浅野長晟芸備42万石余を領し、翌年8月入城。
- 1871年
- 廃藩置県により本丸内に広島県の役所を置く。
- 1894年
- 日清戦争時本丸内に大本営を置く。
- 1945年
- 原爆により天守閣、太鼓櫓、表門などすべて崩壊。
- 1958年
- 現在の天守閣再建。
広島城跡の案内板 より
参考になるサイト:
- 広島城ホームページ
- しろうや! 広島城 第15号 上記 広島城ホームページ 内にあります。鯉城の詳しい由来が書かれています。
- 広島城 - Wikipedia
広島城 写真壱の間
抑えたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 堀の周囲
☒ 御門橋 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 ⇒ 裏御門跡 の順に
堀の周囲から
御門橋⇒二の丸⇒本丸⇒裏御門跡
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の広島城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
広島城 よろず間
広島城 見所とカメラアングル
※ 下の地図は広島城跡にあった現在地を示す地図 を少し編集して使っています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
広島城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた広島城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 戦前には天守が現存していましたが、昭和20( 1945 )年の原爆投下で爆心地から1km程の天守は倒壊し、橋御門、平櫓、多聞櫓、中御門などは崩れ落ち焼失、国宝の指定は解除されました。現在の天守は昭和33( 1958 )年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。古は東と南に小天守を従えた連結形天守ですが復元はほぼ両小天守などが取り壊された焼失前の復元です。
- 現在では表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が戦前の写真・図面や発掘調査の成果を元に木造で江戸時代の姿に復元されています。
- 不勉強で知らなかったのですが広島城にも庭園が付随していました。浅野長晟(ながあきら)が、元和6(1620)年から別邸の庭園として造園したもので 縮景園 と言います。裏御門からは直線距離で500m程度でそう遠い距離ではありませんが現在は官庁街でビルも建ち少し距離を感じます。古図・絵図等を見ると川(京橋川?)と北の郭に挟まれたような場所にあり、川を外堀とみれば城内ですが詳しくはわかりません。詳細がわかれば追記します。
古図・絵図は岡山大学池田家文庫絵図公開データベース より閲覧できます。直のリンクも張っておきます。安芸広島城図、 安芸広島城図 (同じ表題ですが異なる絵図です)。
-
毛利と福島・浅野時代の2時代の石垣があります。広島城を築城した毛利輝元の時代の石垣がそのまま残っている部分は必ずしも多くはなく、その後の福島正則や浅野氏の時代、あるいは近代になってから積み替えられたものが多いと考えられています。そうした中で天守台の石垣は典型的な毛利氏時代の石垣といえます。
[ この項 2013/2/6 追加 ]
[ 2012/10/01 ]
ここが際立つ
広島城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
広島城の天守は元々は東と南に小天守を従え、廊下( 渡櫓 )でつながれた連結形天守で松本城に似た形で壮観だった思われます、明治になって両小天守などが取り壊され、昭和6( 1931 )年の国宝( 旧国宝 ) に指定時には天守と南廊下の端部及び東廊下のみが残る状態だったとのことです。
上述の『広島城 ひとくちメモ』で紹介した広島城ホームページ の広報物 『しろうや! 広島城 第8号』 に詳しく記述されています。また、絵的には 国立公文書館デジタルアーカイブ 安芸国広島城所絵図 でも確認できます。右図は本丸の天守部分を切り抜いたものです。
- 交通の要所、戦略的な要衝に立地していることが多い城郭・城跡は明治時代になると重要な軍事拠点となることが多々ありました。広島城も陸軍の施設が置かれました。日清戦争の際は城内に大本営が設置され、明治天皇も行幸しています。
[ 2012/10/01 ]
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広島城にも鬼門除けが!!
吉なる乾には天守、中奥御殿。巽には本丸正門、御殿玄関を。凶なる艮の城壁には入隅を。
城の造り方図典 より。
安芸国広島城所絵図 を見ると地理的制限からかもしれないが鬼門に当たる侍町の所は大きな切り欠けとなっており、これも鬼門除け??
[ 2018/2/26 ]
広島城 ここにはご注意を!!
日本の美術 第404号 城と天守 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。それなりに楽しんでいたらければと思います。
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日本の美術 第404号 城と天守 に記載されている古写真と比べてみる復元では玄関(付櫓)の部分も下見板張になっていますが、焼失前はそうではありません。まあ、もともとが廊下( 渡櫓 )であったこと(上述)を思えばどうでもいいことか? 矢印の箇所が上で説明の南に延びた廊下の端にあたる所です。
[ 2013/1/23 : 興趣深いより分離 ]
広島城跡で出会った案内板
広島城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
規模 桁行 7.64m、梁間 4.85m、軒出 1.27m、軒高 7.03m、棟高 10.61m
構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸部真壁、軒塗籠、両側面一間庇付
表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による消失までの約350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、消失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法いよって往時の姿をよみがえらせています。
平成3年12月 広島市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
史跡広島城跡二の丸
史跡広島城跡二の丸
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 ( 復元 )
構造 | 平櫓 | 木造一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺 |
多聞櫓 | 木造一重渡櫓、入母屋造、本瓦葺 | |
太鼓櫓 | 木造二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺 |
規模 | 平櫓 | 桁行 12.43m、梁間 8.64m、棟高 7.75m |
多聞櫓 | 桁行 67.86m、梁間 4.93m、棟高 5.13m | |
太鼓櫓 | 桁行 8.49m、梁間 7.76m、棟高 10.60m |
平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末 )頃と推定されています。このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分についても昭和20年8月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。
この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に完成したものです。
平成6年8月 広島市教育委員会
≪説明に添えられている図≫
礎石について
礎石について
ここにすえ付けてある石は昭和三十三年天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘りおこして原型のまま移したものです。
玉石排水溝の内側が天守代の大きさである。一段低くすえてある石は今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。
昭和四十四年七月
広島市教育委員会
広島城は旧国宝
広島城は旧国宝です
広島城は原爆が投下される( 昭和20年 )以前は天守や橋御門、平櫓、多聞櫓、中御門などが残る城跡でした。古の天守は東と南に小天守を従え、廊下( 渡櫓 )でつながれた連結形天守でしたが、明治になって両小天守などが取り壊され、昭和6( 1931 )年の国宝( 旧国宝 ) に指定時には天守と南廊下の端部及び東廊下のみが残る状態だったとのことです。
昭和20( 1945 )年の原爆投下で爆心地から1km程の天守は倒壊、橋御門、平櫓、多聞櫓、中御門などは崩れ落ち焼失、国宝の指定は解除されましたが、天守は昭和33( 1958 )年に鉄筋コンクリートで外観復元されました。
下表は「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に旧国宝の内容をまとめました。
- 名称
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- 棟名
- 構造及び形式等
- 広島城天守
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- 五層天守、前面階段室二層、左方付属建物、単層、内部一部重層、屋根総本瓦葺
原爆によって倒壊する前の写真を 『原爆で失われた広島城天守閣 [日本の城(毎日新聞)] 』で閲覧できます。
※ 上のURLは時々変更されているようでリンク切れの場合は お城 関連リンク集 の 古写真が閲覧できるサイト から試してみて下さい。
広島城 面白文書、拾い上げ
書籍など、広島城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
広島城が秀吉の宿城(しゅくじろ)として築城計画されたことを裏付けるもう一つの根拠は、広島城が聚楽城(一般化している聚楽第という名称は明治以降の俗称)と瓜ふたつの形うをしている点である。聚楽城は秀吉が関白太政大臣に就任したおり、その権勢の象徴として築いた。だから秀吉の広島での宿城のプランは聚楽城の再現こそふさわしいものであった。(途中 略)
では今日見られる外容の五層天守(原爆の後昭和32年に外観復元)はいつ竣工したのか。それは関が原合戦後に入城した福島正則によったのである。福島正則の時代でないと、大入母屋を重ね、地階のない天守で三層以上が寄棟形式となる天守構築法は出現しないのである。
登城の道のり
登城日:平成23年8月9日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
広島城まで 簡単に説明
- 高速バスで広島バスセンターへ向かいました。
- バスセンターに近づいてくると天守が見えてきました。
- 方向はわかったので約10分ほど歩き表御門に到着。御門橋を渡っていよいよ入城。
- 帰りはJR広島駅まで徒歩、約30分を要しました。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:天守
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス