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南丸多聞櫓重要文化財

 

福岡城

福岡城のご案内

福岡城 ひとくちメモ

所在地
福岡県 福岡市
別名
舞鶴城
築城者
黒田長政
別名の由来
形態から。大空を羽ばたき舞う鶴の姿のようだから。
天守概要
不明
城郭構造
梯郭式平山城
遺 構
潮見櫓[]、 祈念櫓[]、南丸多聞櫓、南丸南隅櫓、 名島門[]、母里太兵衛邸長屋門、 石垣[]、 堀[] など
再建造物
下之橋御門[]、 南丸北隅櫓[] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

下之橋御門(大手門) は調べてみましたがどの程度遺構を残しての再建・復元かはわかりませんでした。 [2012/6/20]

福岡城 簡易年表

図解 日本の城 より

1600年
黒田如水・長政親子、筑前52万石を与えられ、名島城に入る。
1601年
福崎の地を福岡と改め、築城開始。
1607年
築城工事完成。
1871年
廃城。
1957年
国史跡指定。
1987年
城跡より鴻臚館の遺構が発見される。
1872年
大手門が不審火で焼ける。

参考になるサイト:

福岡城 写真の間

抑えたい処、美しい処

☒ 下之橋 ⇒ 名島門 ⇒ 桐木坂門 ⇒ 本丸 ⇒ 松木坂門 の順に

福岡城:下之橋御門、(伝)潮見櫓

(1)
下之橋御門、(伝)潮見櫓

福岡城:下之橋御門、(伝)潮見櫓

(2)
下之橋御門、(伝)潮見櫓
(伝)潮見櫓の案内板

福岡城:下之橋御門、(伝)潮見櫓

(3)
下之橋御門、(伝)潮見櫓

福岡城:下之橋御門

(4)
下之橋御門
下之橋御門の案内板

福岡城:下之橋御門、(伝)潮見櫓

(5)
下之橋御門、(伝)潮見櫓

福岡城:名島門

(6)
名島門
名島門の説明

福岡城:桐木坂門跡の石垣

(7)
桐木坂門跡の石垣

福岡城:長く続く多聞櫓の北隅、北隅櫓

(8)
長く続く多聞櫓の北隅、
北隅櫓

福岡城:埋門跡

(9)
埋門跡

福岡城:大天守台跡

(10)
大天守台跡

福岡城:鉄御門跡

(11)
鉄御門跡

福岡城:祈念櫓

(12)
祈念櫓
祈念櫓の説明

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の福岡城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

福岡城、2011年8月6日 撮影

2011年8月6日 撮影

福岡城 よろず間

福岡城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は>福岡城にあった 案内図を使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

福岡城案内地図

本丸

二の丸

東二の丸

三の丸

南丸

大天守台

中天守台

小天守台

天守櫓

埋門

武具櫓

鉄御門

鉄砲櫓

表御門

裏御門

祈念櫓

月見櫓

御時櫓

太鼓櫓

多聞櫓

松木坂門

桐木坂門

扇坂門

水ノ手門

松原櫓

大組櫓

屏風櫓

東御門

烽火番所

高櫓

下之橋御門

潮見櫓

母里太兵衛邸長屋門

名島門

御鷹屋敷

下之橋

内堀

福岡城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた福岡城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 南の丸の多聞櫓は築城当時の位置に現存し、重要文化財 に指定されています。武器庫として使用されていました。
  • 祈念櫓は本丸の鬼門を守護するためのものでしたが、大正9(1920)年に北九州市の大正寺観音堂に移築されました。昭和58(1983)年から翌年にかけ再度もとの位置に戻されました。大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変(規模が半分、漆喰部分や花頭窓などが失われるなど)を受けたものと推測されます。

    祈念櫓の説明

    現在の祈念櫓

    古写真にみる祈念櫓
    (大正初期撮影と推定)

福岡城 ここが際立つ

福岡城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 福岡城に天守があがったのか?は定かではないようですが、所々の案内板でCGで復元した天守が数パターンありました。写真に撮っていた分を転載します。

≪説明・案内板に添えられているCGで復元した天守(類推)≫

福岡城で出会った説明板

福岡城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

下之橋御門

下之橋御門

下之橋御門

(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)

《下之橋御門》

福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。場内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋・下之橋・追廻橋にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。

現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、二層櫓門として復元しました。

門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査結果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下家の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが明らかになりました。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。

この復元は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復元整備検討委員会」で検討されたものです。これとは異なった復元案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。

平成20年11月 福岡市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

福岡城下絵図(部分)

復原修理前の下之橋御門
確かに一層のままです。

明治時代初期頃の上之橋御門

(伝)潮見櫓

(伝)潮見櫓

(伝)潮見櫓

《(伝)潮見櫓》

(県指定文化財 昭和27年3月29日指定)

福岡城に50近くあった櫓の一つです。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築されました。

潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられています。

平成20年11月 福岡市教育委員会

黒田藩政の中心地「福岡城」

黒田藩政の中心地「福岡城」

黒田藩政の中心地「福岡城」

福岡城(別名、舞鶴城)は、初代福岡藩主の黒田長政が慶長6年(1601年)から7年かけて築いた福岡藩の居城でした。築城の際、もともとの地名であった「福崎」を黒田家再興の地である備前国福岡(現在の岡山県)にちなんで「福岡」と改めており、これが市名の由来となっています。

福岡城には天守閣が存在しなかったというのが定説でしたが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文書の発見などもあり、多くの人の関心をひいています。

( 「平和台鴻臚館跡 福岡城跡 [舞鶴公園]」の説明の一部 )

≪説明に添えられている図≫

福岡城天守閣復元CG(類推)

福岡城物語 二の丸

福岡城物語 二の丸

福岡城物語 二の丸

《二の丸跡の石碑》

現在地は、福岡城の二の丸西側にあたり、裏御門から本丸が、南下して多聞櫓へ向かう分岐点にあたります。本丸石垣には要所に櫓が設置され、堀が巡らされていました。本丸南側には天守台を取り囲むよいにそびえる武具櫓が見えたことでしょう。

なお、ここの近くにある歌碑は「筑前の花守」と呼ばれた故進藤元市長をはじめ、多くの先人の「舞鶴公園を福岡市の代表的なさくらの名所にしよう」という想いのもと、園内にはソメイヨシノをはじめ、約1,000本の様々な桜が植えられています。現在地の並木道にはベニヤエシダレザクラが植えられているほか、牡丹芍薬園の松前桜は、桜の名所として名高い北海道松前地方出身の第58代横綱千代の富士関のお世話により集められたものです。

≪説明に添えられている図≫

古写真(武具櫓)

福岡城物語 裏御門跡

福岡城物語 裏御門跡

福岡城物語 裏御門跡

《裏御門跡》

この看板の左手が福岡城の中枢である本丸への入口のひとつ、裏御門跡です。ここから本丸へ抜けた先には、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」が建っていました。この門の左手にある石垣は、古時打櫓台にあたり、二層の古時打櫓(時櫓、太鼓櫓とも呼ばれる)があったようです。

近年、古写真や文献等による調査で、下之橋御門に隣接する「潮見櫓」(伝潮見櫓)と伝えられてきた櫓こそ、この古時打櫓である可能性が高くなり、本来の潮見櫓は解体保存されている櫓であることが判明しています。

≪説明に添えられている図≫

古写真(本丸裏御門と古時打櫓)

福岡城物語 本丸(表御門跡・祈念櫓)

福岡城物語
本丸(表御門跡・祈念櫓)

福岡城物語 本丸(表御門跡・祈念櫓)

《表御門跡》

二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。表御門は大正7年(1918年)に黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)に移築され、現在まで同寺の山門として使用されています。

また、本丸の東北方向(鬼門)の角には、祈念櫓があります。これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860年)3月に起工、同年10月に竣工したものです。

この櫓は大正7年(1918年)に、陸軍省から払下げられ、北九州市八幡東区の大正寺境内に移築、観音堂として使用されました。そして昭和58年(1983年)、同寺より福岡城の旧位置に戻された経緯があります。大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられます。1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。

福岡城の特徴として、47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、現存しているのは本櫓のほか、国指定史跡の多聞櫓や解体保存中の潮見櫓など数えるほどとなっています。

≪説明に添えられている図≫

古写真にみる表御門

崇福寺山門として移築されている
表御門(博多区千代)

古写真にみる祈念櫓
(大正初期撮影と推定)

祈念櫓

祈念櫓

福岡県指定文化財 祈念櫓

《祈念櫓》

福岡城は慶長5年(1600)筑前に入国した黒田長政が翌6年から7年の歳月をかけて築城したものです。城は東西に長い梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。その面積は48万平方メートルにおよび、昭和32年に国史跡に指定されています。

この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)年三月に起工し、同年十月に竣工したことが判明しています。

その後、大正七年(1918)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡東区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。その際の棟札によると大正九年に竣工しています。さらに昭和58年(1983)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再建されました。また、その間の昭和32年8月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。

大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花頭窓であったことが写真から判明しています

2004年3月

福岡市教育委員会

みんなの文化財を大切に

古写真にみる祈念櫓
(大正初期撮影と推定)

この写真は 案内板 にあったものです。



古写真にみる祈念櫓

(大正初期撮影と推定)


確かに二層目の窓は華頭窓が映っています。

福岡城物語 本丸

福岡城物語 本丸

福岡城物語 本丸

《本丸 月見櫓跡の標石》

本丸は藩主が政務を行うとともに、住居としても使われ「本丸御殿」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。

天守台への入口となる「鉄御門跡」が残っていますが、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上の櫓や堀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡があり、やはり狭い門となっています。

定説では福岡城の天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。

≪説明に添えられている図≫

現在地上空から見た福岡城天守閣
復元CG(類推)

福岡城本丸の図(御本丸御間内之図)

福岡城物語 福岡城天守台跡

福岡城物語 福岡城天守台跡

福岡城物語 福岡城天守台跡

《天守台跡》

歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめます。江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快な眺めが得られたはず。この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、天守台や礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容を誇ったに違いありません。

≪説明に添えられている図≫

天守閣復元過程CG(類推)

小天守・中天守と大天守閣

大天守閣復元北立面図(類推)

福岡城物語 三の丸(松ノ木坂)

福岡城物語 三の丸(松ノ木坂)

福岡城物語 三の丸(松ノ木坂)

《松ノ木坂御門跡》

福岡城は初代藩主・黒田長政が慶長6年(1601年)から7年がかりで築城しました。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓がありました。

城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、内郭部分41万㎥(福岡ドーム6個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。城下の武家屋敷まで含めると246万㎥(福岡ドーム35個分)もの広さをもつ、日本有数の広大な城です。

現在は三の丸の「松ノ木坂御門跡」へ続く入口にあたり、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくルートのひとつでした。ここ三の丸には、藩主を支える家老たちの屋敷群がありました。

≪説明に添えられている図≫

福岡城郭図(御城内絵図)

江戸時代の福岡城下古地図
(正保福博惣図)

古写真(松ノ木坂御門)

福岡城跡

福岡城跡

福岡城跡

福岡城初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけて築いた城の跡です。天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、周囲を堀で囲む構造です。47の櫓を築きましたが、そのうち多聞櫓、祈念櫓、(伝)潮見櫓は現在でも見ることができます。藩主ゆかりの地、備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市付近)にちなんで福岡城と名付けられましたが、別名舞鶴城とも呼ばれます。昭和32年に国史跡に指定されました。

名島門

名島門

福岡市指定文化財(建造物) 名島門 昭和53年3月30日指定

《名島門》

この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すときに黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構のひとつです。

明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地にうつされたものです。

文化財を大切にしましょう 昭和63年2月 福岡市教育委員会

古図/絵図

案内板なかには古図/絵図も描かれていたので転載します。福岡県立図書館 » デジタルライブラリ » 貴重資料の紹介 » 『福岡県の近世絵図』 にはたくさんの絵図が公開されています。

福岡城下絵図(部分)

御本丸御間内之図

福岡城 重要文化財

福岡城では南丸多聞櫓が重要文化財に指定されています

福岡城で現存する遺構は別名武具櫓とも呼ばれるこの多聞櫓だけです。切妻造の二重二階の隅櫓と長さ三十間におよぶ平櫓から成り、昭和46年に重要文化財の指定を受けています。城跡は国の史跡に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
福岡城南丸多聞櫓
一重櫓、南端二重二階隅櫓、本瓦葺

登城の道のり

登城日:平成23年8月9日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

福岡城まで 簡単に説明

  • 博多行きの夜行バスで朝 7:30ごろ天神で下車しました。
  • 地下鉄の天神駅に向い、二駅先の大濠公園へ行きました。
  • 福岡城跡の案内のある出口(5番)を通って地上へ。堀が目に入ってきました。
  • 堀に沿った遊歩道を歩いていくと下之橋御門、(伝)潮見櫓が見えてきました。下之橋を渡っていよいよ入城。
  • 時間もあったので大濠公園の方へ向かいぼちぼち歩いて遠回りして城址へ。
  • 南丸多聞櫓の庭は9:00より開園。少し早かったので内には入れませんでした。
  • 周辺の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:下之橋御門・潮見櫓

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞