春は桜、秋は紅葉が映えるの城跡
高遠城
高遠城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 城内で出会った説明板
- 肆: 登城の道のり
高遠城 ひとくちメモ
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高遠城 写真の間
抑えたい処、美しい処
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大手門⇒勘助曲輪⇒二ノ丸
本丸⇒南曲輪⇒法憧院曲輪
登城・撮影日の留書き
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高遠城 よろず間
高遠城 縄張りとカメラアングル
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高遠城で出会った説明板
高遠城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
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大手坂石垣(史跡高遠城跡内)
大手坂石垣(史跡高遠城跡内)
指 定 国指定史跡 昭和48年5月26日指定
所在地 伊那市高遠町東高遠
所有者 伊那市ほか
大手坂は高遠城登城のための道で、大手門(追手門)の西側に位置します。
戦国時代、武田氏が当地を治めていた頃、大手口(正面入口)は城の東側にありました。当時、現在地周辺は城の搦手(裏口)にあたり、城の背後を守る断崖でした。
江戸時代に入り安定した時代いなると、城の西側段丘下に新たな城下町が建築され、大手口も城の西側へ移されました。これに伴い、城と城下を結ぶ大手坂も新たに整備されたと考えられます。
高遠城城内に現存する石垣のうち、江戸時代まで遡るものは少なく、特にここの石垣は、絵図からも存在を確認することができる大変貴重なものです。
≪説明に添えられている図≫
大手門跡
大手門跡
築城当初、表門である大手は城の東に、裏門はである搦手は西に位置していた。
ここが大手に変わったのは、幕藩体制の基礎が揺るぎないものとなっていった江戸時代お初期と言われていて、正保年間(一六四四~一六四八)に描かれた絵図では城の西(現在地)に大手門が確認できる。
廃城後、この周辺の改変は著しく、往時の様子を窺い知ることができないが、道路南東(右手奥)にある突き出した大きな石垣は、大手桝形の一部と思われ、当時の石造構築物の姿を留める貴重なものである。
伝、高遠城大手門
伝、高遠城大手門
この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和五十九年(一九八四)まで正門として使用されていた。
明治五年(一八七二)新政府から城郭の取り壊しを命じられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。
当時、城内は大手、二ノ丸、本丸、搦手の四つの櫓門(間口五~六間、奥行二間の二層門)があったが、いずれも競売にされて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの一つで大手門といわれてぃるが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。
昭和二十九年(一九五四)に高遠高等学校の正門として、伊那市富県の那須退蔵氏(亡)より寄贈を受け移築されたものである。
勘助曲輪(史跡 高遠城跡内)
勘助曲輪(史跡 高遠城跡内)
指 定 国指定史跡 昭和48年5月26日指定
所在地 伊那市高遠町東高遠
所有者 伊那市ほか
高遠城は戦国時代は、武田信玄の命により山本勘助が縄張り(設計等)したと伝えられています。勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助に由来しますが、築城当時この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われています。かつては、この駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋敷となっていました。曲輪周囲の堀は、戦後埋め立てられ、旧高等高校グランドとして使われた後、現在は駐車場となっています。勘助曲輪の広さは七六九坪(二五四二m2)で、曲輪内には櫓や祭事務所、硝煙小屋、稲荷神社がありました。このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘助稲荷として、西高遠の相生町に祀られました。
≪説明に添えられている図≫
問屋門
問屋門
この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
江戸時代、主な街銅道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人をおいていた。
高遠の問屋は、二人の名主との合議によって町政にも参与していた。
昭和二十年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移築したものである。
現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっている。
高遠城の戦い(古戦場跡)
高遠城の戦い(古戦場跡)
天正十年(一五八二)二月、織田信長は、信玄亡き後お武田氏お混乱い乗じて、一気呵成の攻略に転じた。
伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の侵攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞お如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。
この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏お最後を飾る戦いの場となったのである。
高遠公園碑
高遠公園碑
「高遠之城 拠信山東陬」(高遠の城は信山お東陬に拠り)で始まる白文、楷書の碑文は、東宮侍講、三島毅の名文で、地理的歴史的考察を踏まえ、公園地い決定されるまでお沿革が記されている。
碑文は明治の三筆と言われた書家、巌谷修(一六)の書で、その子、巌谷小波は日本のアンデルセンと称された明治の児童文学者である。
父子ともども高遠と縁が深く、鉾持桟道には小波の句碑が建てられている。
公園碑が建てられたのは明治一四年(一八八一)、台石には青銅板がはめられていて、それいは、明治維新の際、高遠藩から戊辰戦争に出征した年月や方面、人名が刻字されていたが、戦争中い亡失している。
太鼓櫓
太鼓櫓
江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。鼓楼は搦手門の傍らにあって、楼上に三鼓を備え、常に番人をおいていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。
廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治十年(一八七七)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝六時から夕六時まで偶数時を打つことが昭和十八年(一九四三)まで続いた。
戦後、太鼓は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていたが、現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。
本丸跡
本丸跡
高遠城は巧みに天然お地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二ノ丸、さらに、その外側に三ノ丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。
天正十年(一五八二)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦士を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄四年(一六九一)からは内藤氏が廃藩まで八代、百八十年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。
本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治八年(一八七五)頃に移築された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる。
南曲輪
南曲輪
本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。形状は方形をなし、本丸とは堀内道、二ノ丸とは土橋でつあがっていた。
本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の隅にある巨大な中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。また、明治三十年(一八九七)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、靖国招魂碑を建てるにあたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。
白兎橋
白兎橋
文政お頃、高遠で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門(一七六八~一八四三)は、その号を白兎と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人であった。文政の百姓一揆の際には、自家お米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに与え、大事に至らせずにすんだという。また、多町い通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した。
その曾孫、省三郎(奇璧)は私有地となっていた法憧院曲輪を買上げ、それを公園として寄付した。その時、南曲輪へ通じるこの橋を造り、曽祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名づけた。
法憧院曲輪
法憧院曲輪
二ノ丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅六メートル、長さ百七十メートルお馬場が続いていた。
かって、ここには法憧院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が営まれたが、城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと、城の東、月蔵山のふもとの龍ヶ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。
この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、紅葉のときは新雪が目にも清らかに映る。
高遠閣
高遠閣
(登録有形文化財)
高遠閣は、昭和八年当時、高遠城跡公園内に会館を建て、町民の集会や観光客の便に供することが町お発展のため有意義ではないかという愛町の思いから東京高遠会の有志の発案により、日本画家池上秀畝氏、出版業矢島一三氏、鉱山業廣瀬省三郎氏、弁護士小松傳一郎氏の四名の寄附により、当時の町長廣瀬常雄氏の協力おもと棟梁竹内三郎氏を中心に建築が進められ、昭和十一年十二月六日に完成しました。
この建物は間口十四間(25.4m)、奥行九間(16.4m)、峯高十間(18.2m)、木造総二階建、入母屋造、鉄板葺(建築当時はこけら葺)の大規模建物で、大正・昭和初期の稀有の建物として平成十四年八月二十一日に国の登録有形文化財として登録され、長野県天然記念物桜樹林の中に高くそびえる赤い屋根の偉容は、遠方からも眺められ史跡高遠城跡(昭和四十八年五月二十六日指定)のシンボルとなっています。
平成十五・十六の二ヵ年に渡り施設の保存及び有効活用を図るため、構造補強、バリアフリー等の工事を行い平成十六年十月十一日に完成しました。
地域住民の各種活動の場として、史跡高遠城跡を訪れる観光客お皆さんの休憩所等として利用されています。
絵が中心の案内・説明書
高遠城跡公園内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
登城の道のり
登城日:平成27年1月31日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
高遠城 まで 簡単に説明
- JR伊那市駅よりバスで高遠駅(バス停)へ
- バスを降りて198号線を東へ進むと152号線へあたり信号が有る。
- 信号を渡り左方向(北)へ30~40m程進むと登り口がある。
ストリートビュー:高遠城 問屋門
上地図で が記された場所のストリートビューです。
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