木造復原の天守と現存する台所櫓、
高欄櫓との天守群
大洲城
大洲城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが際立つ
- 睦: 城内にあった説明板
- 質: 天守 諸々
- 捌: 国宝・重要文化財
- 玖: 面白文書、拾い上げ
- 玖: 登城の道のり
大洲城 ひとくちメモ
- 所在地
- 愛媛県 大洲市
- 別 名
- 比志城 地蔵ヶ嶽城 大津城 亀の城
- 築城者
- 宇都宮 豊房
- 別名の由来
- -
- 天守概要
- 層塔型 4重4階 木造復原
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 台所櫓 [ ※ ]、 高欄櫓 [ ※ ]、 苧綿櫓 [ ※ ]、 南隅櫓 [ ※ ]、 石垣 [ ※ ] など
- 再建造物
- 天守 [ ※ ]、 御門番長屋 [ ※ ]
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
大洲城 簡易年表
大洲城公式サイトの 大洲の歴史・沿革 を参考に簡略化・整理してまとめたものです。
- 1331年
- 宇都宮豊房が地蔵ケ岳に城を築く
- 1585年
- 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となる
- 1587年
- 戸田勝隆10万石で大洲に入城。宇和郡、喜多郡が領地となる
- 1595年
- 藤堂高虎7万石で板島に入城。大洲は蔵入り地となり高虎が代官となるが、すぐに大洲を居城とする
- 1609年
- 脇坂安治が洲本より大洲に入城。喜多、浮穴、風早三郡において5万石余を領する
- 1617年
- 加藤貞泰が米子より大洲に入城。喜多郡、浮穴郡、風早郡、桑村郡などの内6万石を領する
- 1888年
- 天守の取壊し作業が始まる
- 2004年
- 天守復元工事完成
参考になるサイト:
大洲城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 肱川橋 ⇒ 二之丸・本丸 の順に
☒ 旧三の丸より
肱川橋⇒二之丸・本丸
旧三の丸より
(11)
三の丸南隅櫓
三の丸南隅櫓の説明
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の大洲城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
大洲城 よろず間
大洲城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった 説明板 を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
大洲城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた大洲城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
-
台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は現存で重要文化財 に指定されています。苧綿櫓、三の丸南隅櫓は天守からだいぶん離れた場所にあるので見逃しなく。
大洲城 ここが際立つ
大洲城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
-
木造復原の天守と現存する台所櫓、高欄櫓での天守群。ただ、現存の台所櫓、高欄櫓と木造復原とはいえ繋がって見比べられると時の重みというか?貫禄負けの感がする
木造復原の天守はほかには白河小峰城、新発田城(御三階櫓)があります。
大洲城で出会った説明板
**城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 大洲城の沿革
- ♦ 苧綿櫓(おわたやぐら)
- ♦ 井戸丸と石垣の修復
- ♦ 暗り門跡
- ♦ 下台所
- ♦ 櫓下御門(二の丸大手門)跡
- ♦ 三の丸南隅櫓
- ♦ 大洲城三の丸南隅櫓
- ♦ 大洲城三の丸南隅櫓公園
- ♦ 大洲城天守閣の礎石
- ♦ 御門番長屋
- ♦ 玉櫓跡
- ♦ 鉄砲櫓跡
- ♦ かま櫓跡
- ♦ 本丸廻り櫓跡
- ♦ 北の菱御門(二の丸搦手門)櫓跡
大洲城の沿革
大洲城の沿革
大洲城は、鎌倉時代の末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階も天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。元和3年(1917年)米子から加藤貞泰が入城しました。以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されました。しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。城跡も県史跡に指定され、今日も大切に保存されています。
4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに、平成16年(2004年)に木造で復元したものです。
≪説明に添えられている図≫
苧綿櫓(おわたやぐら)
苧綿櫓
国指定重要文化財(建造物)
指定年月日:昭和32年6月18日
この櫓は、天保14年(1843年)に再建されたもので、二の丸の東端に位置します。2層2階建て、本瓦葺、桁行5.90m、梁間4.94mで、石落しに格子窓が備えてあるのが特徴です。昭和34年の解体修理で、洪水に備え石垣が2.6mかさ上げされています。
≪説明に添えられている図≫
井戸丸と石垣の修復
井戸丸と石垣の修復
大洲城の本丸は、上段と下段とに分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。井戸丸の西側には本丸下段の門と、それに付随する多聞櫓が建っていました。さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
天守台の石垣は、過去の地震で何度か修理した記録が残っています。工事着手の発掘調査では、石垣の内部にさらにもう一列石垣が検出されており、現存する天守台の複雑な築造家庭の一端が明らかになりました。
天守解体後に天守台上部の石が取り除かれており、天守の復元工事に合わせて石垣を部分的に修復し、元の高さまで積み直しています。
≪説明に添えられている図≫
※現在地を示す大洲城案内図は省略しています。
暗り門跡
暗り門跡
この門は、天守に到る最後の城門でも最も大きい櫓門です。現在とは異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。通常の櫓門とは異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていました。仮に門を破られても、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗りのなかで混乱しているところを、攻撃する仕掛けになっていたと思われます。発掘調査では、正面の石垣の一部と石段およびその側溝が確認されました。
≪説明に添えられている図≫
※現在地を示す大洲城案内図は省略しています。
下台所
下台所
県指定有形文化財(建造物)
指定年月日:昭和43年3月8日
大洲城に残る当時の建物は、重要文化財の4つの櫓と、この下台所のみです。城内の食料庫としての機能を果たしていたと言われています。建物の内部は一部2階建て、切妻造、本瓦葺、桁行19.82m、梁間7.90mの大きさで、外部は軒裏をふくめ漆喰塗込めの建物です。
≪説明に添えられている図≫
※現在地を示す大洲城案内図は省略しています。
櫓下御門(二の丸大手門)跡
櫓下御門(二の丸大手門)跡
この門は、二の丸の表門にあたる櫓門で、門前の石垣で囲まれた部分だけでなく、堀に架かる土橋の先まで、堀で囲った枡形を持つ点が特徴です。東向きの門の上には渡櫓がのり、門の南側と北側の石垣上にもそれぞれ櫓が建っていました。
現在でも南側の石垣が残っており、当時の面影を偲ぶことができます。
≪説明に添えられている図≫
※現在地を示す大洲城案内図は省略しています。
三の丸南隅櫓
三の丸南隅櫓
国指定重要文化財(建造物)
指定年月日:昭和32年6月18日
大洲城三の丸に位置するこの櫓は、明和3年(1766年)に再建されたもので、大洲城に現存する最古の建物です。外部両端に袴腰形の石落しを備えているのが特徴です。昭和40年(1965年)に解体修理を行いました。
≪説明に添えられている図≫
※現在地を示す大洲城案内図は省略しています。
大洲城三の丸南隅櫓
大洲城三の丸南隅櫓
大洲城は、地蔵嶽・亀ヶ岡城・大津城などと呼ばれ元弘年間以後は、宇都宮氏八代の拠点であったが、その後、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主となった。現在に連なる近世城郭として建造整備されたのは、藤堂・脇坂両氏が城主であった慶長年間とみられている。元和三年(一六一七)加藤貞泰が領主として米子より入部し、以後、廃藩まで加藤氏一三代の居城となった。
城は、丘陵の上部を本丸として、東に肱川、北に久米川、西と南は堀をめぐらしているが、その外側南部の守りの要として南隅櫓を明和三年(一七六六)に築造した。
櫓は二重二階櫓、本瓦葺となっており、内部は一室である。出窓はなく、外部両端に袴腰形石落としがあり、内部は総壁である。窓格子は化粧とし、軒たるき[原文は漢字]は忠実に塗籠めにしている。
昭和三十二年六月十八日指定
大洲城三の丸南隅櫓公園
大洲城三の丸南隅櫓公園
愛称:お殿様公園(OTONOSAMA PARK)
国指定重要文化財
大洲城三の丸南隅櫓
南隅櫓は、大洲城三の丸の外堀に面した部分に位置している。二層二階建てで、外壁には袴腰形の石落しが三ヶ所に見られる
当初の建築年代ははっきりしないが、享保7(1722)年に一度火事で焼失しており、44年後の明和3(1766)年に再建されている。
当時は財政難で費用を切りつめて再建された様子が記録に残っている。
(昭和32年6月18日指定)
国登録有形文化財
旧加藤家住宅主屋
主屋は、旧大洲藩主の加藤家が大正14(1925)年に建築した木造二階建ての住宅。大名屋敷の名残を残した格調の高さを有する和風建築でありながら、西洋風のモダンさも備えた建物である。
昭和50年代には、映画『男はつらいよ』の舞台となり、本住宅の正面玄関や正門、裏門などが撮影に使われている。
(平成19年7月31日登録)
≪説明に添えられている図≫
大洲城天守閣の礎石
大洲城天守閣の礎石
平成16年に完成した大洲城天守閣の復元に伴って、平成11年から天守閣の発掘調査が実施された。その調査により礎石と呼ばれる石が6個発見されました。礎石とは建物の柱の下に置かれた石のことで、建物を支える土台になります。発見された礎石の位置は天守閣復元図の柱の位置とほぼ一致し、大洲城天守閣の礎石であることが明らかになりました。大洲城天守閣の礎石は全部で16個あったと想定されますが、発見された6個以外はすべて抜き取られていました。礎石に使われた石はすべて緑泥片岩と呼ばれる石材で、フジツボが付着したものがあることから肱川河口の長浜周辺の海から運ばれてきたものと思われます。
さらには復元された大洲城天守閣の平面図を原寸大で再現し、6個の礎石を移築して展示しています。正方形に表現した部分が天守閣の柱の位置になり、礎石は発見された位置に置いています。
天守閣の大きさは、南北11.82m、東西13.79m。
≪説明に添えられている図≫
大洲城絵図用いた案内板
元禄五年大洲城絵図(拡大図)に現在地を示し、タイトル・簡単な説明の案内板がありました。その絵図、タイトル、説明文を載せます。
大洲城 天守 諸々
天守郡での展示と内部の様子
大洲城 国宝・重要文化財
大洲城の「台所櫓」、「高欄櫓」、「苧綿櫓」、「辰巳附櫓」、「三の丸南隅櫓」の4棟が重要文化財 に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース 」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録 」 を参考に編集・作成しています。
- 名称
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- 棟名
- 構造及び形式等
- 大洲城
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- 台所櫓
- 二重二階櫓、本瓦葺
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- 高欄櫓
- 二重二階櫓、本瓦葺
-
- 苧綿櫓
- 二重二階櫓、本瓦葺
- 大洲城三の丸南隅櫓
-
-
- 二重二階櫓、本瓦葺
大洲城 面白文書、拾い上げ
書籍など、大洲城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用
大洲城は元和三年加藤貞泰が入城し、以降加藤氏代々六万石の居城であった。現在は表記四棟の隅櫓を残すのみであるが、二重二階、江戸末期の建立または改修と思われる。
台所櫓及び髙欄櫓は本丸にあり、天守に渡櫓で続いていた。苧綿櫓は肱川の土手に突出して造られ、旧二の丸の東南隅にあたる。 三の丸南隅櫓は現在加藤家の宅地内にあり、加藤家の所有になっている。これらの遺構は勿論大洲城当初のものではないが、その往時をしのぶ貴重な遺構である。
国指定文化財等データベース での解説文
登城の道のり
登城日:平成27年1月31日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
大洲城 まで 簡単に説明
- JR大洲駅を出て南へ450mほど進む。
- 国道56線に当たるので右折して、さらに南へ800mほど進む。
- 肱川橋に至る。ここからの眺めは絶景
- 橋を渡り商店街を西へ200mほど進む。郵便局の所で右折して川辺に向かうと苧綿櫓への近道。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:大洲城 桑折氏長屋門
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス