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家康の隠居城、今は公園に

巽櫓,坤櫓,東御門を復元

駿府城

駿府城城のご案内

駿府城 ひとくちメモ

所在地
静岡県 静岡市
別 名
静岡城 府中城
築城者
徳川家康
別名の由来
-
天守概要
城郭構造
平城
遺 構
石垣 []、 堀 [] など
再建造物
巽櫓 []、 坤櫓 []、 東御門 [] など

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参考になるサイト:

駿府城 写真の間

☒ 二の丸・本丸

☒ 中堀の周囲から

☒ 静岡県庁別館 21展望ロビーより

二の丸・本丸

駿府城:東御門

(1)
東御門

駿府城:東御門、桝形内より

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東御門、桝形内より

駿府城:東御門、外側から

(3)
東御門、外側から

駿府城:坤櫓(内から)

(4)
坤櫓(内から)

中堀の周囲から

駿府城:中堀と石垣、後方に二ノ丸橋

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中堀と石垣、後方に二ノ丸橋

駿府城:巽櫓

(6)
巽櫓

駿府城:東御門

(7)
東御門

駿府城:北門橋から、堀と犬走り?

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北門橋から、堀と犬走り?

駿府城:坤櫓(外から)

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坤櫓(外から)

駿府城:輪取り(?)の石垣

(10)
輪取り(?)の石垣

静岡県庁別館 21展望ロビーより

駿府城:東御門 桝形 静岡県庁別館 21展望ロビーより

(11)
東御門 桝形
静岡県庁別館 21展望ロビーより

駿府城:東御門 桝形 静岡県庁別館 21展望ロビーより

(12)
二の丸・本丸
静岡県庁別館 21展望ロビーより

登城・撮影日の留書き

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駿府城:巽櫓、坤櫓、東御門を木造復元、2016年2月14日 撮影

巽櫓、坤櫓、東御門を木造復元
2016年2月14日 撮影

>駿府城 よろず間

駿府城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった駿府城案内図 を編集して使用しています。

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駿府城 縄張図とカメラアングル

天守台跡

東御門

北門橋

西門橋

東御門橋

二ノ丸橋

巽櫓

坤櫓

内堀

内堀

中堀

静岡県庁別館
21F展望ロビー

方向指示

駿府城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた駿府城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 高い所から駿府城を俯瞰・鳥瞰できます。静岡県庁別館21Fには展望ロビーが設けられ駿府城を一望できます。土日でも展望ロビーにはエレベータで行けました。

    城を見下ろす(上から撮影) で駿府城以外の鳥瞰・俯瞰できる城郭を紹介

    [ 2010/08/01 ]

駿府城で出会った説明板

駿府城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

駿府城

駿府城

駿府城

駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二ノ丸・三ノ丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永十二(一六三五)年に焼失しています。

駿府城が城郭としてそ姿を見せるのは、天正十三(一五八五)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが、詳細は不明です。

この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長十二(一六○七)年将軍を退き、駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。

当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果していました。

平成八年三月

静岡市

駿府城

駿府城

駿府城

今から約六五〇年前の室町時代、今川範国が駿府守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄三年(一五六〇)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄十一年(一五六八)武田氏により駿府を追われました。

徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(一五八二)に追放した後、同十三年(一五八五)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長八年(一六○三)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長十年(一六○五)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(一六○七)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側かえあ「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。

大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。

また、安倍川の堤の改修や城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。

静岡市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

東御門

東御門

東御門

《東御門》

東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。

この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される桝形門です。東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。

東御門は寛永十二(一六三五)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同十五(一六三八)年に再建されました。

復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。

平成八年三月

静岡市

巽櫓

巽櫓

巽櫓

《巽櫓》

巽櫓は、駿府城二之丸の南東に位置する木造矩折三層二重の建物です。

この巽櫓は、寛永十二年(一六三五)城下から出た火によって延焼焼失し、寛永十五年に新たに建設されたといわれています。

巽とは、十二支で表した方位で辰と巳の間、すなわち南東の方角をいいます。また櫓とは、

一、武器を納めておくため

一、四方を展望するために設けた高楼

の役割をしたものです。

巽櫓の復元は、「駿府御城内外覚書」や「駿府御城惣指図」の資料をもとにしており、三か年の歳月をかけ、平成元年三月に完成しました。

静岡市

駿府城天守閣跡

駿府城天守閣跡

駿府城天守閣跡

大御所徳川家康の居城にふさわしく、駿府城の本丸には五層七階の壮観な天守閣が築かれました。

天守閣は駿府城のシンボルとして、城下町からは富士山と並び立って見えたと伝えられています。

また伝説では余りに天守閣が光り輝くので駿河湾の魚が怯えて漁師が困った、などと云われます。

天守閣は、家康在城時に一度火災に遇い再建されますが、家康没後の寛永十二年(一六三五年)に再び火災により焼失し、以後再建されませんでした。わずかに天守の面影を残す石垣造りの天守台も、明治二十九年に静岡連隊を誘致するにあたって解体され埋められました。

静岡市教育委員会

駿府城 大手御門

駿府城 大手御門

駿府城 大手御門

《大手御門》

駿府城内へ入る正面出入口です。

三ノ丸堀を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。

歩道には、渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。

静岡市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

駿府城 北御門跡

駿府城 北御門跡

駿府城 北御門跡

《北御門跡》

二ノ丸へ入る北側の出入口です。

二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣に囲まれた枡形風の広場を経て二ノ丸内へ至りました。

二ノ丸へ入るとすぐ西側には馬場先御門がありました。北御門と馬場先御門を合わせて一つの門構造とする考え方もあります。

静岡市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

駿府城 清水御門跡

駿府城 清水御門跡

駿府城 清水御門跡

《清水御門跡前の西橋より》

二ノ丸へ入る西側の出入口です。

二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていました。門の北側には西喰違御門があり、本丸搦手(裏手)側の御天守台下御門方向へは容易に進入できない仕組みになっていました。

静岡市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

駿府城 二ノ丸御門跡

駿府城 二ノ丸御門跡

駿府城 二ノ丸御門跡

《二ノ丸御門跡》

二ノ丸へ入る正面出入口で、二ノ丸大手門とも呼ばれました。

二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸内へ入る構造になっていました。

門は昭和三十二年に埋められ、約七十m東側に新たに出入口が設けられました。(現在の駿府公園入口)

静岡市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

二ノ丸水路

二ノ丸水路

二ノ丸水路

《二ノ丸水路》

二ノ丸水路は、本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ水路で本丸堀からの水を外に流す目的で築かれています。幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当初の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。

※先頭に読めない部分がありますが英文より推測

≪説明に添えられている図≫

二ノ丸(全景)

石組水路の石積み

水路底の石敷き

駿府古絵図

駿府古絵図

駿府古絵図

駿府古絵図附記の「御城旧記」より抜粋

静岡市は昔 安倍の市と称した集落旧跡であり、永禄年間(一五五八年)頃より町としての形をなしたことが明らかであるが、永禄天正年間の兵火で多数の民家が焼失し、住民の多くは離散した。

その後、兵火もおさまった慶長の初め頃から徐々に民家も建つようになった。慶長十二年(一六〇七年)駿府に移ってきた徳川家康は城下町駿府の整備のため彦坂九兵衛光政 畔柳寿学を奉行に任じ町割りを完成させた。そしてこの町割りには、町年寄 交野宗全の力によるところも大きいと帰されている。

この碑は、静岡東ロータリークラブ創立三十周年記念事業として建立しこれを静岡市に寄贈したものであり図面は、静岡県立中央図書館所蔵の「駿府古絵図」に典拠したものであります。

平成元年(一九八九)十月五日竣工

≪説明に添えられている図≫

駿府古絵図

二ノ丸堀(中堀)石垣災害復旧工事完了のお知らせ

石垣災害復旧工事完了のお知らせ

駿府公園二ノ丸堀(中堀)石垣災害復旧工事完了のお知らせ

《二ノ丸堀(中堀)石垣》

平成21年8月11日駿河湾で発生した震度6弱の地震により、駿府公園二ノ丸堀(中堀)の石垣が崩落しました。

平成22年1月6日 国土交通省都市災害復旧事業着手

平成23年3月15日 工事完了

工事数量 面積約292m

(延長約41m、高さ約8.3m)

石垣の構造を説明した「石垣モデル」が駿府公園内、富士見芝生広場に設けてありますのでぜひ一度ご覧ください。

≪説明に添えられている図≫

登城の道のり

登城日:平成28年2月14日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

駿府城 まで 簡単に説明

  • JR静岡駅を出て大きな道を北西へ500mほど進むと堀と石垣が見えてきます。
  • 石垣を抜け、高い県庁庁舎へ。
  • 県庁別館の21F展望ロビーへ立ち寄るのがお勧め。運がよければ富士山が見え、駿府城を見下ろせます。

ストリートビュー:駿府城 東御門橋と東御門

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞