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福知山市史跡

福知山城

福知山城のご案内

福知山城 ひとくちメモ

所在地
京都府 福知山市
別 名
横山城、臥龍城、八幡城、掻上城
築城者
明智光秀
別名の由来
臥龍城:福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から
天守概要
詳細は不明 現天守は1986( 昭和61 )年に鉄筋コンクリートで再建された
複合・連結式望楼型 3重4階。
城郭構造
連郭式平山城
遺 構
移築された銅門番所[]、 井戸(豊磐井)[]、 石垣[] など
再建造物
大天守[]、 小天守[]、 続櫓[]、 釣鐘門[] など
天守の高さ
20.2m ( 建物 )

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

天守の高さは «地図で歩く 城と城下町100選» に依る。

福知山城 簡易年表

1580年
明智光秀、横山城を奪い、福知山と改名し、修築。
1582年
明智光秀、山崎の合戦で敗死。
1600年
有馬豊氏、入城し、城と城下町を整備。
1620年
有馬豊氏、久留米へ転封。
1669年
朽木氏が入封、幕末まで至る。
1872年
廃城令により、番所以外の建物が破却される。
1985年
小天守再建。
1986年
大天守再建。

図解 日本の城 より

参考になるサイト:

福知山城 写真の間

抑えたい処、美しい処

撮影日:2011年6月3日

入城口 ⇒ 天守前 ⇒ 天守裏、釣鐘門から外へ の順に

福知山城:本丸下の石垣

(1)
本丸下の石垣

福知山城:天守

(2)
天守

福知山城:銅門番所

(3)
銅門番所

福知山城:天守

(4)
天守

福知山城:天守、小天守

(5)
天守、小天守

福知山城:天守、続櫓

(6)
天守、続櫓

福知山城:釣鐘門(模擬門)を通して天守

(7)
釣鐘門(模擬門)を通して天守

福知山城:石垣

(8)
石垣

福知山城:小天守、続櫓、天守

(9)
小天守、続櫓、天守

少し離れて

福知山城:昇龍橋より天守

(10)
昇龍橋より天守

福知山城:石垣、銅門番所、天守

(11)
石垣、銅門番所、天守

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の福知山城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

福知山城:2012年4月16日 撮影

2011年6月3日 撮影

福知山城 よろず館

福知山城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた福知山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 福知山城の石垣には「転用石」が多く見られます。もともと供養塔など、他の目的で作成された石造品が石垣等に利用されたものを「転用石」といいます。
  • 現在、は石垣の中に残るもの、福知山城再建時の発掘調査により確認されたものなどを合わせて、500個余りが確認されており、そのほとんどが天守石垣付近に集中しています。

    石垣の中に残る転用石の事例

  • 再建工事の時に三百からの転用石が出土し、2箇所に展示されていました。案内(説明)板の内容は下方の「福知山城で出会った案内板」で文字におとしています。

    転用石についての案内(説明)板

    再建工事の時に出土した転用石

  • 少し古いテレビ番組の録画、「空から日本を見てみよう+ 京都 福地山~天空の竹田城跡~兵庫県 城崎温泉」を観ていて、興味深い場面に遭遇。光秀公は良い人??

    番組のなかで、福知山城(福知山市郷土資料館)館長が話しています。

    「(転用石に使った石は)取りっぱなしではなくて、その後に別の石をお返しして、『これで供養してください』というように言った」と聞いています。

    とのこと。元の史料はわかりませんが、来年は、大河ドラマ「麒麟がくる」でブームの予感。その前に。

    (2019/3/3 雛祭り)

石垣 について

福知山城 ここが興趣深い

福知山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 石垣に境目が!!!。 天守台周辺の石垣は3~4回の増築が考えられ、増築のラインとのことです。(パンフレットから知りました。)。

  • 豊磐井(とよいわい)と呼ばれる井戸は深さが50メートルあり、城郭内湛水井としては日本一の深さです。

福知山城 ここにはご注意を!!

主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。

  • あやしい天守閣 の『想像復元されたの天守閣』で扱われています。『転用石』に興味がありましたが、天守のことはあまり知りませんでした。ここで少し詳しく。
  • 明治4(1871)年、廃城令で廃城となり城の建物は払下げられるなどほとんどが取り壊され、石垣のみが残されました。瓦の一部は寺院や民家に使用され、城門は 観瀧寺正眼寺法鷲寺明覚寺 に移築され山門になったと言われています。これらは福知山市重要資料に指定されています。
  • 1916(大正5)年には二の丸にあった銅門番所が天守台に移築されました。
  • 福知山城は初めは単独の天守であったが順次改修され連結型天守になったことが発掘調査により確認されたとのことです。
  • 昭和60(1985)年、建設(復元)にあたってはきちんと考証がなされ、天守の形状は各種の古図を参考にデザインされました。しかし、古写真が残ってない、古図も正確性を問われるようなものしか残ってない等々、どこまで正確かは不明で想像復元とのことです。銅門番所は本丸に移築されました。
  • あやしい天守閣では、各種の古図とありますが史料名は記載されていません。城下町絵図は数点見つけましたが外観のわかるものではありませんでした。また、Web上で福知山城 - Wikipedia を引いた「『平面古図』によると、天守は三重四階建ての大天守で、・・・」をよく見つけるのですが、『平面古図』っては何なんでしょ?? よくわかりませんでした。いずれにしても、雛形や設計図、古写真などが残ってなくては正確な復元は難しいのかと思います。

[ 2012/05/17 ]

福知山城で出会った説明板

福知山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

福知山城

福知山城

福知山城

福知山城は天正年間明智光秀の縄張りと伝えられ慶長年間にいたり近世城郭として完成されました

明治の廃城後わずかに残された本丸に多くの皆様の協力により大天守閣続櫓小天守閣が再建されました

城郭研究の権威東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の復元設計による二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表しています

構造鉄筋コンクリート造り
三層四階建
延床面積一〇六三平方メートル
総高二〇・二 メートル
竣工昭和六十一年十一月九日

福知山市

福知山城

福知山城

福知山城

〈福知山城と城下町〉


明治の廃城後わずかに残された本丸に多くの皆様の協力により大天守閣続櫓小天守閣が再建されました

福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により、本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。

城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にあります。中世には天田郡の豪族、潮見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。

丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天主台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。

光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め 広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。

光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ヶ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木植昌と交代し、その後、朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは有馬豊氏の時代と推定されます。

〈城郭プランと天守閣〉


福知山城や城下町の絵図は有馬・稲葉・松平・朽木各時代のものが残されています。これらのうち、松平時代(1649~1669)の絵図をもとに、具体的な様子をみてみましょう。

城郭部は横山丘陵先端の地形を利用しています。東は法川を利用した大堀を、西は堀と土居を、南には堀切を、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する「総郭型」(総構え)の構造となっています。丘の先端に天守台を置き、二の丸・伯奢丸(三の丸-現在市役所の南にある丘)が西へと続きます。南側の低地には「御泉水」とよばれる庭園と蔵・馬屋敷、その西側には内記丸(西の丸)が配置されていました。このうち石垣を持つのは丘陵上の城郭主要部のみでした。再建された天守閣は大天守、続き櫓から構成されています。外観は3層ですが、内部は4階となっています。古文書や門・玄関の配置から、天守閣は西向きに建てられており、西から見るのが正面の姿といえます。

〈福知山城の石垣〉


石垣は、表土を削り溝状に岩盤を掘り込んで、安定した根石を据えるように工夫されています。図(「天守部分現存石垣配置図」)は現存の石垣を示したものですが、天守台(A部・B部・C部)部分は、すべて岩盤上に積み上げられたもので、内部はこぶし大から人頭大の栗石がびっしりと充填されていました。本丸D部は、岩山の斜面に積み上げられた構造となっています。

福知山城に現存している石垣は、大小の自然石(野面石)を用いた「穴太積み」技法によって詰まれています。天守台・本丸の石垣は、発掘調査の結果から、3回の増築が行われていることが確認されています。

また、石垣には五輪塔・宝篋印塔などの石塔が大量に転用されています。現在、石垣に組み込まれているものが約90点、天守台石垣内部から出土したもの(石垣内部の栗石として使われていたもの)が約250点、近代以降の積み直し部分には約70点が使用されており、その多くはA部に集中しています。年号が刻まれているものでもっとも古い石塔は延文4年(1359)、新しいものは天正3年(1575)です。

〈福知山城関係年表(戦国時代から江戸時代のはじめまで)〉


省略

≪説明に添えられている図≫

空から見た福知山城

福知山城下絵図

(松平時代)

島原 本光寺蔵

天守部分現存石垣配置図

D部北側石垣根石

(石垣改修時の

調査の様子)

福知山城石垣の転用石

福知山城石垣の転用石

福知山城石垣の転用石

(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)

天守閣の石垣には、未加工の自然石が用いられ、穴太積と呼ばれる技法が認められますまた、今も二百位の数多くの転用石が見られます。五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏、石臼灯籠などが、石用として使われています。これ程大量の使用例は、大和郡山城と福知山城にしかありません。再建工事の時にも三百からの転用石が出土、発見されその一部をここに置いています。

中に、「延文四年(1359)銘の五輪塔地輪(転用石の年号銘では最古)や「天文十年」(1541)銘の五輪塔地輪(天守閣地階の階段石に転用)があります。また、宝篋印塔の塔身、基礎、基壇と、この地域の優れた石造品をうかがい知ることができます。

福知山城石垣の転用石

福知山城石垣の転用石

福知山城石垣の転用石

福知山城の石垣には、自然石と割石に混じって五輪塔・宝篋印塔などの印塔が大量に使用されています。もともと供養塔等、他の目的で作成された石造品が石垣等に利用されたものを「転用石」といいます。現在、転用石は石垣の中に残るもの、福知山城再建時の発掘調査により確認されたものをあわせて、500個余りが確認されており、そのほとんどが天守石垣付近に集中しています。

福知山城は築城時に明智光秀が近隣から石塔を集めたという伝承があり、これは、石垣に利用する大量の石材が近辺にんかったこと、築城に時間的余裕がなかったためという理由の他に、旧地元勢力・権威の否定ともいわれていますが、城を守護するものという意識があったとも考えられています。

転用石で最も多いものは五輪塔の一番下の部分である地輪(方形)が全体の65%、次いで宝篋印塔の基礎(方形)が11%余りを占めています。その他、わずかですが石仏、南無妙法蓮華経を刻んだ笠塔婆、石臼、灯篭などがみられます。年号などが刻まれている石もあり、一番古いものは延文四年(1359)、最も新しいものは天正三年(1575)で、いずれも明智光秀が福知山に入ってくる以前のものばかりです。これら転用石は光秀の福知山城築城の様子を伝える数少ない中世資料の一つであり、資料的価値の高いものです。

銅門番所

銅門番所

銅門番所

《銅門番所》

この建物は福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、城内の建築物として当時の面影をしのばせるものです。

大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され更に昭和五十九年天守閣再建に伴いこの場所に移築されたものです。

豊磐井について

豊磐井について

豊磐井(とよいわい)について

《豊磐井》

この建物は福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、城内の建築物として当時の面影をしのばせるものです。

大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され更に昭和五十九年天守閣再建に伴いこの場所に移築されたものです。

登城の道のり

登城日:平成23年6月3日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

福知山城まで 簡単に説明

  • 京都駅より福知山駅に向かいました。
  • 福知山駅近くになると進行方向へ向かって右側に天守が見えてきます。
  • 駅を出ると(観光案内所?)福知山のパンフレットがありました。
  • 一部いただきました。このパンフレットより天守台の石垣に境目があることを知りました。
  • おおよその位置はわかっていたので歩きました。15~20分ぐらいかかりました。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:福知山城

天守、小天守、続櫓

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞