日本最後の木造天守は
伊賀上野城
伊賀上野城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: 伊賀上野城で出会った説明板
- 伍: 天守内の展示・資料など
- 睦: ここにはご注意を!!
- 質: 登城の道のり
伊賀上野城 ひとくちメモ
- 所在地
- 三重県 伊賀市
- 別 名
- 白鳳城
- 築城者
- 筒井定次
- 別名の由来
- 天守概要
- 現在は連結式 層塔型 三重三階 の模擬天守が上がっています。かっての天守は五重のの予定でしたが完成間近の慶長17(1612)年に大嵐のため倒壊、その後天守が上がることはありませんでした。
- 城郭構造
- 梯郭式 平山城
- 遺 構
- 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ]、武具蔵 など
- 再建造物
- 模擬天守 [ ※] 白鳳門 [ ※] など
- 天守の高さ
- 23m ( 建物 )、10.3m ( 石垣 )
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
天守の高さは «地図で歩く 城と城下町100選» に依る。
伊賀上野城 簡易年表
天守内にあった 伊賀概略年表 を抜粋し、整理・まとめました。
- 1581年
- 伊賀の乱(織田信長軍伊勢を侵攻)
- 1585年
- 豊臣秀吉が筒井定次を伊賀十万石に移封する
- 1608年
- 筒井定次 改易さる
- 1608年
- 徳川家康が藤堂高虎を伊勢二十二万石に移封する
- 1611年
- 伊賀上野城大改修(筒井城を西へ拡張)
- 1612年
- 伊賀上野城天守閣(竣工直前)倒壊する
- 1869年
- 藤堂氏版籍奉還する
- 1932年
- 復興天守閣上野城起工する(川崎克氏)
- 1935年
- 上野城落成する(伊賀文化産業城と称す)
- 1967年
- 上野城跡史跡指定さる
参考になるサイト:
伊賀上野城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 本丸、天守、筒井古城跡
☒ 堀の周囲からの高石垣
本丸、天守、筒井古城跡
堀の周囲からの高石垣
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の伊賀上野城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
伊賀上野城 よろず間
伊賀上野城 縄張りとカメラアングル
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
※ 縄張図は天守に展示されていた 安政大地震 上野城破損絵図 を使用しています。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
伊賀上野城で出会った説明板
伊賀上野城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 伊賀上野城の概要
- ♦ 上野城の沿革
- ♦ 無題:伊賀上野城の概要
伊賀上野城の概要
天正13年(1585)伊賀の国主となった筒井定次が文禄のころ、三層の天守をもつ平山城をここに築いた。
筒井氏国替えのあと、慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が入国して、これを西方に拡張し雄大な本丸を築き、さらに外濠を画して典型的な近世城下町を建設した。
天守は慶長16年、作事なかばに台風のため倒壊、再び建てられることなく廃藩となった。
現在のものは、昭和10年の復興である。
上野城の沿革
上野城の沿革
慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が、伊賀・伊勢の地へ転封、大坂城の豊臣秀頼に対する拠点の城として、慶長16年正月、筒井氏の城を西に拡張、その時日本一高いといわれる高石垣を築いた。
翌17年9月、当地を襲った台風により五層の天守閣は倒壊、大坂夏の陣で徳川方の勝利に終わったので天守閣の再建はされなかったが上野城は伊賀国の城として存続、城代家老が置かれ明治まで存続した。
今の天守閣は昭和10年(1935)10月、地元の名士川崎克氏により復興、伊賀文化産業城と称した。
天守閣一階には甲冑・武具・伊賀焼きを展示、二階には天守閣復興者川崎克氏の書画や伊賀焼・藩主藤堂家の調度品などを展示。
三階には横山大観をはじめとする有名人の書画46点の大色紙が格天井に飾られている。
無題:伊賀上野城の概要
慶長13年(1608)八月、藤堂高虎は伊賀の国十万石、伊勢の国の内で十万石、伊予の国で二万石に移封となった。
(のち三十二万三千九百五十四石余りとなる)
移封は徳川家康の新任が厚かったのと、紀伊や大和の反勢力の押さえと築城の名手でもあり、目前にせまる豊臣家討伐に備えたもので、慶長十六年(1611)正月、上野城の本丸を西に拡張、高さ約三十メートルという高石垣をめぐらした。
建築中の五層の天守閣は慶長十七年(1612)九月二日、当地を襲った大暴風雨で倒壊、その後、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣と徳川方の勝利に終わり、幕府は諸大名をの城普請を厳しく禁止したので上野城の天守閣は再建されなかったが、伊賀の国の城として明治まで城代家老を置いて存続した。
現在の天守閣は、当地出身の政治家川崎克氏が、熊野の山林家奥川吉三郎等の協力を受け、また自らが愛蔵する古美術品を売却して復興資金を調達、昭和十年(1935)十月十八日に落成、伊賀の産業陳列館として「伊賀文化産業城」と名付けられたが、優雅な姿から白鳳城(はくほうじょう)と呼ばれて親しまれている。
伊賀上野城 天守内の展示・資料など
天守内にあった縄張り図、天守の模型など史料・資料などを紹介
伊賀上野城 ここにはご注意を!!
主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。
- あやしい天守閣 の『デザイン違い天守閣』で扱われています。藤堂高虎、高石垣以外はほとんど何も知りませんでした。少し詳しく。
- 戦国末期筒井定次によって3重の天守があがったいわれている。
- 1608( 慶長13)年、藤堂高虎が入城し大改修に着手。筒井時代とは異なる場所に天守台を作り五重の天守をあげる予定でしたが、完成間近に暴風で倒壊。
- 1615( 慶長20)年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し伊賀上野城の役目は薄れ天守は再建されなかったとのころ。
- 伊賀上野城に待望の天守が建築されたのは1935( 昭和10)年のことで、衆議院議員・川崎克氏の力が大きい。私財を投じ小天守を伴った連結式の3重の天守閣を建造。史実にない模擬天守で正式名称は「伊賀文化産業城」。高虎の天守は実際にはあがらなかったので復元でもない。
- 五重用の天守台に3重の天守閣を建てたので敷地の半分程度残ってもったいないが、築70年以上経ち、現在は市の指定文化財になっています。
登城の道のり
登城日:平成24年9月15日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
伊賀上野城まで 簡単に説明
- JR伊賀上野駅からでも2.5Km程度。歩いていける距離ですが後の日程の関係もあり伊賀鉄道で上野駅へ
- 駅を出ると地下道があり、抜けると市役所の前に出ることができます。
- 200mほど西へ進むと白鳳門が見えてきますのでここから登城。
- この近辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:大天守・小天守
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス