先頭

天守、二重櫓、三の平櫓東土塀 は

重要文化財

備中松山城

備中松山城のご案内

備中松山城 ひとくちメモ

所在地
岡山県 高梁市
別 名
高梁城
築城者
秋庭重信、水谷勝宗
別名の由来
地名から。
天守概要
複合式望楼型 二層二階
城郭構造
梯郭式山城
遺 構
天守[]、 二重櫓[]、 石垣[]、 塀[]、、土塁、など
再建造物
南御門[]、 東御門[]、 腕木御門[]、 五の平櫓[]、 六の平櫓[]、路地門、土塀 など
高 さ
約13.5m( 石垣から天守まで )

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

備中松山城 簡易年表

1240年
有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭・秋庭重信が大松山に城を築く。
1574年
「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれ、臥牛山がー大要塞となる。
1683年
水谷勝宗により修築。
1941年
国宝に指定される。
1950年
引き続き重要文化財に指定される。

備中松山城 - 高梁観光情報|備中たかはし を参考にまとめました

参考になるサイト:

備中松山城 写真の間

抑えたい処、美しい処

2回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

ふいご峠駐車場 ⇒ 中太鼓櫓跡 ⇒ 大手門 ⇒ 三の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 の順に

備中松山城:中太鼓櫓跡の石垣

(1)
中太鼓櫓跡の石垣

備中松山城:大手門跡の石垣

(2)
大手門跡の石垣

備中松山城:岩と石垣の調和 大手門に入らず右へ

(3)
岩と石垣の調和
大手門に入らず右へ

備中松山城:足軽箱番所跡

(4)
足軽箱番所跡

備中松山城: 三の平櫓東土塀

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三の平櫓東土塀

備中松山城:二の丸より望む天守 1979年頃 櫓はまだ復元されてません

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二の丸より望む天守
1979年頃 櫓はまだ復元されてません

備中松山城:二の丸より望む天守櫓、御門などが復元されています

(7)
二の丸より望む天守
復元された五の平櫓、南御門なども

備中松山城:本丸 天守

(8)
本丸 天守

備中松山城:本丸 天守

(9)
本丸 天守

備中松山城:二重櫓 1979年頃 両側の塀はなかった

(10)
二重櫓
1979年頃
両側の塀はなかった

備中松山城:天守内部 御社壇

(11)
天守内部 御社壇

備中松山城:二重櫓 北面

(12)
二重櫓 北面

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の備中松山城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

備中松山城:天守

2017年5月2日 撮影

備中松山城:フィルム撮影の松本城

フィルム撮影の備中松山城
1979年頃 撮影

備中松山城 よろず間

備中松山城 縄張りとカメラアングル

※ アングルのマーカー、または数字をクリックすると写真を表示します。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

備中松山城案内地図

本丸

二の丸

三の丸

大手門

天守

二重櫓

方向指示

備中松山城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた備中松山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 現存する天守などは天和3(1683)年に水谷勝宗より修築され、天守は 現存する12天守 の一つです。二重櫓、三の平櫓東土塀と共に 重要文化財 に指定されています。

    [ 2012/10/10 ]

  • 街中にはこんなものも

    マンホールの蓋

    ここから松山城がよう見えるで!

    「よう見えるで!」だけど山の上に小さく、知らないと見落としそう。

    山の頂上に天守が

    引くとこんな感じ、じっくり捜して

    [ 2019/10/01 ]

備中松山城 ここが際立つ

備中松山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 大石内蔵助の腰掛け石、あの忠臣蔵の大石内蔵助と備中松山城の関係、どこにあるのか気になりました。
  • ウェブサイトやブログを渉り歩くと関係はすぐわかりました。水谷家の3代目、勝美が急死、後継ぎがなく「お家断絶」「所領没収」となりました。城受け取りの役は、赤穂藩主・浅野長矩に命じられ、家老の大石内蔵助が城番となり、登城の途中に休んだといわれる腰掛石が残っているとのこと。
  • おまけですが、この7年後、例の事件で浅野家がお家断絶、所領没収となり大石内蔵助が引き渡す役になります。
  • 場所はちょとあやしいのですが中州公園から臥牛山山頂への登山道(遊歩道)があり、ふいご峠駐車場、備中松山城へ向かうことができるようです。このふいご峠駐車場の5~6分前にあるようで、ふいご峠駐車場へ車でいくのなら少し歩けば行けそうです。残念ながら>登城の道のり のGoogleマップにはこの道は示されていません。

[ 2012/10/10 ]

備中松山城で出会った説明板

備中松山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

特徴や建造物など
天守の構造
修理・復元
絵が中心の案内・説明書
特徴や建造物など

備中松山城跡

備中松山城跡

国指定史跡

 備中松山城跡

国指定重要文化財

 備中松山城

 建造物 天守

 建造物 二重櫓

    三の平櫓東

 建造物 土塀

備中松山城の沿革

備中松山城の沿革

備中松山城の沿革

備中松山城は、延応二年(一二四〇)に有漢郷(うかんのごう)(現上房郡有漢町)の地頭秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まる。元弘年中(一三三一~三四)には、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、永禄四年(一五六一)には安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。

元亀三年(一五七二)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜田氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。天正二年(一五七四)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜田連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえる。また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではない。

関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長一〇年(一六〇六)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永十九年(一六四二)、水谷勝隆が入城する。

水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。さらに二代の勝宗は、天和元年(一六八一)から三年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成している。しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易となっている。元禄六年(一六九三)水谷氏断絶後、播州赤穂藩浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまっている。その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(一七一一)に石川総慶が城主となり、延享元年(一七四四)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝晙・勝職・勝静・勝弼と七代続き廃藩置県を迎える。

≪説明に添えられている図≫

備中松山城復古図(近世式)

史跡 備中松山城跡(国指定)

史跡 備中松山城跡(国指定)

史跡 備中松山城跡(国指定)

切通及び番所跡 (標高約420メートル)

概ね孤立峰である臥牛山が、唯一、連なっている北東の一部の守りを固めるために築かれた切通(堀切、横堀)とそれを越えて出入りする者の監視のために設置された番所(跡)

大池 (標高約445メートル)

地元では「血の池」と呼ばれ、人の首や戦で使われた刀を洗ったと伝えられる。別名「首洗いの池」。山中に数か所ある水利(井戸や湧井戸)のうち最大のもので、総石積の人口池。日照りが続いても渇れないよう屋根がかけられ、小舟が浮かべられていたという江戸時代の記録が残る。

大松山城跡 (大松山山頂 標高約470メートル)

臥牛山の主峰「大松山」山頂。延応2年(1240)有漢郷の地頭 秋葉三郎重信が臥牛山のうち、この大松山に砦を築いたのが備中松山城の創始と伝えられる。現在も随所にその跡をとどめる。

天神の丸跡 (天神の丸山頂 標高約480メートル)

臥牛山の支峰「天神の丸」山頂。中世~戦国時代には大松山城の出丸として積極的に利用されていたことが知られるが、近世になって「天神社」が営まれ、信仰の対象となっている。現在もその社殿の跡と手水鉢が残る。

相畑城戸跡 (標高約440メートル)

天神の丸から小松山へ続く尾根上にあたる。天正2年~3年(1574~1575)に起こった松山合戦(備中兵乱)の古戦場で土塁など残るが、近世になって積極的に利用されており、近世城郭(小松山城)に関わる堀切や井戸、番所などが築かれた跡が残る。

小松山城跡 (備中松山城 小松山山頂 標高約430メートル)

小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭。一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この小松山を指し、天守の現存する山城としては隋一の高さを誇る。城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存しており、昭和16年に国宝(昭和25年文化財保護法の制定により重要文化財)指定を受けている。平成6年度から、重要文化財を中心に本丸が復元整備され、本丸南御門をはじめ東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実に基づいて復元されている。

中太鼓櫓跡 (標高約355メートル)

小松山から南に延びる尾根上にあたり、別名「上太鼓櫓」。眼科に見える前山山頂の下太鼓の丸跡と小松山城のほぼ中間で、戦略上の重要な拠点。絵図には「中太鼓櫓」と書かれた建物が描かれており、現在も跡をとどめる。城主の登城の際や有事の際に、山麗の御根小屋と天守とを太鼓で連絡する中継所のひとつ。

下太鼓の丸跡 (前山山頂 標高約320メートル)

臥牛山の支峰「前山」山頂。山麓の御根小屋と天守のほぼ中間で、自然の岩盤を巧みに利用して築かれた強固な出丸。城下(市街)が一望でき、中太鼓の丸とともに防禦あるいは城下俯瞰の要衝であると同時に太鼓の音などを中継する通信所のひとつ。/p>

鞴峠 (現在地 標高約430メートル)

臥牛山

 古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ていることから、「臥牛山」と呼ばれている。北から大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの峰からなり、東北の一部が連なるほかは、そそり立つ断崖を要した天然の要害。明治維新後、ただちに国有林に編入されたため、ほとんどが自然林として残り、多種多様な植物相を呈している。シダ植物以上の高騰植物は、全部で133科927種類が確認されている。

 動物も豊かな餌植物により多種多様なものが混在し、古くからニホンザルの生息が知られる。古い記録には猿谷の地名も残り、概ね全山が「臥牛山のサル生息地」として天然記念物生息地の指定を受けている。昆虫類も豊富で、158科1,695種類が確認されている。

 重要文化財「備中松山城」を含む国指定史跡、国指定天然記念物生息地、また高梁川上流県立自然公園「臥牛山特別地域」の指定のほか、「21世紀に残したい日本の自然100選」の一つとしてもこの地が選ばれている。

備中松山城

 臥牛山の山頂を中心に築かれた城郭遺構。時代により城郭や縄張りをかえながらも中世から近世まで連綿と営まれた連郭式山城で、創建以来、備中制覇のための拠点として数多くの攻防が繰り広げられている。なかでも戦国時代末期の天正2~3年(1574~1575年)に起こった「備中兵乱」では、毛利8万余騎の軍勢に、織田方に通じた備中松山城は落城。当時の城主三村氏が滅ぶと毛利氏が東方進出の拠点としている。現存する城郭は臥牛山の一支峰である小松山山頂にそびえる近世備中松山城(小松山城)で、城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存している。天守が現存する山城としては全国で最も高い位置(比高差370m)にあることでも有名で、平成6年からは重要文化財を中心に本丸が復元整備されている。

沿革

 鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭、秋庭三郎重信により臥牛山のうち大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、白の縄張りは時代とともに変化するが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれる出丸が築かれていたことが記録に残り、臥牛山全域が一大要塞となっていたことがうかがえる。

当時の城主であった三村氏没後も、毛利氏の東方進出の拠点として、また毛利氏が防長二国に退いてからは、備中国奉行 小堀正次・政一(遠州)により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っている。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えるが、現存する天守などは、天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられる。

≪説明に添えられている図≫

現在地(中太鼓の丸跡)

現在地(中太鼓の丸跡)

現在地(中太鼓の丸跡)

中太鼓の丸跡 (現在地)

古文書や絵図などの記録によっては「上太鼓の丸」と記されたものもあり、小松山から、南へ延びる緩やかな尾根上にあたる。眼科に見える前山山頂の「下太鼓の丸跡」と「大手門跡」とのほぼ中間で、戦略上の重要な拠点でもある。

「曲輪」と呼ばれる2段の平坦面からなり、その側面には強固な石積みが築かれている。上段の曲輪の南端には、「中太鼓丸櫓」と呼ばれる櫓が建っていたことが記録や絵図に残っており、現在も跡を留める。城主の登城の際や有事の際に山麓の御根小屋と天守と太鼓の音などで連絡する中継所のひとつで、防備上の拠点であると同時に通信網の要衝。

下太鼓の丸跡 (前山山頂)

眼科に見える臥牛山の支峰「前山」山頂にあり、山麓の御根小屋と天守とのほぼ中間地点にあたる。西南に延びる尾根に沿って、4つの曲輪(4段の平坦面)から構成されている。自然の岩盤を巧みに利用し、部分的に石積みを施し築かれた強固な出丸。北方以外の三方向に視界が開け、中でも南方向は市街を一望することができる。中太鼓の丸とともに防禦あるいは城下俯瞰の要衝であると同時に太鼓の音などを中継する通信所のひとつ。

臥牛山

古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ているところから、「老牛伏草山」とか「臥牛山」と呼ばれ、現在は一般に「臥牛山」と呼ばれている。北から「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなり、東北の一部が連なるほかは、概ねそそり立つ急斜面の断崖を要した自然の要害。

明治維新後ただちに国有林に編入されたため、ほとんどが自然林として残り、多種多様な植物相を呈している。立地が岡山県の中部地域にあることもあり、南方系と北方系の直仏が混在し、シダ植物以上の高騰植物は、全部で133科927種が確認されている。

動物も豊かな餌植物と地理的な条件から多種多様なものが混在し、古い記録には猿谷の地名も残り、概ね全山が「臥牛山のサル生息地」として天然記念物生息地の指定を受けている。されに、昆虫類も豊富で、全部で158科1,695種が確認されている。

重要文化財「備中松山城」などを含む国指定史跡、また国指定天然記念物生息地、高梁川上流県立自然公園「臥牛山特別地域」の指定を受けているほか、「21世紀に残したい日本の自然100選」の一つとしてもこの地が選ばれている。

≪説明に添えられている図≫

 

現在地(大手門跡)

現在地(大手門跡)

現在地(大手門跡)

大手門跡

備中松山城は、自然の地形を巧みに利用して築かれているが、なかでも大手門はその典型。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いて構えているので、侵入が矩折りとなり、内部は踏面の長い石段と高い石垣でまわりが囲ま、半ば桝形構造(門の内側もしくは外側に、敵の直進を防ぐことを目的に設けた四角形の空間)となっている。城内へ押し寄せる軍勢等の勢力をそぐためにとられた工夫で、備中松山城の大手門は実践向きに築かれている。

攻撃あるいは防禦にあたっての重要な軍事施設であると同時に、大手門は城下に威を奮う統治上の象徴施設でもある。そのため城内に6つある門のうち、最も複雑な侵入形態をとるとともに、最大の規模を有している。

犬走り口

犬走りは表門を迂回して裏門へ至る横道であり、犬走り口はその虎口(出入口)にあたる。備中松山城の場合、土塀の痕跡がとぎれる大手門下の現在地にあたり、ここから天守裏の搦手門に通じる犬走りが続いている。

大手門跡の調査

文献・古絵図などから「十間二間」の櫓門形式の門と考えられる。現在はその両脚の石垣の礎石を残すのみで、建物部分は姿をとどめないが、発掘調査により、櫓の基礎となる石列や根太(ねだ)(床を支える横木)を受ける束石(つかいし)などを検出。そのほか、出入口の踏石なども出土し、櫓の大きさや出入口の位置が確認された。門の部分の礎石は全て切石が使われ、表面に石鑿(のみ)や鏨(たがね)による調整がある。表面には、柱の下部を腐食防止などの目的で巻いた鉄板の痕跡(方形の鉄錆)が残り、礎石に据えられていた柱の形と大きさが解る。

≪説明に添えられている図≫

 

播州赤穂藩家老 大石良雄腰掛岩

播州赤穂藩家老 大石良雄腰掛岩

播州赤穂藩家老

  大石良雄腰掛岩

《大石良雄腰掛岩》

元禄六年十月藩主水谷勝美歿して家嗣がなく御家断絶領地を召上げられたので播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩に城請取りを仰付けられた

翌元禄七年二月二十一日先発隊として大石内蔵助良雄が松山城に到着した

城請渡しについては水谷家家老鶴見内蔵助と会見して平穏裡に折衝を了へ 元禄八年八月六日(一六九五年)まで一年七ヶ月この城に在藩した

その間大石良雄は城地を調査に登城の際此の岩に腰を掛けて休息したと伝えられている

装束の間

装束の間

装束の間

《装束の間》

籠城時の城主一家の居室。床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫がされている。

戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもある。

武者窓(連子窓)

武者窓(連子窓)

武者窓(連子窓(れんしまど))

《武者窓(連子窓)》

正方形の角材の角を外側に向け並べて、外からは内が見えにくく、内からは広角に敵兵の動きを見ることができる。

御社壇

御社壇

御社壇(ごしゃだん)

《御社壇》

天和三年(一六八三)当時の城主水谷左京亮勝宗が、この松山城を修築したその節、松山藩五万石の守護として三振の宝剣に天照皇大神を始め水谷氏の守護神羽黒大権現等、十の神々を勧請し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な祭典を行ない、安康を祈った。

囲炉裡

囲炉裡

囲炉裡

《囲炉裡》

板石造り、長さ一間、幅三尺、籠城時の城主の食事、暖房用に用いられたと言われている。

天守閣の中に切りこみの囲炉裡があるのは全国でも珍しい。これは戦国時代備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された経験から生まれたものである。

接続廊下

接続廊下

接続(つなぎ)廊下

《接続廊下》

(内から外)

《接続廊下》

この天守は二重二階であり、ここは一階ではなく、八の櫓と天守をつなぐ廊下である。

≪説明に添えられている図≫

 

天守の構造

天守の構造(外部)

天守の構造(外部)

天守の構造(外部)

備中松山城の天守は二層二階ですが、絵図や記録によっては「三重櫓」と表現されたものも少なくありません。天守を西側面から見ると、八の平櫓から続く渡り廊下の屋根が重なって、三層にみえます。

≪説明に添えられている図≫

●備中松山城図

(亀山市蔵)

唐破風出格子窓

備中松山城の天守の特徴は、何といっても中央の唐破風の部分です。備中松山城の唐破風にはあわせて出格子窓が設けられており、石落としとしての機能もあわせ持っています。

≪説明に添えられている図≫

秋冥菊 (しゅうめいぎく)

天守台の周辺を中心に群生し、毎年秋になると花が咲き乱れます。この秋冥菊は赤いものしか咲きません。備中兵乱をはじめとする戦で散った歴代城主の怨念という伝説もあります。

≪説明に添えられている図≫

腰板(竪板張り)

天守の外装を白と黒のコントラストで彩る漆喰と腰板。備中松山城の腰板は「竪板張り」と呼ばれ、縦方向に板が張られています。通常、城郭建築の腰板は「下見板張り」と呼ばれる横方向に張られるものが多く、現存する天守の中では備中松山城のほか高知城天守が知られています。

≪説明に添えられている図≫

●丸岡城天守

●松江城天守

規模

備中松山城の天守が他の天守と比べて小さいのは、備中松山城の天守が権威の象徴としての役割しかもたず、城主の居館や政庁としての役割は山麓の「御根小屋(現高梁高校)」が担っていたことによります。言い換えれば、備中松山城の天守は、御根小屋と一体となってはじめて通常の天守として機能しているということになります。

絵図や記録の中には、現在の大手門までを本丸として捉えているものや、御根小屋のすぐ東側を流れる小高下谷川を内堀、伊賀谷川(紺屋川)を中堀、高梁川から下谷川を外堀として、御根小屋までを「丸の内」と捉えているものもあります。

≪説明に添えられている図≫

備中松山城

岡山城

●正保絵図(国立公文書館 内閣文庫蔵)

●本丸立絵図

(岡山大学池田家文庫蔵)

《参考》

⚫正保絵図(国立公文書館 内閣文庫蔵)の綺麗な画像は国立公文書館 デジタルアーカイブで閲覧できます

⚫本丸立絵図(岡山大学池田家文庫蔵)の綺麗な画像は「岡山大学 池田家文庫」で閲覧できます

天守の構造(内部)

天守の構造(内部)

天守の構造(内部)

戦国時代までの合戦は、弓や馬が主流であったことから、通常、この頃の城は、防御のために山の上に築かれています。城主は、普段は麓の居館にいて生活をし、いざ戦さというときのみ、そこに立て籠もって戦うことを想定しています。こうした城郭のことを根小屋式城郭と呼び、ほとんどの場合、江戸時代にはなくなりましたが、備中松山城の場合、それが近世まで続いていあす。

戦がなくなった江戸時代、城の軍事上の設備はほとんど形式的なものとなりましたが、備中松山城の天守は、実践向きとなっています。

装束の間

一階の中にあって、一段高いところにあることから、城主のみに使用が限られていたと伝えられています。

御社壇

天和三年(一六八三)、松山藩主水谷勝宗が天守の修築完成に際して、二階北隅を杉板戸で仕切り、一国一城の守護神として三振りの宝剣を奉納しました。

囲炉裏

暖房用として利用されていたと伝えられています。

≪説明に添えられている図≫

●宝剣(岡山県指定重要文化財)

備中松山城:一階 拡大表示

装束の間

石落とし

囲炉裏

一階

備中松山城:天守平面図 二階 拡大表示

御社壇

天守平面 二階

備中松山城:天守南北断面図 拡大表示

御社壇

装束の間

天守南北断面図

備中松山城:天守南北断面図 拡大表示

囲炉裏

天守南北断面図(東西の誤りか?)

【注意】 ※実際の説明板では項目ごとの背景色と部屋の色を一致させ判り易くしてますが、ここでは文字でも書きこみました。解像度が低い場合位置がずれることがあります。

石落とし

天守の渡り廊下以外にも二重櫓や五の平櫓などにも見え、石垣をよじ登って来る敵兵めがけて石などを落とすように設けられたもんです。

≪説明に添えられている図≫

 

連子窓

太い縦格子により、外から中が見えにくく、かつ中からはそとが広角に見えやすいように工夫されています。

狭間

天守内部から敵を攻撃するために設けられた穴。壁の厚みを利用して外を小さく、中を大きく刳り込み、外から中が見えにくく、中から外が見えやすいようにされています。一般的に正方形のものを「筒狭間(鉄砲様)」、長方形のものは「矢狭間(弓狭間)」と呼ばれている。

≪説明に添えられている図≫

筒狭間(鉄砲様)

矢狭間(弓狭間)

天守の構造(其の弐)

天守の構造(其の弐)

天守の構造(其の弐)

平成の修理でわかったこと

過去の修理による部材の交換

過去に行われた二回の修理は、柱や壁面、床板など広い範囲に及んでいました。創建時のままの部分では、柱にマツ、土台にクリといった厳選された材が使われていますが、改修部分はアベマキ、クマシデ、カシなど臥牛山中の立ち木が使われていました。

天守西側接続面の基礎石垣

沈下が著しかった天守西側の接続廊下を解体したところ、南北に走る、二条の亀裂が検出されました。亀裂を境に、過去に積み直された部分が、全面(岸川)に滑って沈下しており、解体した結果、過去の修理以前に崩れて全面に滑り出した石を根石(石垣の最下石)と見誤って積まれていたことが確認されました。

今回の修理では、沈下した部分以上に掘り下げて、水平の根石を確認し、さらにその下部を補強して従来どおりの積み方に倣って積みなおしました。

≪説明に添えられている図≫

接続廊下土台解体

 

石垣地盤面

発掘調査

本丸西(廊下基礎)石垣立面図

 

本丸西(廊下基礎)

石垣断面図

本丸西(廊下基礎)

石垣平面図

壁の構造

修理時の調査では、天守の南と北側部分に創建時の部材が残されていることがわかりました。その部分をさらに詳細に調査したところ、外部と内壁とが一体となった構造ではなく、壁内部が空洞であったことが確認されました。

≪説明に添えられている図≫

 

写真(1)

創建時の状態が残された

部分の壁構造

国宝 彦根城壁構造

(石が塗り込められている大壁)

通常、城郭建築では、銃弾等による攻撃が想定されることから、かなり厚く造られますが。中には、砂が充填されたものや、人頭大の礫などが塗りこめられていたものもあります。

今回確認された備中松山城天守の壁構造から、実戦を想定していないたてものであることがうかがえます。

≪説明に添えられている図≫

模式図平面

模式図断面面

 

修理・復元

昭和の大修理

昭和の大修理

昭和の大修理

天守の解体修理(昭和十五年)

備中松山城保存の動きは、「高梁保勝会」の結成以来、年を追って活発になり、昭和十一年に文部大臣に史跡名勝天然記念物保存指定申請書を提出するとともに、翌十二年には天守修理に向けて文部省へ技術者の派遣を要請、技師の指導を得て解体修理の準備が進められました。昭和十四年十一月、天守修理のために臥牛山の立木の払い下げを受け、総工費一万八千余円をもって解体修理に着手しました。

≪説明に添えられている図≫

●材料となる木材は概ね臥牛山で調達されましたが、本丸へは全て人の力でで運び込まれ、一つ一つ手作業で修理が行われました。

●解体修理の進捗状況を視察するとともに職人たちを激励に登城する永井恒三郎高梁町長(写真中央)

奉仕作業(瓦の運搬)

昭和十五年七月二十日から八日間、小学校高学年の児童、中学校生徒、女学校の瀬戸などにより約二万枚の瓦が担ぎ上げられました。夏季心身鍛錬行事の一つとして、学校が協力したもので、地域をあげて天守の修理が行われました。

≪説明に添えられている図≫

●瓦の運搬奉仕(昭和15年撮影)

昭和十五年竣工、翌十六年に三ノ平櫓東土塀が修理され、同八月に「松山城(高梁城)」として天守・二重櫓・三ノ平櫓東土塀が国宝にしていされました(現在は、文化財保護法の制定により重要文化財)。

≪説明に添えられている図≫

●解体修理後の天守及び二重櫓

昭和の大修理

昭和の大修理

昭和の大修理

天守の部分 二重櫓・土塀の解体修理

(昭和三十五年)

山上にそびえる備中松山城は、雨や風などといった気象条件が平地の建物と比べて著しく異なります。そのため、昭和四年に修理された二重櫓も三十年余経過して傷みも進み、文部省により、三の平櫓東土塀とともに解体修理が行われ、同時に天守も部分修理が行われました。

二重櫓

「火の見台兼造林人夫収客小屋」として地元で応急修理されていましたが、当時文部省から派遣された技師、西條孝之らによる綿密な調査をもとに修理が行われました。

≪説明に添えられている図≫

解体修理前

修理開始(足場組)

解体

組み上げられた木材や瓦などが大幅に緩み、雨漏りによって部材が腐朽、倒壊の寸前でした。

≪説明に添えられている図≫

●二階内部

●小屋組解体

●二階梁解体

修理(組上げ)

昭和三十三年二月末日に解体を終え、引き続いて基礎工事、同四月から組立てが始まり、翌三十四年五月末日に完了しました。

≪説明に添えられている図≫

●修理安全祈願祭

●小屋組組立

天守

昭和十五年解体修理が行われましたが、東側の入隅部分に雨漏りが生じ、桁・梁の一部が腐朽。渡り廊下部分も地盤の沈下により、傾きが生じていました。

≪説明に添えられている図≫

●渡り廊下(解体状況)

●東側入偶(解体状況)

土塀

備中松山城の土塀は、土塀として現存する全国唯一のものです。全長九.三九三メートルが残っており、解体の過程で度々修復されていることがぁ九人されました。

≪説明に添えられている図≫

●土塀の解体状況

土塀立面図

●解体修理前の土塀

平成の大修理

接続廊下

平成の大修理 (平成十三年から十五年)

三度目の大規模修理

備中松山城の天守は、全国で十二城残る現存する天守のひとつです。昭和十四年~十五年に全解体修理、そして昭和三十二年~三十五年にかけて部分修正が行われ現在に至っています。

解体修理から六0年、部分修理から40年を経過して、蟻害による床下部材の損傷(写真①)や壁面漆喰の剥落(写真②)など、年々傷みがひどくなってきました。得に、天守西側の石垣は、孕みだし(写真③)により渡り廊下部分が沈下(写真④)し、天守本体にぶら下がった状態となり、建物全体に歪が生じてきました。

≪説明に添えられている図≫

蟻害の様子(写真①)

漆喰の剥落状況(写真②)

渡り廊下石垣の孕み出し状況

(写真③)

渡り廊下内部の沈下の様子

(写真④)

ジャッキアップして傷んだ柱の根本を切り、

新しいものに差しかえた

接木

埋木

今回の修理で接木を施した柱

発掘調査状況

石垣解体の様子

修理されたところ

石垣が孕み、建物自体が沈下していた渡り廊下は、天守本体にも影響を及ぼしていたので、建物を一旦解体、さらにその下の石垣部分も解体し、再度、旧来に倣って積上げ、建物も組み直しました。

一方、天守本体も部分的に解体して軽くし、やや傾いていた建物の建て起こしを行いました。柱の根本も部分的に蟻害があったため、根継ぎを行っています。また、外壁も部分的に剥がれ落ちていたため、今回、全面に渡って漆喰の塗り直しを行いました。

≪説明に添えられている図≫

漆喰塗り直し作業

足場組み状況

材料運搬の主力となった

素道による荷揚げの様子

 

平成の復元

平成の復元

平成の復元

復元されるまでの道のり

近年、国民の古代への関心と本物への興味はますます高まり、今まで曖昧だった城郭復元にも本物を志向した動きが求められています。復元作業は、気に遠くなるような調査と膨大な資料を収集するこtで成り立っています。

一、文献調査

「正保城絵図」などの絵図や普請の際の資料、移封や転封に伴い幕府に提出した絵図、災害などのよる修理許可を幕府に求めた際の提出資料、その他、城に関する文献調査などのよって外観や構造を把握します。

≪説明に添えられている図≫

●正保絵図

(国立公文書館 内閣文庫蔵)

●本丸南御門(明治晩年撮影)

●六の平櫓(昭和3年頃撮影)

《参考》

⚫正保絵図(国立公文書館 内閣文庫蔵)の綺麗な画像は国立公文書館 デジタルアーカイブで閲覧できます

二、発掘調査

建物を復元する場所を事前に発掘し、地下に残る痕跡を調べます。礎石や土台を載せる石列などはもちろんのこと、発掘調査により出土する瓦や釘、漆喰や壁土などの種類や材質を調べます。あわせて、それらの遺物の出土状況や出土位置、出土層位などから建築年代や修理状況、建て替え状況などを把握します。また、復元建物の土台となる石垣は、現状での歪みや強度を記録します。

≪説明に添えられている図≫

●発掘調査状況(五・六の平櫓・本丸南御門)

平面規模は、古絵図や古文書などの史料調査に加え、発掘調査の成果により決定している。

三、復元設計

発掘と文献調査による建物が、一致した場合、復元設計へと移ります。まず、復元の年代設定をし、いつの時代の姿をふくげんするかを決定します。

次に、現在残っている天守や櫓の共通していることや柱の配置などの比較を行ったり、同じ時期の他の城郭の設計図などとの比較検討も実施し、設計のあらましを決定します。建物の構造や規模の決定、あわせて現代工法をどこまで擦りあわせるかを決め、実施していきます。また、木材の調達や瓦、鯱(ちゃち)、釘、金物類の企画もこの時に決定します。

≪説明に添えられている図≫

●復元設計図(立面図)

各種資料や現存建物のほかに、古写真や光学解析により高さや柱の太さなどが決められている。

四、土台造り

発掘と文献調査による建物が、一致した場合、復元設計へと移ります。まず、復元の年代設定をし、いつの時代の姿をふくげんするかを決定します。

次に、現在残っている天守や櫓の共通していることや柱の配置などの比較を行ったり、同じ時期の他の城郭の設計図などとの比較検討も実施し、設計のあらましを決定します。建物の構造や規模の決定、あわせて現代工法をどこまで擦りあわせるかを決め、実施していきます。また、木材の調達や瓦、鯱(ちゃち)、釘、金物類の企画もこの時に決定します。

≪説明に添えられている図≫

●本丸南石垣解体状況

建物の基礎素される石垣は膨らみや歪を補正するため測量後解体。測量図を基に再び積み直されている。

五、木材の加工組立

調査によって決定された木材の材質、仕上げ方法などから原寸図を作成し、加工組立に入ります。

≪説明に添えられている図≫

●屋根組み状況(六の平櫓)

屋根は木組み後、板張り(野地板張り)され、全面にサワラ薄板が葺かれ(柿葺き)瓦座が取り付けられる。

●木部軸組み状況(六の平櫓)

側柱の外面に刻まれた段を基に秋伐の丸竹が組まれ。小舞が掻かれる。

六、瓦葺き

発掘で出土した瓦を分類して、復元する年代の瓦を決定します。軒丸瓦、軒平瓦、飾り瓦などの文様を決定し、現代工法で当時の瓦の文様や寸法にあわせて用意します。

≪説明に添えられている図≫

●瓦葺き状況(六の平櫓)

瓦は発掘調査で出土したものから型を取り新しく焼き上げた。葺足も出土瓦や現存建造物を参考に施工。

●瓦座組み状況(五の平櫓)

平瓦は瓦座の土に平葺きされその後に丸瓦は移動を防ぐ程度に葺土を筋置きして葺かれる。

七、左官(壁・塀)

漆喰、軒裏、壁、土間などの仕上げを行います。調査で漆喰などが出土していれば、分析結果から、よr当時のものに近づけることが出来ます。耐久性や亀裂防止などの現代工法の取り入れは、必要にあわせて決定します。

≪説明に添えられている図≫

●軒裏漆喰塗込め状況(本丸南御門)

門や櫓の破風板・軒裏などは、。漆喰ののりをよくするため藁縄などが巻かれ、金ごてでむらなく塗り上げる。

絵が中心の案内・説明書

;備中松山城にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。

中国自然歩道高梁地区案内図

 

 

天守などに展示されていた資料

;備中松山城の天守などに展示されていた資料の紹介です。

御根小屋

山田方谷、方谷の藩政改革

板倉勝静と山田方谷

小堀遠州
水谷三代
大石内蔵助

備中松山城の

歴史1

備中松山城の

歴史2

備中松山城の

歴史3

備中の覇者

水谷家親・元親

備中松山城と赤穂

宝剣

 

備中松山城 重要文化財

備中松山城は重要文化財に指定されています

備中松山城は旧国宝 の「天守」、「二重櫓」、「三の平櫓東土塀」の3棟が「備中松山城」として引き続き>重要文化財 に指定されています。城跡は国の史跡に指定されています。下表は文化庁の「国指定文化財等データベース」 や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
備中松山城
 
天守
二重二階櫓、本瓦葺
 
二重櫓
二重二階櫓、本瓦葺
 
三の平櫓東土塀
延長9.4m、銃眼五所、本瓦葺

重要文化財の画像 を

備中松山城 面白文書、拾い上げ

書籍など、備中松山城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

松山城天守内部は、一階に囲炉裏の間、装束の間があり、二階に舞良戸で仕切られた城主の居所と一段高く御社壇があった。御社壇には八幡大菩薩、毘沙門天、摩利支天など武人の神が祀られていたのである。

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

山城である備中松山城では高層の天守は必要ない。二重二階の天守は現存十二天守中、最小の規模である。その二階は桁行北面の幅一間を舞良戸(まいらど)で間仕切り、別室が設けられている。別室の中はさらに唐戸で区切られた一段高い御社壇が設けられ、天和三年(1683)の天守修築に際し一国一城の守護神として、三振の宝剣が安置されたと伝えられている。このように天守に祭壇を設ける構造はきわめて異例であるが、天守が単なる軍事的な施設ではなく、城を守護する宗教的施設としても認識されていたことを示唆している。

歴史読本 2009年 05月号 より [ 2012/11/25 追加 ]

登城の道のり

最初の登城日:1979年頃

最新の登城日:平成25年3月22日

  • ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
  • 右のパーキングが城見橋公園駐車場 左が ふいご峠駐車場
  • ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

備中松山城まで 簡単に説明

  • 備中高梁駅からふいご峠駐車場まで備中松山城観光乗合タクシー(前日17:00までに要予約)で移動。
  • ふいご峠駐車場からは歩き、お城に向かう前に大石内蔵助の腰掛け石に行ってみては? ここから歩5分程度
  • 備中高梁観光案内所Q&A によると「松山城へ行くにはタクシー又は徒歩で「城見橋公園駐車場」まで行き、そこからシャトルバスで「ふいご峠」へ、さらに徒歩で20分ほど歩く必要があります、一合目から自然歩道を使って登山することもできましがその場合体調や年齢にもよりますが1~2時間かかります。」とのことです。
  • 直接タクシーで「ふいご峠」へも行けるようです。
  • 詳しくは、高梁市観光ガイド
  • 天守内部や周辺もでGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:天守内部

  • 上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。Googleさん 天守まで伸ばしてください!!
  • ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞