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国の史

松代城

松代城のご案内

松代城 ひとくちメモ

所在地
長野県 長野市
別 名
海津城 貝津城
築城者
武田 信玄
別名の由来
 
天守概要
?
城郭構造
輪郭式平城
遺 構
石垣 []、 土塁 []、 堀 [] など
再建造物
太鼓門 []、 北不明門 [] 堀、石垣、土塁 など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

松代城 簡易年表

城内にあった 案内説明板 を参考に整理・まとめをしました。

1560年頃
普請が完了。
1600年
「待城」に改める。
1600年頃
森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおす。
1600年
「松城」に改める。
1622年
真田信之が上田より移封される。
1711年
「松代城」に改める。
1717年
享保の火災、城全焼。
1770年
花の丸に御殿を移す。
1872年
廃城。

参考になるサイト:

松代城 写真の間

抑えたい処、美しい処

☒ 二の丸南門 ⇒ 本丸 の順に

☒ 本丸の周囲から

二の丸南門 ⇒ 本丸

松代城:二の丸南門より太鼓門

(1)
二の丸南門より太鼓門
二の丸 南門

松代城:太鼓門、太鼓門前橋

(2)
太鼓門、太鼓門前橋
太鼓門太鼓門前橋

松代城:本丸より北不明門

(3)
本丸より北不明門

松代城:戌亥隅櫓台より北不明門

(4)
戌亥隅櫓台より北不明門

松代城:北不明門

(5)
北不明門

本丸の周囲から

松代城:北不明門全景

(6)
北不明門全景
北不明門

松代城:戌亥隅櫓台

(7)
戌亥隅櫓台
石垣

松代城:戌亥隅櫓台、後方に北不明門

(8)
戌亥隅櫓台、後方に北不明門

松代城:埋門

(9)
埋門
土塁

松代城:太鼓門と前橋

(10)
太鼓門と前橋

松代城:太鼓門と前橋

(11)
太鼓門と前橋

松代城:東不明門と東不明門前橋

(12)
東不明門と東不明門前橋
東不明門と東不明門前橋

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の松本城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

松代城:2013年3月15日 撮影

2013年3月15日 撮影

松代城 よろず間

>松代城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった 案内板 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

松代城 縄張図とカメラアングル

二の丸

本丸

太鼓門

二の丸南門

石場門

北不明門

東不明門

戌亥隅櫓台

太鼓門前橋

東不明門前橋

新堀

内堀

外堀跡

外堀跡

方向指示

松代城で出会った説明板

松代城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

史跡 松代城跡 附新御殿跡

史跡 松代城跡 附新御殿跡

史跡 松代城跡 附新御殿跡

松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島の合戦の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。

松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最北部に本丸、南側の城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を備えていました。

明治5(1872)年の廃城以降、建物は無くなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。

≪説明に添えられている図≫

松代城跡 附新御殿跡

二の丸 南門

二の丸 南門

二の丸 南門

《二の丸 南門》

二の丸南門は二の丸大手(正面)にあたる門です。調査成果から、門が土塁の土溜をしていたと考えられたため、整備では石垣と門の一部を表示しています。

松代城(海津城)跡 [国史跡]

松代城(海津城)跡 [国史跡]

松代城(海津城)跡 [国史跡]

松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄3年(1560)ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。

戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などのよって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。

元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。

その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。

太鼓門 前橋

太鼓門 前橋

太鼓門 前橋

《太鼓門 前橋》

太鼓門表門(橋詰門)の前には橋が掛かっていました。内堀の調査では、堀のなかから30本以上の折れた橋脚を発見しました。橋脚の形状や打ち込まれた層位の違いから、橋の架け直しが4回以上行われたことが分かりました。このことから、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載を裏付けました。発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しました。

≪説明に添えられている図≫

信州海津城絵図面 寛永7年(1854)

調査の状況

太鼓門

太鼓門

太鼓門

《太鼓門》

太鼓門は本丸内では一番大きな門でした。本丸大手(正面)の出入口(虎口)は、枡形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と枡形門(橋詰門)の2つの門で構成しています。このような形を枡形といい、本丸を厳重に守っていました。良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから、栩葺(板葺)で切妻屋根の姿を忠実に復元しました。太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことに由来したようです。

≪説明に添えられている図≫

御本丸大御門/関川文庫 年代不明

整備前の太鼓門の様子と太鼓門礎石

本丸御殿跡

本丸御殿跡

本丸御殿跡

本丸内には、江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっています。

しかし度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に位置した花の丸に御殿を移しました。

≪説明に添えられている図≫

御本丸御絵図/浦野家文書

宝暦10年(1761)

検出された井戸跡と出土遺物

石垣

石垣

石垣

《石垣》

松代城は、本丸の周囲や出入口などの重要な部分に石垣を用いました。大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた、たいへん特徴的なものです。とくに本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っています。

石垣の修理工事では、可能な限りその特徴を活かし、明治以降の改変や消失したもの、構造的に不安定になっている箇所について、当時と同じ工法で積み直しました。

≪説明に添えられている図≫

信濃国川中嶋松代城石垣築直堀浚窺絵図
寛保2(1742)年

石垣の状況

北不明門

北不明門

北不明門

《北不明門》

本丸の裏口(搦手)に位置する門です。太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成でした。

18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、『水之手御門』と呼ばれることもありました 。

絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。

≪説明に添えられている図≫

御本丸水ノ手御門/関川文庫
年代不明

信濃国川中嶋松代城石垣築直堀浚窺絵図
寛保2(1742)年

北不明門部分断面模式図 と
発見された古い時期の石垣

土塁

土塁

土塁

《土塁》

主要部分である本丸以外の曲輪は、基本的に堀と土塁によって囲まれていました。しかし、史跡指定を受けた頃には、北西側土塁の一部を残すのみで、そのほとんどは削平されていました

江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、川と城の間には百間堀・新堀が造られ、それらの堀際には「不崩の土手」と呼ばれる土塁が築かれました。また幕末の絵図には土塁の中にトンネル状の「埋門(うめのん・うずみもん)」が描かれています。

≪説明に添えられている図≫

信濃国川中嶋松代城石垣築直堀浚窺絵図
寛保2(1742)年

海津城内図 年代不明

よみがえる松代城

よみがえる松代城

よみがえる松代城

江戸時代の建物や生活の様子は、地下に埋まっている痕跡から想定することができます。松代城跡においても建物柱の基礎となる礎石や、火災・水害の痕跡が確認されました。また、江戸時代び描かれた絵図や文献などの史料では、城全体の様子を記した縄張図や建物の構造を記した姿図、日記なども確認されており、発掘調査結果と絵図・史料との整合性を確かめた上で復元の根拠としています。

歴史を体感していただくために、松代城では江戸時代の城の様子を再現しました。本丸を囲む石垣、堀にかかる橋、そびえたつ門、高く巡る土塁・・・。厳重に守られた城郭空間で往時の人々の生活をイメージしてみてください。

≪説明に添えられている図≫

石垣 太鼓門 北不明門 橋 土塁

東不明門と東不明門前橋

東不明門と東不明門前橋

東不明門と東不明門前橋

《東不明門と東不明門前橋》

本丸東側には、「東不明門」と呼ばれる櫓門がありました。当時の門礎石は保護のために地表下30cmに埋設し、レプリカの門礎石で門のあった位置を示しています。通常この門は閉じられており、太鼓門前橋などが崩落し利用出来なくなった時などに通用門として門が開かれたようです。

また、内堀からは折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかりました。

※この橋は管理用として整備したもので、復元ではありません。

≪説明に添えられている図≫

御本丸東御門/関川文庫 年代不明

発見された東不明門前橋の橋脚、
東不明門の礎石

登城の道のり

登城日:平成25年3月25日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

松代城 まで 簡単に説明

  • 長野電鉄屋代線が2012(平成24)年に廃線となり現在の公共交通機関はバスのみです。
  • 長野、及び屋代より松代行きが出ていますが、私は屋代より向かいました。
  •  (屋代からの便は少ないので時間には注意が必要です。)
  • 屋代より約30分で松代に到着、鉄道の駅舎もまだ残っていました。
  • バスを降りると西の方に城跡が見えます。残った線路に沿って歩き駐車場がありましたが通れました。
  • 駐車場を抜けると南の入り口が目の前に。
     (本来の道は青の部分、居た人に聞くと通れるとのことでここ[赤の部分]を行きました)
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ご参考

バスの時刻は次で調べられます。時刻表にも直リンクを張りますが切れている場合は会社から捜して下さい。

屋代~松代 長電バス(株)時刻表

長野~松代 アルピコ交通株式会社時刻表

ストリートビュー:太鼓門、太鼓門前橋

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞