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石垣、曲輪などが残る

赤穂城

赤穂城のご案内

赤穂城 ひとくちメモ

所在地
兵庫県 赤穂市
別 名
加里屋城 刈屋城 大鷹城
築城者
浅野 長直
別名の由来
-
天守概要
天守台はあるが天守は上げられず
城郭構造
変形輪郭式 (本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式) 平城
遺 構
石垣 []、 堀 [] など
再建造物
[]、 櫓門 [] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

赤穂城 簡易年表

国史跡赤穂城跡 公式Webサイト 赤穂城にまつわる歴史 より抜粋、詳細はそちらで

1466~83年
岡豊前守光広が加里屋古城を構築する。
1586年
生駒親正が赤穂に入部する。これ以前は宇喜多直家の所領か。赤穂藩が始めて成立する。
1645年
浅野内匠頭長直が常陸国笠間より赤穂に入封する。
1649年
赤穂城築城始まる。本丸東北櫓台の石垣築石開始。
1661年
赤穂城完成する。
1701年
三代藩主長矩が、江戸城において刃傷事件を起こす。翌日切腹、赤穂浅野藩断絶。
1702年
永井伊賀守直敬が下野国烏山より赤穂に入封する。
1706年
森和泉守長直が備中国西江原より赤穂に入封する。明治廃藩まで12代続く。
1996年
本丸門復元完成。

参考になるサイト:

赤穂城 写真の間

抑えたい処、美しい処

☒ 大手門周辺

☒ 本丸周辺

大手門周辺

赤穂城:大手門

(1)
大手門

赤穂城:大手隅櫓

(2)
大手隅櫓

赤穂城:三之丸 北西桝形

(3)
三之丸 北西桝形
北西桝形 外堀跡モニュメン

本丸周辺

赤穂城:大石頼母助屋敷 薬医門

(4)
大石頼母助屋敷 薬医門
大石頼母助屋敷跡

赤穂城:本丸門(二の門から一の門)

(6)
本丸門(二の門から一の門)

赤穂城:本丸門(鉄砲狭間から一の門)

(7)
本丸門(鉄砲狭間から一の門)

赤穂城:刎橋門

(8)
刎橋門

赤穂城:天守台

(9)
天守台

赤穂城:厩口門

(10)
厩口門
厩口門(台所門)

赤穂城:厩口門を出て南方面、本丸の東側石垣

(11)
厩口門を出て南方面
本丸の東側石垣

赤穂城:刎橋門(二之丸より)

(12)
刎橋門(二之丸より)

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の赤穂城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

赤穂城:伝統工法に本丸門が蘇った赤穂城、2015年10月13日 撮影

伝統工法に本丸門が蘇った赤穂城
2015年10月13日 撮影

赤穂城 よろず間

赤穂城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は赤穂城にあった案内図 を使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

赤穂城 縄張図とカメラアングル

三之丸

本丸

二之丸

本丸門

厩口門

刎橋門

二之丸門

西中門

仕切門

水手門

清水門

大手門

塩屋門

干潟門

御殿跡

米蔵

大石邸長屋門

近藤源八宅跡長屋門

大石頼母助屋敷跡

大手隅櫓

遊水池

本丸庭園

二之丸庭園

花見広場

天守台

方向指示

赤穂城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた赤穂城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 甲州流軍学による築城をよく示す曲線に延びる石垣 。

    通用、二辺が交わる所は角になりますが、赤穂城では、随所に角を取った曲線を描く石垣が見られます。 詳しくは 赤穂城跡のみどころ で。

  • 輪取り の石垣??

    上述の「曲線に延びる石垣」を捜し、じっくり石垣を見つめていて発見。少し内側に歪曲した石垣。「輪取り」の石垣と思います。

    他の場所でも数ヶ所見つけました。

赤穂城で出会った説明板

赤穂城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

赤穂城

赤穂城

赤穂城

赤穂城は、正保二年(一六四五年)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から 入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に十三年に亘る歳月を費し、 寛文元年(一六六一)に完成したものである。

城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい 変形輪郭式の海岸平城である。城郭の規模は、十の隅櫓、十にの諸門があり、 石塁の延長は約二、八四五メートル、面積は一四万六九二二平方メートルに及んでいる。 塁石、防壁、諸門、本丸御殿がととのえられ、居城としての偉容が示されたが、 天守台のみ築かれて、天守閣は構築されなかった。

築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は 永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され 屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園がよみがえっている。

赤穂義士の自刃二五〇年祭りを記念に、昭和三十年春、大手門、大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、同四十六年三月赤穂城跡は国の史跡に指定された。以後、本丸の整備等が進められている。

≪説明に添えられている図≫

 

赤穂城三之丸北西桝形 外堀跡モニュメント

赤穂城三之丸北西桝形
外堀跡モニュメント

国史跡赤穂城跡

《赤穂城三之丸北西桝形》

赤穂城三之丸北西桝形
外堀跡モニュメント

赤穂城三之丸北西桝形(櫓なし)の外堀付近は、明治初期より田・畑・宅地になっていましたが、 発掘調査によって堀護岸が確認され、堀幅を確定することができました。

は約16.2m、護岸は高さ約1.2mの野面積みで、一部打ち込みハギも施されていた。 護岸付近には、武家屋敷があったので元和2(1616)年に完成したと言われる上水道の 汲出桝や給水管も発見されています。

この案内板では、発掘調査によって確認されてた堀護岸を模式図で表し、現在地表にもモニュメントとして表現しています。

≪説明に添えられている図≫

史跡 赤穂城跡三之丸北西桝形付近図

平成元年(1989)発掘当時の写真(北から)

塩屋門(赤穂城裏門)跡

塩屋門(赤穂城裏門)跡

塩屋門(赤穂城裏門)跡

塩屋門は赤穂城搦手の門である。口幅二間二歩、高さ二間半、建坪五坪で、門を入ると正面に番所、その裏には長さ十三間二尺、高さ二間半、幅二間半の石垣で取り囲まれた内枡形をなしていた。この桝形内に太鼓櫓があって、この門内外の侍屋敷に合図を行った。門の向きは南よりの西向きで、足軽二人、下番二人、三道具(突棒・刺股・袖搦)一組が配置されていた。

元禄十四年(一七〇一)三月十九日、浅野内匠頭長矩公の刃傷・切腹を報らす第一((早水藤左衛門・萱野三平)、 第二(原惣右衛門・大石瀬左衛門)の早使の入ったのもこの門であり、四月十九日城請取りの備中足守藩主木下肥後守の軍勢が入城したのもこの門である。

赤穂義士会

塩屋門

塩屋門

塩屋門

赤穂城は、浅野長直が慶安元年(1648)から13年かけて寛文元年(1661)に完成させた海岸平城である。ここ塩屋門は赤穂城搦手の門として配され、高麗門1門からなる。その規模は間口約4m、 建築面積約16.5mであったという。門を入ると内部は内桝形をなし、 門正面には高さ47.5mの桝形石垣、左手は雁木となり、城内へは右手方向へ 進路をとる。桝形内には番所と太鼓櫓があり、この櫓から塩屋門の周辺に屋敷を構える藩士へ合図を発した。

左の写真は、明治10年代頃に写された塩屋門である。中央やや左に高麗門の門構えが、左端には太鼓櫓が見える。右奥の建物は二重の隅櫓で、1層目に唐破風付きの 出窓を備えている。その規模は基底部で東西約6.9m・南北約8.8mと 伝えられている。

平成11年10月  赤穂市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

明治10年頃の塩屋門(原画 花岳寺所蔵)

二の丸門跡

二の丸門跡

二の丸門跡

赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。

ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年(1653)に変更したと言われる。

文久2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち『高野の復讐<和歌山県高野町>』の発端となった。

また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、明治25年(1892)千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として使用され取り除かれた。

平成10年3月  赤穂市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

壊し以前の二の丸(明治10年頃の撮影)

〈原画 花岳寺所蔵〉

二之丸門跡

二之丸門跡

二之丸門跡

ここは赤穂城二之丸門のあった場所である。

浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者山鹿素行が、築城工事中の承応二年(一六五三)、この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知られている。

赤穂城二之丸の面積は一万七二五九坪であった。二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。

また、文久二年(一八六二)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(一八七一)二月に和歌山県高野山で起こった「高野の仇討ち」の導火線ともなった。

ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。

赤穂義士会

山鹿素行先生銅像

山鹿素行先生銅像

山鹿素行先生銅像

兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(一六二二~一六八五)は、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。

その後、寛文五年(一六六五)に「聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年(一六七五)まで赤穂に配流され、二の丸内の家老大石頼母助邸の一隅に謫居した。

配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全」「中朝事実」「武家事紀」「謫居童問」など、素行の学問を代表する大著を完成している。

大正一四年(一九二五)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

大石頼母助屋敷門

大石頼母助屋敷門

大石頼母助屋敷門

《大石頼母助屋敷跡》

 構造形式 薬医門 (一間一戸潜門付)

      木造 切妻造 本瓦葺

 主要寸法 桁行三・一八m 梁間一・九一m

      軒高二・八八m 棟高四・五五m

大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。藩主浅野長直に重用され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごしたという。平成十~十三年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成二十一年三月に整備された。

赤穂市・;赤穂市教育委員会

国史跡 赤穂城跡本丸門(復元)

国史跡 赤穂城跡本丸門(復元)

国史跡 赤穂城跡本丸門(復元)

《本丸門(復元)》

本丸門は築城時(7世紀中頃)の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間存続していました。

現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採用され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。

この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。

枡形石垣 虎口左前(門桝式)形式 使用石量1.873t

     面積 334.32m 高さ 4.60m

一の門  木造脇戸付櫓門 入母屋造 本瓦葺

     上階・下階構造 棟高 10.98m

     使用材(欅・桧・杉・松) 材積 75.03m 瓦数 9,820枚

      上階 桁行 13.36m 梁間 4.77m 軒高 7.70m

      下階 桁行 8.83m 梁間 4.14m 軒高 4.78m

二の門  木造小戸付高麗門 切妻造 本瓦葺

     桁行 3.89m 梁間 2.49m 軒高 4.62m 棟高 6.13m

     使用材(欅・桧・杉) 材積 10.97 瓦数 2,270枚

土 塀  桁行 1.80m 梁間 2.41m 長さ 92.67m

中 道  幅 9.73m 長さ 18.82m

    平成8年11月   赤穂市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

取壊し以前の本丸門(明治10年頃の撮影)

〈原画 花岳寺所蔵〉

赤穂御城御殿絵図

赤穂御城御殿絵図

赤穂御城御殿絵図

《本丸跡》

(説明文)

本丸の面積は約15,114mあり、その2/3は領主屋敷、番所、倉庫等の建物と天主台、池泉などに占められ、残る1/3はくつろぎ(池泉を発掘調査)と呼ばれる空地になっていた。

当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする表御殿、中奥、小部屋を主とする奥御殿に区分されていた。表御殿は大書院と小書院を組み合わせた形式で、広間は使者の間と組合わさって控室となり、そのほか勘定所や上台所が加わり、藩庁として使われていた。中奥は、藩主の居間と寝室からなり、台所が付属していた。奥御殿は藩主の寝間と5室の部屋(局)と台所が設けられ、うち2室は風呂と台所を備えていた。

復元された御殿は、浅野家断絶後入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図(東京大学史料編纂所蔵)をもとに、赤穂城本丸内水筋図(赤穂高等学校蔵)、赤穂城引渡一件文書の播磨国赤穂城内本丸建屋改帳(花岳寺蔵)、発掘調査の成果などを考察して、建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間、座敷間、土間、敷居、廊下、柱、縁などを表現した。また坪庭跡には木陰をつくるため、中高木を植栽した。

平成8年11月   赤穂市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

これは、浅野家断絶後赤穂藩主になった永井家の所蔵文書の絵図で、美濃紙全体に基準格子を箆書きし、墨で輪郭線を入れている。御殿の部屋を柱位置を入れた色違いの紙に描き、切り貼りした図面である。

永井家史料(東京大学史料編纂所 所蔵)

赤穂御本丸御殿見取り図

本丸庭園施設案内図

本丸庭園施設案内図

本丸庭園施設案内図

《本丸庭園》

赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。

本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。

≪説明に添えられている図≫

赤穂城本丸大池泉

赤穂城本丸大池泉

赤穂城本丸大池泉

《本丸大池泉》

●大池泉は、昭和59年度の発掘調査によって全容が明らかになり、浅野・森時代当時に復元しています。

大池泉は、表御殿南面に広がり、東西38m、南北26m、外周150mの広さで、二つの岬、三つの入江、中央に中島をもちます。

池の護岸汀線は曲線であり、北護岸は直線の石組みで築かれています。

池底は、瓦や石を幾何学的に整った形で敷き詰め、周囲には立石が据え付けられ、大名庭園の体裁を整えています。

≪説明に添えられている図≫

米蔵

米蔵

米蔵

《米蔵》

米蔵は、米など穀物の集積所または備蓄倉庫として、城内に建てられた。 古絵図や古文書などによると、かつてこの場所に二棟ないしは三棟の米蔵が 建っていたと記されている。 赤穂浅野家断絶時の赤穂城請取の記録によると、二の丸米蔵には千二百四石四斗 (四斗俵で三千三十六俵)の残米があったと記されており、いかに大きな建物であったか がわかる。 現在の姿は、発掘調査で出土した一棟を盛土によって保護した上、外観を復元的に 休憩所として整備したものである。内部の側面には、米俵の荷ずれ防止の為、 「荷ずり木」をはめ込むなど、往時の蔵内部が理解できるつくりとなっている。 (案内板より)

≪説明に添えられている図≫

赤穂城内士屋鋪間数之図

水手門

水手門

水手門

《水手門》

瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や 水運を利用した平城の海賊が多数見られる。 かつて赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、 南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていた。 水手門には、物資を運んできた船を泊まる為の「船着場の雁木」や船を波から守る 「突堤(波止場)」など、海賊のと苦情を伝える貴重な施設が、発掘調査などに 基づき復元されている。ここから搬入された米などの物資は、二の丸内の蔵に 蓄えられ、藩の財政を支えたのである。(案内板より・発掘写真も)

≪説明に添えられている図≫

播州赤穂家中近辺町在之絵図

西仕切門

西仕切門

西仕切門

《西仕切門》

赤穂城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表的な大山城である。築城は永い年月を経て応仁二年(1468)に完成しさらに弘治年間鉄砲に備えて大々的に石塁が改修されている。永禄十一年九月織田は当城に入城したが城は元のまヽ残し、佐々木氏に守らせたが天正十年安土城とともに滅亡した。昭和44・45年近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し発掘調し当時の遺物や遺構が発見された。なを全山いたるところに昔を偲ぶ遺構が数多く残っている。

厩口門(台所門)

厩口門(台所門)

厩口門(台所門)

《厩口門(台所門)》

 構造形式 高麗門 木造 切妻造 本瓦葺

 主要寸法 桁行 三・八五m 梁間 二・七三m

      軒高四・六六m 棟高六・一三m

浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。廃城後に失われ、後には県立赤穂高等学校の通用門として周辺石垣も改変されていた。

平成八年(一九九六)に実施した発掘調査によって、門の礎石・地覆石などが良好な状態で見つかり、高麗門形式の門であったことが判明した。また、絵図史料などから、本丸門の高麗門と同規模であったことが分かっており、発掘調査ともよく合致している。これらの資料をもとに、平成八~一三年(一九九六~二〇〇一)に門、橋、土塀及び周辺石垣が復元整備された。また、門に向かって左の石垣は曲面を描き、さらに横矢枡形を設けるなど、その縄張は大きな見所となっている。

赤穂市・;赤穂市教育委員会

赤穂城・清水門跡

赤穂城・清水門跡

赤穂城・清水門跡

《清水門跡》

この門は幅二間二歩、奥行七尺七寸、建坪四坪のもので、「赤穂城引渡一件」文書では、川口門ともいわれた。

門を出ると板橋があり、附近には蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場があった。

門の内側には、敵兵の直進を防ぐために蔀が備えられ、また、門の南の石塁と二之丸東北櫓との間の二之丸堀には、六間一尺五寸の柵も設けられていた。

なおこの門は、開城後の大石内蔵助が元禄十四年(一七〇一年)四月十九日に、幕府へ城明渡しの後、名残を惜しみつつ退城したことで有名な門である。

赤穂義士会

大石邸長屋門

大石邸長屋門

大石邸長屋門

《大石邸長屋門》

この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・八メートル、奥行約四・八メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。

安政三年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。

更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三、一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。

赤穂義士会

≪説明に添えられている図≫

安政年間当時の長屋門平面

近藤源八宅跡長屋門

近藤源八宅跡長屋門

赤穂市指定有形文化財 建造物 指定番号三一

《近藤源八宅跡長屋門》

近藤源八宅跡長屋門

 所 在 地 赤穂市上仮屋一二四番地

 所 有 者 赤穂市

 管 理 者 赤穂市

 指定年月日 平成一〇年四月二七日

近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあった。源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎左衛門正純も、甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。

近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。この長屋門は、一八世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当時は総長二一間半(約四二・三m)の長大な長屋門であった。

城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成一一年三月に解体復原整備が完了した。入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせている。また、簀子野地天井は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道の汲み出し枡とともに人気が高い。

赤穂市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

近藤源八宅跡長屋門復元平面図

大野九郎兵衛宅跡

大野九郎兵衛宅跡

大野九郎兵衛宅跡

大野九郎兵衛知房は、赤穂浅野家家老の一人で禄高は六百五十石であった。 経済手腕を認められて召し抱えられたといわれている。

元禄十四年(一七〇一)三月、浅野長矩の殿中刃傷事件の後、筆頭家老大石内蔵助や足軽頭原惣右衛門らと意見を異にし、赤穂城開城前の四月一二日に夜陰にまぎれて赤穂から出奔した。

大石内蔵助らが討入りに失敗した場合の第二陣として備えていたという伝承もあり、その墓碑と称するものが全国に数ヶ所ある。しかし実際には京都付近で世を去り、黒谷に葬られたという。

ちなみに、仮名手本忠臣蔵では九郎兵衛を斧九太夫に、忰、郡右衛門を定九郎に擬している。

赤穂義士会

神尾専右衛門屋敷跡

神尾専右衛門屋敷跡

神尾専右衛門屋敷跡

素性は不明で、元禄十五年(一七〇二)十一月四日に赤穂城の在番であった龍野藩主脇坂淡路守安照(受城使)が永井伊賀守直敬(浅野家断絶後の藩主)に渡した 「赤穂城内侍屋敷間数図」しかわからず詳細は不詳である。

なお、神尾専右衛門は、元禄十三年二月二十七日付けの浅野家分限帳に神尾弥左(右)衛門(高瀬運上奉行、十分横目、七両三人)が見受けられるが、城内屋敷地は重臣宅が多く、同一人物かどうか疑問が残る。

屋敷は塩屋門を入り右手側にあり、表口十四間程(約二十五.四m)、奥行二十四間程(約四十三.六m)の広さで、他に菅仙右衛門(二百五十石、札座奉行、奥野将監組)や磯貝十郎左衛門正久(百五十石、用人)屋敷と記された絵図もある。

赤穂市教育委員会

田中貞四郎屋敷跡

田中貞四郎屋敷跡

田中貞四郎屋敷跡

  手廻頭 百五十石

  玉虫七郎右衛門組 小納戸役

浅野内匠頭長矩の側近、主君内匠頭の 遺骸を引き取って、田村邸から高輪泉岳寺まで見送った六人の藩士の一人。 藩主内匠頭の用人である片岡源五右衛門高房らとともに髻を切り落として、主君への殉死の意を示すと共に吉良上野介義央への復讐を誓った家臣である。初め討入りの企てに加盟していたが、直前の元禄十五年(一七〇二)十一月七日になって脱落した。江戸における代え名は、田中玄四。

屋敷は塩屋門を入り左手の間瀬久太夫宅東隣にあり、表口十四間程(約二十五.四m)、奥行十七間半程(約三十一.八m)の広さであった。

赤穂市教育委員会

鈴田(木)重八屋敷跡

鈴田(木)重八屋敷跡

鈴田(木)重八屋敷跡

  片岡源五右衛門組 三十石

初め討入りの企てに加盟し、元禄十五年(一七〇二)十月晦日に江戸下向したが、十一月二日には脱落した。江戸における替え名は玉野平八。

屋敷は、東隣に片岡源五右衛門宅、西隣に田中貞四郎宅に挟まれ 表口十六間程(約二十.一m)、奥行十八間程(約3三十二.七m)の広さであった。

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寺井玄渓屋敷跡

寺井玄渓屋敷跡

寺井玄渓屋敷跡

  藩医 三百石十五人扶持

元禄十三年(一七〇〇)京都で町医者をしている時、浅野内匠頭長矩に見出され、 藩医として召し抱えられる。元禄十四年(一七〇一)三月十四日の刃傷時は二年足らずの新参家臣で あったが、大石内蔵助良雄とは意を同じく討入りの企てに参画をし、再び京都で 町医を開業した。元禄十五年(一七〇二)七月二十八日の円山会議で決定した江戸への下向は、息子玄達を同行させた。吉良邸討入りの前後、赤穂義士とも親交が厚かったせいか、手紙のやり取りが多く残されている。

屋敷は、表口十四間程(約二十五.四m)、奥行十九間半程(約三十五.四m)の広さであった。 また、この地とは別に間瀬久太夫宅とお互い入れ代わった絵図や刈部弥二郎宅と記された絵図もある。

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絵が中心の案内・説明書

 赤穂城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。

国史跡 赤穂城跡案内図

赤穂城跡公園案内図

国名称 旧赤穂城庭園 二之丸庭園

花見広場案内図

登城の道のり

登城日:平成27年9月19日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

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赤穂城 まで 簡単に説明

  • JR赤穂駅を出て南へ約1Kmほど進むと大手隅櫓が見えてきます。

ストリートビュー:赤穂城 大手隅櫓

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城めぐり 栞