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天守は現存、五角形の縄張りが独特

宇和島城

宇和島城

宇和島城 ひとくちメモ

所在地
愛媛県 宇和島市
別 名
板島城 丸串城
築城者
藤堂 高虎
別名の由来
-
天守概要
層塔型 3重3階  現存天守
城郭構造
梯郭式平山城
遺 構
天守 []、 上り立ち門 []、 桑折氏長屋門(移築) []、 旧山里倉庫(移築) []、 穂積陳重・八束兄弟生家長屋門(移築) []、 石垣 [] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

宇和島城 簡易年表

図解 日本の城 より

 941年
藤原純友の乱に伴い、砦が築かれる
1236年
西園寺氏丸串城を築く
1595年
藤堂高虎が入城
1596年
藤堂高虎、大改修に着手
1601年
大改修完了、のちに宇和島城と名を改める
1614年
伊達氏が入封
1871年
大阪鎮台の所管となる
1900年
大手門など主な城内の建物が解体される
1962年
天守解体修理完了

参考になるサイト:

宇和島城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 桑折長屋門 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 ⇒ 井戸丸 の順に

☒ 上り立ち門より

桑折長屋門⇒二の丸⇒本丸⇒井戸丸

宇和島城:桑折氏長屋門

(1)
桑折氏長屋門
桑折氏長屋門の説明

宇和島城:西角矢倉下の石垣

(2)
西角矢倉下の石垣

宇和島城:雷門跡

(3)
雷門跡

宇和島城:御書物矢倉跡の下の石垣

(4)
御書物矢倉跡の下の石垣

宇和島城:二之丸より天守を望む

(5)
二之丸より天守を望む
二之丸の説明

宇和島城:本丸 天守

(7)
本丸 天守

宇和島城:御弓矢倉跡

(8)
御弓矢倉跡

宇和島城:天守の内部

(9)
天守の内部

宇和島城:天守最上階より本丸

(8)
天守最上階より本丸

宇和島城:井戸丸に残る井戸

(10)
井戸丸に残る井戸
井戸の説明

上り立ち門より

宇和島城:上り立ち門

(11)
上り立ち門
上り立ち門の説明

宇和島城:上り立ち門からの登城路(石垣)

(12)
上り立ち門からの登城路
(石垣)

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の松本城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

宇和島城:小さいながらも威風堂々

小さいながらも威風堂々
2015年1月51日 撮影

宇和島城 よろず間

宇和島城 縄張りとカメラアングル

※ パンフレットの図を使用しています。宇和島城-各種資料・刊行物- でも閲覧できます

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

宇和島城 縄張図とカメラアングル

本丸

二之丸

三之丸

長門丸

藤兵衛丸

井戸丸

代右衛門丸

式部丸

帯曲輪

天守

桑折長屋門

上り立ち門

五軒屋敷跡

方向指示

宇和島城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた宇和島城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 天守は 現存する12天守 の一つで、重要文化財 に指定されています。
  • 桑折氏武家長屋門から井戸丸経由で攻める場合は上り立ち門を見逃さないようにご注意を!!

宇和島城 ここが際立つ

宇和島城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 宇和島城の特徴は上空から(地図)では名残がわかりますが、幕府の隠密も騙す五角形の縄張り。右の写真は天主に展示されていた「宇和島城古図 延享5年(1748)のものを安政2年(1855)複写したもの」の写真。

  • 宇和島城には和翁丸(かずおうまる)と呼ばれる曲輪があります。これは平成になって名付けられたものです。詳しい事情は 大目付日記 宇和島城 城山を守る会: 宇和島城に平成の郭誕生? で。

  • 藤堂高虎が慶長元年(1596)に築城。現在は海と隔てられていますが、かっては北と西が海に面した海城でした。天守からの眺めはこれを想起させます。また、創建当時は望楼型天守でしたが、伊達氏によって層塔型に建て替えられています。

[ 2015/06/11 ]

宇和島城で出会った説明板

宇和島城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

ようこそ 宇和島城へ

ようこそ 宇和島城へ

ようこそ 宇和島城へ

宇和島城は慶長元~6年(一五九六~一六〇一)、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎いよって戦国時代の山城から近世の海城へと生まれ変わりました。当時は大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張りでした。石垣や天守、櫓は、元和元年(一六一五)に入部した伊達家により修築されますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲しています。堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万mは失われていますが、本丸・二之丸等の郭を含む約10万mの城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つとなる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定されています。また、城山には約四三〇種の草木が生い茂り、苔むした石垣群と織り成す幽玄の美の世界は一間の価値があります。

≪説明に添えられている図≫

宇和島城:宇和島城下古絵図
史跡宇和島城 城内マップ

桑折氏武家長屋門

桑折氏武家長屋門

市指定有形文化財

桑折氏武家長屋門

《桑折氏武家長屋門》

家老桑折氏の武家長屋門。昭和27年、戦後の復興事業に伴う道路拡張に伴って撤去せざるを得なくなり、桑折氏の好意により現在の位置に移転。建築年代は不明で、元禄16(一六〇三)年以降の屋敷替えとなった際に改造されたものと推測しています。元々、桁行は35mでしたが、移転時に門番等の居住空間であった左室を撤去、約半分の15mとなっています。窓の増設や馬屋だった右室も居住部屋に改築されいますが、宇和島城下で唯一現存している武家長屋門として貴重な建造物で、昭和38年に市指定文化財となりました。

≪説明に添えられている図≫

移築前の様子(現在の桑折医院前)

史跡 宇和島城 三之丸

史跡 宇和島城 三之丸跡

史跡 宇和島城跡

三之丸跡

●面積・・・約1300m

●標高・・・約3m

●現存石垣・・・長さ約50 高さ約4m

●建築物・・・御殿・桜門・番所・腰掛・枡矢倉・月見矢倉・潮見矢倉・土塀


内堀をめぐらし、周囲を石垣と土塁で囲んだ堅固な郭です。慶長6(1601)年から延宝4(1676)年まで、御殿が置かれた藩の中枢の場所でした。

御殿移築後は側室の休息所などに使われますが、文久3(1863)年には御殿を取壊し調練所となります。明治以後は市街化が進み、当時の面影をのこすものは、目の前の石垣のみとなっています。

≪説明に添えられている図≫

宇和島城絵図屏風(部分)

石垣の修理図

宇和島城絵図屏風[部分]

修理前の様子、修理の様子

上り立ち門

上り立ち門

市指定有形文化財

上り立ち門

《上り立ち門》

城山南側の追手道口に位置し、天守と同じく江戸時代から現存している門です。武家の正門とされる薬医門形式を取っています。桁行3.6m、梁間2.1mをはかり、現存する薬医門の中では最大クラスです。屋根には伊達家の家紋瓦が葺かれていますが、建築的特徴と木材の科学的分析の結果から藤堂高虎が城づくりを手掛けた慶長の初め頃まで遡る可能性があり、国内最古クラスの薬医門となり得る、貴重な建物と言えます。

≪説明に添えられている図≫

上り立ち門に見る薬医門の古い特徴

穂積陳重 八束兄弟の生家長屋門

穂積陳重 八束兄弟の生家長屋門

穂積陳重 八束兄弟の生家長屋門

旧所在地 宇和島市中の町十一番地(現京町一番三四)

建造年代 天保一三年(一八四二年)ごろ、格子出窓は
      明治四年に改造された。(ほぞに大工覚書あり)

《穂積陳重 八束兄弟の生家

長屋門》

構造形式 木造入母屋造り

面  積 九七.八六八m(二九坪六合)

解体移築 昭和四六年十二月六日 着工

     昭和四七年三月三一日 完工


明治の碩学穂積兄弟は旧宇和島藩士の出生である。 父は穂積重樹、陳重(一八五五~一九二一年)はその二男八束(一八六〇~一九一二年)は三男である。 兄弟とも法学博士、東京帝国大学教授として日本の近代法学の開祖的業績をあげた。陳重の専攻は民法で「法律進化論」「五人組制度論」など 八束は憲法を専攻「憲法大意」「憲法提要」など兄弟とも著書は多くいづれも古典的名著の評価が高い。 兄弟は法学者である一方、政治的要職に就き、陳重は帝国学士院長、枢密院議長、八束は貴族院議員宮中顧問官などを歴任した。 特に陳重は男爵を授かっている。

この長屋門は兄弟が幼年期を過ごした当時の建物である。 後、物部氏の所有になったが、昭和四六年秋、当主重樹氏から史的遺構として宇和島市に寄贈された。

宇和島市

宇和島市観光協会

山里倉庫(郷土館)

山里倉庫(郷土館)

山里倉庫(郷土館)

《山里倉庫(郷土館)》

旧所在地 丸之内一区

建造年代 弘化二年(一八四五年)

構造形式 木造切妻造り

面  積 二二八.八〇五平方メートル(六九.二一坪)

解体移築 昭和四十二年八月


この建物は旧幕府時代宇和島城内の調練場(現宇和島郵便局)の一廓にあり、武器庫に使用されていた。間口二九.四八m(一六.二〇間)奥行六.〇九七m(三.三五間)で伊達家八代藩主宗城(むねなり)の時代に建造された。

昭和四十一年伊達家から宇和島市に譲渡されたので、旧城内唯一の遺構であり、原形を保存して史的意義と由緒にちなみ郷土館に転用した。

往昔の宇和島を研究する貴重な資料、民具類を展示しているが、宇和島に現存する唯一の歴史的建物である。

宇和島市

宇和島市観光協会

史跡 宇和島城 二之丸跡

史跡 宇和島城 二之丸跡

史跡 宇和島城

二之丸跡

《山里倉庫(郷土館)》

●面積・・・約680m

●標高・・・約68m

●石垣・・・総延長 約75m 高さ約4m

●建築物・・・御算用矢倉・二之門・木戸・塀庇・土塀


天守が建つ本丸の最終防御施設としてその目前に置かれ、眼下の雷門周辺に侵攻した敵を攻撃するために築かれた曲輪で帯曲輪と連結しています。

≪説明に添えられている図≫

 

宇和島城下絵図屏風[部分]

宇和島城絵図[部分]

 

宇和島城の井戸

宇和島城の井戸

宇和島城の井戸

《宇和島城の井戸》

この井戸は、現在城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられていたと推量せられる。井戸の直径二.四メートル、周囲八.五メートル、深さ十一メートルである。ここは城山の北側の谷の中腹、三の丸からの登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。

宇和島市教育委員会

宇和島城 天守の展示

宇和島城 古写真

天守に古写真が展示されていました。少し画像処理をして転載します。同じ・別の古写真を 宇和島城-今昔写真館- で閲覧できます。

黒門矢倉(旧内港)

明治25年頃の撮影

明治32年頃取壊す

日清戦争の頃は運輸会社の仮事務所など報国議会もこの建物の中にあった。

大手門(元国宝)

明治45年頃の撮影

昭和20年7月12日戦災により焼失

豊後橋

位置 丸ノ内5区地内 東高正門より東へ約100mの□道路附近。城山側に見えるは搦手門。明治41~42年頃取壊した当時の写真

※ □は写真から読めず。横か?

宇和島城古図 延享5年(1748)のものを安政2年(1855)複写したもの

礎石の状態

一階外部壁下地の状態

南側を背面より見通す

大・小天守の雛形

天守には縮尺十分の一 万延元年の作と縮尺45分の1 平成23年・影平忠重さん作の2種類の雛形もありました。

天守閣模型 縮尺十分の一
 万延元年の作 作者 不詳修理

修理、玄関取付、土台石垣は昭和三十七年九月作成
 作者 棟梁 黒田善太郎

縮尺45分の1 平成23年・影平忠重さん作

宇和島城天守 重要文化財

宇和島城天守は重要文化財に指定されています

宇和島城は旧国宝 の「天守」、「大手門」の2棟のうち「天守」が引き続き重要文化財 に指定されています。「大手門」は戦争で焼失。城跡は国の史跡に指定されています。下表は文化庁の「国指定文化財等データベース」 や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」 を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
宇和島城天守
三重三階天守、本瓦葺

登城の道のり

登城日:平成27年1月31日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

宇和島城 まで 簡単に説明

  • JR宇和島駅を出て広い道を西へ400mほど進む。
  • 交差点で南へ曲がり300mほど進む。
  • 右側に小高い丘が見えてくる。
  • 桑折氏長屋門が見えてくるのでそちらへ向かう。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:宇和島城 桑折氏長屋門

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞