先頭

本格的な石垣、天主(守)をもった

現在人イメージのお城の先駆

安土城

安土城のご案内

安土城 ひとくちメモ

所在地
滋賀県 近江八幡市
別 名
築城者
織田 信長
別名の由来
-
天守概要
望楼型 地上6階地下1階
城郭構造
山城
遺 構
天守台 []、 石垣 [] など
再建造物

石垣
安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。(「石塁と大手三門」の説明より)

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

安土城 簡易年表

城内にあった 説明板 を参考に整理・まとめをしました。

1576年
織田信長が、重臣・丹羽長秀に安土山に築城させる
1579年
天主を持つ安土城が一応の完成をみる
1582年
本能寺の変後、天主を焼失、落城
1585年
小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈し織田氏の天下は終焉、役目を終えて廃城となる
1926年
文部省指定の史跡になる
1940・41
天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われる
1952年
特別史跡に指定される
1960~75
主郭部の石垣修理が行われる
1982・83
信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われてる

参考になるサイト:

安土城 写真の間

抑えたい処、美しい処

☒ 大手道 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 の順に

☒ 百々橋道

大手道⇒二の丸⇒本丸

安土城:安土山 遠景

(1)
安土山 遠景

安土城:西側石塁と虎口

(2)
西側石塁と虎口
西側石塁

安土城:大手道と 左側:伝・羽柴秀吉邸跡 右側:伝・前田利家邸跡

(3)
大手道と 大手道
左側:伝・羽柴秀吉邸跡
右側:伝・前田利家邸跡

安土城:伝・前田利家邸跡

(4)
伝・前田利家邸跡
伝・前田利家邸跡

安土城:伝・羽柴秀吉邸跡

(5)
伝・羽柴秀吉邸跡
伝・羽柴秀吉邸跡

安土城:大手道 上から見下ろす

(6)
大手道 上から見下ろす

安土城:黒金門

(7)
黒金門
黒金門の説明

安土城:本丸跡

(8)
本丸跡
本丸跡

安土城:天主礎石

(9)
天主礎石
天主礎石の説明

安土城:天主台より本丸跡、遠景に市街

(10)
天主台より本丸跡
遠景に市街

百々橋道

安土城:三重塔と摠見寺跡

(11)
三重塔と摠見寺跡
摠見寺跡の説明

安土城:二王門

(12)
二王門
二王門の説明

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の安土城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

安土城:本格的な石垣の城、2015年4月27日 撮影

本格的な石垣の城
2015年4月27日 撮影

安土城 よろず間

安土城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は城跡にあった 説明板 を編集して使用しています。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

安土城 縄張図とカメラアングル

本丸

二の丸

三の丸

天主台

大手門

黒金門

二王門

内堀

伝・羽柴秀吉邸跡

伝・前田利家邸跡

摠見寺跡

三重塔

大手道

百々橋道

方向指示

安土城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた安土城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 本格的な石垣、天主(守)をもった現在人がイメージするお城の先駆ですが、残念ながら天主は現存せず。天主(守)台から眺望、野面積みの石垣は美しさは堪能できます。

    [ 2015/12/10 ]

    二の丸 野面積みの石垣

    天主(守)台から眺望

安土城 ここが際立つ

安土城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 転用石が多数。石材が不足したためか?、石仏や墓石等も散見されます。大手道には多くの石仏が見られました。

    [ 2015/12/10 ]

    大手道で見られた石仏
    大手道跡の石仏の説明

    加工された石(大手道)
    元は?

    仏足石(二の丸)
    仏足石の説明

安土城で出会った説明板

安土城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

特別史跡 安土城跡

特別史跡 安土城跡

特別史跡 安土城跡

《駅前の信長像》

織田信長が天下統一を目前にしてその居城とし築いた城である。天正四年(一五七六)着工、天正九年ごろ竣工したと認められている。天正十年(一五八二)六月、本能寺の変の直後に天守閣等も羅災し、ついで廃城となった。

琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き、中央に七層の大天守閣をはじめ各殿舎等を建て雄大かつ壮観を極めた。また山ろく平地には城下町を形成するなど近世城郭の先駆けであった。

現在、城の縄張りを知ることのできる石垣

石段・礎石等のほか、羅災をまぬがれた織田氏の菩提寺である摠見寺の三重塔・楼門および金剛二力士像(いづれも重要文化財)が残存している。

特別史跡 安土城跡

特別史跡 安土城跡

特別史跡 安土城跡

《安土城址 石碑》

安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を流しのの合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、機内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、どの光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。

安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万mが特別史跡に指定されました。

昭和15・16(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年~50年(1960~1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安土城調査整備事業』が20年計画で行われています。

≪説明に添えられている図≫

登城順路の案内

安土城周辺案内図 など

石塁と大手三門

石塁と大手三門

石塁と大手三門

《石塁》

安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三問にしたのではないか、西桝形虎口以外の三門は行幸などの公の時にしようする門であったと想定されます。

東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に届曲しています。石塁の石は八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入り虎口は、間口約5.5m奥行き約4.2mで、柱を受ける礎石等が残ってないため門の構造は不明です。

石塁の中に詰められている栗石がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2.4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。

また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遺構が消滅して、石段であったが木階段であったか確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があったが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装をして表示しています。また、通路部分は針葉樹の間伐材を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀があったと推定される箇所はウバメガシの生垣にしています。

≪説明に添えられている図≫

平安京内裏の内部構造

大手周辺遺構図 など

東側石塁北上段郭と虎口

東側石塁北上段郭と虎口

東側石塁北上段郭と虎口

《石塁北上段郭と虎口》

東側石塁東虎口の城内側は、一段高い(A区)が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られています。

石塁との間は約6mあります。石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。

この石垣360には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていました。虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われます。

上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていません。しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。

東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたと思われます。

石垣には大きな石が等間隔に配置されています。模様のように大石を配置していることから「模様積み」と仮称しました。

このような大石を等間隔に置く石垣は、佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣屋、広島県吉川元春舘跡や万徳院跡にあります。

しかし、安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われます。

≪説明に添えられている図≫

 

大手口周辺 遺構全体図、縄張図

西側石塁の桝形虎口と平入り虎口

西側石塁の桝形虎口と平入り虎口

西側石塁の桝形虎口と平入り虎口

《石塁の桝形虎口と平入り虎口》

大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入り口があります。最も西端に設けられた出入り口は二度折れして入る桝形虎口と呼ばれる構造で、その東側に造られた出入り口は平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くものです。

平入り虎口の東袖壁は石塁がL字状に屈曲させ幅を約5.0mに拡幅させています。伝羽柴邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性があります。西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称の形に復元しています。また、昇り降りする段差がありますが、石段等の当時の遺構が残っていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別しています。

桝形虎口では二つの新しい発見がありました。一つは、桝形虎口の南面石垣沿いに幅約50cmの石敷き側溝が造られていたことです。このことから南面石垣沿いには通路のような陸地が百々橋口まで延びていることが明らかになりました。二つ目は、桝形虎口の西壁と南面石垣には約1.5m大の大石を等間隔に配置する模様積みですが、奥壁の石垣は約40~60cm大の石を布積みにしており石の積み方が違うことが分かりました。さらに西壁の石垣は奥壁の石垣に当て付けており、奥壁の石垣は西に延びて埋め殺しになっていました。このことから、当初安土城の南面を画する奥壁の石垣が造られていましたが、天皇の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになって桝形虎口が造られたと考えられます。

また、桝形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていました。廃城後の安土城の利用方法を知っていただき、石積みの違いを見て頂くため解体せず残しました。

≪説明に添えられている図≫

桝形虎口奥壁石垣立面図

桝形虎口西壁・奥壁入り隅部

検出状況 など

西側上段郭と竃跡

西側上段郭と竃跡

西側上段郭と竃跡

《西側上段郭と竃跡》

この郭は、安土城廃城後に石垣等を壊して整地し、畑地として使われていた所です。

発掘調査をしたところ、周囲より一段低い空間があらわれ、北側は石垣、西側は屏風折れ状の石組、南側は両脇に石類を持つ間口約6mの虎口(出入り口)で限られていることが分かりました。そして、北側の石垣沿いには、井戸と洗い場とみられる敷石が見つかりました。

また、この空間からは、北西隅の上がり框と北東隅の虎口により東西の郭へ、南側虎口は石塁沿いの武者走り(通路)の西端にある石段を経て大手石塁西虎口にそれぞれ連絡できるようになっていました。

この一段低い空間には、建物の柱を支える礎石が4基残っていました。残っている礎石の数が少ないため詳しくは分かりませんが、残された礎石を抜き取った痕などから建物の規模を図で示しました。このような虎口に接した建物の例は、他の城跡でもあまり見られないものです。

また、この郭の西側から、数基の竈跡と炭や焼け土の入った皿状の凹地が見つかりました。竈は、何回も作り替えがあったとみられ、古い竈の壁を壊して整地したのち、新たな竈を作っています。2回目に作られたものは、竈の壁を支える馬蹄形に並べられた根石と焚き口、堅く叩き締められた土間が残っていましたが、ここでは、竈跡を埋め戻して保存し、改めてその位置に平面表示をしています。

これらの竈は、これに伴う遺構面を壊して先の一段低い空間が造られていることから、虎口が作られる前に使われていたことは明らかです。しかし、竈を作り替えるたびに整地し直した土の中から安土城で使われていたものと同時期の土器や陶磁器が巣都度しています。このことから竈は、安土城の築城時に、この付近にあった作事場などに伴う遺構と考えられ、安土城築城中の様子が分かる貴重な遺構と言えます。

≪説明に添えられている図≫

大手門西側上段郭(E区)遺構図 など

安土城を象徴する道 - 大手道

安土城を象徴する道 - 大手道

安土城を象徴する道 - 大手道

《大手道》

目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。大手道は、その構造から、直線部分、横道、七曲がり状部分、主郭外周部分の三つの部分によって構成されています。

大手門から山腹まで焼く180mにわたって直線的に延びた部分の道幅は約6mと広く、その両側に幅1~1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されています。まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。

山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びています。この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。

伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。屈曲部分は幅4m程に狭まりますが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になります。

安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上に聳える天主は、街道を行き交う人々に信長の力を印象付けたことでしょう。

≪説明に添えられている図≫

大手道ルート図 など

大手道跡の石仏

大手道跡の石仏

大手道跡の石仏

《大手道跡の石仏》

この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。

城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。

出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。趣旨をご理解の上、見学してください。


滋賀県教育委員会

伝前田利家邸跡

伝前田利家邸跡

伝前田利家邸跡

《伝前田利家邸跡》

ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝えられる屋敷跡です。大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。敷地の西南隅には大手道を防御する隅櫓が建っていた思われますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。門を入ったこの場所は桝形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。北方部分は上段郭から張り出した懸造りの構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いています。この桝形から先は道が三方に分かれます。

右手の道は最下段の郭に通じています。ここなは馬三頭を飼うことができる厩が建っていました。この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明』に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。

正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るものです。正面階段は正客のためのもので、左手会談は勝手口として使われたものでしょう。前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物にでます。広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、現在竹薮となっており調査が及んでいません。さらにその東にある奥座敷は特異な平面を持つ書院造りの建物です。東南部に突出した中門を備えているものの、部屋が一列しかありません。あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半部を除去したものかもしれません。

伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その配置には大きな相違が見られます。向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な構造です。

≪説明に添えられている図≫

伝前田利家邸跡の虎口

伝前田利家邸跡の虎口

伝前田利家邸跡の虎口

《伝前田利家邸跡の虎口》

一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言います。伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に桝形の空間を造った「内桝形」と呼ばれるものです。発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。門をくぐると左手には高さがおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。また、一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかります。

≪説明に添えられている図≫

伝前田利家邸虎口の発掘調査と整備 など

伝羽柴秀吉邸跡

伝羽柴秀吉邸跡

伝羽柴秀吉邸跡

《伝羽柴秀吉邸跡》

ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の遺構はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅2m程の石段は、上段郭の裏手に通じていまそ。

上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。されにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群も平面積は366mあり、この屋敷では最大の規模を持っています。

戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることができる、誠に貴重なものといえます。


櫓門跡の発掘調査

伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は平成2年と4年に実施しました。調査前は草木の生い茂った湿潤な斜面地でしたが、大手道に面した調査区からは門の礎石と考えられる大きな石や溝、階段を発見しました。これらは厚さ数cmの表土の下から見つかりましたが、その保存状態は大変良好で今後の安土城跡の調査に大きな期待を抱かせることとなりました。

礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のものでは0.8mX1.4mの大きさがあります。これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の櫓門であることがわかりました。

櫓門の内側には、屋敷に通じる石段とこれに伴う石組みの排水路があり、水路の縁石には石仏が使用されていました。門の前では大手道から櫓門へ入るための橋を支えたと考えられる3本の長い花崗岩製の転用石を発見しました。

また、周辺からは櫓門の屋根を飾っていたと考えられる金箔軒平瓦や丸瓦の破片が出土しています。

≪説明に添えられている図≫

 

発見された櫓門と礎石と石段 など

伝羽柴秀吉邸主殿

伝羽柴秀吉邸主殿

伝羽柴秀吉邸主殿

《伝羽柴秀吉邸主殿》

安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿といいます。この屋敷では、主殿の手前に式台・遠侍、奥に内台所が接続して複雑な構成になっています。主殿入口は、建物東部に設けられた玄関です。「玄関」を入ると「式台」の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受けます。その背後には、武士が控える「遠侍」の間が置かれています。式台を左に進むと主殿に出ます。畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっています。西奥の部屋が床・棚を背に主人あるいは上客が着座する「上段の間」です。上段の間南には主人が執務を行う「付書院」が附属しています。南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出しています。広縁の途中にある「車寄」は、もっとも大事な客-例えば秀吉邸を訪れた信長-が直接上段の間に入るための入口で、上には立派な軒唐破風が架けられています。主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行う「内台所」や「遠侍」が接続しています。皆様の往時の姿を思い浮かべながら、秀吉の来客になったつもりで、整備された礎石の間を歩いてみてはいかがでしょうか。

≪説明に添えられている図≫

 

主殿跡の発掘調査 など

伝羽柴秀吉邸復原図

黒金門跡

黒金門跡

黒金門跡

《黒金門跡》

ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。

高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高180mを超え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2~6mの外周がめぐり、山袖から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓紋等で守られた入り口が数ヶ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。

安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原形を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。

平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。

≪説明に添えられている図≫

主郭部平面図 など

仏足石(室町時代中期)

仏足石(室町時代中期)

仏足石(室町時代中期)

《仏足石》

この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時単なる石材として集められ石垣に使われて居たようで昭和の初期登山道整備のとき此の付近の山崩れた石垣お中から発見されました。仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされて居ました。我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝)のものとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なんものです。

摠見寺住職

本丸跡

本丸跡

本丸跡

《本丸跡》

天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸・帯郭・三の丸の各石垣に囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34mX南北約24mの範囲で碁盤状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4~6(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。

礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。

なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょう。『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に、「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか

≪説明に添えられている図≫

本丸遺構平面図 など

安土城天主台跡

安土城天主台跡

安土城天主台跡

《安土城天主台跡》

安土城の天主は、完成してからわずか三年の天正一〇年(一五八二)六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(一九四〇)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。

安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国的に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。

皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。


安土城跡は、国の特別史跡に指定されています。指定地内では、許可なく史跡の現状を変更することは禁じられています。違反した者は、法により厳しく罰せられます。ご来訪いただきました皆様方には、何かとご不便をおかけすることもあろうかと思いますが、貴重な文化遺産である特別史跡の持つ意義をご理解いただき、皆様とともにこの安土城跡を守り伝えられますよう、ご協力をお願いいたします。

また、特別史跡安土城跡のある安土山全体は民有地です。所有者の御好意により一般に公開されています。その趣旨を御理解の上、禁煙等火気使用の厳禁、ゴミの持ち帰り等に御協力下さるようお願いします。

(原稿作成 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当)


[ 安土山御天主の次第 ]

石くらの高さ十二間余りなり、石くらの内土蔵に用ひ、是より七重なり、

二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間ま中有り、

柱数弐百四本立、本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木。

御座敷の内、悉く布を着せ黒漆なり、

(中略)

三重め、十二畳敷、花鳥の御絵あり、則、花鳥の間と申すなり。 (中略) 柱数百四十六本立なり

四重め、西百十二間に岩に色々木を遊ばされ、則、岩の間と申すなり。 (中略) 柱数九十三本立。

五重め、御絵はなし、(中略) こ屋の段と申すなり。

六重め、八角四方あり、外柱は朱なり、内柱は皆金なり (中略)

上七重め、三間四方、御座敷の内皆金なり。そとがは是又金なり。 (中略)

『信長公記』

( 奥野高広・岩沢愿彦校注の角川文庫版による)

≪説明に添えられている図≫

天主台の現状及び復元平面 など

摠見寺跡

摠見寺跡

摠見寺跡

《摠見寺跡より西の湖》

摠見寺跡は織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬはれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯火を守り続けています。

平成6年度に発掘調査を行った結果、九境内内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。

その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築されました。江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。右の『近江名所図会』に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続ける摠見寺の姿がうかがえます。

≪説明に添えられている図≫

近江名所絵図 など

重要文化財 摠見寺二王門

重要文化財 摠見寺二王門

重要文化財 摠見寺二王門

《摠見寺二王門》

正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸楼門といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け金剛力士の像をまつるための二王門と名づける。

この門は棟木に元亀二年(一五七一)の建立を示す黒書銘があるが、織田信長が天正四年(一五七六)築城に着手し、あわせて摠見寺を建てるに際し甲賀郡から移建したと伝えられる。組物は上下層とも三手先で、和様主調とした最も一般的な形式であるが、下層中央間の彫刻入りの蟇股や隅柱の上部についている頭貫の木鼻などは室町時代末期の特徴をよく現している。

木造金剛二力士像は応仁元年(一四六七)の作で重要文化財に指定されている

昭和五十二年十月

安土町教育委員会

登城の道のり

登城日:平成27年1月31日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

安土城 まで 簡単に説明

  • JR安土駅を出て北東へ250mほど進むと大きな道(県道201号)に出る。
  • (駅前にはレンタルサイクル店もあるので急ぐ場合はおすすめ。)
  • 300mほど北上し右折。安土山が見えるのでそのまま進む。
  • 右折の箇所はストリートビューで見ることができるので一度確認しておくこと安心。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:安土城

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞