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模擬天守

中津城

中津城のご案内

中津城 ひとくちメモ

所在地
大分県 中津市
別名
扇城、扇要城、津城
築城者
黒田孝高、細川忠興
別名の由来
本丸、二の丸、三の丸の配置が扇の形に似ていることから。
天守概要
上がったか否かは不明。現天守は昭和39年(1964)に鉄筋コンクリートで建てられた
独立式望楼型 5重5階の 模擬天守
城郭構造
梯郭式平城
遺 構
石垣[]、 堀[] など
再建造物
模擬天守 []、 二重櫓[]、など
天守の高さ
23m ( 建物 )、8m ( 石垣 )

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

天守の高さは «地図で歩く 城と城下町100選» に依る。

中津城 簡易年表

1587年
秀吉の九州平定に伴い黒田孝高(如水)が豊前六郡12万3000石の領主として入国
1588年
黒田孝高が中津城の造営を始める。
1600年
細川忠興豊前一円及び速見、国東二郡39万9000石の領主として入国。
1603年
細川忠興が中津城改修開始。1620 (元和6) 年までかかる。
1620年
忠興が隠居。家督を忠利に譲り、忠興は中津城へ入る。 細川時代の中津城整備完成。
1632年
小笠原長次が中津6万石の城主として入国。
1717年
奥平昌成が中津10万石の領主として入国。
1871年
廃藩置県により中津城廃城。
1964年
天守再建。

九州最古の近世城郭 中津城を知る を参考に取捨、一部追加

参考になるサイト:

中津城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

☒ 本丸内

☒ 周辺から の順に

本丸内

中津城:本丸 天守

(1)
本丸 天守

中津城:門扉の痕跡の残る石垣

(2)
門扉の痕跡の残る石垣
扇型の石垣

中津城:本丸 天守、三斎池

(3)
本丸 天守、三斎池

中津城:本丸 天守、三斎池

(4)
本丸 天守、三斎池
三斎池

中津城:本丸 天守と狛犬

(5)
本丸 天守と狛犬

中津城:本丸 天守、二重櫓

(6)
本丸 天守、二重櫓

1977年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

中津城:本丸 天守、二重櫓。提灯がアクセント

(7)
本丸 天守、二重櫓
提灯がアクセント

周辺

中津城:天守 二重櫓 薬研堀

(8)
天守 二重櫓 薬研堀

中津城:天守 二重櫓 薬研堀

(9)
天守 二重櫓

中津城:天守 二重櫓 薬研堀

(10)
天守 二重櫓 薬研堀
薬研堀と祇園車の車輪

中津城:天守 二重櫓 薬研堀

(11)
天守 二重櫓 薬研堀

1977年頃のほぼ同じアングル

中津城:天守 二重櫓 薬研堀

(12)
天守 二重櫓 薬研堀

中津城:天守 二重櫓 薬研堀

(13)
天守 二重櫓 薬研堀
黒田が持ち込んだ古代山城の石

中津城:天守、西(右)には中津川

(14)
天守、西(右)には中津川

中津城:中津川の橋上からの天守

(15)
中津川の橋上からの天守

中津城:河川敷公園より観る石垣

(16)
河川敷公園より観る石垣

中津城:本丸南側の石垣(三の丸跡から)

(17)
本丸南側の石垣(三の丸跡から)
復元された東側の石垣

中津城:大手門跡(現城跡から少し離れて)

(18)
大手門跡(現城跡から少し離れて)
大手門跡の石垣

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の中津城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

中津城:中津川の橋上からの天守

中津川の橋上からの天守
2015年1月31日 撮影

中津城:狛犬と天守

狛犬と天守
2007年8月10日 撮影

中津城:フィルム撮影の中津城

フィルム撮影の中津城
1977年頃 撮影

中津城 よろず間

中津城 縄張りとカメラアングル

※ 縄張図は中津城にあった案内図 を使用しています。

この図は中津市の ホームページ よりPDFファイルで入手できます。

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

中津城 縄張図とカメラアングル

本丸

三の丸

天守

三重櫓

薬研堀

三斎池

中津川

方向指示

中津城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた中津城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

中津城 ここが際立つ

中津城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 川と海を活用した城で堀には海水が引き込まれるなど、今治城・高松城と並ぶ 日本三大水城 の一つに数えられています。

[ 2012/10/6 ]

中津城 城内で出会った説明板

中津城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

中津城攻略マップ | 大分県中津市 より「中津城攻略マップ」をダウンロードでき、同じようなことが簡潔に記されています。

私の登城の際は現地でも印刷物として入手もできました。

中津市のホームページ の「中津城石垣の工事と調査」には説明板よりさらに詳しい報告があります

追記のための仕切り線

中津城の歴史

中津城の歴史

中津城の歴史

時代城主西暦中津城下の出来事参考
安土 桃山時代黒田時代天正十五年 孝高一五八七黒田孝高が豊前六郡(十二万三千石)の領主となる。
豊前城井の宇都宮氏挙兵、黒田長政が諸城を攻撃
一五八八中津城の造営を始める

《 途中 略 》

江戸時代奥平時代天保十三年 昌服一八六三城内に松の御殿を新築。
一八六七小倉領の小祝、高浜が中津領となる
慶応四年 昌邁一八六八昌邁が跡を継ぐ

≪説明に添えられている図≫

中津城旧地図

石垣の特徴

石垣の特徴

石垣の特徴

《「輪取り」が感じれる石垣》

中津城は1587年に入国した黒田孝高が1588年から築城に着手した城で、九州最古の近世城郭の一つです。同じ年に建築された他の城はその後破却されたため、九州で唯一当時の石垣が地表面に見えるのが中津城なのです。石は全て未加工の自然石を使用しています。小さな石を乱雑に積んでいるように見えますが、自然石の特徴を活かした積み方で、石の奥行きは長く、縦目地横目地が通りません。これは石垣建築では最も高度な安土桃山時代の技法です。当時穴太衆と呼ばれる石垣造りを得意とする集団が用いた技法で「穴太積み」と呼ばれています。中津城の石垣造りにもその技法を持った石工が関わったと考えられています。

石垣は反りがなく直線的ですが、両端より中央の方がより傾斜し、さらに真上からみるとゆるやかな弧を描きます。これを「輪取り」といいます。力を内側に集中させ、地震等があっても前に崩れにくい工夫がされています。

現在では、この技法はすたれてしまいました。中津市では、昔の技法を復元することをめざし、石垣の文化財としての価値を損なわないよう、解体から復元まで慎重に工事を進めてきました。解体修復工事は石垣が痛んでいる部分のみ行っています。

中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

幕末の中津城絵図

修復前の石垣の出角

修復前の石垣

復元された東側の石垣

復元された東側の石垣

復元された東側の石垣

《大鳥居》

明治4年、本丸南側の石垣の一部が壊され、本丸内に通じる道が造られました。左右に分けられた石垣の間に立つ大鳥居は昭和7年に建てられたものです。大鳥居東側の石垣は、戦後地表面から上半分が撤去され、堀は埋められ残った下半分の石垣は地下に見えなくなりました。

中津市では、平成13年~20年の修復工事で、見えなくなっていた元の石垣を掘り出し、その上に新しい石垣を復元しました。図中赤のラインから上は復元を行った部分です。石垣の裏側の面は、土手だったようですが、安全性を考えて石を積みました。奥に見える櫓跡の石垣は18世紀頃に改築されたと推定されています。大鳥居西側では、九州最古の近世城郭の石垣がよく残っています。

石垣上の印の地点から反対側の印方向を見通すと石垣面がゆるやかな弧を描き、道路を挟んで対岸の石垣まで連続していることがわかります。これを「輪取り」といいます。力を内側に集中させ、石垣が崩壊するのを防ぐつくりです。

2011年 10月 中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

上半分が撤去され地下に埋没していた石垣

元の高さまで復元した石垣
(赤線より上が復元した部分)

増築された石垣

増築された石垣

増築された石垣

《大鳥居西側の石垣》

現地点の道路は明治期に石垣を壊して通されたものです。本来ここに道はなく、道路の左右にある石垣と堀は続いていました。

中津城の石垣は、築城当初は今より低く、幅が狭いものでした。堀側だけでなく、城内側にも石垣があったことがわかっています。こちらの断面には、城内側の古い石垣が顔をのぞかせています。下の写真で①と表示してある石垣が築城当初(16世紀末頃)のものです。高さは根石から約5.85m、天頂の幅は約2.4m。石垣には排水溝が造られており、城内の雨水は石垣の溝を通って堀へ流されていました。排水溝の床面には丁寧に瓦が敷かれていました。その後17世紀には現在と同じ約7mの高さにまで積み上げられ、さらに②→③→④と徐々に拡幅されていきました。

石垣の増築が城内方向だったため、堀に面した石垣は昔のままの姿を私達にみせてくれています。

中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

排水溝内部

石垣の断面をみると

増築された様子がわかります

③の段階で石が置かれ

排水口はふさがれていました

扇型の石垣

扇型の石垣

扇型の石垣

《扉が取り付けられていた痕跡》

本丸南東隅に位置する小さな鳥居がある入口は「椎木門跡」です。絵図①をみると、入って西側正面は塀でふさがれ、北側に折れて門をくぐるという「桝形虎口」の構成だったことがわかります。正面をふさぐ塀は細かい線が多数書き込まれていることから、平瓦と練土を交互に積み上げた練塀だったのではないかと考えられます。

また、絵図①では椎木門をくぐると扇型に弧を描く石垣が描かれていますが、これは他の絵図にも見られます。幕末の絵図②では、扇型の石垣内に2つの入口が描かれています。赤で囲んだ部分がこの説明板の正面の入口です。足元や石垣の側面に扉が取り付けられていた痕跡を⑤に見ることができます。

細川時代に中津城は大改修が行われ、1620年頃に8つの門と22の櫓が完成しました。扇型の石垣は小笠原時代の1663年の絵図にも描かれており、1620~1663年の間には築かれていたと考えられます。その後さらに改修の手が加えられました。この周辺の石垣には、川沿いの黒田時代の石垣にみられる7世紀の山城の石(直方体)が使用されています。また石の中には文字が刻まれたものがいくつかあります。「田」「井」「△」などで、同様のものは他の場所でも見ることができます。いずれも改修工事が行われた部分で、同じ字体であることから、石垣改修年代の手がかりになるかもしれません。これらの文字は石工たちが記した記号と思われますが、その目的は不明です。

2011年 10月 中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

①練塀が表現された

弘化二年(1845)の絵図

②扇型の石垣に入口が描かれた

幕末の絵図

③「田」の文字

④「井」の文字

⑤扉をとりつけていた痕跡

黒田が持ち込んだ古代山城の石

黒田が持ち込んだ古代山城の石

黒田が持ち込んだ古代山城の石

《y字型の目地》

正面の石垣にはy字型の目地が通ります。右側(川側)が黒田時代の石垣でその上に積まれた左側が細川時代でえす。黒田時代の石垣は四角に加工された石が使用されています。黒田氏が中津城築城をはじめた天正16年(1588)当時は石垣には未加工の自然石を用います。しかし、ここではほとんどが四角に加工した石で造られています。これは川上の福岡県上毛町にある古代(7世紀)の遺構「唐原山城」(国指定史跡、旧:唐原神龍石)から持ち出された石で、直方体の一辺が断面L字型に削られているのが特徴です。川沿いの石垣に多く用いられています。

黒田時代、お城の横の川が山国川(当時:高瀬川)本流で、現在三角州の小祝は福岡県側と地続きでした。しかし、大洪水がおき、小犬丸と小祝の間が切れ小祝が三角州となると、その後度重なる洪水で中津城横の川は土砂で浅くなり、山国川(中津川)の支流となりました。

まだ川底が深かった時代、黒田は川上の遺跡から古代に加工された石を持ちだし、皮を下らせ石垣に使用したのでしょう。

2014年10月中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

右が黒田時代、

左が後からつまれた細川時代

現在、黒田時代の石垣の一部は

土手に埋められている

白壁の屋根が取付けられた石には直方体の一辺を削る加工痕がある

赤線は古代山城の石が

多数使用されている石垣

黒田本丸の石垣と細川時代の石垣

黒田本丸の石垣と細川時代の石垣

黒田本丸の石垣と細川時代の石垣

《黒田/細川時代の石垣》

右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。両時代の石垣とも花崗岩が多くつかわれている。

中津城が歴史に登場するのは、天正十五年(一五八七)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要塞の地であった。同時に瀬戸内海に面し、機内への重要な港でもあった。

孝高は、闇無浜から自見・大塚一帯を含む大規模な築城にとりかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦などの功によって筑前五十二万石への加増転封し中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。忠興は最初中津藩を居城とぢ、弟の興元を小倉城においた。慶長七年忠興は、居城を小倉に変更し大規模な小倉城築城を始めた。元和元年(一六一五)一国一城令がだされ、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌二年中津城の残置が決まった。

元和六年(一六二〇)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌七年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二之丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

中津市教育委員会

中津の郷土史を語る会

大手門跡の石垣

大手門跡の石垣

大手門跡の石垣

《大手門跡の石垣》

中津城築城時に由来するとされる京町、姫路町、博多町などの町屋は、城の玄関口である大手門におかれました。明治期に、本丸石垣の一部を壊し本丸へ入る道路が新設されましたが、城内への本来の道は、町屋側から堀を渡り、大手門⇒黒門⇒椎木門⇒本丸へと続くものでした。左図の幕末の絵図には大手門の桝形虎口が描かれていますが、現在は白四角部分が現存しています。

平成16年に石垣解体修理を行い、石垣の内部構造が明らかになりました。築城当初の石垣は、A地点の目地から左側と考えられます。石垣はB地点まで継ぎ足された後、さらに拡幅され、桝形虎口をつくり、現在の南部幼稚園敷地内に大手門がつくられました。そして、細川時代の1620年頃、8つの門と22の櫓が完成し、ほぼ現在の形が整ったとされています。

写真3の石垣はA地点から折れて連続するもので、初期の櫓台跡と考えられます。大手門では、城に入る者に威容を示すため、縦石積みや、石の最も広い面を表とする「鏡積み」という積み方をしていますが(下図の青部分、写真1)、鏡積みの内部は大変薄い石だった(写真2)ことがわかります。

また、古い石垣ほど内部に占める石の割合が多く。しっかりとした構造になっています。

中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

写真1:鏡積みの石(下図青部分)

写真2:鏡積みの内部

写真3:A地点内部の石垣

 

櫓と堀

櫓と堀

櫓と堀

《出角の石垣と堀》

正面に見える石垣の角の石(出角)に注目してください。向かって右側が黒田時代、左側が細川時代のものです。

黒田時代の出角は、自然石の形を利用して角をつくっていますが、細川時代の出角は加工した石を使用しています。最も古い石垣には水平に細長い石を使用していますが、左側は小さく丸い石が多く使われています。また黒田時代の石垣が低く途切れた場所から礎石が出土し、櫓跡が確認されました。しかし、細川時代には櫓を埋め、石垣は高く幅広く造りかえられました。

石段の下には松ノ木(胴木)を敷き石垣が重みで沈まないように工夫されていました。堀の底は外側へ向って傾斜しており、より攻められにくいつくりになっていました。

堀からは金箔を貼った瓦や桐の模様の瓦などが出土しており、石垣上に櫓等の立派な建物が建ち並んでいた様子がうかがえます。

中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

石垣の中から検出された
黒田時代の櫓跡

金箔瓦

梵字を彫った石(墓石)を

逆さまにして使用していた

松の木の胴木

堀底検出状況

薬研堀と祇園車の車輪

薬研堀と祇園車の車輪

薬研堀と祇園車の車輪

《薬研堀と天守》

本丸と二ノ丸を区切るこの堀は「薬研堀」と呼ばれています薬研とは、漢方薬などを粉にひくために使用された道具で、底がV字びなった舟形の器具に薬草を入れ、握り手がついた円盤状の車輪ですりつぶします。この薬研の断面に似て底がV字形になった堀を「薬研堀」といいます。中津城の薬研堀は川とつながっており、潮の満干で水位が上下します。

堀の中にある木製の輪は、中津祇園祭で使われる祇園車の車輪です。祇園祭が終わった後、「車崩し」が行われ、車輪は泥の中に埋められます。これは、車輪の風化と虫食いを防ぐもので、上祇園の車輪はここ中津城の「薬研堀」に一年間保管されます。祭の間近になると泥の中から掘り出す「輪堀り」という作業が行われます。

2014年11月中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

薬研

中津城下絵図(部分)

祇園車の車輪

三斎池

三斎池

三斎池

《三斎池》

 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いなどの功によって黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。黒田氏の後には細川忠興が豊前一国と豊後の国東・早見の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。元和六年(一六二〇)家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。翌七年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(三口)から水道を城内まで導く大工事であった。

その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。

忠興の号”三斎”の名を冠して「三斎池」という。

 現在は、中津上水道を引いている。

中津市教育委員会

中津の郷土史を語る会

中世の舘と寺院跡

中世の舘と寺院跡

中世の舘と寺院跡

中津城が築城される以前、この場所には二重の溝に囲まれた中世(15~16世紀)の舘跡がありました。

高石垣を積む近世の城とは違い、溝の壁には石が貼り付けられており、溝の間には土塁があったと考えられています。

中津城築城当初の地層からは、最大径16m、厚さ70cmの大型な礎石や、せん[元は漢字、正しく表示できないためひらがなを使用]というタイル状の瓦が多量に出土しました。また、表面に仏を意味する梵字や、日付などを墨で書いた大きな石が出土しました。中央には丸い穴が掘られており、仏舎利などが収められ、地鎮に使われていたと考えられています。これらの遺跡から、この地には黒田氏の時代に寺院があったことがわかりました。1600年に入国した細川氏は寺院を二の丸に建築し、本丸内の寺院は姿を消したのです。近世の城では本丸内に寺院を建築することはなく、黒田氏の時代はまだ近世の城郭のスタイルが確立されてない時代であったといえます。

中津市教育委員会

≪説明に添えられている図≫

墨書のある石

大型礎石

墨書のある石は

この説明板の下から出土した

石を貼った中世の溝

大手門

大手門

大手門

《大手門跡の石垣》

中津城築三の丸の東端に位置する大手門(追手門)は「馬出し無しの枡形虎口」である。中津城の外堀より三の丸(大手門)に入ると、そこは前方と左右の三方を大石で囲んだ奥行き約十三間(二十三米)、巾約三、三間(六米)の「桝形」がある。面積約四十三坪(一三八平米)の大手門「桝形」は騎馬武者であれば約三十騎(供武者六十人を含む)、徒士武者であれば約二五〇人が収容できる。桝形の前方右側には黒田如水によって滅ぼされた犬丸城の古材木を使って造られたといわれる「矢倉門」型の大手門はあった。

中津市教育委員会

中津の郷土史を語る会

≪説明に添えられている図≫

御用屋敷遺跡

御用屋敷遺跡

御用屋敷遺跡

天正15年(1587)豊前六郡を領有したくろだ孝高(如水)は、翌16年、山国川に臨んだ丸山の地に中津城の造営を始めた。これが、中津築城の歴史の始まりである。慶応5年(1600)未完成のうちに、黒田氏は転封となる。かわりに入国した細川氏は新たに三の丸を増築するなど、城、城下町の整備に努め、小笠原氏により城下町は完成し、以後、奥平氏にひきつがれた。最盛期の中津城は、22の櫓と8の門を有し、城の周囲には堀がめぐり、高石垣が威容を誇った。城の正面である大手門前には商人町(京町、博多町など)がにぎわいをみせた。城は明治3(1870)廃城、翌4年櫓、門などが取り壊され、今では一部の堀と石垣が残るのみである。南部小学校の北東隅に残る石垣は、北へまがり大手門へ連なる。

現在地は大手門と商人町の境にあたり、幕末の絵図では内堀と御用屋敷が描かれている。発掘調査の結果、屋敷跡と内堀の町側の石垣を検出した。屋敷跡からは江戸初期をはじめとする大量の陶磁器、瓦、木器など、当時の城下町の姿をほうふつさせる史料が出土した。現在遺構は傷つけないように盛り土をし、南部公民館の下に眠っている。また内堀の石垣は城側の堅牢なものとは違い、小さめの河原石を野面積みしていた。底には石垣を安定させるための丸太(胴木という)が据えられていた。堀の深さは約2mあったが、今回修復した石垣は安全面を考慮し、実際より浅く表示している。

≪説明に添えられている図≫

図の案内板

≪役立ちそうな図が主体の案内板≫

ぐるっと石垣めぐり おすすめコース

この図は中津市の ホームページ より

PDFファイルで入手できます。

現在地表示に

中津城旧地図が使われています

ここにはご注意を!!

主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。

  • あやしい天守閣 の『史実と無関係の天守閣』で扱われています。このページを初めて作る時、「中津城 「面白文書、拾い上げ」」に記述したように萩城天守を模したもとと知りましたが改めて少し詳しく。
  • 現在の天守閣のある場所は元は二重櫓があった所で1964(昭和39)年に城主の子孫・奥平氏が中心となって市民の寄付なども集め鉄筋コンクリートで建造したとのことです。
  • 外観は萩城の古写真をもとにデザインし、白壁を下見板張、最上階には萩城にはない窓を付けた点などが異なります。1階全体が天守台から張り出しているところが共通するとのことです。
  • 城主の子孫が天守閣を再建し個人所有という珍しい城でした。2010(平成22)年に埼玉県の企業に売却されましたが今でも一般公開されています。
  • あやしい天守閣 では天守は上げられなかったとしていますが不明なところもあるようです。間接的ですが地元の人のブログ 豊前國中津 黒田武士顕彰会 に九州大学名誉教授丸山雍成先生の講演 中津城に天守閣はあった! - 豊前國中津 黒田武士顕彰会 や記事 風雲中津城 3 - 豊前國中津 黒田武士顕彰会中津城と天守閣 - 豊前國中津 黒田武士顕彰会 に紹介があります。
  • 広島城:中御門跡もう一つ「天守があったのでは?」と思わせるものを!!。右図は「九州最古の近世城郭 中津城を知る」で使われている「中津城下絵図」より一部を抜き出したものです。これに天守が描かれています。このなかで言っているのではないですが「左端の大きな建物が天守では」ともいわれています。

[ 2012/05/16 ]

中津城 面白文書、拾い上げ

書籍など、中津城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

 昭和39年(1964)、折からのコンクリート天守復興ブームに便上して、これも本来なかった二重の小天守と共に模擬新築されたものだ。(途中略)この模擬天守の設計者は、あろうことか萩城天守の外容を再現したのだ。萩城天守をそのまま中津城にもってくることに躊躇いを感じたのであろう、白亜総塗込めの萩城天守を下見板張に変更している・・・。

名城の日本地図 より


 明治の廃城令の際、中津藩出身の福沢諭吉の建議により、全国に先がけて拠出した廃城届けによって、本城が取り壊されたのは有名なエピソードだ。

別冊宝島 1650号 城郭絵図面付き日本の名城 より

中津城 ちょっと一言

小さい頃、自転車で中津まで行ったことがあります。福沢諭吉邸に行ったことははっきり覚えているのですが、中津城は記憶が定かではありません。それはともかく、もともと大分県に住んでいたので多分最初に見た城が中津城だったと思います。私がお城好きになった原点かなと思っています。

中津城は天守、堀、櫓と組み合わさって美しい私の好きな城の一つですが、ちょっとびっくりすることがありました。一つは上記の『面白文書、拾い上げ』で記載したように天守が本来とは無関係な模擬天守であること。さらに驚いたことは、数年前、テレビにも取り上げられたことがあるのですが、お城が売り出されたことです。城が個人の所有とはびっくりしました。

( 2010/6/17 )

登城の道のり

登城日:平成20年8月10日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

中津城まで 簡単に説明

  • 中津城へは駅から行くことはなく適当に歩きますが駅からを示しています。
  • 近くには福沢諭吉記念館もあります。昔々に比べると綺麗になりすぎな気がしました。

ストリートビュー:中津城 天守 二重櫓

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞