国の史跡
小田原城
小田原城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: ここが魅所・おすすめ
- 肆: ここが興趣深い
- 伍: ここにはご注意を!!
- 睦: 小田原城にあった説明板
- 質: 登城の道のり
小田原城 ひとくちメモ
- 所在地
- 神奈川県 小田原市
- 別 名
- 小峰山城
- 築城者
- 小早川氏
- 別名の由来
- 小早川遠平(小早川氏の祖とされる)が小峰山に居館を構えたから ??
- 天守概要
- 複合式 層塔型 三層四階。現天守は1960(昭和35年)に鉄筋コンクリートで建てられた 復興天守。
- 城郭構造
- 平山城
- 遺 構
- 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ]、土塁など /dd>
- 再建造物
- 天守 [ ※ ]、 銅門(木造復元) [ ※ ]、 二の丸隅櫓 [ ※ ]、 常盤木門 [ ※ ]、 馬出門 [ ※ ] など
- 高さ
- 50.2m(石垣11.5m、天守38.7m)
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
小田原城 簡易年表
図解 日本の城 より
- 1416年
- 大森氏が土肥氏より小田原城を奪う。
- 1495年
- 北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪う。
- 1590年
- 豊臣秀吉によって包囲され、落城。
- 1614年
- 徳川家康、総構えの外郭を破却。
- 1632年
- 稲葉正勝が入封し、大改修を行う。
- 1686年
- 大久保氏が入封し、幕末まで至る。
- 1870年
- 廃城となり、天守などが破却される。
- 1960年
- 天守再建。
参考になるサイト:
小田原城 写真の間
押さえたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 学橋 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸 ⇒ 銅門 ⇒ 馬屋曲輪 ⇒ 馬屋門 の順に
学橋⇒二の丸⇒本丸⇒銅門⇒馬屋曲輪⇒馬屋門
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の**城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
小田原城 よろず間
小田原城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は城跡にあった小田原城案内図を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
小田原城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた小田原城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 現在の天守は昭和35(1960)年に鉄筋コンクリートでほぼ外観復元されたものです。天守最上階が観光を意識して古とは少し異なるようです。詳しくは 小田原城 ここにはご注意を!! を参照下さい。
- 天守の復元を手始めに昭和46(1971)年には常盤木門(ときわぎもん)、平成9(1997)年には銅門(あかがねもん)、平成21(2009)年には馬出門が復元されています。
[ 2012/09/27 ]
小田原城 ここが興趣深い
小田原城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
- 現天守は元禄の大地震後、1706(宝永3)年の再建された姿を1960(昭和35年)に鉄筋コンクリートで建てた復興天守です。
[ 2012/05/19 ]
小田原城 ここにはご注意を!!
主に、あやしい天守閣 を参考にちょっと気になるハテナ?をまとめました。
それなりに楽しんでいたらければと思います。
- 外観復元されたものですが、あやしい天守閣 によると最上階に展望台となるオリジナルにはない高欄が設けられているとのことです。確認しようと古写真を捜しましたが天守が写っている写真は見つからず、未確認です。
[ 2012/05/19 ]
**城で出会った説明板
小田原城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 小田原城
- ♦ 小田原城天守閣
- ♦ 小田原城と銅門
- ♦ 銅門
- ♦ 銅門 土塀模型
- ♦ 伝 銅門礎石
- ♦ 常盤木門
- ♦ 小田原城 常盤木門
- ♦ 史跡小田原城址 馬出門桝形
- ♦ 馬出門
- ♦ 小田原城本丸
- ♦ 国指定史跡 小田原城址 弁財天曲輪跡
- ♦ 史跡小田原城址 馬屋曲輪
- ♦ 馬屋跡
- ♦ 雁木
- ♦ 切石敷井戸
- ♦ 小田原城 御茶壺蔵跡
- ♦ 国指定史跡 小田原城址 本丸東堀跡
- ♦ 国指定史跡 小田原城址 二の丸東堀
- ♦ 銅門と住吉堀の発掘調査
- ♦ 小田原城と小田原合戦攻防図
- ♦ 絵が中心の案内・説明書
小田原城
小田原城
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。
北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。
明治3年(1670)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。
昭和35年(1960) 天守閣復興
昭和46年(1971) 常盤木門再建
平成 9年(1960) 銅門復元
平成21年(2009) 馬出門復元
平成28年(2016) 天守閣リニューアル
常盤木門SAMURAI館オープン
小田原城天守閣
小田原城天守閣
「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所として用いられました、寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり、展望を楽しんだりしたという記録が残っています。
元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部4階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面リニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。
標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき。晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。
小田原城と銅門
小田原城と銅門(あかがねもん)
銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
銅門
銅門(あかがねもん)
天守閣へ通じる登城ルートに設けられた、二の丸の表門。
扉の飾り金具に銅を使用していたことから、その呼び名がついたと言われている。当時の工法により平成9年(1997)に復元。
櫓門の梁:マツ 柱・扉:ヒノキ
銅門 土塀模型
銅門 土塀模型
この土塀模型は、銅門の建設を行うに際し、事前に製作したものです。
銅門は江戸時代の工法、技術を採用しているため使用する木材や白壁の材料である土の収縮や渇き具合などを確認する必要があり、この模型は重要な役割を果たしました。
皆様に古い建築の工法をご理解いただくため、銅門の完成を期に小田原市建築共同組合より寄贈を受けたものです。
小田原市
伝 銅門礎石
伝 銅門礎石
この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。
使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。
箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。
手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。
小田原市
常盤木門
常盤木門(ときわぎもん)
小田原城本丸の正門で、最も大きく堅固に造られていた。
常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえてこの名がつけられたと言われている。
市制30周年事業として、昭和46年(1971)に再建された。
小田原城 常盤木門
小田原城 常盤木門(ときわぎもん)
本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、もっよも大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分る。
元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として、昭和46年(1871)3月に完成した。
常盤木とは、常緑樹の意で、門の傍らには応じから松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も成長することになぞらえ、小田原城が永久不変に反映することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。
史跡小田原城址馬出門桝形
史跡小田原城址馬出門桝形
国指定史跡小田原城址は、昭和58年から本格的な史跡整備事業に着手し、現在、二の丸から本丸へ至る大手筋の歴史的外観の復元整備を進めています。
馬出門桝形は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在したと考えられますが、寛文12年(1672)に現在の姿に作り変えられたものです。
馬出門の整備事業は、平成15・16年度に発掘調査を行い、整備計画を立案し、平成17・18年度に石垣復元工事を、平成19・20年度で桝形の門と土塀の復元工事を行いました。
馬出門桝形の概要
馬出門桝形は馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。二つの門は控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。
馬 出 門 高さ約6.3m 幅約4.7m
内冠木門 高さ約5.3m 幅約3.6m
土 塀 高さ約2.7m 地上高約4.3m 延長約88m
馬出門の発掘と整備計画
発掘調査により桝形石垣の根石(基礎石)が見つかったことで、正しい門の位置が明らかになりました。これらの発掘の成果と絵図ばどの資料の検討を行い、復元整備計画が立てられました。
石垣工事
石垣は安山石という硬い石を使っています。門の南側は真鶴で産出する「小松石」を使い、北側は角石を除き石垣山一夜城近くで発見された、「早川石丁場」で出土した石を使いました。
門・土塀工事
馬出門と内冠木門は、柱や扉は「ケヤキ」、屋根の下地は「サワラ」、土塀の控柱は「クリ」、土塀などの柱などは「ヒノキ」が使われています。
土塀は伝統的な工法によりつくられており、荒壁塗りから仕上げの漆喰塗りまで7~8回も塗って乾かすという。大変手間がかかる工程を経て仕上げられています。
門や土塀に葺かれた瓦は。発掘で出土した江戸時代の瓦を忠実に復元したものが使われています。
馬出門
馬出門
馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。
石垣と土塀で四角く囲んだ桝形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。
小田原城本丸
小田原城本丸
小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(約114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかって本丸御殿が存在しました。本丸の周囲は、石垣と土塀がめぐらされており、東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました。東南側の門は、本丸の正門にあたる常盤木門(ときわぎもん)、北川の門は、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)とそれぞれ呼ばれています。
天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3年(1706)に再建されました。以降、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1670)の廃城によって取り壊されました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。
本丸御殿は寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建築されたもので、元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されていません。
元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれる松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は七本松の最後の一本で樹齢400年を超えるものです。
小田原城本丸一体は、昭和34年(1959)、国史跡に指定され、貴重な文化財として保護・保存されています。
平成23年3月 小田原市
国指定史跡小田原城址 弁財天曲輪跡
国指定史跡小田原城址
弁財天曲輪跡
指定日 昭和13年8月8日
江戸時代この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。
戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える鉄砲玉も出土しています。
≪説明に添えられている図≫
史跡小田原城址 馬屋曲輪
史跡小田原城址
馬屋曲輪
馬屋曲輪はL字型を呈する独立した曲輪である。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、土塁の上へと登る雁木(階段)は、二重櫓両側(写真1)と南側土塁(写真2)の位置にあった。
この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壷曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。曲輪の規模は、東西四十七間(約92.59m)、南北三十七間(約72.89m)であった。
曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と「大腰掛」の二棟の建物の中心に番所、切石を配した井戸などがあり、南東隅には二重櫓があった(図1)。「馬屋」と「大腰掛」は「板塀」により繋がっており(円礫を用いた石列の位置)、発掘調査では、塀を境に表と裏では敷かれている石が異なっている様子が確認されている(写真3)。また、「住吉橋」の東に「住吉松」と呼ばれた名物のマツがあったが、幕末に失われた。
なお、曲輪内にあるマツの内、四つ目垣のある老マツは古写真にも写る古木である(写真4)
馬屋跡・大腰掛跡
馬屋曲輪の名前の由来でもある主要建物。古文書や絵図類を見ると、稲葉氏の時代には存在することがわかり、元禄16年(1703)11月22日の地震で発生した火災で焼失した。発掘調査でも、この時の火事の痕跡が明瞭に確認されている。
西側の建物が「馬屋」、東側が「大腰掛」である。「馬屋」は、現存する彦根城の馬屋を参考にすると、およそ14頭の馬を繋ぐことができたと考えられる。「大腰掛」は、「大腰かけ御番所」とも呼ばれる登城者の待機所であり、江戸城の「百人番所」(東京都千代田区)、二条城の「二条番所」(京都府中京区)のように番所であった。いずれも寛永11年(1634)の将軍徳川家光上洛に際し、小田原城が宿所とされたために整えられた特別な施設と考えられ、小田原城の重要性がうかがわれる。
なお、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった。
二重櫓櫓台
寛永20年(1643)12月26日付けで、幕府により櫓新設の許可を経て作事が行われた建物である。絵図に描かれた二重櫓を見ると、雌雄の鯱瓦を乗せた上層の屋根は破風のない入母屋造り、下層は千鳥破風を伴う寄棟造りで、石落としを備えていたことがわかる。
切石敷井戸
円礫を積み上げた井戸で、表面は溶結凝灰岩の切石で装飾されていた。表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸と言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。
馬屋跡
雁木
切石敷井戸
小田原城 御茶壺蔵跡
小田原城 御茶壺蔵跡
江戸時代には、幕府御用の茶壷を宇治(京都)から江戸まで搬送する茶壷道中が行われていました。
このあたりは、その一行が小田原宿に宿泊する際に、茶壷を収納した御茶壺蔵があったところです。
国指定史跡 小田原城址 本丸東堀跡
国指定史跡 小田原城址
本丸東堀跡
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところで20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。
国指定史跡小田原城址 二の丸東堀
国指定史跡小田原城址
二の丸東堀
指定 昭和13年8月8日
小田原城は、江戸幕府の三代将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。
二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でもっとも大きなもので、幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで続いていました。また、西は常盤木橋、南は南曲輪の前までつながっていました。
現在の石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものより高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。
なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。
小田原市教育委員会
銅門と住吉堀の発掘調査
銅門(あかがねもん)と住吉堀の発掘調査
>銅門と住吉堀は、昭和58年から平成4年にかけて行われた発掘調査の結果や古絵図等の史料に基づいて」復元されています。この発掘調査では、江戸時代の堀や石垣だけでなく。戦国時代の井戸や水路、障子堀と呼ばれる堀などが発見され、戦国時代から江戸時代にかけて、小田原城が何度も造り替えられていたことがわかりました。
小田原城と小田原合戦攻防図
小田原城と小田原合戦攻防図
天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地御鰆上は、全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲されました。
●時代を画した小田原合戦
織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万よもいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原城階上をきついします。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。
●戦闘の経過
天正18年(1590)3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を出発しました。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛利輝元(本人は京都留守居)等の水軍の物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻しました。
これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本体の猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別動隊に主要な市場を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。
●小田原合戦の意味
北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり、「石の城」でした。
北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。
また、小田原合戦後、参陣した武将は国元い戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行いまdた。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。
絵が中心の案内・説明書
高田城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
登城の道のり
登城日:1978年頃
登城日:平成29年8月22日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
小田原城 まで 簡単に説明
- ずいぶん昔に登城。道のりは忘却の彼方。
- 地図で見るとJR/小田急 小田原駅 などから10~15分程度か?
- 周辺、城内の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:小田原城 天守
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス