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表門 旧二の丸隅櫓重要文化財

 

新発田城

新発田城のご案内

新発田城 ひとくちメモ

所在地
新潟県 新発田市
別 名
菖蒲城、浮舟城、狐尾引城
築城者
新発田氏、溝口秀勝
別名の由来
浮舟城:籠城戦の時、北側の加治川の堤防を切って城の廻りを水浸しにして敵から守れるように設計されていたため
菖蒲城:周囲に湿地が多く菖蒲(あやめ)がたくさん咲いていたため
狐尾引城:長井清左衛門(一説に葛西外記)が縄張りの時、狐が枕辺に立ち、白雪の上に尾で図示したという伝説
天守概要
かっては 複合式層塔型 3重3階の御三階櫓が上がっていたが明治7(1874)年に破却される。平成16(2004)年には木造で三階櫓が復元される。
城郭構造
平城
遺 構
表門[]、 二の丸隅櫓[] 足軽長屋、 石垣[]、土塁、 堀[] など
再建造物
三階櫓、辰巳櫓[] など

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

新発田城 簡易年表

1598年
溝口家初代当主 秀勝、新発田城築城開始。
1668年
大火災が起きる。三の丸より出火し、鉄砲櫓・丑寅櫓を除くほぼ全城が焼失す。
1679年
本丸のいぬい櫓があった場所に三階櫓が完成する。
1712年
遅くともこの時点で、1668年に焼失した建物すべて再建されていたものと考えられる。
1719年~
火災や風水害で再建、修復が繰り返される。
1873年
城郭破却令がなされ、これにより現在現存する本丸の一部を残して破却される。
2004年
三階櫓・辰巳櫓の史実に基づいた復元工事が完成。

おもに、新発田城の変遷 を参考にまとめました

参考になるサイト:

新発田城 写真の間

抑えたい処、美しい処

新発田城:本丸鉄砲櫓跡に移築された、二の丸隅櫓

(1)
本丸鉄砲櫓跡に移築された、
二の丸隅櫓

新発田城:本丸鉄砲櫓跡に移築された、二の丸隅櫓

(2)
本丸鉄砲櫓跡に移築された、
二の丸隅櫓

新発田城:本丸大手門渡り櫓と巽櫓

(3)
本丸大手門渡り櫓と巽櫓

新発田城:本丸鉄砲櫓跡に移築された、二の丸隅櫓

(4)
本丸鉄砲櫓跡に移築された、
二の丸隅櫓

新発田城:本丸鉄砲櫓跡に移築された、二の丸隅櫓

(5)
本丸鉄砲櫓跡に移築された、
二の丸隅櫓

新発田城:本丸鉄砲櫓跡に移築された、二の丸隅櫓

(6)
本丸鉄砲櫓跡に移築された、
二の丸隅櫓

新発田城:本丸鉄砲櫓跡に移築された、二の丸隅櫓

(7)
本丸鉄砲櫓跡に移築された、
二の丸隅櫓

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の新発田城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

新発田城:本丸大手門渡り櫓と巽櫓

フィルム撮影の新発田城
1974年頃 撮影

新発田城 よろず館

新発田城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた新発田城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 表門、旧二の丸隅櫓は 重要文化財 に指定されています。
  • 新発田城の三階櫓は海鼠壁とともに鯱が3匹のっている珍しい櫓です。

[ 2012/10/13 ]

新発田城 ここが興趣深い

新発田城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 新発田城の表門の前には堀部安兵衛の像があります。堀部安兵衛は高田の馬場の決闘や忠臣蔵で有名ですが、新発田藩士・中山弥次右衛門の長男として新発田で生まれています。父親は櫓失火の責任を問われ禄を没収され浪人となったいわれていますが、安兵衛は十八歳で江戸に移り住んでいます。高田の馬場の決闘の後、その評判を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛に請われて養子となり、堀部安兵衛となって赤穂浪士の一員となっています。江戸時代に新発田・江戸・赤穂とかなりの距離の変な結びつきにちょっとびっくりです。

[ 2012/10/13 ]

新発田城 重要文化財

新発田城では表門、旧二の丸隅櫓が重要文化財に指定されています

新発田城は「新発田城」として表門、旧二の丸隅櫓の2棟が昭和32(1957)年に新しく重要文化財に指定されました。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
新発田城
 
表門
脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺
 
旧二の丸隅櫓
二重二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺
 
 

新発田城 面白文書、拾い上げ

書籍など、新発田城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

 新発田城の櫓群を見ると、他城の櫓と違って屋根の四隅の反りが美しいのに気づく。これは、屋根を支える軒垂木の茅負いの上の化粧材である裏甲が黒色に塗られ、軒先のラインを強調しているからで、江戸城と同じ特殊手法だ。

名城の日本地図 より

松本城 [太鼓門枡形の由来 案内板]

 現存する二重隅櫓と本丸表門をみると、壁面が金沢城と同じ海鼠(なまこ)壁であることに気づく。天守に相当した御三階櫓をはじめ、新発田城の櫓・門はすべて海鼠壁で統一されていた。

 海鼠壁とは、せん瓦とも呼ぶ方形の平瓦を壁面に貼り、目地である繁ぎ目の漆喰を盛り上げてリズミカルな模様を描かせる壁面構成という。 (途中略)

 新発田城・金沢城ばかりでなく、富山城・鹿野城など日本海側の城郭面に海鼠壁が多く採用されている。

 これには理由がある。

 下見板張だと、雪が凍りつき、腐蝕が早く進んでしまう。下見板張面に塗る腐蝕防止の塗料柿渋は雪の凍結が融けると剥がれてしまう。また漆喰壁は雪蝕けのおり、屋根の瓦の黒色墨が軒下で跳ね上げて著しく汚れてしまい、美観を保つことが難しいのである。

 海鼠壁はこのように寒冷地帯に適した壁構造だったのである。

 今日現存する二重隅櫓は二の丸に建てられていたものを昭和三十二年六月、重要文化財指定に伴い、いまの本丸鉄砲櫓跡に移築したものである。

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

新発田城は溝口氏六万石の居城で、現存の建物は江戸末期の再建である。 表門は櫓門で、二の丸隅櫓は二重二階櫓である。 これらの遺構は建築年次は新しいが、いづれも古様を帶び、地方色も豊かに、北陸地方としては遺例が少い貴重な遺構である。

国宝・重要文化財(建造物)新発田城 の解説文

登城の道のり

登城日:30~40年前

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

新発田城まで 簡単に説明

  • ずいぶん昔に登城。道のりは忘却の彼方。
  • 地図でみると新発田城駅から距離にして約2Km程度、歩30~40分程度か??
  • 周辺の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
  • 登城ルートはGoogleMap上で短かそうな道を探したもので実際に歩いたものではありません。

[ 2015/6/4 追記 ]

ストリートビュー:旧二の丸 隅櫓

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞