- 浮世絵の値段
浮世絵の値段
江戸の一般庶民が愛でたという浮世絵、庶民ばかりでなく大名も好んだ(浮世絵 再発見 小学館)といわれる浮世絵、当時はいくらで売られていたのだろうかと疑問に思っていました。「浮世絵 岩波書店」と上記「浮世絵 再発見」2誌に記事がありました。紹介がてらまとめてみます。
根拠 | 時期 | 内容 | 引用先 |
---|---|---|---|
類従撰要 | 寛政7年 (1795年) |
錦絵は在庫分に限って販売を認めるが、新たに摺るものは小売値を16文から18文に設定するよう制限をだしている | 浮世絵 |
御触書集成 | 天保13年11月 1842年 |
「壱枚絵之儀、以来彩色七八篇を限り売値段一枚拾六文以上之品可為無用候」というように、色数は7、8色、小売値は16文以下というきびしい統制を行っている。 | 浮世絵 |
己未東遊記草 (山本恕軒) 及び、同様の幕末期の旅日記 |
幕末期 | 江戸に出てきた旅人が購入した錦絵一枚の値段を割りだすと、24、5文から30文強という数字が多く見出せる。現在の貨幣価値に換算すれば、数百円といったところだろうか。幕府による公定価格は結局守られることはなく、色数や彫りの精度で価格は動き、同じ絵でも摺りを上等にして、値投をかなり高くした特別品もつくられている。また、人気作品の場合は売り手市場の値段が付けられるというように、需要と供給の関係で決定されるものであったことは、他の商品と同じである。 | 浮世絵 |
塵塚談 小石川養生所の 医師 小川顕道 |
文化11年 1814年 |
文化11年当時ではなく、錦絵誕生以前の紅摺絵の時代に、鳥居派が描いた作品のことを指していると考えられ、4文とある。 | 浮世絵 再発見 |
黄表紙 荏(江)戸自慢名産杖 山東京伝 |
文化2年 1805年 |
役者絵は二枚で16文(一枚8文)、大版錦絵は20文ということだ。 | 浮世絵 再発見 |
馬琴書簡集 | 天保9年 1838年 |
幕末ぱインフレの時代だが、浮世絵版画の標準的な判型である大判錦絵は、このころには実売価格が32〜38文(48文とも)とあり、北斎や広重、国貞・国芳の時代にはこのくらいの値段で推移していた模様である。 | 浮世絵 再発見 |
藤岡屋日記 藤岡屋由蔵 |
天保15年 1844年 正月10日の記事 |
貞秀の名で再販されたのぱ、お上の改革に対する庶民の怨念をあらわしていた化物が登場しない仕様の、縮小版の版画三枚続であり、これを一般での店頭販売で36六文で売つた。ところがそれにぱ別ヴアージョンが存在し、その部分に元の国芳の版画同様に化物を摺りこんだものが、客との対面での秘密売買で、なんと100文だつた、というのだ。売れる作品、きわどい作品が高額であったことの証として、一般的に春画が高値といわれることとも符合する貴重な証言だ。三枚続きの版画で36文とは、お値打ちな感があるが、これぱ大判より小さな判型の版画のこと | 浮世絵 再発見 |
同書 | 嘉永元年 1848年 十月の記事 |
前月出版の山田屋版武者絵「右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図」三枚続が、やはり歌川貞秀の作で72文で売り出され、合計八千組、つまり2万4千枚を売ったという。大判錦絵一枚相当では、単価は24文ということになるのである。 | 浮世絵 再発見 |
同書 | 嘉永5年 1852年 二月の項 |
人気役者を釈迦に見立て、号泣する動物に知人を置き換えた見立涅槃図、相当売れたようだ。著名人の訃報ともいうべき幕末の死絵の類は、その性格上色数が少なく、しかも、明らかに短期勝負の出版だった。錦絵の出版にぱギャンプルの要素があるが、とりわけその性格が強調されがちなこの種の版画は、一般に値付けが高く、袋入りで一部が銀一匁五分という値段ぱ、通常の錦絵よりも数倍割高であったことがうかがえるのである。 | 浮世絵 再発見 |
これらから、特別な高価なものもあったが、「浮世絵」のなかで書かれてているようにおおむね、「24、5文から30文強、現在の貨幣価値に換算すれば、数百円といったところだろうか。」が妥当なところに思えます。
が、しかし、少し気になるのが「現在の貨幣価値に換算すれば数百円」という点です。現在でも浮世絵の展示会やネット販売[ 例:浮世絵のアダチ版画 楽天市場店 ]で復刻版が売られていますが、これらはだいたい1万円〜2万円程度です。数百円がいくらをイメージしてうるのかわかりませんが、千円としても10倍以上の違いがあります。現在と当時では、浮世絵の使用目的も異なるし、原材料などの違いもあるとは思いますが少し疑問が残ります。他の物価と比べどうなのか? わかれば追加します。
(2009/1/23)
江戸時代といっても250年ほどあり、その間でも価値が変化するであろうし、また、現在の何と比較するかで違ってくるだろうし、なかなかむつかしいものがあります。
ちょうど今よんでいた本「学校ではあつかえないウラ日本史」の内にちょろちょろでてきて庶民の生活が垣間見えるものがありました。少し整理して歴史のおもしろ話に掲載しようとも考えていますが、とりあえずそのままこれらを紹介します。
江戸時代の男性たちも、お妾さんを囲う者も少なくなかった。その相場は、安政(1854〜59)のころで月々三〜九両。今のお金でいえば、一五万〜四五万円くらいになる。
当時のラブホテルは「出会茶屋」と呼ばれ、(途中略) 出会茶屋に泊まりはなく、休憩専門。料金は、食事つきで一分(四分で一両)が相場だった。今のお金に換算すれば二万円近くはしたわけで、庶民が気軽に使えるところというより、現在の感覚でいえば、一流料亭で休憩するようなものだった。
柴田鳩翁の書いた「鳩翁道話」によれば、花見でにぎあう京の嵐山に”貸し雪隠”があったと書かれている。
近所に住んでいた八兵衛という農民が、たくさんの人出を見て、一回三文の有料トイレをつくった。屋台のうどんが一杯一六文の時代だから、今の金額に直せば、一回二0〜三0円ほどである。
[参考] 1両は4分、1分は4朱、1朱は400文・・・・・(管理人注記)
(2009/2/15)
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