志賀島の金印の謎?

変なことを覚えているもので、高校時代(約40年前)の歴史の授業で「志賀島の金印は江戸時代に百姓の甚兵衛さんが石の下から発見したが、黒田の殿様が歴史好きで捏造した疑いがある。」というこぼれ話を先生がしてくれた事を覚えています。この辺の事情を説明した本をかなり前に読んだ記憶がありましたがはっきりしていませんでした。「これだったのかな?」と思われる本を最近読んだので紹介します。

謎 ジパング」という本で、2編金印について書かれています。1編は金印が複数個あるという話で、もう1編が発見時の事情を書いています。結論的には、断定はしていませんが福岡藩の藩校甘棠館の館長亀井南冥のでっち上げと推測しています。福岡藩では発見当時、2つの藩校、修猷館と甘棠館がほぼ同時に開校(金印発見年の同じ月)したばかりで、お互いに対立していました。甘棠館の館長長亀井南冥は発見後すぐに報告書を2通作成していること、発見の関係者も亀井に関わる人々ある、等々の事情から捏造か?としています。

蛇足を2点ほど。印文は漢委奴国王で通常漢の委(わ)の奴(な)の国王と読み下しますが、この本でも少し触れていますが委(わ)の奴(な)に分けるのではなく、委奴(いと)として邪馬台国の話にもでてくる伊都に結びつける話があります。「邪馬台国はなかった」で古田 武彦さんはこの論を展開しています。

もう一つは、本物の金ではないのですが、私も金印のイミテーションを持っています。子供の学習雑誌の付録と記憶しているのですが、その写真を下に載せます。金印のサイズは1辺が2.35cmのほぼ正方形ですが、これも同じ大きさになっています。


印文 金印

[2006/08/23]


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