別部穢麻呂とは誰?

41年ぶりに皇室に男子が誕生して皇位継承の問題もじっくり慎重に議論ができることになりましたが、過去には天皇になろうとした人物がいました。称徳天皇(女帝)の時代の弓削道鏡です。ここでの話は、実は道鏡の話ではなく、これに反対した和気清麻呂の話です。

称徳天皇は、いろいろないみで道鏡をかわいがっており、その天皇に神護景雲3年(769年)、九州大宰府 ( 後に菅原道真が流された所 ) の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげあそまろ)より「道鏡を皇位につければ天下泰平になる」との宇佐神宮の宣託を奏上したことで、道鏡を天皇にするか否かで大騒動が起きました。この時、宇佐神宮に再度、宣託を伺いに行ったのが和気清麻呂です。清麻呂が持ち帰ったこたえは否でした。これで道鏡は天皇に成れなかった。ここまでは教科書にでてくる話しです。


その後の話を少しします。これに怒った天皇は清麻呂を大隈国(現在の鹿児島)に流し、名前は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられました。そのとばっちりを受けて姉の広虫女狭虫女と変えられ備後国(現在の広島)に流されています。清を穢、広を狭にするなど子供じみた話ですが「続日本記」に書かれています。

その後、宝亀元年(770年)には罪を許されて都に戻っています。長岡京、平安京の造営にも功績をあげていますし、国造にもなり復権もしています。罪人になったり、復権したりとめまぐるしい動きです。ちょうどこの時期は天皇の継承も、称徳天皇は天武系、次の弘仁、桓武天皇は天智系となっており、皇位継承や権力抗争の裏事情がうかがわれます。「続日本記」は桓武天皇の時代に編まれたものであり、道鏡は悪人に仕立て上げられた生贄かもしれません。

[2006/09/09]


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