紫式部と清少納言は犬猿の仲?

11世紀初めの一条天皇の宮廷には多くの才女がいました。皇后 定子に仕え「枕草子」を画いた清少納言、中宮 彰子に仕え「源氏物語」を画いた紫式部は特に有名です。この二人はお互いよく思ってなかったようです。

紫式部日記」の寛弘六年(1009年)正月三日には清少納言を酷評しています。少し長くなりますが、この部分の現在語訳を次に示します。

清少納言こそは、得意顔をして、たいそう高慢ちきだった人です。あんなに学者ぶって漢字を書き散らしますが、その程度も、よく見るとまだまだじょうずだとは言われない点が多い。このようにとくに人と変わったやりかたをしようと思い、好んでそうやっている人は、かならず後には見劣りがし、将来はよいはずがないものであるから、またあんなに趣味生活に溺れてしまっている人は、いっこう感興のないような場合にも、無理に感興を求めようとし、その方にばかりに心が進みすぎて、ちょっとおもしろい事があってもそれを見過ごさないから、自然と、そうあってはならないほどの軽薄なようすにもなるものでしょう。そのような軽薄になってしまった人の晩年は、どうしてよいはずがありましょうか

[2004/09/17]

[追加]

時期的にみると、二人は宮廷での直接的な接点はなかったようです。式部が少納言について日記に書いた時点では、清少納言は既に宮廷を去っており、式部の一方的な批判のようです。

(2004/09/27)

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