黄門さまの嘘?

TBS系の月曜日夜8時と言えば「水戸黄門」の指定席ですが、初代(?)の 東野英治郎 さん以来少なくとも40年近く続いています。全シリーズ、諸国漫遊に出かけて悪を懲らしめるるという偉大なるマンネリの展開ですが、本当に漫遊にでかけたのでしょうか??

結論から述べると、諸国漫遊はしていません。藩主時代はとても諸国漫遊などしている余裕などはなく、日光、鎌倉に出かける、および江戸と水戸の往復程度のようです。隠居後は藩内を廻ることはありましたが諸国漫遊などはなかったようです。


水戸黄門、すなわち徳川光圀は、家康の十一番目の男子、徳川頼房の三男、従って家康の孫にあたります。寛永5年(1628年)に生まれ、寛文1年(1661年)34歳で家督相続、水戸藩2代目の藩主となります。 元禄3年(1690年)63歳で家督を兄頼重の子、綱条に譲り、水戸公害の西山荘に隠居しています。隠居後も藩主時代に始めた「大日本史」の編纂に従事しています。

この仕事を支えた彰考館の学者が、佐々木助三郎の助さん、渥美格之進の格さんのモデルになっています。助さんのモデルは佐々十竹、格さんのモデルは安積澹泊という人です。佐々十竹は黄門さんの命で畿内から九州・四国にまで史書の探訪にでかけており漫遊(?)の話ネタにされたのかも知れません。ちなみに彼はテレビで時々見かける浅間山荘事件の指揮を取った佐々淳行さんの先祖らしいいです。


いつ頃漫遊記ができたかというと、江戸期の終わりごろ、講釈師が十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を模して作ったのが始まりのようですが、明治20年代に大阪の講談師が助さん、格さんを連れて漫遊するという話を生み出していったようです。

ちなみに、黄門さまのいわれは、光圀公の官位が権中納言で中納言の中国風の呼び方が「黄門」だそうです。また、テレビでよく言われる「副将軍」という地位もありませんでした。尾張家・紀州家は将軍に後継ぎがいない場合に将軍を出す家柄ですが、幕政には関与できませんでした。しかし、水戸家は尾張家・紀州家より禄高が少なく、家格も一段低いのですが、江戸常府として将軍を補佐しており、「副将軍」と位置付け(自覚)していたようです。


教えて! goo にいろいろ光圀公に関する面白い話がありましたのでを紹介しておきます。

[2006/09/09]


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