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世界文化遺産

国宝・重要文化財

二条城

二条城のご案内

二条城 ひとくちメモ

所在地
京都府 京都市
別 名
-
築城者
徳川家康
天守概要
現在は天守台のみ。複合式層塔型 5重5階の天守が上がっていたが、1750年に落雷で焼失、
城郭構造
輪郭式平城
遺 構
二の丸御殿大広間[] など6棟が国宝、 二の丸御殿唐門[] など22棟が重要文化財、 二の丸庭園(特別名勝)[] 本丸庭園、石垣、 堀[] など
再建造物
再建ではありませんが昭和40(1965)年に清流園[]が造営されています。
高 さ
石垣は水面より14m

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

高さは «イラスト図解 城 » に依る。

遺構は数多くあります。詳細は 二条城 国宝・重要文化財 を参照ください。

二条城 簡易年表

1569年
織田信長、足利義昭のために二条城を築く。
1587年
豊臣秀吉、聚楽第を築く。
1602年
徳川家康、二条城を築く。
1626年
後水尾天皇、二条城に行幸。
1634年
徳川家光、上洛。
1750年
落電により天守焼失。
1788年
将軍家茂上洛のために二の丸御殿など修復。
1867年
大政奉還の舞台となる。

図解 日本の城 より

明治以降の歴史を少し追加します。

1867年
徳川慶喜が大坂城に移ると朝廷が接収。
1868年
太政官代が置かれる。
1870年
留守官の管轄下となる。
1884年
所管が宮内省に移り『二条離宮』と改される。
1939年
宮内省より京都市に下賜され『旧二条離宮』の名で史跡に指定される。
 
『二条城』として二の丸御殿などが国宝(旧国宝)に指定される。
1952年
新文化財保護法のもとで新たに二の丸御殿6棟が国宝、他は重要文化財に指定される。
1994年
『古都京都の文化財』の一つとして世界遺産に登録される。

参考になるサイト:

二条城 写真の間

抑えたい処、美しい処

数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。

東大手門 ⇒ 唐門 ⇒ 二の丸庭園 ⇒ 東橋 ⇒ 本丸庭園 ⇒ 西橋 の順に

西橋から北回り ⇒ 東大手門 の順に

西橋から南回り ⇒ 東大手門 の順に

東大手門 ⇒ 唐門 ⇒ 二の丸庭園

二条城:東大手門から唐門へ 東大手門

(1)
東大手門

二条城:東大手門の内部

(2)
東大手門の内部

二条城:東南隅櫓の内部

(3)
東南隅櫓の内部

二条城:東大手門から唐門へ 唐門

(4)
於・二の丸 唐門

1973年頃のほぼ同じアングル

二条城:二の丸御殿 車寄

(5)
於・二の丸 車寄

1973年頃のほぼ同じアングル

二条城:於・二の丸 大広間

(6)
於・二の丸 大広間

1973年頃のほぼ同じアングル

二条城:於・二の丸 大広間、黒書院

(7)
於・二の丸 大広間、黒書院

1973年頃のほぼ同じアングル

二条城:二の丸庭園

(8)
二の丸庭園

1973年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

東橋 ⇒ 本丸庭園 ⇒ 西橋

二条城:二の丸から本丸へ 東橋

(9)
二の丸から本丸へ 東橋

二条城:於・本丸 櫓門

(10)
於・本丸 櫓門

二条城:天守台より周囲を見渡す 本丸御殿

(11)
天守台より本丸御殿

二条城:於・天守台 内濠、奥に桃山門

(12)
於・天守台 内濠、奥に桃山門

1973年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

二条城:天守台より周囲を見渡す 西橋

(13)
天守台より西橋

二条城:本丸 玄関

(14)
本丸 玄関

二条城:西橋から、奥に天守台

(15)
西橋から、奥に天守台

1973年頃の撮影
現在のほぼ同じアングル

西橋から北回り ⇒ 東大手門

二条城:北中仕切門

(16)
北中仕切門

二条城:鳴子門

(17)
鳴子門

二条城:和楽庵

(18)
和楽庵

二条城:北大手門を内側から

(19)
北大手門を内側から

西橋から南回り ⇒ 東大手門

二条城:米倉

(20)
米倉

二条城:桃山門

(22)
桃山門

外側から

二条城:外濠の周囲からの眺め 東南隅櫓

(23)
外濠から 東南隅櫓

1973年頃のほぼ同じアングル

二条城:外濠の周囲からの眺め 南門

(24)
外濠から 南門

二条城:外濠の周囲からの眺め 西南隅櫓

(25)
外濠から 西南隅櫓

二条城:西門、埋門です

(26)
西門、埋門です

二条城:外濠の周囲からの眺め 北大手門

(27)
外濠から 北大手門

夜 ライトアップの二条城

二条城:香雲亭

香雲亭
2012年

二条城:台所、内では琴の演奏

台所、内では琴の演奏
2012年

二条城:唐門越しに二の丸御殿を望む

唐門越しに二の丸御殿を望む
2016年

二条城:北大手門を内側から

北大手門を内側から
2016年

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の二条城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

二条城:桜の季節に東大手門、南東隅櫓の公開

東大手門、南東隅櫓の公開
2017年4月9日 撮影

二条城:旧二条城の発掘調査にあわせ、本丸御殿

旧二条城の発掘調査で
2016年5月14日

二条城:ライトアップ

二条城 ライトアップ
2016年4月8日

二条城:ライトアップ

二条城 ライトアップ
2012年3月28日

二条城:夏の二条城

夏の二条城
2008年7月23日

松本城:フィルム撮影の松本城

フィルム撮影の二条城
1973年頃 撮影

二条城 よろず間

二条城 縄張りとカメラアングル

※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。

※ 数字は上の写真の番号に対応。

※ 縄張図は二条城にあった 案内図 を使用しています。

解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。

二条城案内地図

外濠

内濠

本丸庭園

櫓門

塀重門

西門

北中仕切門

南中仕切門

西橋

東橋

本丸御殿

書院

台所

玄関

御常御殿

米倉

米倉

天守台

西南隅櫓

二の丸庭園

北大手門

東大手門

南門

鳴子門

桃山門

唐門

御清所

台所

収納庫

米倉

二の丸御殿

車寄

遠侍

式台

大広間

黒書院

白書院

番所

東南隅櫓

清流園

緑の園

香雲亭

和楽庵

方向指示

二条城 ここが魅所・おすすめ

私の感じた二条城の魅力、見所、おすすめなどを紹介

  • 唐門 (龍虎)

    唐門軒下の飾り彫刻にはちょっと気づかないかもしれませんが四神( 玄武、青龍、朱雀、白虎 )が彫るられています。

    [ 2012/04/23 ]

    探してみましたが青龍、白虎しか居ないようです。【参考: 唐門

    [ 2019/02/01 ]

  • 米蔵(土蔵)

    二条城には台所の北側に1棟、西側に内堀に面して南北に2棟の米蔵(土蔵)が残っています。城郭に土蔵が現存するのは二条城だけです。

    [ 2012/11/7 追記 ]

  • 二条城ライトアップは桜のシーズンに毎年行われているようで(一応ご確認を)、二の丸に夜間入城できます。パンフレット2012年度のもの。

    二条城 ライトアップパンフレット

    2012年度の
    パンフレット

    2016年度の
    ライトアップ

二条城 ここが興趣深い

二条城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

  • 二条城は徳川幕府の開始と終焉に大きく関わっています。慶長8(1603)年に家康はこの二条城に勅使を迎え征夷大将軍の宣下を受け徳川幕府が誕生します。十五代将軍慶喜は慶応3(1867)年この二条城大広間で『大政奉還』を宣言し幕府の終焉を迎えることになります。
  • 西門

    大政奉還の後、慶喜は薩長の武力に押され西門からさびしく出ていったといわれています。

  • 東大手門の内部

    慶長の創建時は東大手門は櫓門で寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸で門の上に人が乗る形式では天皇に失礼になると薬医門に改造し、その後もとの櫓門に戻し、現在に至っています。

  • 天皇は五日間の滞在中に二度天守に登って京の景色を楽しまれたといわれています。
  • 桃山門

    桃山門は門内の両脇に番所が置かれ防備のための実用的な役割を担っていました。

  • 東橋と本丸櫓門

    東橋を渡った本丸櫓門は正面から見ると上のほうがのっぺらぼうで何か変な感じ、違和感を覚えます。これは寛永の創建時には東橋の上部に二の丸の黒書院近くの溜蔵から堀を渡り門の櫓部分を突き抜け本丸御殿まで通じる橋廊下が架けられていました。

    二階の廊下は昭和5(1930)年に撤去されましたが、部材はそのままの形で保存されているとのことです。 [ 2012/11/7 文追加 ]

  • 南門

    南門は大正天皇の御大典の際に造営されたもので二条城本来のものではありません。

    [ 2012/04/23 ]

    [ 2015/08/05 ] 写真を追加

※ ここが魅所・おすすめ、ここが興趣深いは 主に 京の門 を参考にしています。

二条城で出会った説明板

二条城で出会った案内/説明板の良いとこどりです

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

元離宮 二条城

元離宮 二条城

元離宮 二条城

慶長6年(1601年)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。

京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。家康の征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。

その後も、造営は続けられ、伏見譲の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣もそなえていた。しかし、寛延3年(1750)、雷火のため天守閣を焼失、また、天明8年(1788)には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓の多くを焼失した。

文久3年(1863)、十四代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、また、慶応3年(1867)には、十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。

明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26、7には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。

城構は、平城で、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの濠をめぐらし、東西約480m、南北360mあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所・御清所(おきよどころ)・東南・西南両隅櫓、東・北大手門・土蔵・本丸御殿などの重要文化財がある。

説明

二条城 説明

説明

舊二条離宮はもとの二条城を以て之に充てられたるものにして昭和十四年十月離宮を廢止せられ特別の思召を以て京都市に下賜あらせたり

二条城は慶長年間徳川家康の築造に係る 徳川家光寛永三年九月 後水尾天皇の行幸を仰ぎたり 慶應三年十月徳川慶喜此の城より上表して大政を奉還せり

明治元年正月 朝廷此の城を收めて大政官代と爲し又明治四年六月京都府廳此處に置かるるや同五年六月及同十年一月の兩度 明治天皇臨幸あらせたり

明治十七年七月離宮と定められ二条離宮と稱せらる 明治二十八年五月 明治天皇の行幸あり 大正四年十一月 大正天皇即位禮の際當城内の大饗宴場に行幸あらせられたり

城構は平城に屬し本丸、二之丸等より成り周圍には濠を繞らし本丸には天守臺、石垣等よく舊規模を存し其の郭内には明治二十六年舊桂離宮邸より移築せる御殿あり 二之丸には宏壯雄大なる二之丸御殿ありて其の結構比類罕なり

注意

一、火氣に注意する事

一、壘濠其の他工作物の毀損破壊を爲さざる事

一、濫に樹木の伐採及栽植を爲さざる事

一、其の他指定地域内の現状変更を爲さざる事

昭和十五年三月

文部省

※文書には旧字が使用されています。できるだけそのまま使いましたが、表示できない文字もあり一部は新字に直しています。

世界遺産 「古都京都の文化財」

世界遺産「古都京都の文化財」

世界遺産 「古都京都の文化財」

( 京都市・宇治市・大津市 )

二条城は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機構)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。


二条城は、慶長8年(1603)に徳川幕府により京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営され、その後寛永3年(1626)に大規模な拡張・修復工事が行われました。現在の二の丸御殿は基本的にはこの時のもので、このほか本丸内には弘化4年(1847)に造営された旧桂宮御殿が移築されています。

二の丸御殿は武家風書院造を代表する建築で、その主要部は遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各殿舎からなり、これらが二の丸庭園の池に沿って雁行形に配されています。内部は、床の高さや天井の形態、座敷飾り等によって各室に差異をつけながら配されており、また各室は部屋の目的に応じて障壁画が描かれ、欄間彫刻、飾り金具、釘隠し等が豪華に飾られるなどの意匠が凝らされています。

この御殿の西に大広間から眺められるように造られた二の丸庭園は池泉廻遊式の庭園で、池の法面や護岸に多くの豪華な石組を配するとともに、池の中に3つの島、奥に三段の滝を設けており、その力強い意匠は豪壮な建築群とよく調和しています。

登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録

京都市

重要文化財 本丸御殿

重要文化財 本丸御殿

重要文化財 本丸御殿

《本丸御殿(天守台から)

現在の本丸御殿は、明治27年(1894)、京都御所の北隣りにあった桂宮家の御殿の一部が移築されたもので、我が国で唯一現存する宮家の御殿として重要文化財を受けている。玄関、御書院、御常(おつね)御殿、台所及び雁之間(がんのま)の4棟からなり、建築年代は、棟により寛政5年(1793)から嘉永2年(1849)までとさまざまである。御所が火災にあった際に、一時仮御所として使われた御書院、居間であった御常御殿、そして玄関、台所等の移築前の主要な建物がここに揃っている。桂宮家は、桂離宮を創設したことで知られる桂宮智仁親王を始祖とし、12代を継承した淑子(すみこ)内親王が明治14年(1881)に薨去したことで断絶した。14代将軍徳川家茂の正室となった皇女和宮が江戸に向けて出立した御殿でもある。桂宮淑子内親王は明治天皇の叔母にあたり、和宮は彼女の妹である。

特別名勝 二条城 二の丸庭園

二の丸庭園

特別名勝 二条城 二の丸庭園

《二の丸庭園》

池を中心とした書院造庭園であり、庭には三つの島を置き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。

庭園は、大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの観賞を想定して造られているが、寛永三年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの観賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。

作庭年代については、記録や作風から推察して一六〇三年(慶長八年)の二条城築城の際にその建築に調和させて造営されたもので、後水之尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠州によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。

桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。

唐門

唐門

唐門

《唐門》

二に丸御殿に向かう南からの正門。二つの門柱に加えて前後に二本ずつの控柱を加えた格式の高い四脚門の形式で、屋根の正面に緩やかなカーブを描く唐破風が付けられていることから、唐門と呼ばれる。部材に「寛永二年」(1625年)の墨書があり、寛永3年(1626年)後水尾天皇の行幸に備えての築造だと考えられる。屋根は檜(ひのき)の皮を打ち重ねた檜皮葺(ひわだぶき)で30年ごとの葺き替えを要する最も格式の高い造りである。

屋根の下は鮮やかな彩色が施された欄間彫刻で埋め尽くされている。位置と主題、意味は以下の通りで、守護神、守護獣に守られた、豊かで安らかな永遠なる世界を表現している。

南部中央「蓬莱山を乗せた亀」<不老不死>、南面左右「松、梅に鶴」<長寿>、南面上部「牡丹に蝶」<長寿>、中央「雲、波、竹、梅、万年青(おもと)に龍虎」<守護神>、北面中央「亀に乗る黄安仙人」<長寿>、北面左右「松、薔薇に鳳凰」<平安>、北面上部「牡丹に蝶」<長寿>、東西側面「牡丹に唐獅子蝶」<守護獣>。これらの彫刻には「山益」「三兵衛」「半兵衛」の墨書が認められる。

墨と金箔のコントラストが鮮やかな飾金具もふんだんに取り付けられているのが、随所に見られる菊紋は、明治17年以降、離宮時代に取り付けられたものであり、徳川時代に在った三つ葉葵を隠すように上から被せたり、葵紋を裏返しで打ち直したものも確認されている。

重要文化財 桃山門

桃山門

重要文化財 桃山門

《桃山門》

北の鳴子紋と対になっており、南を向いて本丸櫓門への通路を塞いでいる。寛永行幸時の絵図には大きな建物として描かれているが、それを改造して現在の門になったのではないかと考えられている。そのため当初の姿や目的に不明な点が多い。現在は「長屋門」で、中央に門を設け、両脇はそれぞれ門番所としている。城内にあってこのように防御を厳重にするのは異例といえる。

重要文化財 南中仕切門

南中仕切門

重要文化財 南中仕切門

《南中仕切門》

内堀の北側にある北中仕切門と対になっており、規模もほぼ同じで、寛永3年(1626)頃の建築である。本丸西隅櫓(焼失)への連絡を塞ぐ、防衛上重要な門である。門は小振りで西門より小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから「埋門(うずみもん)」と呼ばれる。「埋門」の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあり、姫路城が有名で、高松城にもある。

重要文化財 東南隅櫓

東南隅櫓

東南隅櫓

《東南隅櫓》

寛永3年(1626)の寛永行幸に際し建設された隅櫓の一つである。西南隅櫓と比べ一回り大きく、1階屋根に「千鳥破風」が載せられているのが特徴である(西南隅櫓では優美な曲線の唐破風)。1階の外堀に面する出窓には、東大手門と同様「石落し」を備え、攻撃と防御の要となっている。内部は板敷で、2階にだけ「棹縁(さおぶち)天井」が張られている。また、火縄をかける釘が打たれており、鉄砲を収納していたことが分る。二条城には、外堀と内堀の四隅、外堀北中央に9棟の櫓があった。それらのほとんどが2階建てで、例外として内堀南西隅のものが5階建ての天守閣、内堀北西隅のものが3階建てであった。現存している東南隅櫓と西南隅櫓の2棟だけである。

≪参考図(火縄をかける釘)≫

火縄をかける釘

重要文化財 西南隅櫓

西南隅櫓

重要文化財 西南隅櫓

《西南隅櫓》

寛永3年(1626)頃に建設された隅櫓の一つである。東南隅櫓と比べ一回り小さく、1階屋根に優美な曲線の唐破風が載せられているのが特徴である(東南隅櫓では千鳥破風)。1階の外堀に面する出窓には、東大手門と同様な石落しを備え、攻撃と防御の要となっている。内部は板敷で、2階にだけ棹縁(さおぶち)天井が張られている。二条城には、外堀と内堀の四隅、外堀北中央に9棟の櫓があった。それらのほとんどが2階建てで、例外として内堀南西隅のものが5階建ての天守閣、内堀北西隅のものが3階建てであった。現存している西南隅櫓と東南隅櫓の2棟だけである。

天守閣跡

天守閣跡

天守閣跡

《天守台の石垣》

二条城の天守閣は、寛永三年(一六二六年)に伏見城から移築されたもので、五層の天守が建てられていましたが、寛延三年(一七五〇年)に落雷により焼失し、再建されること無く現在に至っています。

現存する天守台は、高さ二一米、天守台上の敷地四四五平方米あります。

元離宮二条城事務所

釣鐘について

釣鐘について

釣鐘について

《釣鐘》

この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の艮櫓跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し、鐘楼を建て、鐘が設置されました。

幕末の政務の場であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、鳥羽・伏見の開戦など非常時の連絡をつげ、明治に入って二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていました。

元離宮二条城事務所

その他の案内・説明板

国宝の一覧案内、京阪の三条駅にあった案内・説明板の紹介です。

国寶 二条城

京阪三条駅にあった

説明板

二条城

二条城

二条城

堀川通の西、押小路通北側の中京区二条城町に所在します。徳川家康によって築造された城郭であり、慶長八年(1603)には、完成し、その年に征夷大将軍に任じられた家康が入城しています。敷地は、塀行宮の一部や神泉苑の北部を取り込み。26万へいほうメートル余りの広大なものです。

江戸時代を通じて、公武合体の儀礼の場として江戸幕府が使用していますが、慶応三年(1868)には、第15代将軍徳川慶喜による大政奉還に伴い天皇家に帰し、明治元年(1868)には太政官代となりました、その後京都府庁舎や裁判所として使用された後、宮内省管理に戻り二条離宮と改称されました。大正四年(1915)に天皇即位礼に用いられた後、昭和十四年(1935)には京都市に移管され、史跡旧二条離宮となり、現在に至っています。

地下鉄東西線建設に伴う発掘調査では、江戸時代から近世にかけての、二条城の堀の南側柵列およびその南側で白砂の敷かれた押小路通路面や同通北側溝などの遺構を発見しています。これらの発掘調査成果から、江戸時代の二条城周辺は、城と共に現在にもまして美しく管理されていた地域であったものとみられます。

二条城 国 宝

二条城では多数の建物が国宝や重要文化財に指定されています。

国宝

 二条城は 旧国宝 の「二の丸御殿遠侍及び車寄」、「二の丸御殿式台」、「二の丸御殿大広間」、「二の丸御殿蘇鉄之間」、「二の丸御殿黒書院(小広間)」、「二の丸御殿白書院(御座の間)」の6棟が「二条城」として近世以前/住宅の種別で引き続き 国宝 に指定されています。種別は城郭ではありません。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
二条城
 
二の丸御殿遠侍及び車寄
遠待 桁行八間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺
車寄 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
 
二の丸御殿式台
桁行正面三間、背面五間、梁間右側面四間、左側面六間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
二の丸御殿大広間
桁行右側面八間、左側面七間、梁間正面七間、背面五間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
二の丸御殿蘇鉄之間
桁行右側面八間、左側面九間、梁間正面一間、背面三間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
二の丸御殿黒書院(小広間)
桁行正面七間、背面八間、梁間右側面六間、左側面八間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
二の丸御殿白書院(御座の間)
桁行六間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺

重要文化財

 二条城は 旧国宝 に指定されていた「本丸御殿玄関」、「本丸御殿御書院」、「本丸御殿御常御殿」、「本丸御殿台所及び雁之間」、「二の丸御殿唐門」、「二の丸御殿築地」、「二の丸御殿台所」、「二の丸御殿御清所」の8棟が「二条城」として近世以前/住宅の種別で 重要文化財 の指定になっています。そのほかの櫓、門、土蔵はなどが城郭の種別で 重要文化財の指定になっています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」や書籍「歴史群像シリーズ特別編集«決定版»図説 国宝の城 現国宝・旧国宝全25城完全収録」を参考に編集・作成しています。

名称
棟名
構造及び形式等
二条城
 
本丸櫓門
櫓門、入母屋造、本瓦葺
 
本丸御殿玄関
西面27.3m、南面13.8m、一重、入母屋造、桟瓦葺、御車寄唐破風造、銅板葺、玄関之間、取次詰所、取次之間、竹之間 二室、殿上之間、公卿之間、使者之間、御車寄、廊下、縁等より成る
 
本丸御殿御書院
南面18.6m、東面25.4m、一重、入母屋造、桟瓦葺、御書院、一之間、二之間、三之間、四季之間(春之間、夏之間、秋之間、冬之間)、表御座所、雲鶴一之間、二之間、三之間及び縁座敷、廊下、縁等より成る
 
本丸御殿御常御殿
西面13.9m、南面31.7m、二重二階、西面入母屋造、東面寄棟造、二階寄棟造、桟瓦葺、一階奥御座所(松鶴之間)、四季花草之間、御寝之間(雉子之間)、萩之間、御納戸、他三室、縁座敷、縁等より成る、中二階三室、二階三室、縁等より成る
 
本丸御殿台所及び雁之間
南面20.6m、東面9.6m、一重、切妻造、桟瓦葺、雁之間 二室、台所、廊下等より成る
 
二の丸御殿唐門
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺
 
二の丸御殿築地
東築地折廻り延長五十四間、西築地折廻り延長十九間、本瓦葺
 
二の丸御殿台所
桁行正面十七間、背面母屋十四間、出張四間、梁間右側面八間、左側面母屋五間、出張四間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
二の丸御殿御清所
桁行正面八間、背面七間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
東大手門
櫓門、入母屋造、本瓦葺
 
北大手門
櫓門、入母屋造、本瓦葺
 
西門
埋門、本瓦葺
 
東南隅櫓
二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺
 
東南隅櫓北方多門塀
延長41.9m、本瓦葺
 
西南隅櫓
二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺
 
土蔵(米蔵)
土蔵造、門番所付、一重、入母屋造、本瓦葺
 
土蔵(北)(米蔵)
土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺
 
土蔵(南)(米蔵)
土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺
 
鳴子門
脇戸付一間門、一重、切妻造、本瓦葺
 
桃山門
五間一戸、側面三間、一重、入母屋造、本瓦葺
 
北中仕切門
一間門、一重、招造庇付、本瓦葺
 
南中仕切門
一間門、一重、招造庇付、本瓦葺

二条城 面白文書、拾い上げ

書籍など、二条城で私の興味深かったこと、おもしろいと思ったところ引用

 はじめて武家政権が京二条に二条城と呼ぶにふさわしい城郭を築いたのは織田信長であった。信長は天正四年(1576)、二条通と室町通が交わるところに二条城を築城、翌五年七月からは宿城として使用した。(途中略)

 信長の二条城こと二条御所は、本能寺変で嫡男信忠が楯籠ったために炎上。羽柴秀吉は二条通に面した妙顕寺(西洞院通)に新たに二条城を構え、天正十五年に聚楽城(聚楽第が一般的にな名称になっているが、これは明治以降に名づけられた俗称。また明治には第[てい]とよんでいた)に移るまで、秀吉の京の宿城となった。

 関が原の合戦で勝利して名実ともに武家勢力の頂点に立った徳川家康は、慶長七年(1602)五月、二条通を真正面にし堀川通に面した位置に二条城の造営に取り掛かった。この二条城が、今日いう近世の二条城の二の丸に相当する。

日本の城郭を歩く 古写真が語る名城50 より

・・・・・この場所がまさに江戸幕府の栄光と衰退を象徴する場所だということだ。

 家光の時代、後水尾天皇はこの城を訪れた。形としては賓客であるが、後水尾天皇の中宮(皇后)は前将軍秀忠の娘(家光とは兄妹)であり、後水尾天皇の行幸は、幕府への屈服を意味するものでもあった。

 それ以後、将軍が上洛するということは絶えて無くなる。

 江戸時代、この城番の仕事は、ただ城の留守をするだけで、建物が使われることはまったくなかった。

 それが、使われるようになったのは、幕末の戦乱期、朝廷の権威が高まり、再び将軍が上洛するようになってからだ。

 そして、いわゆる幕府政治の終幕の舞台となったのも、この二条城であった。

戦国武将たちの知られざる城盗り物語 名城発見 より

[後水尾天皇の行幸の際、天皇に失礼にならないように東大手門を櫓門から薬医門に改造したといわれています(管理人 注)]

参考:二条城 ここが興趣深い

[ 2012/10/10 ]

登城の道のり

二条城は気楽に行け、登城は気にかけずふらっと寄ります。

最新の登城日:平成24年3月28日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

二条城まで 簡単に説明

  • 京阪電車で三条駅へ。
  • 三条駅より京都地下鉄東西線で二条城前で下車、約5分。
  • 1番出口に向かい地上に出ると東南隅櫓櫓が目の前に現れます。
  • 周辺、城内はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:唐門 (城内も仮想散歩ができます)

(城内も仮想散歩ができます)

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞