淀殿ゆかりの城とは別
二代将軍秀忠の命で築城
淀城
ここ「淀城」は徳川二代将軍秀忠が、松平定綱に築城を命じて元和九(1623)年に着工、寛永二年(1625)に竣工しました。淀殿とは関係のない江戸時代に築城された城です。
室町時代から安土桃山時代に築城され、豊臣秀吉が淀殿のために修築した城は、上記の江戸時代に築城された淀城に対し『淀古城』と呼ばれています。現在、遺構はありませんが妙教寺に石碑が建っています。
淀殿ゆかりの城 淀古城 へ
淀城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: ここが魅所・おすすめ
- 肆: ここが興趣深い
- 伍: 淀城で出会った案内板
- 睦: 登城の道のり
淀城 ひとくちメモ
- 所在地
- 京都府 伏見区
- 別 名
- 薄城 ?
- 築城者
- 松平定綱
- 別名の由来
- ?
- 天守概要
- 連立式 望楼型 5重5階地下1階。元和九(1623)年に築城を開始。天守は非現存。天守台は現存。
- 城郭構造
- 梯郭式 平城
- 遺 構
- 天守台[ ※ ]、 石垣[ ※ ]、 堀[ ※ ]、本丸跡、二の丸跡 など
- 再建造物
- なし
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
別名は 日本城郭事典 に拠りますが古い本 ( 発行:昭和50年7月20日 ) で淀城、淀古城も区別もなく、別名の正誤、及び由来は不明です。
( 2012/3/10 )
淀城 簡易年表
淀城の由来 説明板より
- 1619年
- 伏見城の廃城。
- 1623年
- 二代将軍秀忠が松平定綱に淀に築城を命じ、着工。
- 1625年
- 竣工。
- 1626年
- 秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
- 1633年
- 国替えにより永井尚政が城主となる。
- 1723年
- 春日局の子孫、稲葉正知が下総佐倉から移り、明治維新まで稲葉氏の居城となる。
- 1756年
- 雷火で炎上する。
- 1987年
- 天守台の石垣解体修理時の発掘調査で大小の礎石を含む石蔵が発見された。
参考になるサイト:
淀城 写真の間
抑えたい処、美しい処
※ 現在、京阪電車 淀駅は少し移動し構内より見ることはできません。
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の淀城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
淀城 よろず間
淀城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた淀城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
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天守台の内部は立ち入り禁止ですが、京阪電車から内部を覗くことができます。各駅停車の場合、淀駅停車でスピードも落ちていますので写真に撮ることもできるかも?
[ 2015/7/11 ]
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実際に撮影しました。大阪から京都へ向かう電車から。
京都から大阪へは線路を挟むのでちょっと無理。[ 2016/7/11 ]
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時々内部も公開されるようで撮影できました。撮影は2019年5月19日。
[ 2019/9/27 ]
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明治天皇が慶応4(1868)年に大坂行幸。その時、淀城にも寄られ、行幸の地を示す石標「明治天皇御駐蹕之址」があります。
松本城にも同じような碑があります。
[ 2019/3/2 ]
淀城 ここが興趣深い
淀城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
- 淀城に刻印石が、天下普請の城? 関わった大名は? 案内/説明板には詳しい説明がありません。関心が湧きます。
上記以外の刻印石の写真も私の Google フォト でご覧いただけます。
[ 2015/07/11 ]
淀城で出会った説明板
淀城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
淀城の由来
( 本文にもありますが淀殿ゆかりの淀城とは別の城です。)
淀城の由来
徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1723)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛観は延享五年(1748)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室の基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。
京都市
唐人雁木跡
唐人雁木跡
江戸時代。朝鮮国から派遣されてきた外交使節団は主に「朝鮮通信使」とよばれる。その目的は徳川幕府からの招請に応えて朝鮮国王の国書を江戸の将軍に手渡すことであった。 総勢約五百名からなる一行のうち、船団関係者を除く約四百名は大坂から淀川をこの淀まで幕府が手配した「川御座舟(かわござぶね)」とよばれる豪華船で逆上ってきた。 そして、ここから京都へ入り、琵琶湖畔の朝鮮人街道を経て、東海道を一路江戸へ向かった。ここでは一行の使臣や随員の轎・輿、荷駄、そして護衛の対馬藩主一行などのための乗り物が用意され、 運送用におびただしい人馬が動員された。一行の上陸地点には「雁木」とよばれた特設の桟橋が設けられた。その長さは三、六(三六の誤り?)間(六四、八メートル)、 幅七間(一二、六メートル)と「山城淀下津町記録」にある。なお、唐人とはアジア系の人々を指す当時の用語でこの場合は朝鮮通信使一行を表す。一六〇七(慶長十二)年から一七六四(宝暦十四)年 までの間に十一回、この唐人雁木が上陸、又は帰路の乗船用に利用された。当時と今では川筋が変わっており、実際にあったのはここより約二百メートル北方の納所側の地点である。
稲葉神社の祭神と淀藩について
稲葉神社の祭神と淀藩について
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。元亀二年(一五七一)に美濃(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により、明智光秀の重臣斉藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」
正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。秀吉の没後、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、二万石を領したが寛永五年(一六二八)江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、五代目の正知の時で享保八年(一七二三)下総国(千葉県)佐倉より十万二千石で入封した。その後明治四年(一八七一)十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が十二代百四八年間にわたり淀藩主であった。
絵が中心の案内・説明書
淀城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
登城の道のり
登城日:平成24年5月30日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
淀城まで 簡単に説明
- 京阪電車 淀駅で下車。競馬場とは反対側へ。
- 3~4分歩き納所の交差点へ。
- 信号で左折し旧京阪国道を西南方向へ、5分ほでで堀が見えてきます。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:堀と石垣
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス