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淀殿が居住した城

淀古城

ここは室町時代から安土桃山時代に築城され、豊臣秀吉が淀殿のために修築した城で、江戸時代に天下普請で築城された淀城に対し『淀古城』と呼ばれています。現在、遺構はありませんが妙教寺になっています。

天下普請の「淀城」は徳川二代将軍秀忠が、松平定綱に築城を命じて元和九(1623)年に着工、寛永二年(1625)に竣工しました。淀殿とは関係のない江戸時代に築城された城です。

江戸時代に築城、この城とは別の 淀城

淀古城のご案内

淀城 ひとくちメモ

所在地
京都府 伏見区
別 名
-
築城者
細川 政元 ?
別名の由来
 
天守概要
城郭構造
平城
遺 構
なし、妙教寺に『史跡 淀古城址』の石碑があるのみ
再建造物
なし

《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。

淀古城 簡易年表

主に 日本城郭事典 を参考

??年
細川政元が築城??。
1504年
薬師寺元一が拠るも政元に攻められ落城。
1559年
細川氏綱が入城。
1573年
織田信長に対抗するため岩成友通らが立て篭もるが敗北。
1589年
豊臣秀吉、愛妾茶々(淀殿)の出産のため修築。
1589年
茶々(淀殿)、この城で鶴松を出産。
1594年
伏見築城のため破却される。

参考になるサイト:

淀城 写真の間

抑えたい処、美しい処

淀古城:妙教寺の山門

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妙教寺の山門

淀古城:妙教寺の山門 境内

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妙教寺の山門 境内

淀古城:妙教寺の山門から境内

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妙教寺の山門から境内

淀古城:妙教寺の山門から境内

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妙教寺の山門から境内

淀古城:鐘楼、後方には本堂

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鐘楼、後方には本堂

淀古城:鐘楼、前に淀古城址の石碑

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鐘楼、前に淀古城址の石碑

淀古城:淀古城址の石碑

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淀古城址の石碑

淀古城:石碑 戊辰之役東軍戦死者之碑

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石碑 戊辰之役東軍戦死者之碑

登城・撮影日の留書き

上に掲載以外の淀城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。

淀古城:妙教寺の山門

妙教寺の山門
2012年5月30日 撮影

淀古城 よろず間

淀古城址で出会った石碑

※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。

史跡の石碑

史跡の石碑

史跡淀古城址此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂
与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である
戊辰の役砲弾貫通跡此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂
弾の飛来で本堂を貫通したその弾痕がある

淀古城 ここが際立つ

淀古城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介

江戸時代に築城された淀城淀殿ゆかりの淀城は別で、場所もそれぞれ異なります。区別して淀殿ゆかりの淀城は『淀古城』と呼ばれますが遺構はなく、このように妙教寺に石碑が建ち唯一往時を偲ばせます。

私には『淀君』のほうが馴染んでいたのですが大坂城に登城した際、ボランティアガイドさんに「淀君の は花魁などにつけるもので 淀殿 ほうが良い」と教えていただきました。確かに「○○君」という呼び方は遊女・娼婦を意味する差別的なニュアンスがあるようです。

登城の道のり

登城日:平成24年5月30日

ストリートビューの撮影ポイント は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。

ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス

淀古城まで 簡単に説明

  • 京阪電車 淀駅で下車。競馬場とは反対側へ。
  • 3~4分歩き納所の交差点へ。
  • 信号を渡り千本通り(少し細い道)を北へ、途中右側に法行寺の山門を見ますがさらに北へ歩を進めます。
  • さらに進み小さな川 (川というよりも水路の感じですが) を渡ると右側に妙教寺の山門が見えます。
  • 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。

ストリートビュー:

上地図でストリートビューの撮影ポイント が記された場所のストリートビューです。

ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス

城めぐり 栞