天守台など石垣が多く残り
奈良県指定史跡
郡山城
郡山城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: ここが際立つ
- 睦: 城内にあった説明板
- 質: 登城の道のり
郡山城 ひとくちメモ
- 所在地
- 奈良県 大和郡山市
- 別 名
- 築城者
- 筒井 順慶
- 別名の由来
- -
- 天守概要
- 天守の高さは約15~20メートル?、現在は天守台が残る。
- 城郭構造
- 輪郭式 平山城
- 遺 構
- 天守台 [ ※ ]、 石垣 [ ※ ]、 堀 [ ※ ] など
- 再建造物
- 追手門 [ ※ ]、 追手向櫓 [ ※ ]、 東隅櫓 [ ※ ]、 多聞櫓 [ ※ ] など
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
高さは «イラスト図解 城 » に依る。
郡山城 簡易年表
城内にあった 説明板 を参考に整理・まとめをしました。
- 1580年
- 筒井順慶が、付近の豪族達を平定 織田信長の力を背景に大和一国の安定勢力として築城
- 1583年
- 天守が完成
- 1585年
- 豊臣秀長が入部
- 1596年
- 増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成をみる
- 1600年
- 関ヶ原の戦いで長盛は西軍で敗北、城は徳川方に接収され廃城、建物は伏見城に移される。
- 1614年
- 大阪冬の陣が起こり、藤堂高虎が郡山に着陣
- 1615年
- 水野勝成が郡山に封せられる
- 1618年
- 松平忠明が郡山城主となる。諸門を伏見城から再び郡山に移す。
- 1724年
- 柳沢吉里が入り、以後明治維新まで続く。
参考になるサイト:
郡山城 写真の間
抑えたい処、美しい処
数回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
☒ 本丸・毘沙門郭を周囲から
☒ 本丸
☒ 周辺から
本丸・毘沙門郭を周囲から
(3)
追手門 多聞櫓 追手向櫓
高麗門は無かったのかな?
(5)
天守台 本丸石垣(毘沙門郭より)
石垣の下部には転用石が多数
本丸
(10)
天守台(於 本丸)には
さかさ地蔵 伝羅城門礎石が
周辺から
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の**城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
郡山城 よろず間
郡山城 縄張りとカメラアングル
※ 曲輪の呼び方はこの案内板にあわせ郭を使いました。また、別の呼び方(常盤郭を法印郭など)をしているものもあります。
※ 縄張図は三の丸緑地にあった 説明板 を編集して使用しています。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
郡山城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた郡山城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 郡山城の石垣には「転用石」が多く見られます。もともと供養塔など、他の目的で作成された石造品が石垣等に利用されたものを「転用石」といいます。
-
天守台にはお地蔵さまや羅城門礎石、梵字が彫られた仏教関係からの石造が残っています。さかさ地蔵 伝羅城門礎石 の説明を参照。
さかさ地蔵などの転用石の例
本丸の東側石垣の下の方にも多くの転用石が観れます。実際に観るには毘沙門郭より長目のレンズを使う必要があります。
本丸石垣を拡大
長方形の石などが転用石
郡山城 ここが際立つ
郡山城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
( 虎口の呼称は区別のため 「門の名前+虎口」 と便宜的に付けたもので一般的ではないかもしれません。 )
- 実際の登城時、追手虎口を通り抜ける時には特に感じることはなかったが、このページを作る時にふと湧いた疑問、「桝形なのに高麗門が無い」。私の既成概念では「桝形門 は四方が囲まれ外側には高麗門、この門を抜け曲がって櫓門」、なのに高麗門が無い。
- 元々無かったのか復元時に単に造らなかったのか気になり少し古図を調べてみた。すると柳虎口は典型的な桝形門であるが、他の虎口は外側の門は無く開いたままである。と言うことは初めからなかったのか、ちょっと気になる。下の図は国立国会図書館デジタルコレクション - 日本古城絵図〕和州郡山城図 を抜き出したものです。
追手門
鉄御門
桜御門
柳御門
東部分の主だった門を抜き出したもの
柳御門 部を大きく抜き出したもの
(四方が囲まれ一の門、二の門の典型的な桝形門) - 郡山城関連も古図を閲覧できるサイト
郡山城で出会った説明板
郡山城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 県指定史跡 郡山城跡
- ♦ 郡山城跡由来
- ♦ 郡山城なたびに追手門(梅林門)の由来
- ♦ 東隅櫓
- ♦ 追手向櫓
- ♦ さかさ地蔵
県指定史跡 郡山城跡
県指定史跡 郡山城跡
郡山城は天正六~七年(一五七八~一五七九)に筒井順慶が縄張りをおこない、同八年の一国一城令に基づき拡張、同十一年には天守閣も完成をみた。同十三年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄五年(一五九六)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成をみるに至った。
関が原戦後、長盛が改易され、大坂夏の陣以降、永野勝成が、さらに松平、本田が入城し、享保九年(一七二四)以降、幕末まで、柳澤十五万石の居城として栄えた。
現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
なお、史跡として指定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。
指定年月日 昭和三十五年七月二十八日
奈良県教育委員会
郡山城跡由来
郡山城跡由来
この郡山城跡は、天正八年(一五八〇)筒井順慶が、当時この付近一帯に舘を築きそれぞれ割據していた豪族達を平定 織田信長の力を背景に大和一国の安定勢力として築城した処であろ。
その後豊臣大納言秀長が兄秀吉の命を受け、俗に言う百万石の禄高をもって入城、今日に残る本格的城郭の構築を開始すると共に、城下町の建設にも力を尽くし、次いで増田長盛の代にいたってその総縄張りが完成した。
以後水野、松平、本田氏等徳川譜代の功臣名家の居城となったが、享保九年(一七二四)柳沢氏十五万石余をもってここに入り、以後明治維新まで続いた。
柳沢氏時代には堀の総延長五十町十三間、東西七百十九間、南北五百七十間。野面積みの城塁には仏石に類するものが頗る多く使用されており、城郭史上特異な存在として知られている。
奈良県指定史蹟
郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来
郡山城なたびに追手門(梅林門)の由来
筒井順慶が織田信長の後援によって松永弾正久秀を破り、宿願の統一の偉業をなし遂げて、天正八年(一五八〇)十一月十二日 郡山にはいり、築城に着手している。しかし、本格的な郡山築城は天正十三年(一五八五)九月に大和、和泉、紀伊三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからのことである。そのとき追手門もこの場所に築かれたものと思われる。秀長なきあと養子秀保、増田長盛とうけ継がれたが、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いが起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大阪を守った。戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなる、建物のすべては伏見城に移された。廃城となった郡山の地は、代官大久保石見守長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預かっていた。
慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣が起こり、藤堂高虎は十月二十五日郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議は整い事なきを得た。翌元和元年(一六一五)四月大阪夏の陣の際時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遇い、福住に逃かれた。五月八日 大阪落城を知った定慶は士道に恥じて切腹して果てたといわれている。
戦後の論功において戦功第二となった、水野日向守勝成が六万石をもって郡山に封せられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府直轄事業として、本丸御殿、家中屋敷などの家作りは勝成の手で普請を進めた。しかし、在城わずか五年で備後福山城に移され、かわって戦功第一の論功を受けた大阪城主松平下総守忠明が、元和四年(一六一八)十月、十二万石をもって郡山城主となった。そのとき城には十分な建物とてなく、家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので、近世郡山城の偉容は整った。追手門もその一つで、当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。その後、本田内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本田下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続き、忠烈 嗣なく本田家は断絶となった。
享保九年年(一七二四)三月十一日、禁裏守護の大任を帯びて十五万石余をもって甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里は、一庵丸門を梅林門と名を換え、城は美濃守信潟、甲斐守保光、保泰、保興、保申とうけ継がれ明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。近時 郡山城復興の声が高まり、第一次として市民のてによる追手門が秀長築城にふさわしい姿で復原された
昭和五十八年十一月二日
大和郡山市
東隅櫓
追手向櫓
追手向櫓
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本田氏時代(一六三九 一七二三)は大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)と呼ばれていました
追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(一七二四年)のことです。
櫓は明治6年に取りはらわれましたが、記録によると、下重(一階)は4間2尺に5間、上重(二階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
昭和六二年三月吉日
大和郡山市教育委員会
さかさ地蔵
天守台発掘調査現地説明会のためか?さかさ地蔵の説明は除去されていました。
「郡山城 さかさ地蔵」で画像検索すると説明板が多数アップされています。それを使って書き落としました。
さかさ地蔵
大和郡山城の本格的な築城は、天正十三年(一五八五)、豊臣秀長が入部して一〇〇万石の居城にふさわしい城造りがなされようとしたことに始まります。
天正十五年には紀州根来寺の大門を郡山に運んで城門とし、春日神社の水谷川から大石を切り出し郡山に運び込まれました。又翌年には築城のための石不足で奈良中に五郎太石(石垣裏込め用)の採集を命じるほか、寺々の庭石や礎石、五輪塔、石地蔵などを接収しました。
この天守台周辺の野面積みの石垣には、平城京羅城門の礎石や、石地蔵、五輪塔などがおしげもなく積み込まれています。
さかさ地蔵もこのうちの一つで、石造地蔵菩薩立像が逆さに積み込まれているので「さかさ地蔵」と呼ばれています。
地蔵は、左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持っています。
仏身は約九十センチメートルの立像で大永三年(一五二三)癸未七月十八日の刻銘があります。
さかさ地蔵の隣に数多く置かれている石仏は、路傍に忘れ去られた野仏や都市開発工事で堀り出されたものなどを、誰とはなしにここに運んだものです。
登城の道のり
登城日:平成26年8月21日、9月19日(天守台発掘調査現地説明会)
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
郡山城 まで 簡単に説明
- 近鉄郡山駅を出て線路の西側を北へ、通行止めになり、「線路を渡って北へ」と教えられその方向へ。
(西へ進むと鷺池へ行ける。この南岸には遊歩道があり、遠回りになるがこちらからも行ける ) - 線路を渡ると白壁があり、入口があったので内(三の丸緑地)に入りそのまま歩く。出る時に「郡山城跡 案内絵図」 を見つけました。
- 再度、線路を渡る。鉄御門跡の石垣が見える
- 更に進むと分かれ道へ、右へ真っ直ぐ進む。左側に毘沙門郭の石垣が見える。
- 暫くして追手向櫓が見えてきて、追手門に到着。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:郡山城 桜御門跡、東隅櫓
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス