天守台 櫓門(重要文化財)2棟などが残る
小諸城
小諸城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが興趣深い
- 伍: 小諸城で出会った説明板
- 睦: 重要文化財
- 質: 登城の道のり
小諸城 ひとくちメモ
- 所在地
- 長野県 小諸市
- 別 名
- 酔月城 白鶴城 鍋蓋城 穴城
- 築城者
- 大井 光忠
- 別名の由来
- 穴城:城下、三の丸、二の丸、本丸と穴に下って行くような感じから。
酔月城:号が別名になったのか別名を号にしたのか不明です第3代藩主・牧野 康満が酔月城華紅と号しています。 - 天守概要
- 三重の天守があがったと言われているが、現在は天守台が残るのみ
- 城郭構造
- 平山城
- 遺 構
- 大手門[ ※ ]、 三の門[ ※ ]、 天守台[ ※ ]、 石垣[ ※ ]など。また、 足柄門は市内光岳寺、黒門は市内正眼院へ移築されて現存。本丸御殿の書院(?)が東御市(旧北御牧村)の民家に移築されています。足柄門、黒門は下記の 『小諸市観光協会 - 小諸城址・懐古園 』で閲覧できます。
- 再建造物
- 武器庫[ ※ ]
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
小諸城 簡易年表
図解 日本の城 より
- 1190年頃
- 源義仲の武将、小室氏が館を築く。
- 1487年
- 大井氏が鍋蓋城を築く。
- 1543年
- 武田信玄が大井氏から城を奪う。
- 1554年
- 信玄の築城完成。小諸城となる
- 1582年
- 徳川家康の支配下となり、依田氏入封。
- 1590年
- 仙石秀久入城、大改修を行う。
- 1702年
- 牧野氏が入封、幕末に至る。
参考になるサイト:
小諸城 写真の間
抑えたい処、美しい処
☒ 三の門 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸
☒ 大手門(少し離れた所です)
三の門⇒二の丸⇒本丸
(3)
三の門 内側真正面より
三の門の説明
大手門
少し離れた所です
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の小諸城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
小諸城 よろず間
小諸城 縄張りとカメラアングル
※ 縄張図は上記の小諸城址懐古園›懐古園マップ›ダウンロードよりダウンロード(1614KB, jpg, 2048x1536ピクセル)し、編集・縮小して使用。
※ アングルのマーカー、または数字をクリックするとそのアングルからの画像を見ることができます。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
小諸城 ここが興趣深い
小諸城のチョッとマニアックな話、いっぷう変わったところ、蘊蓄(うんちく)などを紹介
- 豊臣系大名の仙石秀久は金箔瓦で葺いた天守をあげ、その天守台石垣が現存しています。ちなみに、近辺の上田城、松本城、高島城からも金箔瓦が出土し豊臣系大名の徳川包囲網が形造られていたことが感じとれます。
- 天守台は方形ではありません。方形を少し変形した糸巻き形(下図)をしています。石垣の上も下も内部に入りこむアーチ形で、現代のアーチ式ダムの考え方にもつながる技術です。この積み方で左右や上からの重力による石垣積石を壊れ難くしています。松本城の天守台にもみられます。
天守台の上からでも下からでもアーチ形が見て取れます。
アーチ形を描く石垣を「輪取り」と呼び、上記の松本城以外にも姫路城、中津城などにも見られます。
[ 2015/12/16 追記 ]
- 三の門、大手門が現存、形状が少し異なります。三の門は櫓門としては珍しい寄棟造の屋根、大手門も櫓門ですが入母屋造の渡櫓形式です。大手門保存修理の様子は小諸城大手門保存修理事業の様子 - 小諸市で閲覧できます。
以上はおもに 名城の日本地図 を参考にしました。
- 懐古園 は名前からすると兼六園や後楽園のようなお城に付随した庭園に思えますがそうではありません。廃藩置県後、荒れ果てた小諸城跡を 懐古園 となすにあたり、明治13(1880)年に本丸跡に『懐古神社』を創建したことに始まります。
-
マンホールの蓋には三の門が
小諸城で出会った説明板
小諸城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 小諸城と小諸城跡「懐古園」?小諸城の歴史
- ♦ 風林火山
- ♦ 重要文化財 小諸城 三の門
- ♦ 武器庫
- ♦ 小諸城 大手門
- ♦ 小諸城 大手門
- ♦ 小諸城 大手門
- ♦ 水の手不明御門跡
- ♦ 焼石
- ♦ 無題(復元石垣)
- ♦ 徳川秀忠公 憩石
- ♦ 絵が中心の案内・説明書
小諸城と小諸城跡「懐古園」 小諸城の歴史
小諸城と小諸城跡「懐古園」
小諸城は、千曲川から切り立った崖の上にあり、浅間山の火山灰台地が侵食してできた田切地形の谷に囲まれた堅固な城です。また、城下町より低いところに城内が築かれ特徴のある「穴城」で、戦国時代の遺構を残す城として日本100名城にも選ばれています。そして、「小諸なる古城のほとり」は、「懐古園」として明治の文豪「島崎藤村」をはじめ多くの文学を育んできました。
小諸城跡「懐古園」は日本さくら100選の地でもあります。
小諸城の歴史
◎平安時代末期~「平家物語」にも登場する源氏・木曽義仲の武将・小室太郎光兼が館を構えたのが小諸の城の起こりです。
◎戦国時代~小諸城(別名:酔月城)は武田信玄の命を受け、山本勘助や馬場信房らが縄張りしたと伝わっています。
◎安土桃山時代~武田氏が滅び、織田信長の将・滝川一益の領地となりましたが、信長が倒れると、北条氏は滝川勢を蹴散らして小諸へ侵攻。しばらく徳川、北条、上杉に真田も加わり争奪が展開、やがて豊臣秀吉の仲裁もあり徳川氏の所領となりました。
その後、北条軍が真田領を略取したとして紛争を禁じた関白秀吉は、天正18年(1590年)小田原征伐で北条氏を討ち取り、天下統一。徳川家康が関東に転封され、仙石秀久が小諸藩五万石の大名として小諸城主となります。秀久は、秀吉の許しを得て、本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を備えます。現在では当時築かれた天守台などに「野面石積(のづらいしづみ)」の石垣だけが残っています。
慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」に中山道を進んだ徳川秀忠の東軍が小諸城に入ります。この時、西軍・真田氏の上田城を攻めた「上田合戦」では、秀忠軍が苦戦の上に敗退、天下分目の合戦だった関ヶ原にも遅参してしまうという逸話で知られています。
◎江戸時代~小諸藩の初代藩主となった秀久は、現在もその姿を残す大手門や石垣などの城郭整備をはじめ、小諸の城下町や街道の整備をおこないました。仙石氏が上田藩(長野県上田市)に移封されるまで32年の間に現在の小諸のなちの原形が築かれました。
その後、城主は徳川・松平氏などに変わり、与板藩(新潟県長岡市)から移封された牧野氏が十代・170年に渡り藩主を勤めました。
◎明治時代~廃藩置県で役割を終えた小諸城には「懐古神社」を祀り、三の門より城内を「懐古園」と呼ぶようになりました。
≪説明に添えられている図≫
風林火山
風林火山
山本勘助ゆかりの小諸城
小諸城跡 懐古園
天文二十三年、小諸城は、武田氏の所領となり、重臣山本勘助らに縄張を命じて複雑多岐な地形を巧妙に利用し、穴城を築城する。
その後、信玄は弟信繁の嫡男信豊を城主にする。
以来、城主は原型を継承して頑強な帯曲輪を石積み、城壁、大手門など城門を築き近世の城郭に改修する。
明治初期、牧野康済の廃藩で、小諸城址となり、懐古園になる。
重要文化財 小諸城 三の門
重要文化財 小諸城 三の門
(平成五年十二月九日国指定)
小諸城は慶長元和年間(関ヶ原役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城しました。この三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建されたものです。しかし寛保二年(一七四二年)小諸御城下を襲った大洪水により三の門は流失し約二十年後の明和年代に再建され現在に至っています。
寄棟造・桟瓦葺の櫓門で
一階は桁行三間(一間は約一・八メートル)北脇に潜戸を構え、隅金具、八双金具等が施してあります。
二階は両側に袖塀を設け
矢狭間、鉄砲狭間が城郭の面影を残しています
桁行五間、梁間二間で内部は住宅風の一室になっています
大手門とともに小諸城の貴重な建造物として国の重要文化財指定を受けています。
文化庁
小諸市教育委員会
宗教法人 懐古神社
武器庫
武器庫
この建物は文化十四年(一八一七)藩主牧野康長公が建てたものです、廃藩後取りこわされ八幡村依田仙右衛門氏宅へ移し更に東京へ移築し使用していたものを復原するため当時の外観など原形に近いものを建てようとして再建したものです。
小諸城 大手門
小諸城 大手門
小諸城は日本で唯一といわれる、城が城下町より低い位置にある「穴城」です。大手門はその入口の城門で、ここから本丸に向かっては、迷路のような道と4つの門で敵の侵入をさまたげています。また天然の地形を生かし、側面の谷(田切地形)と背後の千曲川に面した断崖で守りを固めていました。
この城は、戦国後期に武田信玄の軍師の山本勘助により縄張りがされたと伝えられ、江戸初期に城主・仙石秀久により城郭や門が整えられました。
国指定重要文化財 小諸城大手門 (平成5年12月9日指定)
大手門またの名を瓦門といい、小諸城主仙石秀久が築造した正門です。現存の門は、慶長17年(1612)の建立と言われています。五間の櫓門、入母屋造の本瓦葺で北面しており、一階は桁行五間、梁間二間とし正面中央の鏡柱等太い柱を用いるなど豪壮な構えとなっています。二階は桁行七間、梁間三間、垂木には反り増しがあり、東西二室で畳敷きとし座敷のようになっています。
入り口は東側中央間とし板縁を設けてあります。
近世初頭の大型の城門として、日本の城門発展の過程を知るうえに価値が高く重要な建物です。
三の丸と桜馬場 跡
江戸時代、ここから三の門の間は「三の丸」で、台地を生かした城郭がありました。大手門を入った少し先で道が狭くなっているのは、門の中に攻め込んだ敵の進路を妨害し上から一気に攻撃するためです。その先を曲がると、三の門に向かってもぐっていくような、天然の谷を生かした坂道となっていました。江戸前期の絵図には、この道は「桜馬場」、道の北側は「御馬屋」とあります。馬場沿いには桜が植えられ、「花時は見渡す限りに桜雲万里天を覆うの一代美観たりき(小諸社寺攷写)」との記録も残っています。また、家臣の登城には「足柄門」が使われていたようです。
小諸市
≪説明に添えられている図≫
小諸城 大手門
日本城郭建築初期の代表格
小諸城 大手門(国指定重要文化財)
小諸城の正門(四之門)。慶長十七年(一六一二)、藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築。二層入母屋造りの楼門で、石垣と門が一体化していない事や、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっていることなど多くの特徴があります。
この門を建てる際に、大工を江戸から呼び、瓦は三河(現在の愛知)から運んだとされ、当時はまだ瓦葺の屋根が珍しかったため「瓦門」とも呼ばれました。
明治維新後は民有となり、小諸義塾の仮教室として、また、料亭として利用されてきましたが、平成二十年、江戸時代の姿に復原されました。
この実践的で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は、青森県の弘前城とともに大手門の双璧といわれています。
小諸市
小諸城 大手門
重要文化財 小諸城 大手門
(平成五年十二月九日 指定)
大手門またの名を瓦門といい、小諸城主仙石秀久が築造した正門である。
現在の門は慶長十七年(一六一二)の建立と言われています
五間の櫓門、入母屋造の本瓦葺で北面しており、一階は桁行五間(一間は約一・八二メートル)梁間二間とし正面中央間の鏡柱等太い柱を用いるなど豪壮な構えとなっている。
二階は桁行七間梁間三間垂木には反り増しがある。東西二室で畳敷とし座敷のようになっている。入口は東側中央間とし板縁を設けてある。
近世初頭の大型城門として日本の城門発展の過程を知るうえに価値が高く重要な建物であります。
小諸市
水の手不明御門跡
水の手不明御門跡
小諸城の背面にある搦手にあり、左右の石積みの間には間口九尺(2.7m)の門がありました。屋根の上は通路になっていて、その先端には見張り役がいた曲輪が有りました
焼石
無題
正面の巨石石垣は復元したものです。明治四年(一八七一年)の北国街道整備の際、ここにあった石垣は道路の端縁(はしぶち)石に用いられ、その後長い間火山灰の崖のままでしたが、石垣を懐かしむ声が多数寄せられ、昭和五九年(一九八四年)に当時より大きな石を用いて復元しました。
徳川秀忠公 憩石
徳川秀忠公 憩石
慶長五年(一六〇〇)関ケ原戦合戦出陣途中、徳川本陣は真田氏(上田城主)攻略の為小諸城を本陣とした。その在陣中秀忠公ご床几(しょうぎ)(腰をおろした)石と伝えられています。
絵が中心の案内・説明書
⚫ 小諸城内にあった絵が中心の案内・説明書の紹介です。
小諸城 重要文化財
小諸城の大手門、三之門は重要文化財に指定されています
小諸城は三の門、大手門の2棟が 重要文化財に指定されています。下記の表は文化庁の「国指定文化財等データベース」を参考に編集・作成しています。
- 名称
-
- 棟名
- 構造及び形式等
- 小諸城
-
- 大手門
- 五間櫓門、入母屋造、本瓦葺
-
- 三之門
- 三間櫓門、寄棟造、桟瓦葺、左右袖塀附属
登城の道のり
登城日:平成24年10月22日
は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
ブラウザー、またはヴァージョンによっては地図が表示できないことがあります。【参考】 Google Apps 管理者用 ヘルプス
小諸城 (懐古園) まで 簡単に説明
- 小諸駅を出て左(北西)へ少し歩くと歩道橋があります。
- 歩道橋を渡り切って右へ降りると三の門が見えてきます。
- 歩道橋を渡らずもう少し(100m?程度)進むと地下道があり、ここを抜けても三の門に至ります。
- 大手門は懐古園とは違う場所で少し離れていますのでご注意を!! (上地図参照)。
- 周辺はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:三の門
上地図で が記された場所のストリートビューです。
ブラウザー、またはヴァージョンによってはストリートビューが表示できないことがあります。【参考】Google Apps 管理者用 ヘルプス