天守は復元(昭和45年)
高島城
高島城のご案内
- 壹: ひとくちメモ
- 貳: 写真の間
- 參: 縄張りとカメラアングル
- 肆: ここが魅所・おすすめ
- 伍: 高島城で出会った説明板
- 睦: 登城の道のり
高島城 ひとくちメモ
- 所在地
- 長野県 諏訪市
- 別名
- 浮城、島崎城
- 築城者
- 日根野高吉
- 別名の由来
- 城の形態から。築城当時は諏訪湖に突き出した湖城で俗に「諏訪の浮城」と呼ばれていた。
- 天守概要
- 独立式 望楼型 3重5階。
- 城郭構造
- 連郭式 平城
- 遺 構
- 石垣 [※]、 堀 [※]、 旧三の丸御殿の裏門(川渡門跡に移築) [※] など
- 再建造物
- 天守 [※]、 隅櫓 [※]、 冠木門 [※]、 塀 [※] など
- 天守の高さ
- 20.2m ( 含鯱 1.7m)、 石垣12.54m
《遺 構》、《再建造物》 での [ ※ ] は 私の Google フォトの写真を示し、クリックで画像を表示。
天守の高さは «高島城リーフレット » に依る。
高島城 簡易年表
- 1544年
- 武田家臣板垣信方、諏訪郡代となり、上原城に入る。
- 1549年
- 高嶋城(茶臼山城)が諏訪統治の本拠となる。
- 1582年
- 織田家臣河尻秀隆、高嶋城(茶臼山城)に代官として弓削重蔵を置く。
諏訪頼忠、本能寺の変を受けて高嶋城を攻略、領地を回復。頼忠、徳川家康に帰順する。 - 1592年
- 豊臣家臣日根野高吉、諏訪郡二万七千石を与えられ入部する。高島城築城はじまる。
- 1601年
- 諏訪頼水、諏訪を与えられ初代高島藩主となる。
- 1786年
- 天守の屋根葺き替えおよび天守石垣の大修理が行われる。
- 1876年
- 本丸跡が高島公園として開放される。
- 1970年
- 天守などが復興される。
高島城に関する歴史 を基に編集
[ 2011/01/20 ]
参考になるサイト:
高島城 写真の間
抑えたい処、美しい処
2回の登城・撮影から抑えたい処、美しい処を選びました。
堀、前に天守 ⇒ 堀に沿って冠木橋へ ⇒ 冠木門を通って本丸 ⇒ 川渡門を通って一旦外へ ⇒ 土戸門跡から再び本丸 ⇒ 東側入り口から外へ出て堀沿いに歩き天守 ⇒ 天守付近をぶらぶら の順に
登城・撮影日の留書き
上に掲載以外の高島城の写真やリサイズ前の写真も私の Google フォト(写真をクリックすると別窓で開きます)でご覧いただけます。
高島城 よろず間
高島城 縄張りとカメラアングル
※ アングルのマーカー、または数字をクリックすると写真を表示します。
※ 数字は上の写真の番号に対応。
※ 縄張図は東側入口の歩道橋にあった高島公園内案内図 説明板 を編集して使用
私のお勧め写真スポット
解像度 640px以下では曲輪名・カメラアングルなどは表示されません。
高島城 ここが魅所・おすすめ
私の感じた高島城の魅力、見所、おすすめなどを紹介
- 高島城天守は昭和45(1970)年に再建されたものですが、高島公園の西側にある川渡門跡には旧三の丸御殿の裏門が移築されており、江戸時代の遺構です。
- 高島城 ひとくちメモで紹介した 諏訪高島城 には 諏訪高島城(歩く) で城郭散歩ルートとして大手門跡や三之丸跡など地図と写真で紹介されています。登城の際には参考になります。
[ 2011/01/20, 2012/10/3 追記 ]
高島城で出会った説明板
高島城で出会った案内/説明板の良いとこどりです
※ 文章は写真では読みにくいので一部のみ掲載で全文を文字にもおとしました。写真は少し画像処理しています。
- ♦ 高島城
- ♦ 高島城 浮城とも言う
- ♦ 高島城本丸の堀と石垣
- ♦ 冠木門跡
- ♦ 高島城亀石
- ♦ 石集配湯枡
- ♦ 本丸御殿跡
- ♦ 能舞台跡
- ♦ 三之丸御殿裏門(御川渡門跡)
- ♦ 高島城史跡 土戸門跡
- ♦ 高島城南之丸跡
- ♦ 高島城三之丸跡
- ♦ 古図/絵図
高島城
高島城
高島城は天正18年(1590)、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高幸によって設計され、文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成した。
この高島城は諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6年(1601)初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。
明治4年(1871)廃藩置県となり、明治8年(1875)廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治9年(1876)5月高島城趾は「高島公園」として、一般に開放された。
朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)春、ここに「高島城」は復興された。
諏訪市
高島城 浮城とも言う
高島城 浮城とも言う
この地は高島城本丸跡である この城はおよそ三百八十年前 文禄 慶長年間日根野織部正高が七年を要し彼独特の築城技術を生かし諏訪湖の波打ちぎわにきずいた難攻不落お水城で別名を浮城とも言われている 関が原の役お後は諏訪氏の居城となりそおまま転封もなく維新までつづいた
この間 城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあつた
本丸内は藩主の御殿や書院 また一般政務の御用部屋 郡方 また賄方などがあり 能舞台 氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた
明治維新の改革で高島藩は消え 明治八年には天守閣も破却されたが 諏訪氏の在城二百六十余年間 一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城であつた
明治九年本丸跡に高島公園として公開され 護国神社も祭られ 諏訪の人人の心のよりどころとして親しまれた 今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿をのこして近世の城郭を考えるいい資料である 今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により 破却当時の姿を忠実に再現したものである
庭園は天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩木諏訪市長が自らの設計により 諏訪市が人の心の和によつていよいよ発展することを念願して 人字形の池に心を島で表し 滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである
昭和四十五年五月
諏訪市文化財 高島城本丸の堀と石垣
高島城本丸の堀と石垣
高島城は、衣之渡川・中門川などの川を掘とし、諏訪湖と阿原(沼沢地)に囲まれ、縄手だけが城下町に通じていた。
天守閣の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。衣之渡郭・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。
石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。
昭和五十四年二月十五日 指定
諏訪市教育委員会
冠木門跡
冠木門跡
冠木橋を渡ったところに冠木門があった。
冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。
おそらく、当初は冠木門であったが、後に楼門に建て替えられ、名称のみが残されたものであろう。
諏訪市教育委員会
高島城亀石
高島城亀石
この亀石は、元々 城内の庭園にあったが明治八年廃藩の時に城外に移され、以後所有が引き継がれ河西謙吉氏庭に安置されていた。
平成十九年、百三十二年ぶりに高島城公園に戻った由緒ある石。
水をかけると、まるで亀が生きているようになり願いがかなうと言われています。
平成十九年二月十三日
諏訪市
石集配湯枡
本丸御殿跡
本丸御殿跡
ここは、本丸御殿があった場所である。家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下御次・下段之間があり、御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していた。
奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同ニ之間・同三之間があり、江戸城でいえば、大奥にあたる長局と呼ばれる部屋が隣接していた。
また、御用部屋や郡方、御勝手方など藩政の中核となる部屋も備えられていた。
諏訪市教育委員会
能舞台跡
能舞台跡
ここは、能舞台があった場所である。当初、本丸の御殿内にあったが、文政一〇(一八二七)に新築されたもので、舞台の鏡板には、岩本琴斎が描いた老松の絵があった。
明治三年(一八七〇)三月、高島藩主の菩提寺であった温泉寺が大火で焼失した際、本堂として移築された。
本舞台や後座などの遺構を残す本堂、本堂と庫裏の廊下に壁画のような形で保存されている鏡板は、諏訪市の有形文化財に指定されている。
諏訪市教育委員会
三之丸御殿裏門(御川渡門跡)
三之丸御殿裏門(御川渡門跡)
ここは、かって御川渡御門(御川戸門)と呼ばれた門があった場所である。城が湖に面していたころは、ここで湖の舟に乗ることができた。
この門は三之丸御殿の裏門である。三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。また、藩主がくつろぐところでもあった(現在の高島一丁目八番地付近)。門は、昭和六十三年に所有者から市に寄贈され、この地に移築された。(寄贈 茅野市湖東 小平真弓氏)
諏訪市教育委員会
高島城史跡 土戸門跡
高島城史跡
土戸門跡
土戸門はお城のお勝手口であった。上薪はじめ、その他の納めものもここから運び込まれたし、商人や職人たちも出入りした。役所みきの用件でも冠木門お通りの資格を与えられていないものはここから出入りした
諏訪市教育委員会
高島城南之丸跡
高島城南之丸跡
高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
諏訪市教育委員会
高島城三之丸跡
高島城三之丸跡
衣之渡川と中間川(三之丸川)との間が三之丸で、道から東には周囲に堀をめぐらせた三之丸御殿があり、藩主が来て祭事をしたりくつろいだりした。八詠桜、常盈倉もこの一郭にあった。道から西には家老三之丸千野家の屋敷があって三之丸様と呼ばれ、その北のつづきには牛山、前田二氏の屋敷があった。明治維新直後、三之丸御殿は前藩主の居所となって東御殿と呼ばれ、家老の屋敷は藩知事の居所になって西御殿とよばれた。
諏訪市教育委員会
古図/絵図
登城の道のり
初の登城日 :1973年頃
最新の登城日:平成25年9月24日
- は下に示すストリートビューの撮影位置を示しています。
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高島城まで 簡単に説明
- 上諏訪駅西口から少し広い道をどんどん南下。
- 距離にして約1Km程度、ゆっくり歩いても15~20分程度で天守が望めます。
- 途中に三の丸跡もあります。
- 周辺、城内の一部はGoogleマップのストリートビューで見ることができます。
ストリートビュー:高島城天守と隅櫓
(城内も仮想散歩ができます)
上地図で が記された場所のストリートビューです。
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ストリートビュー:高島城三の丸跡の説明板
上地図で が記された場所のストリートビューです。
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