写楽別人説一覧

いろいろな書籍、( 主には謎の絵師 写楽の世界より ) に現れた写楽別人説を纏めたものです。

比定名 能役者 「斎藤十朗兵衛」 提唱者 斎藤月岑、後藤捷一
発表 「増補浮世絵類考」(天保15年)など 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
天保年間に(1830〜44)に浮世絵類考へ斎藤月岑が「天明年中(1781〜89)の人 俗称 斎藤十朗兵衛 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也」と記した。昭和32(1957)年、後藤捷一が阿波(徳島県)お蜂須賀家の古文所書に役者斎藤十朗兵衛 の名を発見する。

比定名 浮世絵師 「歌舞伎堂艶鏡」 提唱者 ユリウス・クルト
発表 「SHARAKU」(ミュンヘン・レクス社 明治43年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
写楽にそっくりの作風の画家艶鏡をあげ、写楽が寛政7年以降に名を変えたものとする。また、艶鏡の画作期は寛政7年の1年間のみである。のちに艶鏡は狂言作者中村重助と判明、役者絵の誇張的な表情は静的な能をみなれた者の驚きの表現だとする。

比定名 能役者 「春藤又左衛門」 提唱者 仲田勝之助
発表 「東洲斎写楽」(美術画報 大正9年6月号)
「写楽と阿波侯」「大和絵研究」(昭和17年5月号)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
徳島の東光寺過去帳に、「天保15(1844)年8月11日、71歳にて江戸で死す」とある。

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比定名 能役者 「春藤次左衛門」 提唱者 鳥居龍蔵
発表 「写楽記事」(『時事新報』大正14年6月15日)ほか。 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
松浦徳次郎著『阿波名家墓所記続篇』に「春藤写楽 徳島籠屋町の人 次左衛門と称す 能役者の職を以て藩に仕へ(略)江戸絵を能くし…」ごとあるところによる。春藤は能の春藤派で、阿波侯お抱えの能役者。

比定名 アマチュアの絵師 提唱者 野口米次郎
発表 『東洲斎写楽』(限定私家版昭和5年12月) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
経済的に恵まれていて、道楽半分に描いたものを自贅で出版することができた人物とする。

比定名 貴人の画号 提唱者 森清太郎
発表 「写楽について」(『浮世絵界』昭和11年11月) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
松平定信、酒井抱一など当時の武家で位の高い人が本名を出すことをはばかって写楽と名のったもの。

比定名 上方の給師 提唱者 三谷松悦
発表 「写楽に就て」(『浮世絵芸術』昭和12年4月) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
写楽の描いた役者は上方出身者が多いこと、扱った芝居が上方芝居であることと、動的な表情は大坂の似顔絵師松好斎半兵衛と固系のものであるとする。

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比定名 「十返舎一九ら共同制作」 提唱者 宗谷真爾
発表 「写楽への幻想」(『伝記』一○の四 昭和18年)
『写楽絵考』(大和書房 昭和60年刊)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
一九が寛政8年に出した自作自画の黄表紙に、写楽の署名が見られる凧絵を描いている。一九を中心に版元蔦屋重三郎の店に出入りしていた栄松斎長喜や山東京伝などが共同で描いたとする。

比定名 似顔絵師「流光斎如圭」 提唱者 三隔貞吉
発表 「写楽の新研究」(『日本美術・工芸』昭和23年3月号) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
寛政初期の大坂の似顔絵師 流光斎如圭の役者絵は、それまでの定型を破り、実写を特色とし写楽と似た絵を描いた。

比定名 版元「蔦屋重三郎」 提唱者 横山隆一、榎本雄斎
発表 「珍・写楽考」(『週刊朝日』昭和31年2月10日号)
『写楽−まぼろしの天才』(新人物往来社 昭和44年刊
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
写楽は蔦屋以外からは一枚も版行しておらず忽然と現れて消えている。謎を知るのは蔦屋のみであることから。榎本は、写楽の字と蔦屋の字が似ていると主張

比定名 画家「円山応挙」 提唱者 田口柳三郎
発表 「写楽はだれか」正・続
  (『神戸新聞 昭和32年7月5日、8月4日)ほか。
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
寛政5(一七九三)年頃に描かれた応挙の画に「寛政葵丑初夏写 源応挙」とある。その「写」の字が写楽の署名とよく似ている。また応挙が寛政6年に描いた「鐘馗図」の衣服のひだと写楽の相撲絵のひだが似ている。また、寛政5年から7年まで2年の空白期間があり、この間に江戸に現われたのではないかとする。

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比定名 画家「谷文晁」 提唱者 池上浩山人
発表 「写楽の臆説」(崩春『昭和37年11月号』) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
南北画派を築いた谷文晁は、田安家家臣の漢詩人谷麓谷の子で、田安家の生まれである松平定信と縁がある。文晃は、写山楼と号し、定信は楽翁と号した。二人の号を合わせて写楽とし、定信の財力をもって金のかかる雲母摺で出版した。また、文晁の絵と写楽の版下絵の筆意が似ていることもあげる。

比定名 蒔絵師
  「観松斎飯塚桃葉の社中」
提唱者 中村正義
発表 「写楽蒔絵師説」(『浮世絵』昭和41年5月)ほか。 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
写楽の描く目、眉毛、口などは阿波の木偶人形の影響があり、阿波とのつながりなくして考えられない。また阿波お抱えの蒔絵師観松斎の描く作品の模様と写楽の描く着物の模様が似ている。一方逆に写楽の模様の描き方は模様師の技術を要するものであり、観松斎の門人の誰かによる。

比定名 浮世絵師「葛飾北斎」 提唱者 由良哲次
発表 「写楽は北斎と同一人である」
  (『芸術新潮』昭和43年7月号)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
北斎は31も名を変えており、その一つである「春朗」の名が写楽の現われる寛政6(1794)年頃に断たれ、活動に空白期間がある。春朗時代に描いた「忠臣蔵」は、線や構図の点で写楽に近い。写楽は二代目市川門之助の追善絵を描いているが、追善絵を描くのは親しい間柄にあったから。春朗の時期、北斎は門之助をくりかえし描いている。

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比定名 役者絵師「歌川春好門人」 提唱者 榎本雄斎
発表 『写楽−まぼろしの天才(新人物往釆社昭和44年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
役者の似顔絵で一派を成す勝川派の春好が後継者争いに破れ隠遁したところを、財産没収の弾圧を受けた蔦屋重三郎がたずね、他の版元から豊国など人気の絵師が出版しているのに対抗して「写楽」を仕立てる計画をたてた。春好は中風で右手が便えず、絵は左手で描いたが、写楽の絵に見られる逆筆はそのためである。

比定名 画家「司馬江漢」 提唱者 福富太郎
発表 『写楽を捉えた』(画文堂昭和44年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
江漢はいつも旅をしているのに写楽の活動期間だけは江戸を出ていない。江漢は美人画の鈴木春信の死後、春信の落款を真似た春信の偽物を描いて売ったことを自著『春波楼筆記』の中で記している。それだけの腕を持っており、寛政4年、役者絵の第一人者勝川春章の死後、春章をまねて描いたのが写楽の絵である。

比定名 浮世絵飾「栄松斎長喜」 提唱者 福富太郎
発表 『写楽を捉えた』(画文堂昭和44年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
長喜の描いた柱絵に、茶屋娘の高島屋お久が団扇を持ったものがあり、その団扇の絵が写楽の描いた幸四郎によく似ている。また、長喜落款の「忠臣蔵」が写楽の絵にそっくりであること、長喜が描いた大童山の相撲絵が写楽の大童山と同じ筆勢を示していること。二人の描く耳が類似していることなど。

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比定名 俳人「谷素外」 提唱者 酒井藤吉
発表 『"写楽"実は俳人"谷素外"』
  (『読売新聞』昭和44年10月16日号)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
俳諧師素外は、北斎の絵に賛を加えるなど浮世絵師と交わりがあった。谷素外の肖像画は写楽の肉筆画と作風が似ており、この肖像画は写楽自身の自画像ではないか、また肖像画の「寛政六年二月」の年も合っている。

比定名 「根岸優婆塞」 提唱者 中村正義
発表 『写楽』(日本芸術振員会昭和45年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
蔦屋から出版された黄表紙に挿画を描いた根岸優婆塞(優婆塞とは俗人のまま仏門に入つた人間のことで、根岸はその者の住んだ土地)の手、足の形などが写楽に似ている。デッサンカが秀れていて、この時期にこれだけの絵が描けるのは、歌麿か写楽しかいない優婆塞こそ写楽と考える。

比定名 「片山写楽」 提唱者 近藤喜博
発表 「新説・片山写楽説」(『浮世絵」昭和47年1月刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
神祇伯家(令制で、神祇官の長官にあたる)白川家門人帳のなかに「寛政二年八月二十九日入門天満板橋町 片山写楽妻なミ 七岐讃岐」の記述があり、片山写楽なる人物の妻が入門したというところから片山写楽という人物をあげる。

比定名 絵飾「矢野典博」 提唱者 瀬尾長
発表 「写楽・阿波藩絵師説・狩野派の矢野典博」
  (『浮世絵』昭和52年刊71号)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
典博は阿波藩のお抱え絵師で、江戸へも出仕しており、典博の描く谷風や七紋龍の顔が写楽と似ている。また典博の「日光山水絵巻」の岩の描き方が写楽の絵の背景の岩と似ている。

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比定名 戯作者「山東京伝」 提唱者 谷峯蔵
発表 『写楽新考−写楽は京伝だった−』
  (文芸春秋 昭和56年刊)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
山東京伝作・画の『客衆肝照子』の絵は瞬間的な動きとそれに連動した表情を的確にとらえており、デフォルメによる戯画化など写楽の役者絵に酷似する。また、多作の京伝が寛政6年には一冊の刊行物もなく動向が不明である。また署名の筆跡も酷似する。

比定名 浮世絵師「喜多用歌麿」 提唱者 石ノ森章太郎
発表 『死やらく生−佐武と市捕物控』(中央公論社 昭和58年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
指の描き方が歌麿とよく似ている。写楽の絵は歌麿に匹敵する腕であり、当時の浮世絵師の中で人物を描いて歌麿に及ぶものはいない。

比定名 「秋田蘭画」 提唱者 高橋克彦
発表 『写楽殺人事件』(講談社 昭和59年刊)など。 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
秋田蘭画は、安永2(一七七三)年に秋田を訪れた平賀源内が創始した画派。『浮世絵類考』に「写楽……油画ヲ能クス」とあるが、油画は秋田蘭画を指し、秋田蘭画派の画家の誰か。

比定名 役者「中村此蔵」 提唱者 池田溝寿夫
発表 『これが写楽だ』(日本放送出版協会 昭和59年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
写楽は素人絵描きで、自身が描いたのは第一期の28点だけであり、その中に必ず自画像があるとし、それには他の人物と違って唯一リアルな中村此蔵があげられる。『明和伎鑑』の中に東洲の名があり、この東洲の号を許されるのは大谷一門の役者4人だけで、中付此蔵はその中のひとり。

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比定名 浮世絵師「歌川豊国」 提唱者 梅原猛
発表 「写楽が豊国である理由」上・下
  (『毎日新聞』昭和60年3月19、20日)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
豊国の「役者舞台之姿絵」の中に、写楽作と同一人物で同じ動作を描いたものがある。当時の仮名のつけ方から考えて、「東洲斎写楽」という名の中に何らかの本名を暗示するものがあるはず。「東洲」は「とうくに」とも読め、「とよくに」に通じる。

比定名 「欄間彫り師」 提唱者 六代目 歌川豊国
発表 「"写楽"にまた新説」(『毎日新間昭和60年7月14日) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
歌川派に長い間言い伝えられた話で、写楽は摂津(大阪府)の欄間彫り師の息子で、父の弟子と駆け落ちした母の後を追って江戸に出、成功したその弟子の下駄の大店「東国屋甚右衛門」を継ぎ、その店に出入りする役者たちを描いたという。

比定名 浮世絵師「鳥居清政」 提唱者 中右瑛
発表 『写楽は十八歳だった』(里文出版 昭和60年刊)など 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
顔の輪郭線に薄墨板を使っていることや、雲母摺などが、歌舞伎の看板絵の鳥居派の若き絵師清政に共通している。

比定名 「オランダ人」 提唱者 中島節子
発表 「東洲斎写楽はオランダ人だった」
  (『芸術公論』昭和60年6〜8月号)
備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
『浮世絵類考』の写楽の項に、「油画ヲ能クス 有隣ト号ス」とあり、油絵具を入手するには長崎と関係が深いものでなければならない。ヤン・ヨーステンが八重洲と号したように、「有隣」は「ユリアーン」、「写楽」は「シャーロック」の日本名である。

比定名 絵飾「写楽」 提唱者 瀬木慎一
発表 『新版・写楽実像』(美術公論社 昭和60年刊) 備考 謎の絵師 写楽の世界より

論拠:
大田南畝の『浮世絵類考』を史料として価値の高いものと認め、その種々の写本のうち最も古い加藤曳尾庵本を写楽の実像に一番近いものとする。曳尾庵は医者であるが、当時の知識階級に属し信頼できる人物であるとして、写楽はそこに記述された人物以外の何者でもない。つまり、写楽は写楽であり、歌川派を離脱し、蔦屋よりデビューした絵節と推定。

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